第29話 この世界の正体
高山という男は、ある場所へと僕を連れ出した。
人の気配がない神社。川沿いの小道を進むと、静かに佇む鳥居が現れる。
その向こうには小さな石が幾重にも積み上げられ、ここが神聖な場所だということがなんとなく分かった。
鳥居をくぐり、祠の前まで来た男は静かに祈りを捧げはじめる。
僕はその横で黙って祈りの終わりを待つ。やがて男は皮肉めいた低い声で言った。
「お前は祈らないのか。神の前だぞ」
「……祈るのは懲りてまして」
「はぁ。やはり記憶が完全に戻っているんだな」
男の正体は分からない。だが普通の人間ではないことは直感的に理解できた。 男は答え合わせをするように名刺を差し出し、深々と頭を下げる。
「〈神の使い〉の一人、『高山』だ」
ミミさんと同じ肩書き――〈神の使い〉。
彼女の名刺には「見習い」とあったが、高山さんのものにはない。それでも独特な材質は彼女のものと変わらず、偽物……ということはないのかもしれない。
そして名刺に刻まれた「願望管理課」という文字を見た瞬間、思い出した。
「願望管理課って、もしかして……」
「ああ。私はミミの上司にあたる」
「てことは……! あなたはミミさんのことをご存知なんですね!? 今どこにいるんですか!? 一緒にいたあの子は、僕の知ってるミミさんじゃないですよね!?」
高山さんは静かに頷き、落ち着くよう手で示した。
「順番に話していく。まずは我々の仕事についてだ」
彼は淡々と説明を始めた。
〈神の使い〉。それは神のように崇拝される存在ではなく、神を守るために活動する〝管理組織〟だという。所属する者は使い魔と意思を通わせたり、人によっては超常的な力を使用できたりと、人より少しだけ不思議な力を扱えるらしい。
ミミさんが普通の高校生から〈神の使い〉になったように、高山もそうだ。彼ら彼女らは仰々しいものではなく、少し特殊な会社員のようなものだと、高山さんは簡潔に説明した。
その組織が管理する対象は、世界そのもの。
神の力を借り、あらゆる〝ひび割れ〟から世界を安全に運行させることがお役目なんだとか。
ひび割れは様々な要因で発生するが、願望管理課の役割は、人々の願いと感情を適切に管理すること。
「人間の感情というものは想像以上に強い。個の力はたかが知れているが、それが各地から集まれば話は別だ。我々は人間の生み出す『正』と『負』、あるいは『光』と『闇』、『陽』と『陰』――その相反する二つのバランスを保たねばならない」
中でも、人間の感情の中でとりわけ危険なのは絶望だという。
マイナスのエネルギーはプラスのエネルギーを易々と凌駕し、その均衡が崩れると、神が回す世界は維持できなくなるのだ。
「だから絶望した者には〝選択肢〟を与えてやる。選択肢が生まれることでマイナスのエネルギーは軽くなり、均衡が保てる。それが我々管理者の仕事の一つだ」
「それって……」
「ああ、『御霊筆』。お前たちはこう言っていたな――【黒い筆】、と」
世界のエネルギーが偏らないよう、ガス抜きをするための道具。それがあの筆の正体だった。
悪魔のような代物でないことは分かった。だとすれば、次に気になるのはやはり――。
「僕の願いを肩代わりしたミミさんの代償は、一体なんだったんですか……?」
そう訊ねると高山さんは視線を逸らし、作り笑いを浮かべた。
「それよりどうだ、〝こっち〟での生活は」
「こっちって……」
「もう気付いているだろうが、ここはお前が元いた世界とは少し違う。事情があってお前をこっちの世界に送ることになった。だが心配するな、元の世界とほとんど変わりはない。確かにミミはお前の記憶と多少違うかもしれないが、彼女の本質は同じだ」
そういう……ことだったのか。
おかしいと思っていたんだ。ミミさんの記憶が関係者から消えただけでなく、なぜ世界そのものが形を変えていたのか。
その前提自体が間違っていた。ここは〝別の世界〟。並行世界とでも言うのだろうか。とにかく、僕がいた世界と酷似していながら、違う場所。
ミミさん――いや、美憂さんは、僕の知っているミミさんと違う人生を歩んでいた。
「この世界の志羽波美憂も気立てのいい娘だったろ? ここでは〈使い〉の仕事もない。前の世界と同じように、そのうちお前と彼女は結ばれる。存分に彼女を幸せにしてやってくれ」
「いや……そんなこと突然言われても……」
「賢いお前のことだ。そのうち慣れて、こっちの方が居心地がよくなるさ」
「……僕が元いた世界は今どうなって……」
「心配ない。あっちはあっちで別の〈使い〉がしっかり調整している」
信じがたい話だが、もう認めざるを得ない。『赤凛』という信じられない現象を目の当たりにした今、これが単なる作り話ではないことは理解した。
しかし今、絶対に確かめなきゃならないことがある。
「納得……できません」
「なにがだ」
「ミミさんが元気じゃないと、僕は納得できません」
すると男は口角をわずかに上げ、目を柔らかく細めた。
「心配するな。お前の知るミミは今、私たちの世界でのんびり暮らしているんだ」
僕はカナタさんのような読心術があるわけじゃない。
それでも、この男が〝ウソ〟をついていることが分かった。
なぜならば。
「……ふざけんなよ」
「? なにがだ?」
「そっちでのんびり、だと……? 一体なにを根拠に……」
「ミミの肩代わりはな、思ったよりもずっと軽かったんだ。今、彼女は幸せにやってるよ。だからイツキ、お前もこっちで幸せになれ。な?」
「……ミミさんはひとりぼっちだった」
「は?」
「なにもない場所で、ずっと一人だった。それをこの目で見たから分かるんだ」
「見えた、だと? 一体なにを……」
「あの〝絵〟から見えたんだよ……今のミミさんがどこにいるのか! ウソをつくな! 本当のことを言――」
言い終える前に、僕は高山さんに投げ飛ばされていた。
Tシャツを掴まれ、背中から地面に叩きつけられる。息ができない。
すぐさま彼は僕のリュックを奪い取り、中から【黒い筆】を引き抜いた。
「……ハァ、ハァ……そうか、お前はあの〝絵〟からそんなことまで見えたのか……。クソッ、まったく筆の力で本当に厄介な物が生み出されてしまったよ……ッ」
高山さんは乱れた前髪をかき上げ、舌打ちする。
「な……にを……」
「この【黒い筆】をお前に持たせておくと、こっちの世界でもなにをするか分かったもんじゃない。これは私が預かる。やはり最初に会った時、強引にでも奪っておくべきだった」
あの時、確かに高山さんは僕から絵と筆を取り上げようとした。
それは僕に記憶を取り戻させず、さらに筆の力を使わせまいとして。
痛みと息苦しさで立ち上がれない僕は、高山さんを睨みつけることしかできなかった。
「どうして……そんなことを……」
僕を見下ろす高山さんの声は、酷く冷たいものだった。
「あの絵でミミのことを思い出したところで、お前は肝心なことを覚えていないんだろうな。元の世界にいたお前が、一体なにをしでかしたのか」
「【黒い筆】で願いを叶えたことか……? あれは不本意な願いだった、だけど……」
「違う。そのあとの話だ」
「そのあと……?」
その意味は……なにも分からない。
それでも高山さんの表情は、怒りに満ちているようだった。
「お前は筆を使ったあと、大罪を犯した。だから神はすべてを巻き戻し、〝すべてを上手くやり直せるように〟こっちの世界へ連れてきてやったんだ」
高山さんは語る。
今の僕ではなく、筆の力の代償でミミさんを失ったあと――別の世界で暴走した〝僕〟の物語を。




