第27話 倉庫の中の記憶
ミミさんに案内された場所は、さっきいた場所からそう遠くない、木造の小さな倉庫だった。薄暗く、どこか寂しげな空気が漂っている。
それはどことなく、ミミさんが鹿児島で暮らしていた家に似ていた。物の配置もよく似ていて、もしかすると彼女はこの倉庫を自分の部屋のように使っていたのかもしれない。
やがてミミさんは一冊の本を僕に差し出した。
それが彼女のスケッチブックだった。
「これ、いつ頃の絵?」
「だいたい二年くらい前かな。さっきはああ言っちゃったけど、実は最近勉強で忙しくて、ほとんど描けてないんだ。あ、でも先月久しぶりに描いてみたよ!」
パラパラとめくると、先月描いたという作品も見つかった。
どれも〝才能が奪われた〟ような絵ではない。神社で彼女が見せた子どもの落書きのようなものは一枚もなく、今のミミさんは〝才能〟を奪われていなかったんだ。
理由は分からないが、その事実に安堵した。
それでも……このスケッチブックの絵は、僕を打ち負かしたあのミミさんの絵とは違う。
色をとにかく大胆に使った、人を呑み込むような絵。あれと比べれば、これは少し描ける人の絵。その程度のレベルだった。
どうしてだろう。ミミさんは二年前から絵をほとんど描いていないと言った。だが僕の知る限り、彼女が【黒い筆】を使って才能を奪われ、それから〈使い〉になったのは一年前のはず。
記憶の書き換えがあったとしても、二年前という時期が合わないのだ。
なにか大きな矛盾があるような。頭の中のパズルは一向にはまらない。
「イツキくん? すっごい怖い顔してるけど、絵、変だった……?」
「あ、ごめん。そんなことないよ。綺麗な絵だなって」
ミミさんはほっと安心しているようだった。
やがて彼女はくるりと部屋を見回し、どこか懐かしげな表情を浮かべていた。
「前はここに篭って、ずーっと一人で絵を描いてた。なんだか思い出しちゃうな」
「え……」
「お母さん、ちょっとクセ強かったでしょ? 今はいい関係だけど……当時は怖くてさ。うちはお姉ちゃんが完璧な人だから、お父さんもお母さんも、お父さんの仕事を手伝えるお姉ちゃんばっかり見てたんだよね」
確かに、カナタさんとの会話でも美緒さんは二十歳とは思えないほど洗練された話し方と聡明さを感じた。
ミミさんとて会話には十分溶け込んでいたが、美緒さんは少し違う。きっとこの人と一度話せば、ぐいぐいと引き寄せられてしまうんだろうな、なんて。
「でも、ある出来事がきっかけで変わったんだ」
それはちょうど二年くらい前のことだと、ミミさんは語った。
「家族みんなで遠出したことがあったの。そうしたら街中で外国人に話しかけられてさ。お姉ちゃんが対応してくれたんだけど、その人が早口で苦戦しちゃって。そこで私、実はこっそり英語勉強してたから、お姉ちゃんの代わりに会話してみたんだ」
姉の美緒さんは英語が苦手というわけではなかったが、当時はまだ高校生。さすがに流暢に会話することはできなかった。
一方、洋画を一人でよく観て、英語を影で勉強していたミミさんはかなりの会話を聞き取れたらしい。無事、彼女はその外国人とのやり取りをスムーズに終えることができた。
その瞬間、両親の態度が一変したという。
「『よかった、あなたはそういう形でお父さんのお仕事に貢献できそうね』って、お母さんが嬉しそうに言ってさ」
両親がミミさんに求めたものは、父の仕事の英語面でのサポートだった。
これまで優秀な姉にばかり目を向けていた両親だったが、姉以上に英語が堪能な妹の存在に気付き、そこに新たな役割を見出したのだという。
「そこから家族との関係が変わって……初めて私を認めてくれた気がした。だから英語の勉強をがんばんなきゃって思って、絵はしばらくお休みしてたんだ」
少し寂しそうに言いながら、ミミさんは机の上に高く積まれたスケッチブックの一冊を開いた。
「もしあの出来事がなかったら、私は今もきっと、この場所に一人取り残されたままだったと思う」
違う。やっぱり僕の知るミミさんとは違う。
薄暗く湿ったこの部屋で過ごし続ける彼女の姿が、確かに記憶にあったから。
あの屋久島の避難小屋で過ごした時間の中で、僕は彼女のことをちょっとでも知れた。
もしもミミさんがこの場所を抜け出していたのなら、あの陰りは……きっと、別の色をしていただろう。
これは単に記憶が書き換えられただとか、そんな話じゃない。
あの黒い神社が現れ、僕がミミさんのことを忘れてから世界そのものが変容している。
「なんて、自分語りごめんね。よかったらイツキくんの絵も見せてほしいな」
この場所に来る時、僕は自分のリュックを背負ってきた。ミミさんに絵を見せてと言われていたから。
スケッチブックを取り出し、どれを見せるべきか迷いながらページをめくっていく。
その時――ある一枚の絵に描かれた人物と、目が合った。
屋久島で描いたミミさんの肖像画。マゼンタとインディゴで縞模様に彩られた背景。
不思議な絵だったが、これがきっかけで僕は記憶を取り戻したのだ。
そう思った瞬間、視界がぐにゃりと歪み――、
「痛っ……」
再び頭痛が走り、目の間の景色が一変した。




