第21話 知らない男
ここ数日で、ちぐはぐだった記憶も少しずつ整理されてきた気がする。
カナタさんと初めて出会ったのは天文館通り。お酒でべろべろに酔いつぶれていた彼女を介抱したことがきっかけで仲良くなったんだ。
あの女子の絵についても、白谷雲水峡の道中、避難小屋で家族と楽しそうに過ごしていた同年代の女の子の姿が知らず心に残っていたのだと思う。
そうして日常へと戻った僕は、残りわずかとなった夏休みを粛々と消化し、今日も今日とてスケッチブックを広げていた。
「こんなもん、か」
鹿児島中央フェリー乗り場。桜島を背景に、ぽっかりと空に浮かぶ雲。
蛇のような形をしたそいつを描き終えたところだ。
夏休みの途中まではどうにも筆が進まず、長いスランプに悩まされていた。
しかし、ようやく描く手応えが戻ってきた気がする。
さて、次はどんな絵を描こうか。そう思ってはみるものの、どこか心がふわふわとしていて、いまひとつエンジンがかからない。
『九州水彩展高校生部門・最優秀賞』受賞、遠矢樹。
昨年にそんなすごい賞を受賞してから、ほんの少しモチベーションが落ちているのかもしれない。
まさか最優秀賞を取るなんて。審査員ウケするような絵とは思えず、優秀賞くらいが妥当だと思っていたのだが……。
「でも……なぁ」
そんな結果を得た今、次はなにを目指すべきなのか。そりゃもっと上を狙うべきなのかもしれないが、そもそも僕は一番になることが目的ではなかった気がする。
いっそ芸大への進学を本気で考えてみるか? これから油絵も学んで、美術予備校にも通って、そのためにアルバイトも増やして……。
だけど、なぜだろう。
絵がまた描けるようになったら、前みたいにガムシャラに筆を走らせるつもりでいた。
なのに今は、自分の中からなにかがぽっかりと抜け落ちてしまったような。
ぼんやりと空の向こうを見つめる。
すると、ひょんなことを思い出した。
「あ。絵の具、あの家に置きっぱなしじゃん」
ここから歩いてすぐ、古民家風の木造の家。
あの家に僕は絵の具を置き忘れたままだった。
急ぎではないと思って取りに行かなかったのだが、放っておけば捨てられそうだ。広げていた画材を片付け、その家へと向かう。
インターホンを押すと――ドアの向こうから現れたのは、背が高く、メガネをかけたワイシャツ姿の男性だった。
「どうした、イツキ」
「……え? あれ……?」
「なにボケっとしてる。暑さでまた頭がやられたか」
「あ、いえ。すみません、忘れ物をまだ取りに来てなかったなと」
「そうか、なにを忘れたんだ」
「ちょっと変な場所に置いたかもしれなくて、中に入って探してもいいですか?」
「……構わない。涼んでいくといい」
名前がすぐに出てこない。ああ、思い出した、高山さんだ。
僕が絵に夢中になりすぎて暑さで倒れかけたとき、助けてくれた人。
物静かで、少し怖そうな印象があるけれど、その口調は柔らかい。
家に上がらせてもらうと、中は隅々まで綺麗に掃除されていた。
居間のクーラーは効きすぎているほど涼しい。物が少ない家だからだろうか。
そのおかげで置き忘れた絵の具はすぐ見つかった。
「ありました、高山さん」
――いつのまにか、テーブルの上には品々が並んでいた。
緑茶の注がれたグラスに、ちょっと高級そうな和菓子。
その隣には紙袋も置かれている。これはなんだろう。
「イツキには伝えておこうと思ってな」
「はい?」
「私は来月にはこの家を離れるつもりだ」
「……そうなんですか。寂しくなりますね」
「これは餞別だ。受け取ってくれ」
紙袋の中をのぞくと、見覚えのあるロゴが目に入った。
ドイツ製の高級水彩筆。高校生の僕には手が出ないような代物じゃないか。
「え!? いや、こんな高級なもの受け取れませんって!」
「遠慮するな。その代わりというわけではないが……イツキの私物をいくつか、私に譲ってくれないか」
「僕の物、ですか?」
「ああ。君との思い出にしたいんだ」
こんな高級な筆と僕の持ち物が釣り合うのだろうか。
とりあえずはリュックの中を開け、なにか渡せそうなものを探した。
「黒い筆」
「はい?」
「イツキが持っていた黒い筆があったろ。あれと……そうだな、イツキが屋久島で描いた女性の絵。それをもらえれば私は十分だ」
「なんでそんなものを?」
「ああ、あの不思議な雰囲気が私は気に入っていてね。それを宝物にするよ」
そんなものでよかったのだろうか。
黒い筆……そんなものを確かポケットに入れていた気がする。そして例の謎の絵。
どちらも価値があるようには思えないが、高山さんがそれを望むのなら差し出すべきだろう。
スケッチブックから絵を切り取る。
それを高山さんに渡そうとした瞬間――身体がピタリと止まった。
「あ……す、すみません」
「? どうした?」
「この絵だけは……なんか、手放したく……なくて。別の物ならいいんですが……」
高山さんは無言で僕を見つめていた。その目が鋭く、咎められているような。
「すみません、理由があるわけじゃないんですが……これ! このスケッチブックなら丸ごと差し上げます! し、失礼します!」
どうしてそんな気持ちになったのか分からない。
結局、お茶にもお菓子にも手をつけず、高級な筆も受け取らないまま、その場から逃げるように立ち去った。
申し訳ないことをしてしまった。胸が激しく鼓動する。
僕は炎天下の中をワケも分からず走り続けた。




