第2話 ミミさんの家
「これで信じる気になったと?」
あれからおよそ一時間後。
交番から解放されるとすぐに、僕は古民家のような家へと連れて行かれた。
住宅街ど真ん中のこの辺りでは珍しい外観の一軒家だ。
時代に取り残されたような佇まいで、彼女はそんな場所で一人で暮らしているらしい。
室内にもリノベーションの気配はなく、床を踏めば軋みが走り、古さは隠しきれない。
一体家賃はいくらだろうなんて思っていると、あれよあれよと居間に通され、一枚の名刺を受け取った。
「……神界・願望管理課……『ミミ』……?」
そして名前の隣には「研修生」という文字が添えられていた。
「『ミミさん』、ね。キミは本物の〈神の使い〉をお巡りさんに突き出したんだ」
「いや、泣かれると困ったから訂正したんだけど。『勧誘は勘違いでした』って」
「そもそもキミが私を騙して交番まで連れてったせいなのに……?」
「よく涼めたしお茶も飲めたろ。タダでカフェに入れたようなもんだ」
「そうなんだ。へぇ。じゃあカフェに連れてってくれてありがとうね? 私も今度とびきりのカフェ、連れてってあげる」
彼女が禁足地図鑑なんてものを机の上に広げているが、マジ? 僕を呪いまみれにする気か?
いや、そんなことより今驚くべきは、名刺に仕込まれたギミックだ。
一見なんてことのない名刺。
だがその上ではホログラム化された彼女がピースを決めたり踊ったりして、これは現代の技術で実現できるものではない。神なんて存在は基本的には信じないのだが……。
「……一応、ギリ信じるよ」
「じゃあ私は優しいから、イツキくんのことギリ許してあげよう」
そうしてミミさんは、仲直りの印として湯気の立つコーヒーを差し出してくれた。
熱い。しかもこの部屋のエアコンはひどく効きが悪く、巫女姿の彼女がどうして平然としていられるのだろうか。とはいえ部屋の中は女子らしい雑貨で溢れ、淡い色調で柔らかく彩られていた。
「あ、ちょ、あんま部屋の中見ないでっ」
「まだ若そうなのに一人暮らしなのか」
「うん。若そうにって、イツキくんだって若いじゃん」
「高二、十六歳。そっちは? ていうか神のなんちゃらってのに年齢とかあるの?」
「あるよ、〈使い〉って言っても基本は普通の人間だから。ていうか私も! 十六歳! 誕生日いつ!?」
「十一月」
「勝った! 私、十月! 私の方がお姉さん!」
「ウソだろ? まさかたった一ヶ月違いでマウント取ってくんのか?」
むふーっと顔をほころばせるミミさん。
小さな鼻先がつんと上を向き、子どもがおもちゃを見せびらかすようだ。
だがその鼻――すぐにへし折ってやろう。
「……ちなみにここに越してきたのはいつだ」
そう尋ねると、彼女は黙り込んだ。
「こ、今年の一月ですけど……?」
「僕は昨年の四月」
「……!?」
「勝った。僕のがだいぶ先輩だ」
なんだこれは、気持ちいい。
よく分からないコスプレ女子が今、敗北の味を噛みしめている。
「い、イツキくん! 身長いくつ!?」
「身長は明らかに僕の勝ちだろ。高二男子のちょうど平均だ」
「勝った! 私、女子平均よりプラス二センチ! この差は大きい!」
「な……まさか平均値との差で勝負してんのか? そんなん卑怯だろうが……」
「その方が男女平等でしょ? んん? もう私に勝てるものなくなっちゃった?」
「お……お前……しかも煽ってくるタイプか……」
なんで僕はこんな張り合っているのだろう。
それでも僕たちは、くだらない競いっこに夢中になっていた。
数学は僕の方が得意。英語はミミさんが圧勝。国語は引き分けくらい。
それから、お互いの好きや得意をしばらく言い合って。
疲れた僕たちはいつの間にか床に寝転び、僕はタブレットで例の動画を眺めていた。
「ミミさん、やっぱ長いって。四十分は」
「倍速再生すれば?」
「それは作った人に悪い気がする」
「え、そうなの? 私も等倍で見た方がいいのかな?」
「好きにしろよ……」
仰向けに寝転び、僕の絵の具を宝石のように眺めていたミミさんだったが、今は首をぐっと反らせてこちらを見ている。
さっきからゴロゴロしすぎじゃないか。もう〈神の使い〉の威厳なんてまるでない。
僕が今見ている動画は、〈神の使い〉の仕事を解説したもの。
どうやらミミさんは【黒い筆】を手にした僕の担当者らしい。
彼女たちの社会は僕たちのものとあまり変わらず、筆の力を適切に管理することが彼女の属する組織の重要な役割だという。
「というわけで、簡単だったでしょ? 筆は使用者の〝渇望〟を叶える。絵が描けなくなったイツキくんは、祈りを捧げるようにこの筆を握ればいいのさ」
ミミさんはそう言いながら、パリッと音を立ててお煎餅をかじった。
「祈りを捧げるように、って?」
「もぐ……神社でのお参りみたいな感じでいいよ。もぐ、もぐ。イツキくんも初詣とか、大事なことの前にはお祈りするでしょ?」
「しない」
「うん?」
「祈ったことなんてない」
まんまるになった彼女の目。
お煎餅を飲み込み、何度かパチクリと瞬きした。
「え。お祈り、だよ? 神社じゃなくてもさ、寝る前とか。あ、七夕のお願いもそう! それくらいはしたことあるでしょ?」
「いや、祈らんって。自分のことは自分でなんとかする。他人にすがって叶えた願いなんて借り物みたいで気持ち悪いっつの」
「……まじ……?」
ミミさんが凍りついているが、これは知っている。女子がさーっと引いていくアレだ。
「イツキくんって、じゃあ神社とかも行かないの……?」
「行かないだろ。参拝なんて非生産的行為だ」
「なんで! もったいない! 行こうよ、神社! めっちゃマイナスイオン浴びて捗るから!」
神の使いもマイナスイオンとか言うんだな……?
すると勢いよく起き上がったミミさんが、僕の背中に跨って肩をぐいぐい引く。
痛い痛い。人間をその角度で折り畳もうとしてるのか。
いや、ただ距離感が近いだけだと悟り、彼女を降ろしてやった。
「……悪いけど、そろそろ帰るよ。〝渇望〟が必要なら他の人をあたってほしい」
「え」
つい彼女のペースに飲まれてしまった。
高尚な存在かと思いきやクラスの女子よりもずっと距離が近く、不思議だったんだ。
だから気持ちが知的好奇心の方へ傾いたのだろう。
だけど、彼女の目的が〝筆を使わせること〟なら話は別。
僕は僕との約束を優先すべきだ。
「自分のことは自分でなんとかする。そんなワケの分からない力に頼ったら負けだ。別に筆を使うのが僕じゃないとダメな理由もないんだろ?」
スランプなんて自力で乗り越えなければ意味がない。
仮にその力に甘えてしまえば、次に同じような壁にぶつかった時どうする?
なにかに頼るクセがついてしまえば、堕落の坂を転げ落ちるだけだ。
さて、戻ってもう一度筆を握ろう。今度は別の筆を。
しかしミミさんは視線を落とし、小さく息をついていた。
「……なんでそうなっちゃうのさ……」
大金持ちにしてくれなんて適当な願いも考えはしたが、一応願いは管理されているらしく、なにより、心の底からの〝渇望〟でなければダメらしい。魔法のランプと比べれば制限の多い代物だ。
とはいえあれほどの道具、喉から手が出るほど欲しがる奴がきっと他にいる。
僕はカップに残っていたコーヒーを胃に流し込み、筆をテーブルに戻して席を立った。
「コーヒー、ごちそうさま」
それから玄関へ向かう廊下は、歩くたびにギシ、と古びた板が鳴いた。
一人暮らしにしては広い家。神の使いとやらは福利厚生も充実しているのだろうか。
とはいえ悠々自適な家とは言い難い。
木造の壁を透かしてセミの声が響き、サウナのような蒸し暑さが肌にまとわりつく。
懐かしい匂いだってするが……ああ、これは倉庫だ。実家の倉庫をそのまま大きくしたような家。
風情はある。けれど住むとなると、こんなに広くなくていい。
その代わり、エアコンがよく効いて快適に過ごせる鉄筋コンクリートのマンションに住みたいと、六畳木造アパート暮らしの僕が思いながら歩を進めた。
すると、途中――開きかけの扉が目に留まった。