第15話 真相 (1)
昨晩実家に帰った時、じいちゃんが偶然来ていた。
やたらと伝承に詳しいじいちゃんだ。そんなじいちゃんに、僕はふと【黒い筆】について聞いてみようと思い立った。もちろん、僕が持っていることなんて伏せたまま。
その瞬間、じいちゃんは血相を変えた。
なんでそれを知っている。どこで聞いた、と。
【黒い筆】に選ばれた人間の前には、〈神の使い〉という存在がやってくる。
そして持ち主は筆についての説明を受け、それを使用するかどうかの選択を迫られるというのだ。
〈神の使い〉という言葉を聞いた途端、じいちゃんの話は間違いないと確信した。
だけど……僕の置かれている状況と違う。筆を使用するかどうかの選択を迫られる、だと?
そんなものはなかった。ミミさんは「ノーリスクで使える」と強調し、僕にどうしても筆を使わせようとしていた。
その筆を使えば――使った人間の〝最も大切なもの〟が奪い取られてしまうというのに。
「リスクがないって散々言ってたよな……? だけど実際は違った。『知らなかった』なんて言い訳はさすがに無理がある。じゃあ一体、どういうつもりなんだ……?」
たくさんの可能性が頭をよぎった。
たとえば悪意。僕から大切なものを奪い、絶望に突き落とすため。
あるいは私欲。筆を使わせることがミミさんにとってなんらかのノルマで、説明を省いて彼女だけが得をするため。
「ま……って、ちが、違う、イツキくん……っ」
「なにが違うんだ」
「その……上手く言えないん……だけど……でも本当に……」
「説明できないのか? なんにも危険がないって言ってたけど、これはどう見ても悪魔みたいな道具だよな。もし僕がなにも知らずに使っていたら、僕はみすみす大切なものを奪われていたのか……?」
「そうじゃなくて……っ」
ミミさんの呼吸が荒い。
なにかを言おうとしている。けれど、その順番を上手く組み立てられずにいるようだ。
やがて、それを邪魔するように雨が降り始めた。
粒は次第に大きくなり、すぐに無視できないほどの雨量になる。
「ご、ごめん……なさい……なにから話せばいいのか……」
――「人の理解は、リスペクトからスタートしようって」
カナタさんの言葉が脳裏に反復する。
ああ、大丈夫だ。 激昂したり、この場から逃げ出してしまう自分の姿が一瞬だけ頭をよぎったけれど、思ったよりも自分は冷静でいられている。
「分かったよ、ミミさん」
「え……」
ふーっと、深呼吸をひとつ。
森の葉が雨をまとい、色を濃くしていくのが見えた。
「……なにか理由があるんだよな。少しずつでいいから、教えてほしい」
僕たちは雨に濡れながら、近くの避難小屋へと歩き出した。
*
雨足が強まり、森を叩く音が小屋の壁にまで伝わってくる。
小屋の隅で床に腰を下ろしたものの、雨のせいで空気はひどく蒸し暑い。
長い沈黙のあと、ミミさんはゆっくりと顔を上げた。
「どこから、話したらいいのかな」
視線は僕の目ではなく、どこか別の場所を見ているようだった。
「イツキくん、今……右手の調子って、どう?」
「右手? 調子って、なにが」
「痛みを感じたり、ペンを持ったりする時とか、なにか不自由なことはない?」
「別になにも問題ないけど」
「よかった」
ミミさんは心から安堵したように表情を緩めた。
それから少し間を置いて、静かな声で続ける。
「イツキくんの右手はね、本来なら、ほとんど動かせなくなってるはずだったんだ」
一瞬、言われた意味が理解できなかった。
右手はちゃんと動く。確かに絵を描こうとすると手が止まることはあるが、それは気持ちの問題だ。日常の動作に不自由を感じたことなんて一度もない。
だが、ミミさんの表情に冗談の色なんてなかった。
「イツキくんは去年の交通事故のこと、覚えてる……よね」
「そりゃ覚えてるけど、なんでミミさんが事故のことを知ってるんだ」
「うん。始まりは、イツキくんが重傷を負ったあの交通事故から」
「重傷……? ああ、ケガはしたけど完治したよ。医者も奇跡的だったって」
なにか、なにかが頭の奥で引っ掛かる。
確かに事故はあった。僕も被害を受けたが、奇跡的な回復で僕の右手は今、この通り――。
いや。
「ま……さか」
彼女は頷いた。
「その右手は、私が【黒い筆】を使って治したんだ」
心臓が、急に跳ね起きたように動き出した。
……は……?
この手が、筆の力で……しかも、……ミミさんによって……?
「ミミさんは……まさか前に僕に会ったことが……?」
「会ったもなにも、イツキくんがぶつかったタクシーに乗っていたのが……当時の私なんだよ」
「な……!?」
それはミミさんが〈神の使い〉になる前——普通の高校生だった頃の出来事だという。
彼女は用があって鹿児島市内でタクシーを利用していた。
ところが急いでいたため、道案内で細い道を指定してしまったことが事故の原因になったという。
彼女は頭を大きく下げていた。
「あの時……私はいてもたってもいられなくて、ずっと病院で様子をうかがってた。でも……付き添っていたご両親の顔がずっと暗くて……」
この少年の右手が再び自由に動くことはない。
医師が両親に告げた内容を、ミミさんは偶然に知ってしまったのだという。
「それからイツキくんのことを知れば知るほど……私は自分を呪った。絵を描く人の利き腕を奪ってしまったなんて。キミの絵は本当に繊細で、緻密で、一筆一筆に魂が込められていて……なのに……」
それからの彼女は絶望の淵にいた。
喉から血が出そうなほど日々咽び泣き、どうすれば償えるのか、ただそればかりを考えていたその時だった。
ミミさんの元に【黒い筆】がやってきた。




