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第12話 リスペクトからスタートしようって

「よ」


 朝七時、鹿児島中央フェリー乗り場。

 クーラーのよく効いた待合室には、まったく予想していなかった人物が待ち構えていた。


「カナタさん、……まじすか」

「ワタシは有言実行だっつの。来ちゃ悪かったか?」

「い、いえ、そんなことありませんが。ただ昨日あれだけ酔っ払ってたのに……」

「夜職の体力なめんな」


 日焼け対策バッチリのスポーティなウェアに身を包んだカナタさん。

 ベンチから立ち上がると、その長身も相まって存在感を放つ。アルプスの峰々すら軽やかに踏破してしまいそうな。


 一方その隣には、ピンク色のキャップをかぶった少女が座っていた。

 僕の姿を見つけるなり、てこてこと近付いてきて、


「ということで賭けは私の勝ち。百万ドンね」


 そう言って手を差し出し、ミミさんは勝ち誇った表情を見せつけた。


「……百万ドンって、日本円だといくら?」

「分からないけど、気持ちで許してあげようかな♪」


 なんということだ。まさかこの歳で借金生活を送ることになるとは。

 やはりギャンブルなんて身を滅ぼすもの。とりあえずは自販機でアイスを奢ることになり、ミミさんは子どものようにはしゃいでいる。


 ……だけど。


「イツキくんはアイス、どれにするー?」


 今は、昨日のように彼女と接することができなかった。


「あれ? 聞こえてる? イツキくんー?」


 帽子を深くかぶり直し、小さく頷く。

 僕が昨晩に知ってしまったことは、間違いだったとどうしても信じたかった。


     *


 フェリーは鹿児島の港を離れ、広がる青い海原へと進んでいった。

 高速船でも屋久島までは二時間の船旅だ。ミミさんは早々にデッキに出て絶景を楽しんでいて、何度も僕を誘ってきたが今はそれどころではない。


「くそっ……二日酔いに船酔いって……ハルマゲドンみたいなのが来やがった……」


 窓際の席で顔を青ざめさせているカナタさんを、僕はまた介抱していた。


「ていうかイツキもミミと一緒に景色でも見てこいよ。こんな二日酔いの女になんか構うな。まさかお前も船酔いか?」

「実はカナタさんに聞きたいことがあって」

「は? ワタシに?」

「カナタさんってなんで教師をやめて、今の生活を選んだんですか?」


 質問すると、カナタさんはしばらく黙り込んでいた。

 昨日のおばさんとの会話も、酔っていたわりにちゃんと覚えているのかもしれない。

 船がぐわんと揺れた後、カナタさんは口を開いた。


「……イツキはそれ、本当に知りたくて聞いてる?」


 さすがカナタさんだ。あっさりと僕の本心を見抜いてくる。

 彼女は窓の向こうを見つめながら、まるで雲を一つ一つを数えているようだった。


「とはいえ昨日はイツキに変な絡み方しちゃったしな。しょうがない」


 やっぱり昨日のことはちゃんと覚えているらしい。

 そして彼女はこう答えた。


「自分の人生に強度を持たせるため」

「へ」

「こんなワタシにも、もっとレベル上げが必要だったってこと。以上」

「そ、それだけですか? もっとこう、色んなエピソードとか……」

「今のイツキがそんなの聞いてどうすんだよ」


 やはり謎が多い人だ。

 するとカナタさんは首の向きを変え、僕の方を見る。

 ふっと青白い顔で笑っていた。


「それより、イツキがなんでこんなどーでもいい話を聞いてきたのか、当ててやろうか」


 彼女の視線に捕まると、言い当てられる前から僕の心は白旗を掲げてしまった。

 やっぱりこの人はなんでも見透してきそうだな、なんて。


「まあ、ミミの話、だよな。よしよし、まあ座れや」


 カナタさんは二日酔いのために買ったスポーツドリンクと、僕の緑茶のペットボトルをコツンと合わせ、乾杯の真似をした。

 さっきまで船酔いでぐったりしていたのがウソのように、今は生き生きとしている。これは夜のお仕事モードというものだろうか。


「……ミミさんの話で合ってます。なんで分かるんですか……」

「典型的なタイプだからね。前置きがやたら長くて、話す前から保険をかけてくる。そのあとの言葉は大体予想できる」


 この人には隠し事なんてしちゃダメだ。気分はさながら取り調べだ。

 それでもカナタさんは、僕がお茶を飲み下すまで待ってくれていた。


「今時珍しいくらい素直な子だよね、ミミは」

「そうなんですか」

「『そうなんですか』、じゃないっての。もっとお互いのことよく知りなよ。今日はワタシはただの保護者で、二人の邪魔をするつもりなんてないからさ」

「知るって言っても……ミミさんは〈神の使い〉らしいじゃないですか。冷静に考えてみるとちょっとぶっ飛んでませんか?」

「関係ないっしょ。イツキが飲食のバイトをしてるように、ミミは神様の仕事のバイトをしてる。それくらいしか違い、なくない?」

「か、軽……」

「イツキが重ーいの」


 なんて、カナタさんがゆるい声を出してみせる。


「で? 次が本題?」


 カナタさんの表情は優しかった。

 そのおかげで、心の奥底に置いたはずの言葉もすんなりと出てくる。



「ミミさんは……なにか大きな隠し事、していますよね」



 そう言うと、カナタさんはぱちくりと大きな目を瞬かせた。


「隠し事? ミミが?」

「カナタさんは人の話を聞くプロだと思って。だから昨日の会話で、なにか違和感を覚えたことがあったら教えてもらえないかと……」

「別にワタシはエスパーじゃないんだけど。隠し事って、実は彼氏がいるとか、そういう話?」

「いえ、もっと深刻なもので……」


 それはもしかすると〝悪魔〟のようなものかもしれない。

 ミミさんに限ってそんなはずはない。そう思いながらも自問自答を繰り返した。

 だけど僕は、ミミさんのことを一体どれだけ知っているのだろうか。

 万が一、ほんの僅かでもその可能性を考えはじめると、居ても立ってもいられなかったのだ。


「なるほど、ワケあり女ってわけか」

「な、なんだかカナタさんが言うとちょっとニュアンス変わりますね」

「とにかく不安ってことね。じゃあどうする? もしミミがめちゃくちゃ悪い奴だったら」

「それは……」


 答えなんて出るはずがない。

 悪い奴なら、しかるべき場所に引き渡す。あるいは縁を切る。もしくはやり返す。

 いいや、そのどれでもない。

 だってもう、僕にとってミミさんはそんな存在ではなくなっていると思うんだ。


「ミミがどうかはさておき、たまにいるんだよ、本当に悪魔みたいに人を騙すのが上手い奴って。ワタシもこういう仕事してるからさ、そういう話はしょっちゅう聞いてきた。もうライアーゲームみたいな話だってね」

「皆……どうしてるんでしょうかね」

「少なくともワタシはこう決めてる」


 そう言ったカナタさんは、胸元の綺麗な石のペンダントをそっと握りしめた。


「人の理解は、リスペクトからスタートしようって」


 その仕草は、神社で祈りを捧げていたミミさんの面影と重なって見えた。

 別に手と手を合わせているわけでもないのに、なぜだろうか。


「相手のイヤなところを見つけちゃうとさ、そいつのいいところも他にあったはずなのに、ぐわーっと全部が悪く見えちゃうんだよな。盤面が初めからぜーんぶ黒で埋まっちゃってて、もう逆転不可、的な?」

「分かる気がします。でも……実際、そういうもんですよね」

「否定はしない。でもワタシは一回深呼吸して、そいつのいいところをまず知ろうと思って。悪いところはその後、ゆっくりだ」


 たとえ最終的に、オセロの白がすべて黒にひっくり返ってしまったとしても、その途中にあった〝白〟の存在をちゃんと知っておきたい。

 どうすればその白をもっと広げられたのか、盤面が真っ黒になる前に、真剣に向き合いたい。

 それは夜の仕事をしているカナタさんではなく、教師だった頃のカナタさんの影が、静かに語ってくれたようだった。


「感情的になって相手を頭っから否定しちゃったら、もうそれまでってことだ」


 カナタさんの言葉をどれほど正確に受け止められたかは分からない。

 でも。心は少し、軽くなった。


「……話聞けて、よかったです」


 するとカナタさんは我慢していたものを解き放つように、ふっと笑った。


「くくっ」

「カナタさん?」

「いやー、なんでもない。こんなんでも頼りになりそうっすか。ふふっ」

「へ? なんのことですか」

「『自分のことは自分でなんとかする』。イツキが散々言ってたからミミも心配してたけど、頼ってくれて嬉しいよ」

「あ……!」

「ははっ。そんな〝自分ルール〟、ほどほどでいいんだって。気ままにガス抜きしてやってさ。頼られる方だって悪い気はしないんだから」


 なぜだろう。あれだけ固く決めていたはずなのに、カナタさんによってそれがいつの間にか破られていた。

 なんだかそれが急に恥ずかしくなって、僕は席を立つ。


「……すみません、ちょっと外の景色、見てきます」

「えぇー? もうちょっと、もうちょっとだけ一緒にいよ〜っ?♡」

「うわっ!? なんつー声出してるんですか! もしかしてそれがカナタさんのキャバクラの仕事モードなんですか!?」

「あはははっ、これが大人ってやつだ」


 やっぱり変な人じゃないかと本土の方を見やった。

 もうそこにはなにも見えない。夏の陽を映す青い海がただ煌めいている。

 船は振り返ることなく、僕たちを目的地へと運んだ。

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