第10話 キャバ嬢の教師
「はー、神様の使い! 世の中にはめっずらしいもんがいるもんだねぇ」
天条香奈多さん。僕たちよりひと回り年上で、二十九歳の女性。
キャバクラでは本名の「カナタ」をそのまま源氏名に使い、天文館の店で昨年から働いているという。
それにしたって街中ではそうそう見かけることのない美人だ。
線が引かれたようにすっと通った鼻筋。凛とした切長の目に、ナイフのように無駄のない輪郭。
ひとつひとつの顔のパーツが洗練されていて、けれどそんな外見とは裏腹にサバサバとした口調が気を楽にしてくれる。
実年齢よりずっと若く見えるし、華やかなドレスからゆったりとしたTシャツに着替えた今も、その美しさには陰りがない。
そんな彼女にあれよあれよという間に連れられ、僕たちは今、定食屋と居酒屋のあいだのようなお店に腰を落ち着けている。
「で、探してたカラス? そいつが今、ミミの膝の上に乗ってるんだ?」
「は、はい。このたびは本当にご迷惑をお掛けしまして……」
「いいのいいの。どーせそのカラス、ワタシには見えないし」
店に迷惑かけたことを誤ったつもりだが、天条さんはビールをぐいっと飲み干してけらけらと笑った。頬が赤く染まり、すっかり酔っている様子だ。
本来なら〈神の使い〉の話など部外者に語るべきではないはずだが、ミミさんはすべて打ち明けることにしたらしい。それほどまでに、僕たちは彼女に助けられたのだから。
「あの、こんなにご馳走になってしまって本当にいいんでしょうか? 私たち初対面なのに……」
「神様には豪勢におもてなししておかないとバチが当たるよ」
「ただの〈使い〉なんですけどね。それに私はまだ見習いで……」
「じゃあ出世払いっつーことで♪」
テーブルの上に並んだ枝豆、卵焼き、刺身、炒飯、その他もろもろ。
鹿児島名物の溶岩焼きでは、鶏肉がジュウジュウと音を立てながら焼かれている。ミミさんの膝の上に乗った八咫烏のピーとポーは、その光景を見てブルブルと震えていた。
「隣のキミも神様なの?」
天条さんの鋭い目が僕に向けられた。
怖いというより、その目は心の奥底まで見透かしてくるような鋭さがある。
「いえ、僕はただミミさんに付き合わされてる一般人です」
「付き合わされてる? どういうこと?」
「私とイツキくんは特別勝負中なんです! 私が勝ったらイツキくんは私の言うことをなんでも聞くって約束で」
「なんかちょっと湾曲してないか……?」
「同じ意味でしょ? ていうかイツキくん、さっきから全然食べてなくない? もうお腹いっぱいならうちの勝ちやっちゃよ?」
ミミさんは卵焼きを口に運びながら、挑戦的な目で僕を見つめてくる。
そんな僕たちのやり取りを見た天条さんは、ふっと微笑んだ。
「ふふ、楽しそうだねぇ」
優しい笑い方だった。
幸い、それ以上僕たちの関係について深く追求する気はないらしい。
「えっと、それで天条さんはお仕事の方、大丈夫でしたか? あんなことがあって……」
「ん? ああ、『カナタ』でいいよ。夜の仕事はどっちみちそろそろやめようと思ってたからね」
「そ、そうでしたか」
「あの店は去年日本に戻ってきてヒマだった時に声かけられて始めてさ。最初は色んな人生話が聞けて面白かったんだけど、だんだん厄介客が増えちゃって」
「もしかしてそれまでは外国に?」
「ん。ちょっと色々回ってて」
ミミさんが興味津々といった様子で前のめりになると、カナタさんはやれやれとスマホを取り出した。画面をそっとこちらに向けてくれる。
そこには、さまざまな国の風景とともに、現地の子どもたちに囲まれるカナタさんの姿があった。
青空の下で、綺麗な教室の中で、あるいは壁に描かれた落書きの前で、彼女が笑っている。
日差しの強そうな土地ではちょっとだけ日焼けして、どこにいてもカナタさんは変わらない笑顔を見せていた。
「すごい……世界を旅して回るのが夢だったんですか?」
ミミさんの問いに、カナタさんは少しだけ考えてから答えた。
「それは夢って感じじゃないかな。単純に、色々な文化や価値観に触れることが今のワタシに必要だったってだけ」
「そういうの、自分探しっていうんでしょうか?」
「あはは、全然違うよ。そんなものはとっくに見つかってる」
それから自分の話はもういいとでも言うように、カナタさんは話題を切り替えた。
しかし彼女は、人の心を開かせるプロフェッショナルというべきか。気付けば僕たちは、自分のことを思っていた以上に語ってしまったらしい。
その中には本来言うつもりのなかったことも含まれていた。
ミミさんがお手洗いに立った間、カナタさんはそれを振り返る。
「はぁ。イツキは〝絵が描けなくなった〟……ねぇ」
「ミミさんはその、例の筆を使って僕に願いを叶えさせようとしていて……」
「なるほどぉ」
「か、カナタさん? 生きてます?」
「生きてるよぉ」
彼女はすっかり酔いが回っているらしい。
夜の仕事をしている人だからお酒には強いと思っていたが、今はほろ酔いを通り越してふにゃふにゃだ。
「でもさぁイツキ、ほんとに絵を描きたいって思ってるぅ?」
それでもカナタさんから出た言葉は、僕の動きを止めるほどに鋭かった。
「それは……どういう意味……」
「どうしても、もうなにがなんでも絵を描きたい! ってイツキがほんとーに思ってるのかなぁって。なんかさぁ、イツキからは絵への本気の情熱があんま感じないんだよねぇ」
「な、なんでですか。僕は絵が描けるようになりたいし、描きたい絵だってあって……」
「でも本当に熱量があったら、こうしてグズグズしてる時間、もったいなくない? ワタシだったらもう毒でもなんでも食べちゃおうと思うけど。なにをそんなに守ってるのぉ?」
カナタさんの顔はお酒で真っ赤になっているが、その目だけはどこか冷静に僕を見つめていた。僕は反論の言葉を探す。
そんな時、店員さんがおしぼりでカナタさんの頭を軽く叩いた。
「カナちゃん、意地悪なことしないの」
「あへぇ」
「ごめんね。この子、普段はこんなべろんべろんにはならないんだけど、今日はもうダメみたい」
「あ……カナタさんってこちらのお店の常連なんですか」
会話の途中でミミさんがお手洗いから戻り、僕の隣に座る。
おばさんは「お詫びの気持ち」と言って、僕たちの前に冷たいバニラアイスクリームを置いてくれた。
「カナちゃんは昔からよく来てくれてね。今でも『日本一の先生になるには』なんて話を始めたら止まらなくって」
「へ? 日本一の……先生……?」
「あらやだ。あなたたちには言ってなかったの」
おばさんは慌てて口元に手を当て、うっかり、なんて表情を見せた。
「あちゃあ、聞かなかったことにしてね。カナちゃんに悪いことしちゃった」
「え……ええ!? カナタさんって先生なんですか!?」
「そりゃあ大学で教員免許を取って、鹿児島の高校でしばらくはマジメに働いてたもん。当時は綺麗な黒髪で、どこの名家のお嬢様かと思うほどの清楚美人だったなぁ」
「でも今は夜のお店で働いて、大丈夫なんですか……?」
「一度ちゃんと退職してるみたいだからいいんじゃない? お客さんの子どもの話とか人生の悩みとか、全部勉強になるって言ってたよ」
「すごい話ですね……」
本当に人は見た目で判断できないものだ。
教職を離れた理由は分からないが、彼女なりの理由があったのだろう。
それから僕たちはカナタさんにツケてもらう形でお会計を済ませ、居酒屋を後にした。




