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第1話 可愛いけど、変な奴

 自分のことは、自分でなんとかする。

 その言葉は不思議と、自分にとって妙にしっくりきた。


 雨の日に傘を忘れたら濡れて帰る。

 学校に弁当を忘れたら水で腹を膨らませる。

 高校の学費以外の生活費を週五のバイトで稼ぐ。


 どうしてわざわざと思うかもしれないが、単純な話だ。

 自分一人の空間で、「絵」を描くことに集中したかったから。

 自分で生活するコストとそれ以外に必要なコストを天秤にかけた時、その傾きが明らかだったのだ。


 だから、高校入学と同時に始めた鹿児島中央町での一人暮らしは快適だった。

 九州新幹線が止まる立派に栄えた駅周辺。実家とは電車で数駅の距離。

 六畳一間の部屋は少々窮屈だが、外に出てしまえば部屋の広さなど気にならない。


 こうして、高校二年生になって迎えた僕だけの夏休み。

 誰にも邪魔されることなく絵を存分に描いてやろう。

 そう思っていたのに、今年の夏休みはこれまでと大きく違って始まった。


 絵がまったく描けなくなってしまったらしい。


 それは確か、昨年の冬頃から。スランプという奴だ。

 ベンチに腰掛け、イーゼルを立て、スケッチブックを固定し、絵の具をすくって、パレットの上を泳ぐ水と混ぜる。そこまではいい。

 しかしいざ描こうとした途端、なにかに睨まれたように身体が固まってしまうのだ。


「せっかく蛇みたいな形してるのにな」


 眼前に広がる入道雲。青空に大きく広がり、底はずっしりと重そうで、この港から見える桜島をまるっと飲み込んでしまいそうだ。

 しかし近くのセミがミンミンと、遠くのフェリーがオンオンと音を鳴らすばかりで、筆は一向に進まない。

 その間にも真上の太陽がじりじりと肌を炙る時間だけが過ぎていった。


『九州水彩展高校生部門・優秀賞』受賞。その他、受賞歴もろもろ。

 飛ぶ鳥をも落とす勢いだった遠矢樹(とおやいつき)が、なんとも情けない。

 こうもあっけなく絵が描けなくなるとは思わんかった。

 医者に相談した。ネットでも調べた。

 原因は間違いなく精神的なものらしいが、思い当たる節はいくつかある。


 バイト先に飾った僕の渾身の風景画を見た常連のおじさんが「イツキの描いちょる絵、AIんとと、もう区別つかんがなぁ」なんて言ってきたこと。

 ちょっとだけ僕に優しくしてくれたクラスの女子が「絵ばっか描いててちょっと怖いよねぇ」なんて楽しそうに陰口で盛り上がっていたこと。

 夜道で車に突っ込まれ、命は助かり完治もしたものの、「明日死ぬかもしれない」と思った瞬間に急に虚無が押し寄せたこと。


 どれも当てはまりそうだが、全部が積み重なったものだとも言える。

 いずれにしたって自己責任という奴だ。もっと僕がしゃきっとして、どっしり身構えていれば、こんなスランプに陥ることもなかったろう。


 だからこそ、あの冬の日から絵が描けなくなった今も毎日のルーチンは怠らない。

 朝昼晩、最低一回。キャンバスに向かい筆を握る。

 まあ、筆はほとんど動かないのだが……とにかく接触回数を増やし、少しずつインスピレーションを呼び起こすことが大切だと思う。


 そんな日々を過ごしているうちに、いつの間にか夏休みも残り十日となった。 

 ついにラストスパート。その間にスランプをなんとか克服しなければ。

 全集中。もう一度、筆を取って試みる。


 すると。

 手は――【黒い筆】を握っていた。


 ……なんだ、これ。


 買った覚えどころか、見覚えすらない真っ黒い筆。

 筆軸から穂先まで驚くほど真っ黒だ。ブランドのロゴもサイズ番号も品番もない。


 しかし手触りや重さは普通の筆と変わらず、普通に使ってしまうところだった。

 誰かの持ち物なら勝手にはまずい。それでもなんとなく青空に向かって筆を掲げてみると、そのコントラストに感心する。本当に黒いな、この筆は、なんて。


 夏の光をまとう青に目をやられ、思わず細めた時。

 隣から女性の声がした。



「がんばってる人にはね、神様からのご褒美がやってくるんだって」



 耳の奥をゆっくりと通っていくような、柔らかな声だった。

 セミの合唱がしばらくの静寂を埋める。

 ……誰だ……?


「おめでとう。キミは当選したんだ、『ゴッドサマージャンボドリームキャンペーン』に」


 海風が彼女の黒髪を揺らし、少しだけ遅れて彼女の香りが運ばれてきた。

 甘い。かすかな香りなのに、不思議と甘く感じる。なんだか光が溶けたような。

 だが思考はすぐに彼女の格好の方に奪われた。


 三十五度を超えた猛暑の中、〝巫女〟の姿。

 白い小袖と緋色の袴。ちらりと覗く手首は細く白く、肩まで真っ直ぐに流れる黒髪は清らかで、場違いな装いにもかかわらず華美をこなす。


 ……コスプレか? これだけ暑いのに一体どういうつもりだろう。


 だけど、ちょっと綺麗かも……なんて。

 まとう空気にさえ秩序がありそうで、それが神聖じみているというか。

 とにかく、彼女の世界に引き込まれそうになる。

 なぜ僕の方が今Tシャツ姿なんだと思わせてしまうくらいだ。


 それにしたって、なんでコスプレ女子がこんな海と船しかない場所に。

 ……というか今、なんて……?


「耳をかっぽじって聞いてね、イツキくん」


 前のめりになった彼女の顔が近付く。

 わずかに垂れた目の上の前髪が風に揺れ、ぱちぱちと踊っていた。


「今からキミの願いは叶う」

「は……」

「スランプなんて抜け出して、また絵を描けるようになるの」


 彼女は胸に手を添え、自己紹介をするかのようだった。


「私は〈神の使い〉。アニメとかでそういうのはもう慣れっこでしょ? さあ、あなたに一切損はありません。なんとリスクゼロ。その筆を使ってぱーっと願いを……」


 なぜ僕のことを知っている。

 いや待て。これはなんとか商法。ターゲットの情報を仕入れてきたのか。

 画材をすべて片付け、駆け足で僕はその場を離れた。


「え? ちょ、イツキくん?」


 神だと? 夏に湧いてくるのは蚊だけにしてくれ。

 僕と歳も変わらなそうな女子がコスプレして霊感商法……いや、これは宗教勧誘か? とにかく、きっと親に言われてやらされているんだろうな、気の毒に。

 理由がなんであれ関わるべきではない。

 しかし僕の早歩きも叶わず、彼女は腰を落とした姿勢で前に躍り出た。


「ふ、ふふふふふ。突然だったもんね、怖くなっちゃったかな? でも私は優しいよ? 怖くないよ? イツキくんの味方だよ?」

「ちょ……ていうかなんで僕の名前まで……」

「〈神の使い〉はなんでも知ってるの」

「け、警察……」


 スマホを取り出すと、僕の手首が強い力で掴まれた。

 彼女がにっこりと笑う。


「いけないよ? 無害な友達を通報するなんて普通、しないでしょ?」

「友達になった覚えはない……」

「目と目が合った時点で友達なの」


 サッと目をそらす。まずい、早く町の人たちに知らせなきゃ。ここの住民全員友達にさせられてしまう。


「大丈夫、イツキくんが恐れるようなことはなにもない。言ったでしょ、キミは当選したんだって。その証がさっきキミが手にした【黒い筆】」

「当選? ……そういえばさっき、なんちゃらキャンペーンって」

「『ゴッドサマージャンボドリームキャンペーン』。私たちの界隈でも宝くじみたいなのがあってね、がんばってる人を抽選してご褒美を与えてあげようって」

「急にご褒美と言われても……というかこの筆、あなたが置いたんですよね」

「よし。それじゃ、今から早速チュートリアルを見ていこっか」


 僕の発言を無視して彼女はすっとベンチに腰を下ろした。

 ちょいちょいと手招きして隣に座らせようとするが、彼女が用意したタブレットの画面を覗き込むと――その動画の再生時間、なんと四十分。

 冗談じゃない。この炎天下で僕をそんな時間拘束するつもりか。

 彼女はといえば、絵本を読み聞かせるように和やかに、しかもどこか得意げな顔をしていた。


「ほらほら、遠慮しないで? 女子の隣、恥ずかしい?」


 くそっ、奴らはこんな強引な手段でくるのか。

 残念ながら彼女のこのハマりっぷりは完全な洗脳だろう。ノルマのために手段を選ばず、平然と他人の人生を壊してしまうんだ。恐ろしいよ、勧誘ってものは。

 ならば。


「……はぁ、分かりました。とりあえずここじゃ暑いんで、どこか涼しいところに入りません?」

「いいね、大賛成っ。カフェでも入る? この辺でキミのオススメがあったら教えてよ♪」

「ああ、それならこっちですかね」

「へぇ、すごいね。女子をさくっとエスコートしてくれるなんてキミ、モテるんじゃない?」

「そんなことありませんよ」


 てくてくてく。

 市街地の方へ二人で歩いていく。

 見えてきた。そう、あれこそがなによりも信頼できる――


 ――鹿児島県中央警察署・某交番。


「待っ…………警察はまじでやばい…………! やめ、ろッ…………!」


 ようやく気付いた彼女。僕の腕を綱引きのように引いているが、もう遅い。


「こういうのは若いうちに学んだ方がいい。親や周りの大人にそそのかされてるんだろ?」

「ちが、違う! ヒドい! こんな優しそうな私を信じられないの!?」

「ゴッドサマー……なんだって? そんなうさんくさい名前、迷惑メールでも使わないっつの」

「本当なんだって! なんで私を警察に突き出すの!?」

「だってすごくヤバい壺売りそうな顔してる」

「なにそれ!」


 自分のことは自分で守る。悪い奴はここで終わらせよう。

 しかし彼女の力が存外に強く……いやウソだろ、このままではまくられる。

 そうなったら一番ヤバい壺を買わされてしまうじゃないか……!


 すると、僕たちの背後から声がした。


「キミたち、大丈夫? ケンカ?」


 振り向けば、にこやかに笑った制服姿のおまわりさんが立っていた。

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