第十四話・臆病な白蛇
生暖かく湿ったかび臭さが鼻をつく。
「ここ、は……?」
言う事を聞かない瞼をゆっくりと開くと、自分が見覚えのない部屋の中に居る事に気づき。
それと同時に顔と腹部から鈍痛がし始め、俺は直前の戦闘を思い出して自分が所長の言っていた拷問室へ連れて来られたのだと理解した。
その時。俺は急に左腕にこそばゆさを感じ、一体何だろうかと思いそちらへ視線を向けると。
手のひらほどの平らな黒い虫が腕に引っ付いていた。
「げ! 黒虫!」
生理的嫌悪感を催す台所の悪魔と呼ばれる虫に俺はびっくりして体を動かそうとするが、両手両足が椅子に拘束されていて出来なかった。
「ふぅー! ふぅー! あっちへ行け!」
何とか必死に息を吹きかけて虫を追い払うことが出来た。
「――思ったより元気だな?」
「だ、誰だ!?」
――そんな事をしていた時に。
いきなり薄暗かった部屋の中に光が差し込んだかと思ったら、正面の扉から監督官の服を着た男が入って来た。
「なんだ? せっかく朝食を持って来てやったのに感謝の言葉も無いのか?」
「ゲビス!」
意地の悪そうな顔をしたゲビスが近くの椅子に食事を置いて、天井から吊るされているランプへ火を灯し。
俺の周りを一周ゆっくりと歩いて眺めた後、正面から見下ろしてきた。
「こんなに怪我して、おぉ痛そ!
ヒーロー気取りってのも楽じゃなさそうだな?」
「……何の用だよ」
にやにやと小馬鹿にするような口調で見下してくるゲビスを俺は睨む様に見上げる。
「最初に言っただろ飯を持って来たって。
――おおっと! そうだった。ワシとしたことが忘れてた!
両手が縛られていちゃ飯を食えねぇよなぁ~」
そう言ってわざとらしく手を鳴らしたゲビスは椅子に置いた食事を持ち上げ。
見るからに粗悪なパンを俺の口元へ持ってきた。
「ワシが手伝ってやる。
ほれ口を開けろ」
「誰がお――モガッ!?」
「施しを受けるものか」そう文句を言ってやろうと口を開いた瞬間に、ゲビスが無理やりパンを俺の口の中へ押し込んだ。
喉の奥にまで入ったパンに俺が咽るが吐き出すことが出来ず、さらに続けざまにスープの入った食器を俺の口へと持ってきた。
「ほぉーらスープもあるからな。
これでパサパサなパンを流し込むのが食べるコツなんだぜぇ~!」
何をしようとしているのかは明らかなため、俺は何とか頭を振って食事を拒否したが。
頭を小脇に抱えられ様に拘束されて上を向かされ、パンと唇の隙間からスープを流し込まれた。
「フゴ! ゴボォ!」
パン自体の水分吸収率が悪く、さらに所詮は隙間程度しかないところへ無理やり流し込んだために、スープのほとんどは顔面を伝って床に流れ。
最悪な事に一部が鼻に入って俺は呼吸が出来なくなってしまった。
そのせいで、頭では呼吸を我慢しなければと分かっていながら、パニックと体の防衛本能に突き動かされて何とか息を吸おうとしてしまい、肺の中にまでスープが入り痛みを訴える。
(息が……!? 肺が……痛い! このままじゃ……!)
そしてだんだんと体が勝手に暴れ始め、座っている椅子や繋がれている鎖を鳴らしながら。
死の危険を感じた俺はなりふり構わずに頭の拘束を振り払い、岩のように固いパンを何とか噛みちぎって、口内に残っている部分を必死に舌で押し出して何とか正常な呼吸をすることが出来た。
「ゲホッ! ゲホッ! オオェ!
な、何が、ゴホ!おまえは!
一体何がしたいんだよ!」
「げへへ! そう怒るなよぉ~。
こんなのちょっとしたお遊びだろうが~」
「遊んでんのはおまえだけだ!」
涙目で咽ながら俺は目の前のゲビスを睨みつけると、ゲビスは懐から一枚の紙を取り出した。
「いいのかなぁ~?
これ。伝えてやらないぜ?」
「それはッ!?」
紙には俺がリライアンへの伝言として頼んだ事が書かれている。
(くそ!)
「急に大人しくなったな?
そうだよな、これが今のお前の生命線だ。
ワシの気分を害したらどうなるかわかるよなぁ~?」
(……その通りだ。
何とか牢に残ったであろうリエルがこの状況を如何にかできるのを願うしかない現状。
監督官への叛逆行為の証拠になりかねない証拠を提出され、苛烈な拷問を受けて命にかかわる怪我をする事だけは避けなければならない……!)
屈辱的だ、余りにも。
けれど感情に任せて行動し、あるかもしれない可能性を自ら断つ行為だけは絶対に避けなければならない。
(――まてよ?)
この薄暗い部屋の中で迫りくる暴虐へ恐れ慄き、悪魔へと魂を売り渡して生き延びる事だけを考えようとした時。
俺の脳裏に一つの可能性が過ぎった。
「なあゲビス」
「あぁ? なんだよ?
もうやめて欲しいって泣き叫ぶのか?
そんなの興覚め――」
「――そもそもどうして、おまえはその伝言を所長に伝えていないんだ?」
考えれば考えるほどゲビスの行動は不自然だ。
ゲビスは俺にとってメモの事が問題になると、そう分かっているから脅してきているのだろう。
ならば、メモの内容が監督官側にとって不利――俺のスパイ行為の証拠だと理解していなければならなず、この件にリライアンが絡んでいると気づけるはずだ。
二兎。
それもオルストと対抗しているような派閥の頭を潰すことが出来る管理運営上の成果、出世間違いなしの功績。
それを報告せずに、俺を脅す遊び玩具にしていること自体がどう考えてもおかしく。
そうする理由が見当たらない。
「おまえ『監督官』じゃないな?」
だから俺はこいつが、間違いなく『個人的欲求にのみ従って行動している』そう予想した。
そう考えれば、謎だった牢の鍵が壊れている事に気づいた人物も確定する。
牢の鍵を壊した犯人を、所長が俺と決めつけていた事にずっと引っかかっていたのだが、目の前の男が報告したのなら納得できる。
――わざとリエルを容疑者から外したのだ。
(どうせしょうもない理由だろうが……)
「……何を突然言い出す?
この服を見ろ、真っ赤なこのワシの制服を。
どこからどう見ても監督官だろ?」
「なら早く教えてくれよ。伝言を伝えなかった理由をさ」
「……どうしてそんな事をお前に言う必要がある?」
理由になっていない主張を追求すれば、ゲビスは馬鹿馬鹿しいとでも言いたげに背を向けた。
(その態度……どうやら俺の考えは当たっているらしいな。
もしも考えが見当違いならば、こいつは間違いなく俺の事を馬鹿にしてくるはずだ)
自分の考えに自信を持つ事ができた俺は。
それならば、間違いなくこの地下において一番力を得られる方法をこの男は行っているはずと確信して口にできた。
「お前――大半の奴隷グループと個人的な繋がりを持っているんじゃないか?」
「……!」
この地下で一番おいしいポジションは何処か?
(そんなの決まっている『奴隷と監督官の橋渡し』だ)
いくら能力が封じられていようと、拘束のされていない獣人族をゴブリン族が管理するというにはキツイ。
その両者の間にゲビスはうまく入り。
奴隷には飴を与えて懐柔し、監督官には手間を肩代わりした様に思わせられれば、双方に影響力を発揮することが出来る。
「そのつながりの中にリライアンの所も入っている。
だから、いつか使えるカードとして伝言を報告せずに保持している。だろ?」
「……げへ……げへへ!」
そう言うと、肩を震わせたゲビスがいきなり振り返った。
「おっしい! 実におしい!
その答えじゃ五十点だなぁ!」
「なんだと!?」
そして、人を馬鹿にする様な表情を近づけ笑うゲビスが、俺の肩を掴んだ。
「ワシはな弱~いヤツをいたぶるのが大好きなんだ!
奴隷共と仲良くしていれば、グループに入れず何の後ろ盾も無い弱者を気兼ねなく虐められる!!」
「お、おまえッ!!」
……俺は目の前の存在が理解できなかった。
虐めを行うためにそんな行動を起こしたなんて。そんな理由、理解できるはずが無かった。
(一発だけでもいい! 俺は目の前の男を殴らなければならないッ!)
――コンコン
最初に考えていたゲビスを利用する気なんて無くなり。
目の前の男はいかれた糞野郎だと気づいた俺は、歯を思いっきり噛みしめて何とか拘束を破壊しようと暴れた時。
この部屋の扉がノックされた。
「――どうぞ、こちらに例の人物が居ります」
「ありがとう」
俺は拷問を担当する監督官がやって来たのかと身構えるが、なぜか目の前のゲビスが困惑していたためいったいどういう事だろうと思っていると。
扉から少しだけ意匠の異なる監督官の服を着たゴブリン族の男が一人に、白髪色白で赤い目が特徴的な小柄な人族? の女性が入って来た。
「こ、これは副所長!? お、お疲れ様であります!」
「いるならちゃんと返事をしろゲビス!
それに何だこれは? 食べ物をぶちまけて!」
入室してきた瞬間に顔を顰めたゴブリン族の男は、ゲビスから副所長と呼ばれ。
部屋の惨状に対し怒りを露にすると、すぐさま隣に居る女性へと頭を下げた。
「申し訳ありませんディフェレ様! このような場所にお招きしてしまい……!」
「いいよ、大丈夫。
このくらい気にしないよ」
必死に頭を下げて謝る副所長へ一切目を向けずに、ディフェレと呼ばれた女性は一直線に俺の前にやって来た。
「きみがネオ・ゼーゲン君だね?」
「……そうです。失礼ですがあなたは?」
「ぼくはディフェレ。きみに分かりやすく言うのなら……淘汰された敗北者達【ウィーディングルーザーズ】って呼ばれている者だよ」
「なッ!?」
この地下で聞くとは思っていなかった名前に俺は驚愕し、身を乗り出そうとするが拘束に阻まれる。
「父さんは! 父さんは無事なんだろうな!」
「父さん? ああ、レイ・ラインツの事か。
うん、彼なら無事さ。重要な役目があるからね」
敵の言葉ではあるが俺はそれを聞いて深く安堵する。
しかし、同時に新たな不安を呼ぶ単語も聞こえた。
「役目……だと?
一体父さんに何をさせようとしている……! それにどうして俺達を襲うんだ!」
「うん……まあ……こうなるだろうとは予想していたよ。
きみが聞きたいという思いは理解している」
そう言ったディフェレは俺の顎を細い指で摘まんだ。
「けれど、ぼくにはその質問に答える時間さえ勿体と感じているんだ。
うん、だから……ごめんね?
ぼくの用事を優先させてもらうよ?」
そう言って今度はしっかりと顎を掴むと、力を込めて無理やり天井を向かされ。
首元に冷たい何かが当てられた。
「なにをするんだ!?」
「おっと、喋ると危ないじゃないか」
何とか俺はディフェレを振りほどこうと暴れるが抱きしめるかの様に拘束され、その瞬間に漂った香水の匂いと客観的に見た自分達の状態に恥ずかしさを覚え。
動きが緩んだすきに喉に小さな痛みが走った。
「申し訳ないとは思っているんだ、ぼくだって。
きみたち親子はただ平和に暮らしていただけだし、生まれたばかりのきみから母親を引き剥がしてしまった事は今までの人生で一番苦しかったよ!」
ディフェレは抱き着いたまま蛇の様に体をくねらせて、上を向いている俺の顔をさらに上から覗き込んできた。
――その瞳は狂気を宿している様でとても正常には見えず、口元は三日月の様に開いて笑っていた。
「けど! そんな犠牲もきみで終わりさ!
きみ達親子やこれまで犠牲になった者達が報われる日がやってくるんだよ!
生まれの不幸が無いッ! 自分がなり自分になれる時代ッ!
そのためにはどうしてもきみの【リビングシード】が必要なんだ!
「リビング……シード……?」
だんだんと血の気が引いていくのを感じ、焦りと共に必死に暴れるが。
それを見ていた副所長も俺に近づき、二人がかりで押さえつけられる。
「この世に神様がいるのならその者が作ったしか思えない生命の設計図!
そのデータを使えば、皆が思い通りの体・特徴を手に入れられる!」
「そんなの……良くないだろ……!」
「――どうして?」
とんでもない計画を聞かされた俺は咄嗟に言葉を発してしまい。
――それを聞いたディフェレの顔からは表情が抜け落ちた。
「何が良くないの? ねぇ何が良くないの?
きみも努力すればいいとかいう馬鹿みたいな事を言うの?
この世界には努力ではどうにもならない、生まれながらの劣った者が存在するんだよ?
その人達はどうすればいいの?
一生弱者でいればいいのかな?
ぼくはとてもじゃないけどそんなこと言えない!
きみは言えるんだね! その人達の前で「きみらは一生そのまま辛い人生を送って死ね」って!
ねぇ!! 言えるんだそんな事ッ!!! ――言えるわけないよねッ!!!
ぼく達の辛さ何て分かるはずないんだから!!!」
「ディフェレ様!」
突然激昂したディフェレは何らかの器具を俺の首から外し、細い両手で首を絞めながら俺の顔を見つめて怒号を発した。
「――でも、もういいんだ」
――だが。
次の瞬間、再び笑顔を浮かべたと思ったらそのまま俺から離れ。
「あの方は分かってくれた。
道を示してくれた。
助けてくれた。
そんなあの方のためなら――ぼくは何でもやるって決めたんだ」
「え? ちょ、ナイフ?
ナイフはまずいんじゃ……」
懐から装飾など一切ない小型のナイフを取り出し。
ゲビスが小さい困惑の声を漏らすと共に俺の方を見た。
「やっぱり血だけじゃなくて肉も必要かな?
うん、きっと必要だ。その方がしっかりとしたリビングシードが取れるはずだ」
「……何を……言っている?」
冷や汗が一気に溢れだす。
途轍もなくまずい予感がする。
これならゲビスに馬鹿にされていた方が何千倍も良かった、そう俺が思った頃には。
ディフェレが再び俺に近づいて手首にナイフを当ててきた。
「出来るだけ痛くしないから。
――手、貰うね?」
「――どうやって痛くしないんだよ!
ゲビス! おいゲビス! おまえでいいから助けてくれ! こんなの拷問じゃない!」
「ワシでいいってなんだよ!」
「そんな事どうでもいいから早く助けてくれ! このままじゃ――」
「――じゃ。いくね?」
そう言って皮膚に痛みを感じた瞬間
「――ネオ大丈夫ですか! 助けに来ましたわ!」
救いの女神が豪快に扉を破壊して飛び込んで来た。