3
その日の夜。
やや遅めの帰宅をしたエルナンは、元気のない顔をしていた。
「おかえりなさい、お兄ちゃん。どうしたの?」
「明日からしばらく、留守にする……」
「ええ?泊まりの仕事?」
月に数回、王都の夜間警邏をする夜勤があるのだが、どうやらその仕事ではないようだ。
「昨日。魔獣が出て、副団長と退治したんだけどさ。なんか、逃げたのが南の森にいるみたいで。それを探しに行かなくちゃいけないんだよ……。捕まえるまでは帰れない。は~、森で野営って虫に食われるからイヤなんだよな~」
「お疲れさま。虫避けの香があるけど、要る?」
「いや、いいよ。魔獣に気付かれないよう、追いかけなきゃいけないしね」
「そっかー。じゃあ、任務終了して帰ってきたら、ご馳走を用意しておくから!」
「よし!がんばるぞぉ!」
妹の励ましに、エルナンはぐっと拳を握り締めて気合を入れた。妹の料理は、何よりもご褒美だ。
実は騎士団へ入ったときに、エルナンは入寮を勧められていた。騎士団に入って最初の数年はとにかくハードなので、本部のすぐ横にある寮暮らしが身体的にも楽だと。
しかしエルナンにとってセレスティーナの笑顔と料理は、長い間ずっと、重要な日々の活力の元だった。それに可愛い妹を独りにすることも、心配で仕方が無い。なので入寮は断り、セレスティーナと二人での狭い借家暮らしを選択した。その上で仕事を必死にこなし、とにかく倹約につとめてお金を貯めた。子供の頃から「いつか、自分たち二人だけの家に住もう」と肩を寄せ合って生きてきた、その夢を叶えるために。
その夢が、まさかこんなにも早く叶うとは自分でも驚くばかりだが、頑張った甲斐があったものだ。妹も、初めて自分の部屋を持って嬉しそうである。借家時代よりも職場から遠くなり、正直なところ辛い部分はある。あるが、それを上回る幸せな生活だ。
もっとも、そのうち妹は結婚してこの家から出て行くだろう。そうだとしても……たとえ短い間だとしても、こうやって兄妹二人で落ち着いた暮らしが出来るようになって、本当に良かったと思う。
「あ、ところでレオさんのことだけど」
感慨に耽りながら、一番の幸福の源であるセレスティーナの料理を食べているエルナンに、セレスティーナが何気ない調子で声を掛けてきた。
知らない人物の名に、エルナンは首を傾げる。
「レオさん?」
「あのケガ人のおじーちゃん」
「あ……うん。おじーちゃん……レオさん……」
「熱がまだ引かないのよね。今日、解熱作用のあるお茶を飲んでもらったけど、飲ませて良かったかしら?」
セレスティーナは医者でもないし、治療師でもない。熱があっては苦しいだろうと勝手な判断で薬草を飲ませてしまったが、良かったかどうか、ふと不安になったのだ。薬草には鎮静効果もあるので、レオは現在、よく眠っている。
エルナンは、セレスティーナに釣られて“レオさん”の眠る部屋に視線を向ける。
騎士団の治療師は何と言っていただろう?
「ん~……、治癒魔法を掛けられないだけで、普通に治療する分は大丈夫だって話だったから問題ないんじゃないかなぁ」
「そう?良かった」
気掛かりが減って、セレスティーナはホッとしたように笑った。
「それにしてもレオさん。気難しそうな人だね。それと、すごく鍛えられた体だけど騎士団の寮にいるってことは、まだ現役で仕事されてるの?」
エルナンは再び、考え込んだ。“レオさん”は確かに気難しい人だ。だから、あんな状態で騎士団の寮へ置いておく訳にいかず、エルナンの家へ隔離する案が団長により提案された。他の団員に見られたら、彼の矜持が許さないだろうからだ。ということで“レオさん”の現状を知っているのは、騎士団内ではエルナンと団長、魔術師、治療師の四人だけである。
セレスティーナには悪いが、あまり詳しいことは話さない方がいい……ような気がする。妹に隠しごとをするのは不本意だが。
そう結論付け、余計なことを言わないよう、短く返答した。
「……うん」
「すごーい!尊敬しちゃう」
「うん……」
歯切れの悪い兄の返事に、セレスティーナの方も内心、首を傾げていた。
単純な兄は、いつだって回答も明確だ。どうして、こんなにもそもそとしているのだろう。もしかして、古参のレオに苦手意識があるのだろうか。厳しそうな人なので、きっとビシバシ鍛えられているのだ。
もしそうなら、あまりあれこれ聞いては悪いだろうと、その後は何気ない日常会話に徹した。セレスティーナは空気を読む良い子なのである。
やがて、就寝時間になった。
「お兄ちゃん。今日は私のベッドで寝て」
ソファで寝るための毛布を用意しながら、まだ食卓で寛いでいた兄に声を掛ける。エルナンは、眉を寄せて首を振った。
「いや、ソファでいいよ」
「ダメ。明日から野営でしょ。ちゃんと体を休めないと。それに、そのソファはお兄ちゃんには小さいじゃない。私なら、大丈夫!」
「でもなぁ」
「いいから、いいから。レオさんのおかげで私は仕事休みだしさ。なんだったら、昼間に少し昼寝もできるもん、気にしないで。魔獣を追いかけるなら、体調は万全にしておかなきゃ」
「わかった。ありがとう」
「いえいえ」
兄を無事に自分のベッドへ押し込み、セレスティーナはホッとして居間のソファへ座った。兄の仕事は常に危険と隣り合わせだ。自分に出来ることなんて、ほとんど何もない。だけどもし、寝不足で怪我でもしたら……絶対に自分のことを許せないだろう。おとなしくベッドを使ってくれて良かった。
まだ眠くなかったので、少しだけ本を読むことにした。
普段は夕食を食べて少しすればすぐ眠くなって寝てしまうので、ちょっとだけ得をした気分だ。
ホットミルクを用意し、ソファで横向きに座って足を伸ばし、のんびりと本を読む。本といっても、子供の読むような絵のたくさん描かれたお伽噺である。セレスティーナは、そんなに文字を読むことは得意ではないからだ。一文字、一文字を時間を掛けて読む。いつか、絵のない文字だけの厚い本を読めるようになるのが今の夢だ。
……どれくらい経ったときだろう。
カタンと音がして、レオが寝室から現れた。
「あ、ごめんなさい。起こしてしまいました?」
居間の明かりが扉越しに気になったかも知れない。この小さな家には廊下がない。居間のすぐ隣がエルナンやセレスティーナの寝室だ。なるべく音は立てないように気を付けていたが、ページを繰る音も気になった可能性はある。
慌ててセレスティーナは本を脇に置いた。
「いや。……そこで寝るのか?」
「ええ、兄にベッドを譲ったので」
「兄?」
「あ、兄はエルナンです。レオさんをここに連れて来たの、兄なんですけど。ご存じ……ですか?」
同じ騎士団だし、兄がここへ連れて来たのでもちろん知っているはずと思うけれど。今まで、兄からレオのような年配騎士の話は聞いたことがなかったので、そんなに深い交流はないかも知れない。そもそも兄は平民で、まだ下っ端だ。彼のような貴族は名前を知らなくてもおかしくない。
しかし、レオはすぐに頷いた。
「ああ、エルナンか。彼には面倒をかけてしまったな。もしや私が使っているベッドは、彼のものか?」
「はい」
「それは申し訳ない。私がそのソファで寝る。君が向こうを使いたまえ」
「ダメです!」
なんということを言い出す男だろう。まだ熱のある怪我人をソファで、だなんて。
セレスティーナはプッと頬を膨らませて、男を睨みつけた。
「あなたの世話をするよう、騎士団長さまから頼まれているんです。エラそうに指示するヒマがあるなら、さっさと元気になってください!」
「え、えらそう……?」
「ほら、ベッドに戻って、戻って!私ももう寝ますから。いいですか、ケガ人は余計なことを考えずに自分のことだけ考えておけばいいんです。私は床でも寝れる人間なので、気にしなくて大丈夫です!」
ついでに、ぐいぐいと男を寝室に向かって押した。男は納得していない顔だったが……小さく溜め息をついて部屋に戻った。