イニシエノサンカ
─────アサシン
暗殺者。殺す者。職業的に、人を害する者。
古来より人はその立場を重視し、やがて王を上位とする封権社会を形作った。
生まれたときからの平民は死ぬまで平民である。
誰かの言葉。一部の例外は奇蹟と持てはやされる。
けれどもそれは本当に奇蹟。
数千、数万……否、数十万、数百万の命の中でほんの一つか二つかの奇蹟。
例えその子に才能があるとしても、文字すらろくに読めず、剣すら握る機会なく。
ただ鍬を手に土と生きて何に成れよう?
人は努力だけでは何もできない。
だから、闇が生まれた。
「ひぃっ!?」
騒音が暴れる。
夜の寝室。その主は恐怖に身を竦ませ、逃げる場もなく座り込んでいた。
部屋の壁と言う壁が叩かれる。
扉が激しくノックされ、高価な硝子窓が激しく振動し、天井の照明は揺れ、床が揺れる。
まるで屋敷その物が振動していた。
「な、なんだ!? 何だというのだ!?」
彼がもし賢者であればポルターガイストという騒霊現象を連想したかもしれない。
いや、賢者でなくとも姿無き騒音の主を幽霊と見ておかしくあるまい。
だが、彼は恨まれる相手には事欠かない。
故に不安が、疑心が、ありとあらゆる悔恨が彼を混乱の局地に立たせていた。
『さようなら』
声。
それは人の声であって、人の声でなかった。
ありとあらゆる声が干渉し合い、そして為しえた偶然。
しかし一音であれば偶然であっても、言葉として成立すれば必然。
「あ」
天井を飾る装飾灯が落ちた。
「よぉ」
声は木の上から舞い降りる。
「相変わらずシケた顔してるじゃないか」
声の方を全く気にせず、楽器を手にした青年はあくびをかみ殺した。
「ああ、仕事明けで眠いんだ」
「おいおい、それがアサシンの言う台詞か?」
「暗殺者だって睡眠もすればご飯も食べるさ」
手は緩やかなバラードを奏で続けている。
時折思い立ったかのようにコインが投げられる。
彼は吟遊詩人。
街を渡り歩いては伝承などを探し、そして歌にしては世に伝える者。
お祭りになれば大人も子供も彼らの物語に目を輝かせ、夜の酒場では雰囲気を盛り上げる裏方でありながら、主役にもなる存在。
「まぁ、いいか。殺ったのか?」
「聞いていないかい?」
「お前の殺り方は事故かどうかはっきりしないんだよ」
吟遊詩人の口元に笑み。
「いいじゃないか。結果が伴えば」
「まぁ、そういう結果をお望みのクライアントもいるしな。
わかった、長には伝えておく。
で、戻ってくるのか?」
「そろそろ一度戻るよ。
彼女はまだ里に居るんだろ?」
苦笑じみた気配だけ残し、木の上の影はどこにもいなくなっていた。
「……」
コインがまた一つ投げ込まれた。
吟遊詩人というものは旅をするものである。
それと同時に各地でばらばらに行われる村祭りなどでは願ってもない来客であり、また町の酒場でも歓迎される。
しかしその歓迎される歌というのはやはり異国のサーガであり、自国の有名な物を今更聞こうとは思わない。
「次っ」
国と国の境には当然のように国境があり関所が存在する。
国境を越えればすぐに他国、ということはない。
絶えず戦争の可能性のあるこの時代、国境と国境の間に緩衝地帯が存在する事は当たり前である。
関所で待ち構える兵士は通行税を徴収し、国内で指名手配されていないか手配書と見比べる。
ちなみに入市税、つまり入るにも税金の必要な町も存在する。
これは関税の前身であると同時に、難民の密入国を防ぐ目的がある。
広大な国境線に対し局所局所の関所は意味があるのか、という疑問は文明社会にしか適用されるものではない。
人の移動距離は一日約30Km。
馬を使っても40~60Kmといったところ。
しかし街道以外で馬を歩かせれば二日と立たず馬は骨折し使い物にならなくなるだろう。
人だって例外でない、移動距離は短くなる。
また、街道を外れるということは村や街が存在しない場所を行くと言う事である。
場所にもよりけりだが、そもそも国境近くは戦乱に巻き込まれることが多いため村の数が根本的に少ない。
真空梱包のない時代でいかに保存食と言えども三日もすれば腐食する。
ならば小麦を持ち歩けばよいかと言えばそうではない。
パンを焼く釜は即席で作るには難しいし、卵や牛乳は言うまでもなく腐る。
よほど特殊な行動、例えば時速80Kmで空を一直線に飛ぶ、などしない限り街道を行くしかなく、その結果関所の視界内を通るしかないのである。
無論関所の前で大回りをしようとする不届き者は後を立たない。その為に関所の周辺は巡回兵が多い。
さて、今彼が居るのはそんな国境ではなく、領地と領地の間にある関所である。
何故そんなものがあるかといえば、一つはやはり税収のため、そしてもう一つは農民を逃がさないためである。
農民の気分で領地を出て行かれては国は成り立たない。
よほどのことがない限り、基本的に農民は一生その土地で生を終えるのである。
「おら、町で一旗あげるだ」
なんて言葉は大抵の場合その領地内の街であり、辺境からはるばる首都に上京してきたというのはよほど金のあった人間ということになる。
「出国の目的は?」
「見ての通りです」
彼はいつものスマイルのまま楽器をひと鳴らしする。
「通っていいぞ」
「はい、どうも」
そんな中で例外はいくつか存在する。
まず通行手形を持つ商人。
これは基本的には国が発行するもので、国内ならばどの関所も通ってよいという定期券である。
もちろん国に納税するのだが、一箇所ごとに支払うよりは安い。
もちろん誰にでも与えられるわけでなく、手形を買える商人とはある一定のステータスを持っているとも言える。
次に役人。
役人にも大小様々だが、国から預かる証書(軍では階級章)があれば大抵の関所はフリーパスになる。
もちろん二等兵が関所を越えようとすれば問いただされるだろうが。
国に属さない魔術師ギルド加盟の術士や僧侶も特例の一つである。
どこかの少女は基本的に魔術師の全てがギルドに加盟しているという事実を逆手にとって関所を抜けてきたらしいが。
そして異例中の異例は吟遊詩人や楽師団などの芸人である。
彼らは大抵の関所でフリーパスである。
楽器の一つも流暢に奏でれば拍手と共に通行の許可が下りる。
理由としては関所を作るのは貴族であること。
そして兵はこういうのだ。「よければ領主の屋敷に寄って貰えないか?」と。
もちろんそれを利用しない手はない。
事実10%近い、いやもっと多くかもしれないが、そういった芸人は内職を持っているものである。
同時に領地内で何か在れば真っ先に疑われるのも彼らであろう。
ともかく、今回もあっさりと関所を抜けた彼はのんびりと空を見上げた。
彼の目指す先には森がある。
そこは見た目よりも深く、険しい死を匂わせているのだが。
まだ、ここまでその香りは届かない。
「やれやれ」
彼はゆっくりと街道を歩き始めた。
その場所は禁忌とされていた。
昔から『深淵の森』と呼ばれ、踏み入る者が戻る事のない死の森とさえ言われている。
もちろんそれは昔からの伝承に過ぎず、現にハンターなどは狩りのために踏み入っているし、木こりも同じだ。
そんな森の獣道。
ある一点から一歩逸れるとそこには巧妙に隠された洞窟がある。
ここはまっすぐ進めばやがて行き止まりにつくが、あるポイントから上に伸びる竪穴が存在する。
これを登っていくと開けた場所にたどり着く。
「よう、ノイズ」
声は門番のもの。
もしここに現れたのが彼の知らぬ存在であれば、声の代わりに刃が舞い降りていただろう。
「やぁ、相変わらずだね」
「なんだよ、それ」
ノイズと呼ばれた青年は他意のない笑みを浮かべ手をひらひらさせると先へと進む。
そうした先には花咲き草萌える風景が広がっている。
美しい村だ。
見上げれば太陽の光が穏やかに降り注いでいる。
しかし、この村を天空から発見する事はまずできない。
なぜならば現在では伝えられていない特殊な魔法が隠匿しているから。
「ただいま、偽りの聖域」
彼は目を細め、そして里を見遣る。
里の中央には一つの塔があり、その影は何処にも落ちない。
それこそが偽りの太陽であり、その影が落ちる先は真下でしかありえない。
再び歩き出す先にはこの偽りの世界の長が居る。
太陽の真下に巣食うのは影。
この世界の影。
「ご苦労です、ノイズ」
正面の卓に並ぶのは三人。
その全てが姿若く、しかしその瞳の奥の光は深遠。
「クライアントは大変喜んでいます。今後もこのように」
中央の男性が告げる厳かなる言葉。
「了解しました」
それに片膝をつき、頭を垂れたままの青年はすまし顔で言葉に応えた。
「しかし、ノイズ。あなたの手には大変興味がある。教官になるということも考えませんか?」
右の女性の言葉に左の女性が一つ頷く。
「確かに。『雑音』の名を関する暗殺者などあなたくらいです。
事故に見せかける暗殺者は他にも居ますが、あなたの方法はまるで魔法」
その賛美に混じる疑いの視線に気付かぬ青年ではない。
魔法で守られた空間でありながら、魔法を嫌う。そんな矛盾がこの村にはある。
「およしなさい。
彼に魔術適正がないことはすでに検査済みのはずだ」
真ん中の男性の諌めにすまし顔の右の女性は笑み。
「何を勘違いなさっているかは存じません。
私も彼の技術は継承されるべきだと言ったまで」
「お言葉ながら」
青年が言を割り込ませる。
「種の明けた手品ほど、つまらないものはありません」
「ならば今は良いでしょう。
次の任務は追って連絡します」
中央の男が退室を命じると、彼は一礼してその場を去った。
「ノイズ」
ぶらり村を歩く青年に声を掛けてくる女性。
焦げ茶の瞳は笑えば穏やかで優しげなのだろうが、今は不満げな色を湛えている。
「よ、ファム」
「よ、じゃないわよ! 戻ってきたならまず行くところくらい分かってるでしょ!」
肩までの髪を躍らせて怒鳴る声にきょとんとした青年はカケラも本気と言う言葉が見えないまま思考。
「……長のところなら行ったぞ?」
そんな緩い笑みのままの答えは刃という否定で断ち切られる。
「今の避けなきゃ死んでたぞ?」
「避けられなきゃ殺してたわ」
逆手に持った刃を手品のように仕舞い、少女はむくれたように睨み挙げる。
「にしても、毒までご丁寧に塗ったやつ使うか?」
「それ以外持っていないもの」
怖い怖いと身を竦めおどける姿に少女は大きく溜息をつく。
「とーにーかーくー! 言う事は?」
「……お腹空いた」
「本気で殺すわよ?」
穏やかな笑みにそぐわぬ殺気に一歩離れる青年。
「ったく! もう少し真面目になってもいいじゃない!」
「大丈夫大丈夫。必要なときには真面目だから」
へらっとした笑いのままの応じに「必要っていつよ?」と睨みつけると、今度は一瞬で目前に立って笑み。
「こういう時とかだろ?」
少女が逃げる暇もない。
抱きすくめられ唇を奪われた少女は最初こそ暴れようとして、すぐにふにゃりと体から力を失う。
「お前らさー。もうちょっと場所考えないか?」
「むーっ!?」
火事場の馬鹿力というか、凄まじい力で突き飛ばされたノイズはごろごろと転がって大の字に転がった。
「おうおう、大丈夫か?」
「余命幾ばくもないね」
「じゃあ介錯あげるわよ!」
目が本気である。
さすがに身の安全のために起き上がった青年は改めて声の主を見た。
「無粋だぞ?」
「道のど真ん中なんだがな。
ついでに見てたの俺だけじゃないし」
はっとなって見回せばそこらかしこに気配がある。
顔どころか耳の先まで真っ赤にした少女は「馬鹿っ!」と短剣(神経毒付き)を思いっきり投げつけて走り去ってしまった。
「やれやれ、おあついことで」
「ま、これくらいの刺激があってもいいだろ?」
呆れ顔で失笑、ノイズの手の中にある短剣を見る。
「俺は刺激に命まで賭けたくないんでね。
そんなの仕事で充分足りてる」
「楽師は表情豊かでないといけないものでね」
くるり回した短剣を持ち直し、懐に仕舞うと埃を払ってまた笑み。
「さて、お姫様のご機嫌取りと行きますか」
「ノイズ、お前暫く里に居るのか?」
去ろうとする青年に黒髪の男が問う。
「上、次第だろ?」
にやけ笑いを見て失笑。
「違いない」
見渡せば花畑では子供たちが駆け回っている。
しかしよく見ればその手にあるのは刃、触れれば死に至る猛毒を纏った刃である。
片方はひたすら攻撃し、片方はひたすら逃げつづける。
合図と共にそれは交替し、延々と続く。
もちろん斬られれば間もなくして死ぬだろう。
しかし構う事はない。
訓練は続けられ、子供たちは花の中を舞う。
その光景を遠目にノイズは失笑。
自分は優秀だった。
いや、優秀すぎた。
最初の攻勢で必ず相手に触れていた。
そしてその接触は相手の死を意味する。
加減も余裕も知らなかった。
ただ命じられたままに踊り、確実な死を生んだ。
別に自分だけと奢る気はカケラもない。
そのレベルだから今こうして歩いている。
そうでないものは必要ないのだ。
あそこに居る者のほとんどは拾われてきた子供である。
子供なんて何処にも居る。
裏路地を歩けばそこらに捨ててある。
商売女か、貧困に喘ぐものか、はたまた親のしがらみか。
数多の子供が街角で、森の中で、世界を認知する間もなく死んでいく。
それに比べればこうして動けるまで生きてこられたのは、幸運と言うべきなのだろうか?
ノイズはその光景から目を逸らすと胸に手を当てる自分の姿に気付いた。
服の上から感じるそれはペンダントである。
奇妙な形をしたそれは親から渡されたものであった。
彼は珍しくこの里で生まれ育った人材である。
里にいくつか存在する『血統』と呼ばれる家系だ。
しかし『血統』と言えどごく一部の条件を除いては同じ『死の舞踏』を代表する訓練を経験するし、現に彼の兄弟はそれで命を落としていた。
そうやって滅してきた『血統』も少なくない。
彼は穏やかか表情を崩さずに目的地へと向かう。
そこにはこの場所にあるはずのない物がある。
周囲に気配はない。
どんなに気配を消す才能があるとしても、逆にそれが命取りになり、彼に気付かれる。
思えば愚かだ。
彼を謀る唯一の方法はこの里では禁忌なのだから。
『扉』を開ければそこには小さな空間がある。
「お久しぶりです」
何もない空間。しかし床を見ればそこには精密な幾何学模様が記されていた。
『ノイズですか?』
「はい。またお話を聞きに着ました」
『……そうですか』
そこには一人の女性が居る。
方陣の真ん中にぽつんと置かれた宝石。
そこから立ち昇るように現れたのは40を越えたほどの女性。
しかしその姿が現実でない事を示すように、彼女の向こうに石壁が見て取れる。
『……里はどうなっていますか?』
「変わりません」
『……そうですか』
その声は落胆。悔恨が深く根付く瞳は流す涙を持ち合わせていない。
『彼女のことは?』
「未だ何も。私が出向ける先は上が決定しますので」
『もう、あれから400年も経ってしまったのですね』
女性の目は遥か虚空を眺める。
「お言葉ですが、メイア様の望まれている方はとうにお亡くなりになっているのではありませんか?」
『……様、などつけて貰う立場ではありませんよ』
僅かに、柔らかな苦笑を滲ませる。
「ですが、メイアさん、もアレですし……御婆様というのも失礼でしょう?」
『構いません。私は魔力が縛り付けた記憶の残滓。本当の私はとうに死んでいますし……』
「それほど、心残りだったのですか?」
再び表情が陰る。
『私とあの人が……姫様が戻って来る日のために用意した場所でした。
それが……』
全ては彼女らの思いの届かない場所で始まった。
数多の賢者は己の場のために死力を尽くし、そして生み出した存在に、技術に、賢者はその命を奪われた。
そうして出来上がった『死の楽園』は『偽りの氷塊』に守られてここにある。
『ですが、ノイズ。これは全て運命なのでしょう。
今のこの場所はあなたにとって大変危険です』
「ええ、もちろん承知しています。
ですが、私は決めたのです」
『それはあなたを不幸にするかもしれません』
「いいじゃないですか。私は何も考えない道具よりは自分の幸も不幸も自分で決められる愚者になりたいと思いますから」
『……それは、本心ですか?』
彼は静かに、誰にも見せた事がない、本当に静かな笑みを浮かべる。
「世界を動かすのは天才ですが、世界を変えるのは何時だって愚か者の役目なのですよ。
でなければ棒っ切れ一つでドラゴンなんかに立ち向かいはしないでしょう」
それは有名なサーガの一つ。
いもしないドラゴンを退治に向かう戯曲。
『ノイズ。私の遠い子孫。
あなたは……』
「メイア様。
あなたが最後に共から託されたその名前を、誇りに思う者というところでどうでしょうか?
これでも騎士の血を継いでいるのですよ?」
にこやかな道化の笑みを浮かべ、青年は幻影に背を向ける。
「殻を破る血は私に流れている。
そう、この新たな『偽り(False)氷塊(Arene)』はその血によって砕かれる」
『扉』を抜け、過去の幻影に聞かれぬ場所まで歩き出た青年はもう一度、あのペンダントを握る。
それはかつてあった国の紋章であり、幻影───メイア・メフィアル・クーエルガが親友より託されたものであった。
「申し訳ありません。メイア様」
その顔は笑み。
「私は私のために、この地を奪います。
この地の正統血統としての権利、ということにさせてください」
そして、彼は影になる。