5 彼の名は
「え、なんで俺を叩くの?! ひどいじゃないか、妹よ!」
「蘇芳を叩けるわけないじゃない」
「確かに」
「ねえ、りん。俺、辞めるよ。りんが付き合ってくれなくても辞める。一緒にいたい」
頭をさする太郎を気にする様子もなく、蘇芳は「もう心は決まってる」と言う顔で宣言をする。
鈴は思わず「ひいっ」と叫んだ。
「無理、無理無理無理。蘇芳はもう、蘇芳一人のものじゃないんだよ?!」
「俺は俺のものだよ。あと、りんのもの」
「違うわ!」
なんてことだ。
鈴は仁王立ちのまま腕を組む。
蘇芳はわかっていない。
「蘇芳」
鈴が真面目な声で呼ぶと、素直にこちらを見た。
「なに」
「わかってない。蘇芳はもう、蘇芳のものじゃないの」
「じゃあ、りんだけのもの?」
「違う! あのねえ、朝まで見たんだからわかるんだよ。ちゃんとダンスグループの一員になってた。ファンの人たちだって沢山いる。テレビに出るってことはね、ファンがいるってことはね、応援してもらうってことはね、その人達のための自分を常に電波に乗せなきゃならないの。好きな人? 彼女? そんなものは存在しません!!!」
鈴の怒濤のしゃべりに、太郎は「まあ、そうだよなー」と同意して、蘇芳を肘でつついた。しゅんとしている蘇芳に、鈴はさらに追い打ちをかける。
「辞めたら軽蔑する」
「!」
「おいおい、妹よ、それはちょっとキツいぞ」
「太郎。あんた、私が帰ってきても続けるってわかってて、そこまで考えて一緒にオーディションに行ったんだよね?」
「あ、ぼくは黙っておきますぅ」
太郎が口をチャックする仕草をしたので、腹が立って睨めば、蘇芳の後ろに頭を隠した。ソファと蘇芳の間に挟まっている。
鈴は、そのままじっとしている蘇芳に語りかける。
「ねえ、本当に辞めたいの? 楽しくないの?」
昨夜夜通しで見た画面の中の蘇芳は、初めて見る表情で溢れていた。無表情だったけど、内側の熱さは、きっと鈴だけでなく、見てくれた殆どの人に伝わったと思う。
「まあ、楽しいよ」
「じゃあ続けてよ」
「りん。俺、格好良かった?」
ブッと笑ったのは、蘇芳の背中とソファの間に挟まった太郎だ。
説得なんぞできないだろ、と言いたげな笑いは無視させてもらう。
「格好良いとか、そういう私の感想なんてどうでもいいの」
「りんが褒めてくれたら続けるし、もっと頑張れる」
「……聞いてなかったの? スオウはファンのための存在なの。応援してくれる人たちのために、その人達のためだけに蘇芳自身が応えたいって理由だけでいいの」
「りんは?」
出た。
りん、りん、りん、りん。
離れていた間の自立の効力は、会った途端に消滅したのかも知れない。
「私のことは! どうか! 全て、全て気にしないで!!」
勢いよく言っても、蘇芳は表情を変えない。
「で?」
と、続ける。
「どうしたら付き合ってくれる?」
がくっと脱力しかけた自分を奮い立たせて、鈴は睨み下ろした。
「付き合わないって言ってるんですけど?!」
「俺のこと、好きじゃない?」
「絶対に好きじゃない」
はっきり、きっぱり。
少しの躊躇いも持たず、鈴が言い切る。
すると、やはり蘇芳は泣いた。
「泣かないでってば」
「……だって……どうしても? だめ?」
「だめ、ノー。付き合わないし好きじゃないし、泣き落としも通用しません」
「チッ」
「舌打ちやめな!」
蘇芳がふるふると震えているのは、その背中に隠れた太郎が笑っているせいだ。
眠たげな無表情を貫く蘇芳が、ででで、と不気味に揺れていた。
「蘇芳」
「……」
「自分が楽しいと思うことをして。求められているのなら応えて。世の中にはね、自分の実力だけで評価される人は少ないんだよ。どの世界もね、コネと金と後ろ盾で上っていくものなの。才能なんてクソよ。努力なんてミジンコよ。いい? オーディションで選ばれたってことは、蘇芳そのものが評価されてるんだよ。そういうの、もう……、とにかく、もう、すごいんだよ!!!」
「りん、向こうで何かあった?」
「色々ね!!」
鈴はばっと両手で顔を覆う。
色々あった。蘇芳が昔のままだったら即愚痴を言うけれど、彼はもう幼なじみでも元彼でもない。愚痴は封印する。桂に聞いてもらう。聞いてもらえたら、だけど。
「そっか、わかった」
ぽつりとこぼした蘇芳が頷いたのが指の隙間から見えて、鈴は「え」と手を離した。
「ほ、本当? 本当にわかったの?」
「わかった。この仕事を頑張る」
「私が褒めるから、とか、軽蔑されないように、とか、そういうの関係なく、自分とファンの為に続ける?」
「うん。もう彼女がいるって言っちゃったけどね」
だからどうしようもないし、と言いたげに蘇芳が薄く笑う。
鈴は昔から知っている「我が儘を突き通す」顔に、びしっと指をさした。
「誤解を解いて。私は蘇芳の楽しいことの邪魔はしたくないし、炎上なんてもっとしたくない」
「えんじょう?」
「炎上。炎が上がる、燃えさかるあの炎上よ。太郎」
呼べば、ソファと蘇芳の間から頭を抜いた太郎は、携帯の画面を見ながら「炎上とはですね」と解説を始める。
「えーと、ネットで意見が激しくなることを炎上と言います。いいですか、スー。たとえば今回のことならね――」
『信じられない』
『スオウ、彼女いるって言った?』
『ありえない。ファンがいるんだよ』
『デビューしたばっかりじゃん』
『もう推せない』
『せめて隠してよ』
と、太郎が一部抜粋して読み上げる。
鈴はうんうんと頷いた。きっと、かなりマイルドなものを抜き出したと見える。
ところが蘇芳は首を傾げるだけだ。
ふいに思い出した。
蘇芳を幼い頃から知る同級生は彼をこう呼ぶ。
宇宙人を通り越して、わかめ。
それがご近所のみんなが知っている、御津原蘇芳なのだ。