29 潮風に乗って
五月の空。
五月の海。
晴れ渡る澄んだ青は、どこまでも続いているように見えた。
鈴は先を歩く蘇芳の背中にとぼとぼとついて行く。
海に行こう、と言った蘇芳は、鈴を待たずに海辺の式場の庭を出て行った。
鈴は一応渋ったが、考えるよりも前に足が勝手に動いて今に至る。
スーツのボタンを外した蘇芳のジャケットが海の風にはためく光景が眩しい。
背後にはにぎやかな幸せの声が聞こえる。
蘇芳が灰色の防波堤に軽やかに飛び乗ってこちらを向いて座った。携帯を取り出す。鈴が近づけずにいると、蘇芳はすぐにそれをざらついた防波堤の上に伏せた。手招きをされる。
「写真撮ってた。スーツ着てるところ見たいってリクエスト」
「聞いてないけど」
「結婚式って言ったら、おめでとう、だって。みんな優しいよな」
「……知ってる」
「俺とりんの結婚だって思ってるけど、いいの?」
「よ、よくない!! 訂正して!」
「はあい。ま、いいから、座って。ほら」
蘇芳はジャケットを脱ぐと、躊躇うことなく置いた。そこまでされて「座らない」と言えない鈴がそこに軽く腰掛けると、蘇芳は防波堤の上にあぐらをかく。
まるで、スーツなど気にするな、とでも言うように。
「このスーツ、蘇芳の?」
「うん。大丈夫。ちゃんと座りな」
「ごめん」
「いーよ」
鈴の頭をぽんぽんと撫でて、蘇芳はそのまま潮風に乱れた髪を整えた。
「それで、俺たちはいつ友達を卒業できるの?」
「友達ももうやめたいと。そうですかそうですか」
「りーんー」
「……ドームツアー、決まったんだって?」
友達になると決まってから、というか、蘇芳が外に向くと自分から宣言した日から、本当にそうなった。本家の行事に鈴が繰り出す日を何故か知っていて、それだけにはしらっと参加しているが、それ以外はゆっくり話すこともない。
アルバムを出せば「○○1位」をいくつも穫っていたし、なんとか大賞とか、再生回数とか、とにかく、ありとあらゆるもので露出する機会がぐんと増えた。
そのたびに鈴のことがネットで少しばかり話題にはなったが、それも繰り返す内に物珍しさもなくなり、今や蘇芳はネットでもテレビでも「恋愛相談するアイドル」だの「片思い系アイドル」だの、そんな斬新な位置を得ている。
早い話が忙しい。
蘇芳と顔を合わせるのはほんの数分、数秒ということもあったし、海外で撮影があれば一ヶ月は顔を合わせないこともあった。
それでも毎日一言でも電話が来て、写真が来て、暇さえあればメッセージが来たが。
蘇芳は鈴の横顔を見るように座って、頷く。
「ドームツアーのこと、ようやく発表できてみんな嬉しそうだったよ。特に太郎とか。今はああだけど」
「おめでとう。すごいね。いっぱい楽しんで」
「ありがと。りんは来ないの?」
「……行かない。ファンじゃないから」
「ファンじゃない人は、今日ファンクラブ先行発表のドームツアー決定を知らないと思いますが」
「それでもファンじゃありません。私がなっちゃダメなの」
「ふうん。まだ依存がどうのって気にしてるんだ?」
からかっている声ではなく、本当に「何を気にしてるのかわかんない」と言いたそうな無邪気な声に、鈴はこれは相当深刻な事態なんだ、と言いたいのを堪える。
大変だった。
蘇芳が外を向いて早数ヶ月。
ギブアップしそうだったのは誰でもない鈴だったのだ。
バラバラの時間によこされるメッセージが来るのを待ち、まだ忙しいのか、と何度も確認したし、「男性アイドル、女優と熱愛スクープ!」の文字が週刊誌にあると足を止めた。
新曲が発表されると、その情報にかじり付いた。
身を持って知った。
蘇芳の自立はヤバい。
そう思う自分がヤバい。
「やっぱり、私がダメだと思う」
「何がダメなの」
「蘇芳の邪魔をしたくない」
「してないけど」
「でも、多分、見てる人たちは、蘇芳の後ろに私が見えないですかね? 蘇芳、なんでも喋っちゃうから」
「だって俺の一番相談相手ってファンの人だもん」
「いや……わかるけどさあ。めっちゃいい人たちだよね、包容力がすごい。あんなお姉ちゃん欲しかった」
「太郎がいるじゃん」
「太郎は姉ではない」
「怒ると姉だよ」
「ねえ、私絶対蘇芳を邪魔してる」
鈴が話を戻すと、蘇芳はネクタイをゆるめながら胡座に頬杖をつく。
その目は少し呆れているような気がしないでもない。
「してないって。すでに俺、イコール、りん、だし。ライブのうちわ、りんりんって書いてるの多いよ」
「だから、もうこれ以上蘇芳の活動の邪魔になりたくないって言ってるんです」
「……ふうん」
「……なに」
「頑固」
「わがまま」
「意地っ張り」
「自己中」
「……」
「……」
小学生のようなレパートリーの少ない罵倒のやり取りもあっけなく二巡目で終わり、海がざわざわと二人の無言の間に割って入る。
「まあ、わかった。邪魔じゃないってわかればいいってことね」
「え?」
「りんからの次の課題をクリアして、今度は結婚申し込むわ」
「え?!」
「だって、りんはこの仕事をしている内は絶対付き合ってくれないだろ」
「あ、あああ当たり前でしょ! ファンの人がたくさんいるんだよ?!」
「だったら結婚しかない」
「なんで?!」
「次、また、ここで。その時は、りんもちゃんと覚悟して」
「かくご」
「そ。時間をあげる。逃げてもいいけど、多分逃げられないと思うよ」
微笑まれて、鈴はむっと蘇芳を睨みあげた。
この十ヶ月の鈴の葛藤などわかっているようなその顔は、鈴に依存している男の顔ではない。鈴を甘やかそうとする、ただの悪い男の顔だった。
「ねえ、総くん」
「なんだい太郎」
「これ、どう見ても生配信だよね?」
「生配信してるな」
「……スー、わざとかなあ」
「余計なことは考えてはいけませんよ、太郎」
「ファンシーなブーケ持った総くんに言われても……俺行った方がいいと思う?」
「いや。いつも見事なコントロールっぷりだけど、このままでいいんじゃないの」
「確かに」
――青空しか見えないところがエモい
――なにこれ、超ドキドキする
――ドラマ見てるみたい
――スオウ、頑張って
――小学生二人のやり取りみたいで可愛い
――りんりん、お姉ちゃんになるよ
――もう結婚しちゃえ
――スオウの包囲網がじわじわと
――次、また、ここで?!
「これ、鈴には……」
「絶対に教えない方がいいぞ」
「だよね」




