14 通りすぎた初恋
昔、そう、かなり昔、鈴は総に憧れていた。
小さい頃は近所にお兄ちゃんに憧れるのは普通だが、鈴にとって総はそれとは少し違った。
なんというか、総には万能感があったのだ。
いつも穏やかで、目が合うと微笑み、親戚達の小さな子供達の名前を一度も間違えることはない。黒い学生服を着た姿は「本家の長男」という肩書きを背負うにふさわしかった。
けれど時折ふざけて見せるし、悩んだときには驚くほどの発想の転換で、いつも前向きにしてくれた。
美しい思春期を過ごしている総は、鈴にとっては憧れというか、宝物のような存在だった。
「……蘇芳、ここで寝ないでって言ったでしょ」
いつの間にか鈴と桂が寝ていた部屋に忍び込んだらしい蘇芳が、布団から離れた畳に転がっていた。
すやすやと寝入っている顔は朝日に照らされている。
輪郭がふんわりと光っている様は鈴のよく知っている「蘇芳」のものだ。
配信に乱入してしまってから、蘇芳とゆっくり話す時間はなく、桂曰く「普通に一ヶ月とか会わない」と聞いていたが、本当に忙しいらしい。
それでも、会わなくて安心していた。
理由はない。理由はないが。
「必死すぎて怖いよ」
隣からぼそっと声をかけられて、鈴はぎょっと桂を見た。
布団に入ったまま鈴を見ている。
「な、なんで?」
「いや、声に出てたし。理由はないって」
「……そうですか」
「圧迫止血する?」
「平気」
「で、応援、できてるの?」
二人で小さな声で話す。
「アイドルとして、応援してるよ」
だから会いたくないし、話したくもない、と鈴が言えば「嘘下手だね」と桂が笑った。
「かわいそうだね、あんた。ようやく気づいたのに、状況が許さないなんて。鈴らしい」
「私はなににも気づいていません」
「蘇芳が好きだってことに?」
「好きじゃない」
「蘇芳のために言ってんの?」
聞かれて詰まる。
じっと目を離さない桂に、鈴はそうっと布団に横になった。桂の方に転がって、さらに声を潜める。
「たぶん、私のため。うまくいかないと思う。私と蘇芳は」
「なんで」
「依存でしか成り立たないから」
「幸せそうだけど」
「あと炎上怖い」
「それだな、本音は」
「それに、蘇芳は私を好きじゃない気がする」
「は?」
なに言ってんの、と桂が激しく睨む。
美女の睨みは怖い。
「……だって、多分、楽だからだよ」
「……」
「私といると、甘やかされるから楽なんだと思う。私は蘇芳を許すから」
「……ごめん、違うって言ってあげられないわ」
「だよねえ」
幼い鈴にとっての総がそうであったように、蘇芳もそうなのかもしれない。
自分を許してくれる絶対的な存在。
そういうものと、恋人というものは違うような気がする。
「なにより芸能人だしね。テレビの中の蘇芳って知らない人みたいで、キラキラしてて、辞めないでほしいなって、思う。みんなから必要とされて応えてる蘇芳を見てるのは、好き」
「難儀だね、あんたも。蘇芳のことが好きなのに」
「いいんです。離れておいた方が私が蘇芳に甘えないし、炎上もしないし、蘇芳を邪魔しないし、蘇芳も自力で生きていけるようになる、はず」
「好きなこと否定しなかった」
「……」
桂がにやりと笑うので、鈴は「忘れていただけです」と弁明させてもらう。
「蘇芳のことは好きじゃない」
「はいはーい。それで、誰かを世話したくてたまらない鈴ちゃんは、蘇芳を世話しないならどうするのかなー? もう禁断症状出そうなのに」
「くっ」
言われたように、そろそろ「依存先」を探し始めそうで怖い。
しかし、一番身近な桂は自立のプロであるし、鈴を頼ってくれるめぼしい者は周りにいない。
「人の世話をしなくてもいい自分になる」
「じゃ、見張ってあげるわ」
「ごめん、それは怖い」
桂が、ふ、と笑う。
「取りあえず、やれることやってみたら。それでもどうしても蘇芳じゃないとダメだって思ったら、炎上覚悟して結婚でもしたらいい」
「け」
けっこん、と言葉にできなかった鈴は息を詰めてそろそろと起きあがった。
寝ている蘇芳を確認して「馬鹿言わないで」と桂に言えば「それしかないじゃん」と反論される。桂は起きあがると、さっさと部屋を出て行ってしまった。
残された鈴は、二人分の布団をなるべく静かに畳む。
そして畳に転がっている蘇芳の横にぺたんと座り込んだ。
昔から寝付きがよくて、みんなと雑魚寝をしていても一番最後に目を覚ますのは蘇芳だった。鈴はその横で、じいっと蘇芳を待っていたのだ。
眠っている顔を、しばらく見つめる。
――あんた、昔っから蘇芳のこと大好きじゃん
桂に言われた言葉が戻ってきて、鈴はひとりで顔を赤くした。
そっか、そうだったか。
ここ数日受け入れられなかった感情が、蘇芳の寝顔であっさりと染み込んでいく。
「はー、いやだなあ」
嫌だ。
本当に嫌だ。
芸能人になった元彼を好きになってどうするんだ。
「……よし」
鈴は立ち上がる。
取りあえず、桂の言ったように「脱依存体質」を目指しつつ、蘇芳にきっぱり諦めてもらおう。おままごとな恋を二人で卒業するために。
○
「え~、さっちゃんの嘘つき、総ちゃんと結婚するって言ったじゃん」
広間に朝食のために行くと、総がしゃがみ込んで膝を抱えていた。目の前に立っているのは御津原さち(5歳)だ。
親が早い出勤なので、仕事の前に連れてきていて、保育園に連れて行くのが総の役目らしい。園バックの準備をするさちは総を仕方なさそうに見る。
「そうくん……わたし、そうくんのことすきだよ。でも、園のいつきくんをみておもったんだ」
「なにを?」
「すきなひとと、けっこんするひとはちがうなって。そうくんは、いっしょにいるのはたのしいけど、けっこんは……ちがうかな」
「そんな!!! 何度も言われた言葉をこんな小さな子にまで言われるなんて!!!」
ガクッと膝をつく姿を、鈴は冷めた顔で眺めた。
美しい宝物のような存在だった総に対してもこうなるのだ。
恋なんて、好きなんて、宛にならない。
「ほら、そうくん、あさごはんのじゅんびしておいで」
「……はあい」
黒い詰め襟姿で背筋を伸ばして立っていた総は、消滅したのだろう。きっとそうだ。そうに違いない。