9.旅猫の贅沢
柳之宮の屋敷の入り口をくぐると、先に廊下へと上がった撫子が弥生の事を待っていた。土間には揃えられた3つの履物が並んでいる。
廊下へ上がった弥生は、脱いだ履物を隅に寄せようと手を伸ばした。
「履物はそのままにしておいて大丈夫ですよ。女中さんが片づけてくれますから」
「そうなの?」
「ええ。普段は別の場所にしまわれていて、出かける際に出してもらうんです」
「へぇ。いちいち面倒だね」
「そう、ですか? どこもそうなのでは? 管桜の屋敷でもそうでしたし」
撫子は首を傾げた。これが身分の差というものなのだろう。わかりきった事ではあったけれど、自分とは釣り合わないのだと見せつけられたようで、弥生の眉尻は下がっていた。
「少なくとも、旅をしている間、泊めてもらった家は違ったかな。よく履く物は出しっぱなし。出入りに邪魔にならないように、脱いだら隅に寄せていたよ。脱いだままの妖怪もいる」
「そうなのですね。弥彦様は物知りです」
撫子が驚き、嬉しそうに言うものだから、弥生はさらに困ってしまう。
きっと撫子は籠の鳥で、世の中の汚れなど教えられず大切に育てられてきたのだろう。そんな彼女を何も持たない自分の横に本当に据えてもいいのだろうか。
弥生の心は、女性達が夫の容姿をした自分に好意を向けてきた時以上に重くなった。
「弥彦様? どうかされましたか?」
曇った表情を心配そうに覗き込んでくる撫子に気がつき、弥生は小さく首を振って優しく微笑んだ。
「たいしたことじゃないよ。広い屋敷だから、迷子になりそうだなって思っただけさ」
「ふふっ。じゃあ、覚えていただけるように、しっかり案内しないといけないですね。ではまず厠と、あと一応大浴場の場所をご案内しますね。おそらく弥彦様にも浴室付きの部屋が割り当てられると思うので必要ないと思いますが」
「そんな個部屋があるのかい?」
「ええ。数は少ないですが、大和様のお部屋と私が頂いたお部屋。あとは客間に数カ所。従者さん方は皆大浴場を共同で使われています。けど、弥彦様は事情が特殊ですので」
弥生は夫の体で生活しているおかげで男の裸体など見なれてしまっている。偶然遭遇してもなんとも思わない。とはいえ、女としての感情が完全になくなったわけではないため、裸の付き合いはできれば避けたいところ。考慮してもらえるのであれば願ったり叶ったりだ。
「そうしてもらえるとありがたいかな」
厠へと向かう廊下を歩き始めると、老いの浮き彫りになった、浮かない表情の1人の女中が弥生と撫子の正面の角を曲がってきた。そしてその女性は撫子に気が付いた途端目を丸くした。
「撫子様!」
「お花さん!」
年配の女中が慌てた様子で駆け寄ってくる。撫子も嬉しそうに近づいていった。どうやらずいぶんと親しい仲の女中らしい。
お花と呼ばれた女中は、撫子の前に立つとひどく安堵した表情を浮かべた。
「ご無事だったのですね。よかった。攫われたと聞いた時は心の臓が止まるかと思いましたわ」
「心配かけてごめんなさいね、お花さん。せっかくの衣装は汚してしまいましたけど、私自身は怪我はしておりませんから」
「ああ、よかった。本当によかった」
「あっ……」
お花は目にうっすらと涙を浮かべていた。これほどの切実な訴えを見せつけられては、弥生の胸にもずしりと重たい鉛のような罪悪感がのしかかる。
撫子も泣かれておろおろしていたけれど、袖口に入れていた手拭いを取り出すと、慌ててお花の涙を拭った。その優しさをお花は嬉しそうに受け入れる。
そのまま和やかな時間が続けばよかったのだけれど、お花はふと何かを思い出したらしく、その表情を暗くしてしまった。
「それより撫子様、先ほど大和様からの伝達があったのですけど……その……婚儀を中止すると……」
大和との婚姻が破棄される話は決まって間もないというのに、もう従者たちの間でもう広まっているようだ。大和が早々に全体に伝わるように流したのだろう。
お花はこの事を撫子が悲しんでいるのではと思っているようだが、当の撫子は悲しむどころかすっきりとした表情をしていた。
「そのような顔をしなくても大丈夫ですよ。お兄様と話し合って決めた事ですから」
「ですが、この婚儀が白紙に戻れば撫子様が……」
「私?」
撫子が首を傾げると、お花がはっとした。どうやらこの婚姻話の裏には、撫子には知らされていない事があるようだ。そして知っている者は撫子に知られないように口を閉ざしているのだろう。
弥生はそれをすぐに察したが、撫子の方はわかっていないようで首を傾げるばかりだ。
お花はひどく狼狽えた様子だ。
「あっい、いえ。ただ私は、それでは撫子様のお名前に傷がつくことになってしまうのではと、心配で……」
「でしたら大丈夫ですよ。それについても話し合って、今後どうするか決めてありますから」
「? 決めている?」
撫子は内緒話をするようにお花に近づき、囁いた。
「あのですね、まだ確定ではないのですが、そちらの方に嫁ぐことになりそうなのです」
撫子が嬉しそうに弥生の方を見た。そこでようやくお花と視線が合う。驚いた表情をしているので、今までわざと無視していたわく、本当に視界に入っていなかったようだ。
「こちらの方は?」
「私を救い出してくださった弥彦様です。明日から大和様の側近の一員となるのですよ」
「側近、ですか?」
「ええ、側近です」
お花の目が信じられないと言いたげに丸くなる。
いつの間にかそういう設定を作ってくれていたようだ。たしかにその方が周りの印象は良くなるだろう。それなら昭人にもそういう事にしてほしかった。
お花は撫子の言葉には疑いを持たなかったようだ。けれど別の点に引っ掛かりを持ったらしく、不審そうに弥生の事を上から下まで見回した。
「ですけども、こちらの方は猫族、ですよね?」
「ええ。でもとてもお強く、聡明な方なのですよ。あまり詳しくはお話しできないのですが、弥彦様は5尾以上の殿方でいらっしゃるのです」
「5尾⁉ まあ、そんな方が! そうですか、そうですか。でしたら、柳之宮もこれまで以上に安泰ですわね」
「ええ、本当に。嬉しいかぎりです」
弥生から5尾である事を聞いて杞憂は無くなったらしい。お花は、撫子と話している時のような優しい表情で弥生に話しかける。
「弥彦様」
「は、はい」
「撫子様の事、よろしくお願いいたしますね」
余計な事を言ってせっかくの設定を台無しにしないかと、弥生の体は思わず身構えてしまう。けれどお花から向けられた切実な思いを受け、すぐさま身を引き締め直し、最高の笑顔を浮かべた。
「ええ、もちろん。僕が撫子さんの伴侶と認められた暁には、彼女には不自由なく暮していただけるよう尽力しいくつもりです。ただ、今の僕には側近という名ばかりの地位しかありませんし、それにふさわしい名誉も実績ありません。なので、まずは皆さんに認めていただけるよう、大和様の側仕えとして努力をしていく所存です」
「ええ、ええ。期待しておりますわ、弥彦様」
お花は自分事のように嬉しそう表情で弥生の事を見ている。弥生の妖怪柄が撫子に相応しいと認めたからなのかもしれない。
和やかな空気に包まれていると、廊下の向こうからお花に手伝いを求める声が聞こえてきた。お花も仕事の途中だったのを思い出したらしい。
「はあい。それでは、失礼いたしますね」
ぺこりと頭を下げると、お花は仕事へ戻っていった。
どうにか弥生が撫子を攫った張本人だという事実は隠し通すことはできた。一難が去り、弥生の体から力が抜けた。
「ふう……緊張したよ」
「お疲れ様です」
「それにしても驚いたな。お花さんが納得いくような設定があんなにすらすらと出てくるなんて」
「大和兄様とある程度打ち合わせはしていましたので」
「打ち合わせ? いつ?」
「先ほど弥彦様がお眠りになっている間にです。その時に、久々にお兄様と本心から向き合えました」
「ああ。なるほど」
撫子の嬉しそうな笑みは、大和の事を婚姻を結ぶ相手としては考えられなくとも、兄としては心から慕っているという事がよくわかる笑顔だった。そんな表情のまま、楽しそうに弥生の手を取った。
「さあ、弥彦様、参りましょう」
撫子は急かすように弥生の事を引き始める。ずいぶんとご機嫌のようだ。
柳之宮は想像以上に広かった。厠は数カ所に点在しているし、大浴場は1度に10人が入っても広々と使えるような広さ。宴会場だと案内された部屋はいったい何人を招くつもりで作られたのかと思ったほどに広かった。大半の部屋は何十人もいる使用人たちに割り振られているようだが、それでも使われていない部屋が少なくとも10部屋はあるようだ。
弥生はそんな大屋敷の中、撫子の婚約者候補という事があってか、彼女の部屋に近い部屋を割り当てられた。
日が暮れ、部屋に運ばれた食事を取った後の弥生は、湯船に浸かり1日の疲れを癒していた。
「はあぁぁぁ。いい湯だ」
撫子の言った通り、弥生には浴室の部屋が割り当てられた。しかも湯船は足を延ばせるほど広々としている。
弥生は思うままに手足を伸ばし贅沢を堪能していた。
「どう見ても隷属した妖怪に与えるような部屋じゃないよなぁ。まあ、くれるというならありがたく使わせてもらうけどさ」
全身が温もると弥生は立ち上がり、湯船の栓を抜いて中を空にして浴室を後にする。どうやら女中が毎日掃除に入ってくれるらしい。使いっぱなしにするのは申し訳ない気もするけれど、そのままにしておいてと言われているので、手を出さない方がいいのだろう。
「至れり尽くせりすぎて、ちょっと不安になるかな」
脱衣場に出ると弥生は用意されていた寝間着を身につける。のぼせ気味なのか妙に火照って仕方ないため、着物の上を腰ひもで折り返して上半身裸になり、そのまま褥の上に横になった。これまでに使った事のないようなふかふかさで心地の良い寝具だ。1日が怒涛だったせいもあってか、心地よさが眠りを誘ってくる。
「はあ……今日一日でいろんなことがあり過ぎだろう」
見るのも珍しい嫁入り行列に遭遇し、花嫁に助けを乞われ言われるがままに連れ出し、その花婿であり狐の頂点でもある男と戦い、敗れ、隷属するという形で側近となった。しかも秘密をすべて丸裸にされたうえで、婚約者まであてがわれそうになっている。
いっそ目が覚めたら夢だった、なんてことはないだろうかと思わずにはいられない。
「おい」
襖の向こうから低い声が聞こえてきた。
「大和様かい?」
突然の主人の訪問に驚き、弥生は体を起こした。こんな遅くにいったい何の用があるというのだろう。
「今いいか?」
「かまわないけど」
「明日の事なのだが、昭人に……」
大和が襖を開けた。そして褥の上に鎮座していた弥生の姿を見た途端、目を丸くしそのまま閉めてしまった。
「え?」
「そんな姿で妖怪を招き入れるな! 馬鹿か!」
「そんな姿? あー……」
上半身裸だったことをすっかり忘れていた。しかし同じ男の姿だ。焦ったように閉める必要などないのにと思いながらも弥生は手早く寝間着を着直した。
「着たよ」
「まったく」
大和が呆れながら再び襖をあけた。弥生の姿を確認すると眉間に皺を寄せ、不機嫌そうに近づいて来る。
「えっ? え? 何?」
目の前で腰を下ろした大和が戸惑う弥生をよそに、これまでそんな事などしたこともないだろうに、弥生の大きくはだけていた襟を正し始めた。
「お前は女だろう。だからわざわざ風呂付の部屋を与えたというのに」
「今は男だ。これくらい気にすることないよ」
「だが中身は女のままだろうが。今後万一女の姿で過ごすようになった時、今の癖が抜けずに苦労するのはお前だぞ」
「そ、それは……」
既に元の姿に戻っても夫を真似た言動が自然と出てきてしまっているので返す言葉もなかった。
大和は弥生の襟を正すと少し離れて確認し、「上出来だな」と1人頷いた。これ以上の説教はごめんだ。
「そっそんなことよりさ、僕に何の用があるんだろう?」
「そうだったな。明日の事だ。昭人にお前の事を説明するから、明日の朝俺の部屋へ来い」
「昭人って、この屋敷に来て最初に会った、眼鏡をかけた妖怪だよね」
「そうだ。あいつには策を練る時、知恵を貸してもらっている。それに俺が不在の際、代理を務めるよう指示も出している」
「へぇ。頭良いんだね、彼」
「ああ。だから、あいつにもお前の正体を明かしておきたい」
弥生の眉間がピクリと動く。
大和は弥生が2つの性を持つことを隠しておきたいと思っている事を知っている。それなのにこれ以上秘密を共有する者を増やさせようとするなんてと、弥生は苛立ちを覚えた。
大和も弥生がどう感じるかは予想できていたのだろう。
「お前にはこれから俺が受けた任の手伝いもしてもらうつもりだ。故に策を練る時、お前の正体を知っているかどうかで、策の幅が広がってくる。隠密としても役割も策に練りこめる。もちろん、お前の正体がこれ以上広める事のないよう言い含める。了承してくれ。頼む」
「そういう事なら、まあ……わかった」
頭を下げられるまではなかったけれど、思わぬ大和の低姿勢に、弥生は思わず了承してしまった。
「明日あいつの前で女の姿をさらしてもらう事になる。そのための妖力を必ず回復させておけ」
「わかった」
「なら良い。以上だ」
「うん」
「……」
用は済んだはずなのに立ち上がろうとする様子はなく、何故か弥生の事をじっと見ている。
「どうかしたのかい?」
「……わかったのなら寝ろ」
「えっ? わっ!」
大和は弥生を褥に押し倒した。覆いかぶさるような体勢で弥生の事をじっと見下ろしている。近距離で男に見下ろされる状況に居心地の悪さを感じ抜け出そうとするけれど、手首を強く押さえつけられて逃げ出すことができない。
身じろぎしていると、突然胸部をまさぐられた。
「な、なんだい?」
「ふむ……やはり気のせいだな」
「は?」
そう勝手に納得すると拘束は解かれた。大和は腰を上げると、思いきり弥生に布団を被せた。
「うわっぷ! 本当になんなんだい、君は⁉」
「……おやすみ」
「はっ? え? あ、ああ。おやすみ?」
大和は何も弁明することなく、灯りを消してそのまま立ち去ってしまった。暗い部屋の中、弥生は訳も分からず部屋に1人取り残された。
「なっなんだったんだ? あれ」
何かを確かめようとしていたように感じたけれどよくわからない。
もしかすると本当に2つの性を持つのか確かめようとしたのか。けれど今の弥生の体は完全に男に変わっているという事は、術を使用する前後の全く違う体格を見ているのだからわかりきっているはず。故に、女であるかどうかの確認のために胸部を触られたわけではない。
考えているとふと撫子の言葉を思い出した。
『大和兄様が……弥彦様の事を気に入ってるのではと思いまして……その……恋をしている、という意味で』
撫子の言った通り、実は大和は弥生に恋をしていて、先ほどの奇行はそれを確かめようとした結果なのか。
(……まさか、ね)
そんなことなどあるはずないと自身に言い聞かせ、弥生は答えから逃げるように布団に潜り込み、眠りについた。
お読みいただきありがとうございます。
今回も長い。場面切り替わるところで分けようかと思いましたが予定通りのところまで頑張りましたよ。
あと、書きながら中途半端にしか作っていなかった設定をちょっと考えました。妖怪の寿命についてです。寿命は尾の数(妖力の多さ)が目安です。1~3尾は500年前後、4尾は1000年弱、5尾以上は1000年以上です。ちなみに現最高齢は狼の長の約1800歳です。妖力が衰えると容姿も老化が始まります。といったかんじです。
書き上がったら更新します!
でわ、また次回!