8.狐の屋敷
四半刻ほど休息をとらせてもらえることになると、弥生は岩に腰をかけ、眠りについた。妖力の回復を早めるのには睡眠をとる事が一番だ。いつもなら警戒して眠りは浅いのだが、大和と撫子には全てをばらしてしまったせいか、不思議と深く眠る事ができた。
時刻になると弥生の目がぱちりと開く。術を使うだけの妖力が戻っているかを確認すると、どうやら十二分に回復できているようだった。
弥生が夫だった人間に姿を変えると、3人は大和が治める屋敷へと向かい歩き出した。
屋敷が見えてくるや否や、弥生の顔は引きつる事になった。
「あはは……まさか、こんなところにあったなんて」
屋敷の大きさにも驚いたけれど、なにより自分たちが先ほどまでいた場所から目と鼻の先だったことに驚いた。早々に追いつかれても何ら不思議もない距離だ。
立派な屋敷からは何人もの妖怪の気配が感じとれる。屋敷を維持するのに必要な使用人たちの気配だろう。
大和は門をくぐってすぐの石畳の上で足を止めた。
「ここが柳之宮の本邸だ。お前も今日からここで暮らすことになる。部屋も与える。用意が出来次第案内させるから、それまでは撫子に屋敷内を案内してもらうといい」
「わかった……いや、わかりました。ところで、僕はあなたの事を何とお呼びしたらいいのでしょう。主従ですし、ご主人様ですか?」
これまではさして気にしていなかったけれど、ここからは主従の関係の線引きをしっかりとした方が良いだろう。大和に仕える者達のいる屋敷の中で先までの振る舞いをしては浮いてしまう。そう思った弥生はかしこまった言い方へと言い直した。
だが大和にはお気に召さなかったようで眉間に皺が寄った。
「大和でいい。あと、かしこまった口調もやめろ」
「けど、大和様は主人です。あまり人前で砕けた言葉を使っていては」
「かまわん。これは命令だ、弥彦」
命令と言われては逆らいようがない。下手に反抗しては自分が苦しむだけだ。
弥生は大きく溜め息をついた。
「じゃあ、わかったよ」
「それでいい」
弥生の諦めの言葉を聞いた大和の笑みが、これまでで一番柔らかかったように見えた。
(こんなに優しい顔もできるのか)
その柔らかさが昔向けられていた大切な人の表情と重なり、思わず胸の鼓動が大きくなった。
弥生はハッとした。似ても似つかないこの男に胸を高鳴らせてしまうなど、夫に対する裏切りだ。邪念を払うため弥生は大きく頭を左右に振った。
「大和様! 撫子様!」
どこからともなく慌てたような声が聞こえてきた。見回すと庭の向こうの縁側から弥生達の方を見ている男らしき姿が1人。声の主は彼だろう。
大和も声の主に気がついたらしい。
「ああ、昭人か」
「すぐそちらへ参りますから、少々お待ちを!」
「いや、来なくとも……と言っても遅いか……」
大和の返事を聞かず、昭人という男は屋敷の中を走って向かって来ているらしい。騒々しい足と驚く声が建物内から聞こえてくる。
「彼は?」
「一柳昭人。俺の側近の1人で幼馴染。気難しくみられがちだが、俺からしたらそそっかしい男だ。今のを見ていたらわかるだろう?」
「そうだね。彼の下でやっていけるかちょっと心配になったよ」
「まあ、仕事はできる奴だ。何かあれば遠慮せず頼るといい」
「君がそういうのなら、安心かな」
大和は世辞を言うような男ではない。そんな彼が言うのなら間違いないのだろう。
弥生が大和と昭人という男の話をしていると、玄関の引き戸が勢いよく開かれた。そこには眼鏡をかけた、黒に近い茶色で短髪の男、今話の種になっていた本人が立っている。
「大和様、お帰りなさいませ! お二人がお戻りになられて安心しました。お怪我は?」
「ない」
「ああ、それはよかった」
ずいぶんと気を揉んでいたに違いない。ひどく安堵した表情を浮かべた。
「撫子様も、ご無事でなによりです」
「申し訳、ございません。昭人様。この度はずいぶんとご心配をおかけいたしました……」
撫子は深々と頭を下げる。昭人の表情を見て、大和に諭された時とは違った後悔が押し寄せて来たらしい。
事情を知らず、主人の妻となる女性に突然深く頭を下げられた昭人の方はというと目を見開いていた。
「あっ頭をお上げください、撫子様! 貴女様が頭を下げられる必要などありません」
「いえ、何もかも私が悪いのです。私が……」
頭を上げるどころか、一層深く下げてしまった。昭人は訳がわからず大和の方に顔を向ける。
自分が蒔いた種とはいえ、ふるふると震える小さな体は、見ていて可哀そうになってくる。反省ももう十分にしている。
見るに堪えなくなった弥生は、撫子の両肩にそっと手を置いた。
「撫子さん、頭を上げて。君1人で全てを背負おうとなんてしなくていいんだよ。僕だって同罪だから」
「ですが……」
「あとの糾弾は僕が引き受けるから」
撫子はゆっくりと頭を上げ、申し訳なさそうにこくりとうなずいた。これだけ気の小さい彼女が、よく御家同士のしがらみから逃げ出そうと行動に移せたものだ。おそらくそれほど結婚というものに思い入れがあったのだろう。
撫子に頭を上げさせると昭人と目が合った。怪しむような視線を向けられていると思っていたが、どうにも少し違うようだ。その視線は内側に何らかの燻りを隠しているように感じ取れる。
「大和様。この方は?」
「撫子に手を貸して、嫁入り行列から連れ去ったやつだ」
「! 貴様がっ‼」
昭人の手が弥生の首へと伸びてきた。
不意を突いた素早い動きに一旦は首を掴まれたが、弥生はその手を軽く払い落とした。そして反対に地面へとうつ伏せに押し倒し、腕を締め上げる。どうやら体術は得意ではないようだ。
押さえつけられる昭人の事を大和は助けようとはせず、ただ彼を見下ろしていた。
「まあ落ち着け昭人」
「落ち着いていられるわけがない‼ あなたの妻になる女性を、撫子様を攫った張本人なのでしょう⁉ すぐにひっ捕らえて牢に叩き込まなければ!」
大和は聞く耳持たない昭人に向かって溜め息をつくと。かがんで視線を落とす。
「頭に血が上り過ぎだ。言っただろう。こいつは撫子に頼まれて動いただけだ。どうやら撫子は俺との婚姻に納得していないらしい」
「なっ! しっしかし、攫ったのは事実なのでしょう? そんな男をのさばらせておくなど」
「問題ない。こいつはその報いをもう受けている。俺に隷属するという形でな。本人も了承の上でだ」
「隷属⁉ まさか、そんなわけ……」
信じられない事を聞いたように狼狽えていた。たしかに隷属を大人しく受け入れるものなどそうそういない。
大和は呆れ気味に息を吐く。
「こんな事でお前に嘘などつくわけないだろう。詳しくは明日、こいつも交えて話をする。弥彦、それまでに十分に休み、妖力を回復させておけ」
「あ、ああ」
「あと、昭人を放してやってくれ」
「わかった」
拘束していた手を放すと、昭人は勢いよく立ち上がり、弥生の胸ぐらを掴み上げた。
「貴様! 大和様に向かってそのような口のきき方を!」
「いい。俺がそうしろと命じた」
「ですが! 家臣となるのならけじめはつけさせなければ!」
「昭人」
低い声が響いた。それと同時に冷たい気配が辺りを包み込む。大和の威圧だ。妖力を放ち、恐怖で相手をひるませる術。8尾の弥生にすらゾクリという感覚が一瞬走った。それより下の昭人が威圧を直に向けられ、その程度の恐怖で済むわけがない。
昭人の顔色が一瞬で青ざめ、弥生を掴んでいた手から力が抜けた。
大和はそのまま言葉を続けた。
「いいと言っている。いちいち突っかかるな」
「……わかり、ました」
弥生から手が離れると、ようやく大和の威圧が解かれた。
大和の視線が撫子に向けられた。
「撫子」
「はっ、はいっ!」
撫子も大和の威嚇に気おされ、返事が上ずってしまっていた。あれ程の威圧を見るのは初めての体験だっただろう。
大和は少し困ったような表情をしていたけれど、それは一瞬の事だった。
「処罰の件だが、写経は1日1回でいい事にしておいてやる。終えたら部屋から出ていいぞ」
「え……?」
「ただし、屋敷から出る事は禁ずる」
「いい、のですか?」
「ああ。せっかくこの男を婚約者候補にしてやったんだ。こいつが逃げ出そうと考えないように、とっとと陥落させることだな」
「かっ、陥落って……」
撫子の顔は真っ赤に染められた。ちらりと弥生の顔を見上げる。視線に気がついた弥生と目が合うと、頬を抑えて顔を背けてしまった。いったい何を考えたのだろう。
それとほぼ同時に、昭人が再び大きな声を上げる。
「婚約者候補⁉ どういう事ですか、大和様‼」
「ええい、うるさい。お前にも後で説明してやる」
大和は眉間に皺を寄せ、とても煩わしそうにあしらっている。
そんな騒々しさの中、撫子はうかない顔になっていた。その様子に大和もすぐに気がついた。
「どうした。何か不満でもあるのか?」
「いえ、不満ではないのですが……その、大和兄様はよいのですか?」
「俺? 何の心配だ」
「いっいえ、お兄様がよいのなら……」
煮え切らない返しに大和は首を傾げていた。けれど追求する気は無いらしい。屋敷の方へ振り向くと、弥生と撫子の方へ視線を流した。
「問題ないなら俺は執務に戻る。逃げ出したりするんじゃないぞ、撫子」
「もっもう逃げたりいたしませんわっ!」
「それならいい」
大和は昭人を引き連れ、問いかけを煩わしそうにしながら屋敷の中へと消えていった。
弥生は撫子と2人残され、気まずさを感じていた。撫子は弥生、いや、弥彦の本性が女でも構わないと言っていたが、これまで通りの弥彦のままの態度で接すればよいのかわからなくなっていたのだった。
(これまで通りでいくか、それとも昔のアタシを出した方がいいのか…………よし)
軽く悩んだ末、とりあえず夫の装いのままで接することにした。男として他と接するのが今の自分の自然体。むしろ長いこと表に出していなかった女の自分を出していく方が難しい。それで何か言われるようであれば、少しずつ戻していけばいいだけの話だ。
弥生は少し躊躇いがちに微笑んだ。
「えっと、撫子さん、で合ってるよね? こんな僕ではあるけど、よろしくお願いするよ」
「え、ええ。こちらこそよろしくお願いします……えっと、なんかすみません。色々とごたごたに巻き込んでしまって……」
「それは気にしなくていいって。それより、本当に僕なんかが君の婚約者の候補になってもいいの?」
「それはもちろん。弥彦様が嫌でなければ、是非に」
嫌だと言いたいけれど立場上それはできない。肯定の言葉も言い難かった弥生は返事の言葉は口にせず、そんな考えを悟らせないような笑みで返した。
撫子も微笑み返してくれた。けれど、どこか曇りのある笑みだ。時間を置いて冷静になり、思うところが出てきたのかもしれない。
「どうかした? さっきからずっと浮かない顔だけど、これからの事で何か心配事があるのかな?」
「あの、心配事というか、その……」
話しにくい事なのか、撫子は口を開けたり閉じたりを繰り返している。やはり弥生が婚約者候補になったという点に何かあるのかもしれない。弥生は撫子の決断を大人しく待った。
しばらくためらった後、撫子はおずおずと口を開いた。
「大和兄様が……弥彦様の事を気に入ってるのではと思いまして……」
「気に入ってる?」
ぴんとこない弥生は首を傾げた。嫌われているわけではなさそうだが、好かれてるとも思えない。都合のいい駒としては好かれているかもしれない。
撫子は再び言いにくそうにつぶやいた。
「その……恋をしている、という意味で」
「恋? 恋愛の? ははは、それはないよ。君も言っていたじゃないか。彼は恋愛に興味はないんだろう? それに僕はこんな感じだ。男に好かれる要素はないと思うな」
屋敷に来る途中、大和は撫子の事を気に掛けてはいたけれど、弥生の事は眼中にないといった雰囲気だった。おかげで弥生も護衛に集中しやすかった。
「けどっ! 弥彦様が本当の姿を見せてくださった時の大和兄様の顔、いつもと全然違いましたの。なんというのでしょう、見惚れていた、いえ、ようやく見つけたというような感じで。お兄様のあのようなお顔、初めて見ました」
撫子は焦ったような、必死の形相だ。まるで本当に大和に婚約者を取られるのではと思っているような表情だ。
けれどそれはいらぬ心配だろう。
「……だとしても、彼は僕に撫子さんの夫になるように命じた。それって、たとえ君が言うように彼が女の姿の僕を気に入ったとしても、恋仲にしたいほどじゃなかった。そういう事だろう?」
本当に恋愛感情を抱いたなら、隷属して逆らえない弥生に女の姿でいる事を強要して妾にでもすればよかった話だ。そうしなかったという事は、恋愛感情など抱いていないという事。
それでも撫子は納得できないようだった。
「だと、いいのですけど……」
「大丈夫だよ。それよりさ、さっそく屋敷の中を案内してくれないかな?」
愛だの恋だのの話から遠ざかりたかった弥生は歩き出した。けれど撫子の足は止まったままだ。
「撫子さん?」
「あの、弥彦様」
「何?」
「あなた方の本当のお名前は、何というのですか?」
「方?」
この場には弥生一人しかいないのに変な聞き方をされ、首を傾げた。
「弥彦様の本当のお名前と、亡くなられた旦那様のお名前です。差し支えなければお教えいただければと……」
「ああ」
そういう事かと納得した。
自分の名前はいいが、夫の名前は隠しておきたいという思いはある。撫子も、嫌だと言えば無理に聞き出そうとはしてこないだろう。けれどここまで一生懸命思ってくれている、婚約するかもしれない相手に秘密にしておかなければならない事でもないような気もした。そもそも一番隠したままでいたかった事は、とうの昔に知られてしまっている。
(まあ、彼女にならいいか)
弥生は伸ばした人差し指をそっと自身の口元に当てた。
「じゃあ、君だけに教えてあげるから秘密にしておいてくれる?」
「! はい!」
「僕の真名が弥生で、夫が竜彦だよ」
「弥生様に、竜彦様……弥彦様のお名前はお二人のお名前でもあるのですね」
そう指摘され、思わず顔が引きつった。
(慌てて答えたらそうなっただけなんだけど、これは言わないでおこう)
これに関してはどうにも本当の事を伝えてしまうと、撫子の夢を壊してしまいそうな予感がしたのだ。聞かせない方が幸せなら、これくらいの事なら隠したままでいた方がいいだろう。
「そうだね」
「でしたら、あの、私はこれからどうお呼びすればよいのでしょう」
「僕は女であることを明かす気は無いし、彼の名で呼ばれるのも複雑だから、弥彦のままでいいよ」
「わかりました。本当のお名前は秘密、ですね。弥彦様」
撫子は嬉しそうにはにかんだ。自分だけが知っているという事に優越感を持ったのだろう。
逆に弥生は話をしているうちに、偽りだらけの自分をよくここまで慕えると欝々とし始めていた。今の自分は亡くなった夫を模しているだけ。先ほどは弥生の本性が女でも構わないと言っていたけれど、やはり撫子が恋い慕っているのは夫の、竜彦の幻影ではないのかと。
そう考えると、弥生の心は急激に冷めてきた。
「僕も聞きたいんだけど、口調とか諸々、今のままの方がいいのかな?」
「お話ししやすい方で構いませんよ。女性に戻られた時の喋り方の方が話しやすいのでしたら、そちらでもいいですし。私は気にしませんから」
意外だった。
素直に「はい」と頷くのだと思っていたけれど、まさか女性らしさを残したまま側にいてもいいと言われるとは。しかもそう言った彼女の姿に一切の淀みはない。
幻影ではなく、本当に自分を慕ってくれているのではと弥生の胸にほんのりと温かさが戻ってきた。
「じゃあこのままで。さっきも言ったけど、女だって事を明かす気は無いから、僕にはわざわざ話し方を戻す理由がないからね」
「たしかに。そうですね」
「それにさ、正直長い事こんな感じでやってきたから、昔の口調に戻してほしいって言われたらどうしようかと。気を抜くとこっちに戻ってしまうからさ」
「そうなのですね。どのような形であれ、私は弥彦様が自然体で接してくださるのが一番嬉しいですから」
もう今の撫子の顔には何のわだかまりもなくなっていた。あるのは喜びだけだった。
「それに、こうやって弥彦様が自分の事を色々お話してくださるのも、とても嬉しいです」
「そう? もうここまで話しちゃってるし、聞きたいことがあるなら何でも教えてあげるよ。ただし、教えるのは僕の事だけ。僕の旦那さんについては……内容によりけり、かな」
一瞬、撫子はきょとんとしていたけれど、何故か嬉しそうにくすくすと笑いだした。
「ふふふ、わかりました。弥彦様は本当に旦那様の事が大好きなのですね」
「もちろん。いまだに彼の姿を手放せずにいるくらいだからね」
「そう、ですよね。私なんて足元にも及ばないかもしれないですけど……弥彦様に少しでも好いていただけるように頑張りますね」
「じゃあ僕も、君の努力に報いられるように頑張るよ」
互いに微笑み合った。きっと周りに人がいたならいい雰囲気の2人に見えたに違いない。
撫子は凛と姿勢を正すと、ふんわりとした笑顔で告げた。
「ではあらためまして。不束者ですがよろしくお願いいたします」
「ははっ、律儀だね。僕の方こそよろしく。じゃあ、挨拶も済んだことだし、今度こそ屋敷の中、案内してくれるかな?」
「ええ、もちろんです。どうぞ、こちらへ」
撫子は足取り軽く屋敷の中へと消えていった。
思うところがないわけではないけれど、もしこのまま本当に婚姻を結ぶことになっても、彼女とならばなんとか夫婦ごっこを続けられそうだと、弥生は安堵したのだった。
お読みいただきありがとうございます。
書きたいと思っていたところまで突っ走ったら、文字数増し増しになってしまいました。読み応えのある回になったのではと(笑)
次話は書き上がり次第更新します。
でわ、また次回!