4.彼女の婚約者
その男は黒い毛色の狐の耳と尾を持つ、凛々しい顔つきの美男子だった。
妖力を完全に隠しきっているのか、男からはまったく妖気を感じられず、力を測ることはできない。だが、狐族の大和という名はどこかで聞いた事がある。管桜の娘の結婚相手という事を考えると、その妖怪で間違いないだろう。
「そんな、まさか……うそだろ?」
「あの方が私の婚約者。狐一族の長、柳之宮大和様です」
「柳之宮だって⁉」
弥生は愕然とし、息をのんだ。
撫子の婚約者が狐の長である可能性を予測はしていたものの、まさかの事実だ。そしてその妖怪と最悪の形で対面する羽目になるとは、もちろん予測などしていない。
大和という男は、弥生の姿など視界に入っていないような歩みで、撫子へと近づいていく。
(あれが9尾の……妖隠尾の妖力どころか、主尾の妖力の気配すら完全に隠しきって。気づけなかった理由はそれか)
獣妖怪は2種類の尾を持っている。
1つは生れ落ちた時から持つ種族元々の姿の尾・主尾と、妖力の増加に伴いその妖力を貯蔵するために増加し、力を誇示するとき以外は己の内にしまい込んでいる尾・妖隠尾。
妖隠尾の妖気は修練を積み隠せる者は多いが、主尾の妖気を完全に隠せる者はそうはいない。修練を重ねても、できない者はできないのだ。
「大和兄様、何でここが」
撫子が顔色を青くして問いかけた。
大和は怒っている様子はなく、淡々と撫子の問いに答える。
「お前の妖気を辿った。他の奴らになら隠しきれただろうが、俺くらいになるとお前のほんのわずか流れ出る妖気を感じ取れる。ただ、横のそいつは妖気どころか気配も完全に隠しきっていた。撫子1人だと思っていたから油断した」
ようやく大和の視線が弥生の視線と重なった。蚊帳の外にされるのも居心地は悪いが、このまま忘れ去られていた方が良かった気もする。
大和の目に怒りが宿った。
「お前が撫子を拐した泥棒猫だな」
「泥棒猫って……」
否定しようにも否定する材料が見当たらず、弥生は口を閉じた。
弥生は大和という妖怪の妖怪柄を知らない。下手に言い返して、撫子に矛先を向けないとも限らない。
すると撫子が対峙する弥生と大和の間に割り込んだ。
「違うんです、大和兄様! この方は私が助けてほしいとお願いしたから助けてくださっただけなんです!」
「どういう事だ?」
「そ、れは……」
撫子は本人に直接事情を話してしまってもいいか迷っている様子だ。
大和はしばらくの間、撫子が自分の意志で事情を語るのを、口を閉じて待っていた。けれど、告げる覚悟が定まる気配はないと判断したのか、少し威圧した声で名を呼んだ。
「撫子」
「……っ!」
撫子は大和からそんな風に名を呼ばれたことがないのかもしれない。驚き、怯えたように肩をすくめた。大和の方も一見平静を装っているけれど、どこか顔を歪ませているようにも見えた。
それでようやく撫子は告げる決心をしたようだ。
「えっと、その……私にとって大和兄様は本当のお兄様のような方です。だからこそ、そんな方と夫婦になる事なんて考えられなくて……その……お兄様は、私がお兄様を好きじゃないから結婚を決めたみたいですし……」
「……知っていたのか」
「はい……」
俯く撫子を見て、大和は嘆息を漏らした。
その時弥生は直感した。こんなしこりの残るような出来事がなければ、自分が起こさなければ、互いに恋焦がれるような思いを持てずとも、2人なりの理想的な夫婦というものを見つけられていたのではないだろうかと。
けれど起こしてしまった出来事は、どうあっても消えはしない。弥生は余計な事をしてしまったのだと、己の行動を深く後悔した。
それを裏付けるように、大和は怒る事なく、呆れる事もなく、ただ撫子を優しく諭し始めた。
「俺もお前が恋や恋愛に憧れているのは知っている。だとしても、これはお前の好き嫌いでどうにかなる話ではないんだぞ?」
「……」
「この婚姻はお前の家のためでもあるんだ。次期当主であるお前の兄が任に失敗し、管桜の権威が失墜した。多額の負債も負った。今管桜に権威を落とされては困るため、お前が狐族の長であり柳之宮の当主である俺と婚姻を結ぶことになった。わかるな?」
「はい……」
撫子は口数少なく、縮こまってしまっていた。自分が起こしてしまった事態をずいぶんと後悔しているのだろう。
大和はさらに追い打ちをかけるように話を続けた。
「それとな、たとえお前が願い出た事であっても、この事態を招いたのはそいつ自身の判断と行動のせいでもある。その責は取らせなければならない」
「そんな……」
「自覚しろ、撫子。お前の愚かな言動が周りを巻き込むことになるのだと。それにお前が今回のことを計画したのなら、お前にも二度と同じ過ちを犯さないよう、罰を与えねばならない。今回の騒動、お前が思っているより大事になっているんだ。そうだな。1カ月ほど客間に籠って写経を。風呂と厠に行く以外出てはならない。食事も質素なものにする。今回はそれで許そう」
「……はい。お兄様」
おそらくずいぶんと譲歩した罰だ。
やってはならないとわかった上で行動に移したのだから、見つかってしまった以上、潔く罰を受けるべきだろう。弥生自身は撫子の願いを聞いた時点でその覚悟はできていた。撫子も助けを求めた時点で、逃げ切れる可能性が低い事は覚悟していたはずだ。
それでも小さく縮こまっている少女の姿を見て、弥生はどうにかしてあげられないだろうかと思ってしまった。
「待ってくれないか。僕が罰せられるのは、まあいいんだけど、せめて彼女の仕置きはどうにか勘弁してやってくれないかな?」
唐突に割り込んだ弥生に、大和は鋭い視線を向けた。
「外部の者が口を出すな。そもそもお前は何者だ」
「僕は弥彦。猫又の旅妖怪だ」
「旅妖怪?」
「そう旅妖怪」
「……どこか名のある家の出か?」
「えっ、いや、違うけど」
「……そうか」
突然の質問に弥生の心臓はドキリと跳ねた。一瞬、自分の正体を見透かされたのではと感じたのだ。
大和は答えを聞くと、少しの間考え込むような仕草をとった。何故か嫌な予感しかしなかった。
「あの……」
「いいだろう。ただし、条件がある」
「条件?」
「俺と手合わせをしろ。お前が俺に勝てたなら撫子に罰は与えない。お前の罪も見逃してやろう。だが、俺が勝った場合は俺と隷属の契りをかわせ」
弥生は目を丸くした。狐の長ともあろう妖怪が、何の理由もなくただの旅妖怪の、男姿をした弥生を隷属の契りを交わしてまで配下に置こうと考えるのは不自然だ。
弥生には性別以外にももう1つ隠している事がある。大和はそれをなんとなく感じ取っているのだろう。
そんな大和の発言に驚いたのは弥生だけではなかった。撫子が焦りの声を上げた。
「大和兄様⁉ 弥彦様が獣妖怪の中でも群を抜いている大和兄様に敵うわけがないじゃないですか! 自分が何尾の妖怪かお忘れですか⁉」
「受けないなら、撫子が軟禁状態になるだけだ。それにその男はこの勝負を受け、俺に勝てない限り、行き先は同じになるがな」
「そんな!」
撫子は納得いかないと、必死に食い下がる。
願いを叶えようとしてもらった恩、婚約騒動に巻き込んでしまった罪悪感、そして淡い恋を抱いた相手を救いたいという乙女心。今の撫子の中ではいろいろな思いが交じり合っているのだろう。
自身も罰を受けなければならないというのに、それをそっちのけで懸命に庇おうとしている撫子の姿が、たとえこの後には最悪の結末にしかたどり着けないのだとしても、弥生には嬉しかった。
けれどこのまま彼女の好意に寄りかかり続けてはいけない。
弥生がしでかしてしまった事はまぎれもなく誘拐で、理由はどうであれ問答無用で捕らえられる罪だ。いい加減腹をくくらなければならないだろう。
(ここらが潮時なのかな。僕はどこに行こうと、何をしようと、こうして君を側に感じられればそれいいんだ。君だって目の前で女の子が困ってたら手を差し伸べるだろう? あの子、とってもいい子だよ。いい加減止めてあげないと、これから夫婦になろうってのに、早々に離縁するとか言い出しかねない。もしくはこの場で婚約破棄するとか言い出すか)
狐の念は強い。逃げられない婚姻目前でそんな事を言わせてしまっては、撫子の夢が一生叶わなくなるかもしれないと思った弥生は何でもない風を装って口角を上げた。自分の自由と引き換えなど割に合わないけれど、今の姿の弥生の行動指針は“女性には優しく”なのだ。
「それでかまわないよ」
「やっ、弥彦様⁉」
撫子は困惑の声を上げた。
対して大和は面白い見世物でも見ているかのように笑っている。実際あの男にとって、今の弥生など見世物程度の価値しかないのだろう。
「ほう。やけに自信ありげだな。俺に勝てるとでも?」
「自信なんかないさ。むしろ今の僕じゃ、100%君に勝てるわけがない。ただ、してしまった事の尻ぬぐいは、自分でしないとって思っただけだよ」
「その潔さ気に入ったぞ。お前も男だ。二言はないだろうな?」
「ああ。ただ、僕が勝った時と負けた時の条件が釣り合っていないように感じるから、僕が負けた時、1つだけお願いしたいことがあるんだけど、いいかな?」
「内容によるが、まあ、とりあえず聞いてやろう。何を望む」
「彼女との婚姻が破棄できない事だというのなら、せめて彼女を愛する努力をしてあげてほしい。君にとっては違うのかもしれないけど、彼女にとって婚姻を結ぶという事は、愛しい妖怪と美しい日々を重ねていくための誓いであり、憧れでもあるんだ。それだけでいい。約束してくれないかな?」
自分のこれからの自由が全て犠牲になるというのなら、せめてこれくらいは叶えてもらわなければ、本当に割りに合わない。そう思った弥生は真剣なまなざしで大和に告げた。
ただ、それの何が気に障ったのかはわからないが、大和の眉間に不快そうな皺が寄った。
「そんな事…………わかった。約束しよう」
その表情が拒絶しようとしたからなのかはよくわからない。けれど約束は交わされた。
これで心配事はなくなった。どうせ旅も、何をしていいかわからなくなった弥生が、大切な人と最期を迎えるまでの暇つぶしでしかないのだ。
そう思っていたはずなのに、弥生の顔は無意識に切なげな笑みを浮かべていたのだった。
お読みいただきありがとうございます。
今回は大和と撫子を中心とした回でした。弥生さんの出番少なめでしたが、次回はしっかり見せ場作って行こうと思います。そのつもりです。
次回書け次第更新します。
でわ、また次回!