12.見送られる猫
自室に戻ると、大和から言いつけを賜ったらしき女中が着物を抱え弥生の部屋の前に立っていた。弥生はその女中から着物を受け取ると、部屋の中で1人その袖に手を通す。
上等な淡い水色の着物と一緒に深い青の袴と白い足袋。これまでのように着流し姿は許されないらしい。
前日とは一変して身なりの整った弥生が廊下を歩くと、背後に色めく女性達がこっそりと集まり、目の保養と言わんばかりにうっとりとした視線を送ってきた。男性達からも感心したような視線を向けられる。そんな中を通って弥生は表口へと向かった。
「弥彦様!」
廊下の向こうから、ぱたぱたと小走りでいそいだ様子の撫子がやってくる。
「やあ、おはよう撫子さん」
「おっおはようございます、弥彦様。あのっ」
「おや?」
十分な身支度を整えられなかったのか、小走りで髪をなびかせただけにしては乱れ過ぎの髪をしている。弥生がすっと手を伸ばし、主張している髪をならすと、撫子は淡く頬を染めて恥じらった。
「これでよし」
「あっ、ありがとうございます。あの、これからおでかけですか?」
「うん。大和様と管桜の屋敷へね。君と大和様の婚約を白紙に戻して、改めて僕との婚約することを認めてもらうためにね」
「もうですか? 今日くらいゆっくりなさればいいのに……」
撫子の頭の上でぴんと伸びていた2つの耳が、わずかに悲しそうに俯く。
弥生もその言葉通りに羽を伸ばしたいという思いはある。けれど高い立場を手にするのなら、気が乗らないだとか、婚約する予定の相手の言葉を優先したいだとかの理由で、問題を先延ばしにするわけにはいかない。
特に、今から向かわなければならないのは、狐族の中でも家格の高い御家の当主。身内になるというのであれば、その妖怪にはできるだけ悪印象を持たれないようにしておきたい。
「君のお父上は今も、昨日のうちに君と大和様との婚姻は成立していると思っているからね。そうならなかったんだから、早くお伝えした方がいい。それに僕と君は婚約するんだろう? 挨拶に行かないと」
「そう、ですね……お父様、お怒りにならないといいんですけど」
「怒りはするだろうさ。けど大丈夫。大和様がいるんだ。悪いようにはならないさ」
撫子の父親より大和の方が断然に格上。父親の妖怪柄なんて知らないけれど、大和の意向を強く拒否する事はできないだろう。それに娘本人の希望でもある。多少文句や嫌味を言われる覚悟は必要だろうが、概ね大和の思った通りに事は進むはずだ。
「たしかに。大和兄様の話ならお父様もすんなり受け入れてくれると思います」
「でしょ? だから安心して待っててくれるかな」
「……はい。お待ちしておりますね」
撫子は寂しそうに微笑んだ。
「支度は済んだようだな、弥彦。着物は問題なかったか?」
撫子から少し遅れ、大和が1人で現れた。先ほど密談をしていた時とは別の着物を纏っている。灰色の着物に黒の袴と羽織。華美な装飾はないものの、一目見て上等そうだと思える品物だ。羽織の前身頃には柳を基調とした紋が縫い込まれている。
「うん。少し大きいけど問題ないよ。僕の着物より動きやすい」
「そうか。それなら良い」
あまり興味なさそうに言った大和の口角が、近距離で対面していなければわからないほど、わずかに一瞬持ち上がる。けれどすぐに下がり、視線が弥生の横を向いた。そして少し不機嫌そうに眉間に皺を寄せる。
「ところで撫子。何故お前がここにいる?」
「弥彦様がお出かけされるとお聞きしましたので、お見送りに」
「お前、俺と婚約していた時は、見送りに来たことなどなかっただろう」
「ないですね。お兄様、お見送り嫌がりそうでしたから」
「まあ、その通りではあるが……」
何の戸惑いもなく、撫子はあっさりと告げる。
大和が思っている通り、撫子は大和の事をよく理解している。ただ、今はその言葉が大和の心にちくちくと棘を刺した。面白くないと言わんばかりの顔をしている。
不満に纏わりつかれ、動こうとしない大和の背中を、撫子は両手で押した。
「さあお兄様。弥彦様を連れて行かれるなら早く行ってください。そして早く帰って来てください。私が弥彦様とゆっくりお話しできる時間が減ってしまいますからっ」
「わかったから、力まかせに押すんじゃない」
大和はぐいぐい背を押されながら玄関へと向かう。何も置かれていなかったはずの玄関床には、いつの間にか弥生のものと、もう一足下駄が並べられている。
思っていた数が揃っていなかったために、作法を間違えたかと、弥生は少しの不安を覚えた。
「あのさ、僕何も考えず表口に来ちゃったけど、もしかして裏から出ないといけなかった?」
「いや、側近はここから出入りして問題ない。昭人の履物がない事を言っているのなら、あいつは置いて行くからだ」
これで何回目かの大和の心を読んだかのような回答に、弥生もさすがに驚かなくなってきた。いちいち反応していたらきりがない。
むしろ今は、御家の先行きが決まる訪問に、側近の昭人を置いて行こうとしている現状に疑問を抱かざるを得なかった。
「置いて行くんだ」
「あいつには俺の執務の代理を頼んだ。放置できない案件が稀にあるからな。そう何日も貯めてはおけない。それに、今回に限っては、あいつが取り乱す可能性もあるからな」
大和は片手で頭痛でも耐えるかのように、片手で頭を抑えた。
今回の訪問は撫子の婚姻に関する話を改めて組み直すためのものだ。彼女に強い好意を抱いている昭人にとっては、面白くない話ではあるし、弥生の言動で気に入らない事があれば、突っかかってくるのは目に見えている。
「ああ、たしかに」
「え……?」
弥生が理由に納得ながら撫子の事を見ると、撫子は何の事ですかと言いたげに、弥生と大和の顔を交互に見ていた。
弥生としてはこの2人が結ばれてくれた方が楽なのだが、このままでは昭人の恋が成就することはないだろう。だからといって、勝手に昭人の思いを告げることはできない。ただ臆病風に吹かれているだけかもしれないが、大和が婚姻を結ぶまで自身の色恋事を後回しにしたいと考えているのなら、それを尊重するべきだろう。
大和も昭人の思いを告げる気は無いらしい。何食わぬ顔で、撫子の戸惑いを無視する。
「そういうわけだ。今回はお前と他にもう1人を連れて向かう。お前、馬は乗れるのか?」
「うん、まあ、基本的な事は一通りできるかな」
「……そうか」
そう言い残した大和はくるりと向きを変え、速足でさっさと外へ出て行ってしまった。外には鹿毛が2頭と体格のがっしりとした白毛が1頭、従者と思われる男性1人が待っている。
白毛は大和の愛馬なのだろう。側に立つ大和に、白毛は顔をすり寄せた。大和も穏やかな横顔をしている。ただ、顔に反して大和の黒い尾がどことなく落ち込んでいるようにも見える。
「あの、僕何か変なことを言ったかな?」
弥生は片眉を上げ、撫子に答えを求める。
つい先ほどの、最後の会話を交わす直前の大和には、そんな違和感などなかった。となると、あの時に何か失言をしてしまったのか。けれど、どう考えてもありふれた会話だったとしか思えない。
それは撫子にとっても同じのようだ。
「いいえ。どうしてですか?」
「なんか、大和様の元気がなくなったような気がして」
「そうですか?」
「うん。それに去り際、不機嫌? じゃなかった?」
「そうですね、もしそうなのでしたら……」
撫子は右の人差し指を頬に当て、首を傾げる。そしてひとりごとでも言うように口を開いた。
「もしかして、弥彦様が馬に乗る技術がなければ、一緒に乗れるとお考えだったのではないですか? けれど弥彦様がその技術をお持ちだったので、思惑が外れて内心がっかりしている、とか?」
「いや、まさかそんなことは」
大和は見合いが面倒だからと、都合がいいという理由だけで自分の婚姻をあっさりと決めてしまうような妖怪だ。たかだかその程度の事で心を揺らすとは思えない。
大和へ視線を向けると、既に馬に跨り、いつでも出立できる状態だった。既に先ほど感じた気配は微塵も残っていない。
やはり気のせいだったのだろうかと、従者と話をする大和の姿を眺めていると、弥生の視線に気づき、むっとした表情の彼と目が合った。
「弥彦。いつまでぐずぐずしている。乗れるのなら早く乗れ!」
「あっ、う、うん」
弥生は慌てて下履きを履くと、玄関の敷居をまたいだ。
「それじゃあ、撫子さん。行ってくるよ」
「はい。お帰りお待ちしてますね」
振り向いた弥生に、撫子は控えめに手を上げ、小さく左右に振っていた。弥生も思わず可愛らしい仕草の撫子に手を上げ返していた。撫子ははっとした後、嬉しそうに微笑んだ。
弥生は背の空いた栗毛の近くまで駆け寄る。技術はあるとはいえ、ずいぶん前に習得してそれっきりな上に、これから乗ろうとしているこの栗毛とは初対面だ。実際にその技術が披露できるかは怪しいところ。
よろしくねと声をかけ、優しく首筋を撫でてみる。嫌がる素振りはないため、弥生は鐙に足をかけ栗毛の背に跨った。問題なく騎乗できたことに、弥生は安堵の息をついた。
「遅い。あまりにも遅すぎて、撫子に格好をつけ、乗れないものを乗れると、見栄を張ったのではないかと思ったぞ」
「ははっ、そんなすぐにばれる噓はついたりしないさ。ただ少し、気になる事があったから、撫子さんに聞いてたんだ」
「気になる事?」
大和は何を聞こうとしたのか気になりはしているようだ。
一瞬本人に聞いてみようかとも思ったのだが、撫子の言葉を思い出し、弥生は聞くのを躊躇った。気のせいだと言われるのだろうが、万が一にも肯定するような反応をされた時が困る。
「うん。結局わからないままだけど、まあ、たいしたことでもないし、気にしない事にするよ」
気にしなくていいよと、弥生は笑顔を向ける。
大和も食い下がるような事はせず、これから進む方へ向き直った。
「ふん。そうか。問題ないなら行くぞ」
「うん。あっそうそう、僕、馬に乗るのはすごく久々だから、感覚を取り戻すまで少しゆっくり進んでもらえると助かる」
「わかった」
大和はそう返すと、白毛の馬はゆったりとした足音を立てはじめる。その音に先導されるように、他の2頭もゆっくり、軽い足取りで進み出す。ただ、その背に乗る弥生の心は進むにつれ重くなる。
(んー、撫子さんのお父さんからなんて言われる事か……睨まれるんだろうなぁ……)
弥生は大和に気取られないほどの、小さな溜め息をついた。
お読みいただきありがとうございます。
2週間ぶりの更新です。ここ最近メンタルをゴリゴリに削られる出来事がありまして、極端に進みが遅くなってます。周りからするとたいした事じゃないのでしょうが、疲れが溜まってたんだと思います。そして今だ調子が……
次回更新もちょっと遅くなるかもしれませんが、書く手は止めませんのでお待ちいただけると嬉しいです。
でわ、また次回!