10.狐の論争
大和の屋敷に居場所を与えられた翌日。
久々の安眠で体力も妖力も万全。すっきりとした気分で目覚めた弥生は、呼びに来た女中に連れられ大和の待つ部屋へと向かっていた。
着物は昨日のまま。ボロ着なのは変わっていないけれど、昨夜寝間着と交換で持っていかれたおかげで清潔感だけは取り戻していた。それどころか、花のような香り漂う着物に手を通すなど、長年生きてきて初めての事だ。
「こちらのお部屋です」
連れて来られた部屋の襖には控えめな柳模様が施されている。弥生を部屋まで迎えに来て、ここまで案内してくれたのは、昨日撫子と親し気に会話をしていた女中だった。
「ありがとう、お花さん」
「いえいえ。それでは頑張ってくださいね」
「はい」
弥生が返事をすると彼女はにこにこしながら頭を下げ、仕事へと戻っていった。
こうしてよそ者の猫相手にも嫌な顔をせず礼を尽くしてくれるのはお花だけではない。わからない事を聞けば女中たちは笑顔で答えてくれるし、男性の従者たちは羨望の眼差しを向けてくる。当主になってしまったのではないかと勘違いしそうなくらいだ。
しかしながら実際のこの屋敷の主人は、この襖の向こうで待ち構えているはずの大和。
弥生は一呼吸置いて口を開いた。
「大和様、弥彦です」
「入れ」
「失礼します」
襖を開けると、大和と昭人が座布団に座って弥生の事を待ち構えていた。昭人からの視線が妙に痛い。
弥生は視線を無視し、そそくさと空いていた座布団へ腰を下ろした。なおも昭人の視線から逃れられない。
大和は呆れた様子で口を開いた。
「やめろ、昭人。自分が信念を曲げないのが悪いんだろう。弥彦にあるな」
「申し訳ありません……」
謝りはしたもののそれは弥生に対してではない。しかも納得いっていない様子だ。
大和もそれには気がついてはいたようだったが、それよりも気になる事が別にできてしまったらしい。弥生の姿を見て眉をひそめた。
「それより弥彦。その着物、昨日も着ていなかったか?」
「ん? 着てたよ。けどちゃんと洗ってもらってるから綺麗だよ。安心して」
「……まさかとは思うが、それ1着しかもっていないとか言わないだろうな?」
「残念ながら、そのまさかだよ」
弥生は昨日まで着の身着のままで旅をしていたのだ。着替えなど荷が多くなるだけのため持っているわけがない。
そんなあたりまえの事をあっけらかんに答えると、大和はありえないと言いたげに眉間を抑えた。
「後で出がけに買いに行くぞ」
「えっと、僕お金持ってないんだけど」
「経費という事にしておいてやる。そんなみすぼらしい格好の者を側に置いておくわけにはいかない」
「……みすぼら、しい……」
言われて仕方のない格好をしている自覚はあるのだけれど、それを口に出して言われると傷つくもの。それにおおらかな男性を装ってはいるが、弥生は女で心は繊細だ。好きでもない相手とはいえ、男性にそんな事を言われると余計に、だ。
弥生が肩を落としていると、いらぬ事を言ったと思ったのか、大和は気まずそうに視線を逸らした。
そんな様子の大和を昭人は戸惑いながら窺っていた。
「大和様?」
大和という男は会って2日の弥生にすら、大抵の事には動じはしないだろうと感じさせるほどの男だ。撫子は例外だろうが、きっと心無い言葉で誰を傷つけようと大和の心が動く事はおそらくない。昭人の困惑は、そんな男が何故こんな優男の事で一喜一憂しているのがわからないといったところだろう。
すると突然大和が口を開いた。
「もうこの話は終わりだ! 本題に入る。昭人!」
「は、はいっ、なんでしょう」
苛立ったような大和の言葉に昭人は身構えた。
大和もらしくないと反省したのか、気まずそうに後ろ頭をかきむしると冷静さを取り戻した。
「……わるかった」
「いえ、この程度の事、謝るような事ではありません。それで、本題というのは?」
「お前にこいつの事で話しておかなければならない事があってな。人払いをしている事からわかってはいるだろうが、これから話す事は他言無用だ」
「わかりました」
昭人は聞き漏らすまいと、居住まいを正した。
「こいつ、弥彦は8尾の大妖だ。5尾以上である事は期を見て公にするつもりだが、8尾である事は身内であろうと口外はするな。いいな?」
昭人は目を見開き言葉を失った。大和から側近にすると聞いた時点で、ある程度の妖力持ちで武術に長けている事は予想していたはずだ。けれどそこまでの大妖だとまでは思っていなかったのだろう。
聞き間違いだろうかという表情で大和へと問いかけた。
「い、今何と? こいつが8尾とおっしゃいましたか?」
「言った」
昭人は狼狽え、少しの間声を失っていた。そして脳内で状況処理が終わったのか、今度はありえないと言いたげに頭を抱える。
「8尾の、猫? まさか。猫族の長は4尾ですよ? 5尾の猫族がいるとわかっただけでも乗り込んでくる可能性があるのに、8尾だと知れば、担ぎ上げようと武力に講じてくるかもしれません。そんな厄介な者を引き入れるというのですか⁉」
「だから他言無用だと言っている」
「隠すより、猫が治める地へこいつを送ったほうが良いのでは? 種の力の均衡を戻した方がいい……というのもありますが、猫に恩を売れます」
「妖力があってもやる気のない奴を送り付けたところで現状が回復するわけがない。野心がなさすぎだ、こいつは。それに撫子が慕っているのでな。好きな様にさせてやりたい」
「……大和様は撫子様に甘すぎる」
「ふん。お前が言うな」
不満ありげな大和と昭人の間に火花が散る。昭人にいたっては前のめりになって大和を睨みつけて、今にも殴り合いの喧嘩が始まりそうだ。
弥生には不思議だった。よそ者の自分を信用できないというのはわかるけれど、隷属の契約により裏切る事ができない弥生を何故これほどまでむきになって追い出そうとするのか。それに昭人の瞳はずっと不信感ではなく、嫉妬の色を浮かべているようだ。
(……ああ、そういうことか)
その嫉妬が何に向かっているか考えた時、ある答えが頭に浮かぶ。そうなら何故昭人にあれ程睨まれているのかも合点がいく。
おそらく大和もその事を知ってはいる。その上で撫子を娶ろうとしいたのだろう。ただそこに昭人への嫌がらせだとかの考えは一切なかったはずだ。
しばらく2人は不穏な視線を交わしたが、昭人の方が先に悔しげに瞼を閉じた。
「わかりました。納得はしていませんが、大和様が決断を覆す気がないというのでしたら仕方ありません。今後策を練る際には、その男の能力を考慮すればよろしいのですね」
「そういう事だ」
大和が勝者の笑みを浮かべる。対する昭人は厄介事を抱えて頭が痛いと言った感じだ。この横暴さが日常茶飯事ならば弥生も他人事ではない。むしろ枷の多い弥生の方が被害は大きいだろう。
昭人は諦めの息を吐くと、有能な従者の顔になる。
「かしこまりました。お話は以上でよろしいですか? 大和様と撫子様の婚姻が白紙に戻されるという事ならば、管桜の方に事情をお伝えしなければなりません。それとこの者を婿にと推すのであれば、早急に大和様御自身が出向いて直接お伝えした方が良いでしょう。ですので、無礼承知でこれから本日中に出向く旨を伝える書簡を送ろうと思うのですが」
「そうだな」
「では私はこれで……」
昭人が一礼し腰を上げかけると、大和の穏やかな低い声が響いた。
「待て。もう1つ伝えておかなければならない事がある」
「はあ……まだあるんですか……?」
うんざりしながら昭人は座布団に座り直した。面倒くさい妖怪を見るような目で弥生の事を見るものだから、弥生は弱ってしまう。
その視線は間違ってはいないのだ。弥生もそう思っているから夫の姿での生活にただ浸り続けるだけでなく、徹底的に弥生という妖怪の全てを隠し続けてきた。そうした、いや、そうしなければならなかった要因全てが公になった時、間違いなく面倒事に直結するはずだ。
お読みいただきありがとうございます。
展開のイメージはあるのに、あまり進みませんでした。この場面一気に更新したかった……
次話出来次第更新します。
でわ、また次回!