3話 再会
朝、洗濯カゴを片手にヨットを出た俺は、マリーナのクラブハウス前の広場でストレッチと柔術の型を何パターンか終え、久しぶりに20分かけて腕立て伏せ1000回を行う。かなり汗はかいたものの、まだまだ余裕で行けそうだ。
それは俺の肺活量が13000ccあり、また心拍数もまた平時で30回/分という身体スペックのせいでもあるが
、実はそれだけでなくヨガの身体操作で普段使わない筋肉を使う事で全身に負荷を分散させている為だ。
洗濯の待ち時間に再びストレッチを行いトイレと歯磨きを済ませて、朝の港の空気を楽しみながら俺がヨットに戻ると後部デッキでは親父と母のリンダが朝食の用意をして待っていた。
両親の出会いが共通の趣味であるヨットと言うことや、親父の転勤が2、3年ごとにあるということもあって、我が家では以前から週末の別荘を兼ねたヨットを所有していたが、
出物のヨットの契約で両親が東京に滞在中、東北震災に見舞われた。
その我が家のヨットはフランス製で全長13mに幅4.3mの幅広ボディの中央近くに操縦席があり、前後にゆったりとしたキャビンを配置したレイアウトを持つセンターコクピット艇といわれるタイプだ。
またこれ以上大きいと取り回しが大変かつ維持費が掛かるのと、またこれ以下だと窮屈という事ではベストな選択だったが、震災による避難勧告が出たことで、そこが仮の棲家になった。
俺は軽くオレンジジュースとゆで卵、ポンデケージョで簡単な朝食を済ませる。俺はデザート代わりのクルミの殻を指で摘むと指に軽く力を入れる。小気味良い音を響かせクルミの殻が割れると中身を取り出し、口に放り込む。
食後のブラジルコーヒーを飲む頃には俺の体内時計が7時を指している。
ポロシャツの上からオリーブ色のジレを着ると前を閉じ、グレゴリーのデイパックを背負うと軽い足取りで桟橋を進み、夢の島公園を横切ると新木場駅へと向かう。
駅の階段を登ろうとした時、思わぬ懐かしい顔が目に入って来る。1年半以上になるだろうか、福島時代に付き合っていた要杏子だ。
軽度のアルビノから来る色白な肌に朱い唇、明るい茶色のショートボブで鳶色の瞳、スラリとした長身の綺麗なシルエットを持つ杏子は当時、腰回りの太い中学の同級達の中で異質の存在だった。
帰国子女だった俺が内申稼ぎの為に入部したESSに彼女は所属していており、一緒に帰ったりしているうちに、それがいつしか付き合っているらしいというカップル認定に変わり、その噂に後押される様に付き合いだしたが当時を振り返るとまさに「学園天国」だったと思える。
その彼女とも震災の少し前に別れた。丁度うちでは親父が海保を退職したタイミングで、また彼女の方もオーストラリアの高校への留学へ旅立って行った。
久しぶりに見かけた杏子はグレーのスーツ姿で、以前よりもかななり大人っぽくなっていたが、俺がプレゼントしたマムートの革のデイパックをいまだに背負っていた。
イエローレンズのレイバンのオリンピアンを外した俺は「杏子」と彼女に声を掛けた。
向こうも俺を見て、かなり驚いたようだ。「ガイ」と感極まった様に泣き出し泣き止まない彼女の手を引き自販機の前のベンチまで誘導した。
どうやら杏子の家族も震災で東京へ避難しており、江東区の宿舎に滞在しており、杏子も目黒区にある都立高校の国際科に通っているのだそうだ。
対して俺の通う、通称「バウハウス」と呼ばれる「都立工科芸術高専」は戦前のドイツにあった美術造形学校である「Bauhaus」を手本とした、少数精鋭主義で知られる5年制の「単科高専」だ。
知らない人がいるかも知れないので少し説明すると「高専」と言うのは「高等工業専門学校」もしくは「高専専門学校」の略で、5年間の修業期間を経て社会に出た際には即戦力となりうる現場技術者の育成を目指すという、ある意味《トラの穴》的な高等教育機関で全国に60校弱がある。
その中でも「バウハウス」は「工業」「工芸」「建築」「視覚」「環境」の5つのデザインコースからなる全国でも珍しい芸術系の単科高専という独特のスタンスから1学年辺りの定員も80名程という狭き門だ。また「男の園」と言われる高専において、男女比率が異例の3対7で逆転しているのも特徴だ。
その5年間の修業期間の内、3年間は合同クラスで一般教養と共に共通の専門教科とを学び、4年からは各コースに分かれ研究室に入るが、俺は留年を免れて一応3年に進級していた。
結局、遅刻ギリギリで教室に入ると、猫を思わせるエロい目つきの娘と目が合い、俺はパッとヒマワリの様に微笑むと向こうも微笑み返して来る。
この高専の学生は、場所柄も有り裕福な家の子弟が多く見られ、男女共に小綺麗なオタクといった印象の学生が多く、以前に居た福島の高専とは男女比が逆転している。
尤も俺は基本的にボッチ体質というか、余り人との付き合いそのものが希薄な事からその辺の人間関係については余り気にならない。
その日の昼過ぎ、俺は駐車場においてあるアメリカ製の全長8m弱のメタリックなバス型のモーターホームへと向かう。
バスの中では俺の良く知る気配が動いているのを感じながらドアを開けると成瀬真奈美がこちらを向いた。
そのままグラビアアイドルで通用しそうな身長166センチの脚長でスラリとしたスタイルを持つ真奈美は「海洋環境研究会」の部長であり、そしてこのモーターホームが部室というわけだ。
「海洋環境研究会」は環境アセスメントのサークルで、水辺のインフラをどのように保全し、有効に活用出来るかというテーマを掲げて活動しており、また夏場にはヨットを借りてセーリングなども行う。
また「移動部室」であるこのアメリカ製モーターホームは部のOBである建築デザインコースの卒業生が卒業作品を寄付していったもので、小洒落たウッディーな内装にリノベーションがほどこしてあり、部員たちの憩いの場でもある。
といっても現在部員は俺たちの他には4人しか居らず、内2名はセーリングとかスキーなどといったレクリエーションの時しか顔を出さない事もあり、事実上4人で運営している。
真奈美がコーヒーメーカーで抽出した熱いコロンビアコーヒーのカップを差し出し出しながら、「今更だけど劾の横顔って、ホントカッコいいよね。」と言う。
「それって俺に前を向くなという意味?」
香りのたつコーヒーを受け取りながら俺が渋いダンディボイスで答えると、真奈美はクスクス笑いながら緩くウェーブの掛かった前髪をかき上げながら顔を近づけて来る。「イヤイヤ、主役の顔をしてるって意味だよ。」
俺はコーヒーカップをテーブルに置いた。
やがて舌が絡まり甘い匂いが鼻腔をくすぐる。
真奈美によるとアメリカで大人気のワイルド系俳優「ノーマン・リーダス」によく似ているらしい。
確かに東洋人の特徴を持たないシャープな風貌といい、一見して体幹の強さを窺わせる長身でバランスの良い身体付きといい、よく似ているが、これらは白系ロシア系のクオーターである親父とシチリア出身である母方の遺伝子を受け継いだものだ。また年不相応な低く渋い声から、俺はバウハウスに転入してからというもの、未成年に見られた事が一度もないのだが、まあそれはそれで、何かと得することも多かったりする。