RECORDS OF ANCIENT MATTERS
RECORDS OF ANCIENT MATTERS
塚田 遼
父と母は兄妹だった。どんな経緯で関係を持ったかは知らない。以前父が、妹の方から誘ったんだと忌々しげに話していたことがあった。
最初の子は死産だった。嘆き哀しんだ父親は、お前が俺を誘ったから悪いのだと母を責めたてた。
二人目は女の子だった。産まれたときから太陽のように輝く子だったと皆が言う。そう言うやつは、その太陽のような笑みの下に隠された姉の自己中心的な残酷さを知らない。彼女は今でもいつも自分が話題の中心に上っていないと我慢できない。美しい顔で優しく微笑みながら、自分に追従することを要求する。父に似て権威的な性格だが、そのことを決して表には出さず、女神の笑みで相手を支配する。
俺が生れるとき、父は出産に立ち会いたいと言った。母はそれを男は見てはいけないものだと強く拒んだ。しかし、父は分娩中に部屋に入り込んでそれを見てしまう。汗まみれで苦悶の表情を浮かべ、股から巨大な血と肉の塊を排出する母の姿に、父は幻滅した。父の中では、母はつねに瑞々しく可憐でなければならなかった。父の目からは血まみれの俺を叫び声を上げながらひねり出そうとしている母は醜い化け物でしかなかった。父は嫌悪の表情を浮かべて立ち去り二度とその場に姿を見せなかった。出産後、母は父の態度に怒り狂い、まだ十分快復しない身のまま父を追いかけたという。しかし、父は母とはもう会いたくないと拒絶した。父と母は別れた。姉と俺は父に引き取られた。俺は母に会ったことはない。
時々、俺は母の姿を想像する。姉に似て美しい顔立ちをしているのだろうか。自らの兄を誘惑した母。逃げ去った父に怒り狂った母。俺を産んだために父と別れた母。彼女はもし俺を産まなかったら、まだ父と暮らしていたかもしれない。母は俺を怨んでいるだろうか。それとも俺に会いたいと思っているだろうか。大地に横たわり目を閉じると、まだ会ったことのない母の温もりが緩やかに全身に染み渡ってくるように感じられることもある。そんなときは、彼女はまだ俺を見守ってくれていると思える。もし俺が父に引き取られるのではなく、母のもとで育てられたなら、もっとましな人間になっていただろうか。
母と別れた後、父は郊外に町工場を建てた。事業はそれなりに成功し、工員、事務員含めて社員は十人にまで膨らんだ。酒癖の悪い、品の悪いやつらばかりだった。何人もの工員が事務の女たちと関係を持ち、お互いにそれを自慢しあって笑っていた。彼らは仕事が終わるとしばしば事務所で酒を飲んでいた。父はそれを禁じなかった。俺には酒に酔った工員や事務の女の卑猥な会話が聞こえてくるのが何より不愉快だった。
姉は高校を出てすぐ、工場の事務の責任者を任された。もちろん、初めは形だけのものだったが、彼女は次第に自分より五、六歳は年上の事務の女たちを手下のように使い始めた。工員の男たちは彼女の美しさに魅せられて、いつも姉を煽てるのに必死だった。
「お姉さんが来ると、急に部屋中が明るくなったような気がしますねぇ」
そんな工員たちのおべっかを俺は嫌というほど聞かされた。
俺は高校を一年で中退した。ほとんど出席もしていなかった。父は一度だけ俺の部屋にやってきて俺を殴り倒し、それ以後は何も言わなかった。俺は行くところがなく、ただ部屋で寝て過ごした。時々、姉が部屋にやってきた。彼女は何気ない世間話から入り、そして、俺が普通より少し運が悪かったこと、やる気を出せば出来るということ、これからでも機会はいくらでもあることを明るい笑顔で話して帰った。そんな姉の姿を見ながら、俺はいつも死ねと心の中でつぶやいていた。すべてが上手くいき、誰にでも愛されているお前に何が分ると。
それでも最初はバイトの面接を受けに行った。工場やファミレス、そして清掃員だった。
「どうして、高校をやめたの?」
どこに行っても聞かれた。俺は答えられなかった。答えたくもなかった。ただ、相手を睨むしか出来なかった。俺が働きたいことと、俺が高校をやめたこと、一体何の関係があるというのだ。俺は働くと言っている。それ以外のことは、お前らには関係がない。
三度、面接を落とされて、バイトを探すことを諦めた。俺の方からではない。社会の方が俺を拒んだのだ。
もともと一家団欒の機会など多くなかったが、俺が高校をやめてから、家族三人で食事することがまったくなくなった。俺は夜中にコンビニで弁当を買って食べた。金は姉が毎月いくらかずつくれた。詳しくは聞いていないが、恐らくは父が出している。父は俺と面と向って話すことが嫌で、姉に金を渡して俺の様子を見にいかせているのだ。
することがない。睡眠時間が増えた。
家は、会社に併設されていて、一階が事務所、二階が家族の住居、そして庭を挟んだ隣の建物が工場になっていた。そのため、昼間外に出ると、事務員や工員たちと会わなければならない。会いたくなかった。彼らは俺に、腫れ物に触るような態度で接してくる。学校にも行かず働きもしない駄目人間だと内心見下しながら、気持ちの悪い励ましや、どうでもいい世間話をしてくる。
夕方は高校や中学の同級生と会う危険があった。
「久しぶり。今、何してるの?」
何気ない顔で聞いてくるやつらを、俺は恐れた。「今、何してるの?」何かをしていて当然。何かをしていなければいけない。やつらは普通に社会に溶け込む。何の疑問もなく学校に通ったり、何の苦労もなくバイトをしたりする。それが当り前。
しかし、俺は社会から拒まれる。俺には何が欠けているのだろう。俺のどこがやつらよりも劣っているのだろう。俺にはそんなやつらはどいつもこいつも何も知らない腐った馬鹿どもにしか見えない。にもかかわらず、社会で受け入れられるのはその馬鹿どもだけなのだ。
俺は夜中にしか外出しなくなった。
一人部屋で寝ていると、俺の部屋と社会との距離が果てしなく遠く感じられる。俺は何もしていない。誰の役にも立っていない。無駄だ。価値がない。いくら生意気なことを言ってみても、結局何も出来ていない。
役に立ってない? 俺は誰かの役に立ちたかったのか?
多分、他人の役に立ちたいとは思っていない。ただ、馬鹿にされたくない。駄目なやつだと思われたくない。俺が馬鹿だと思ってきたクラスの連中たちに、俺の方が無能な人間だと思われることが耐えられない。これまでの人生で会ってきたやつらすべてと、今後一生会いたくない。
役に立っていないだけではない。俺は父に生かされている。あいつの工場で儲けた金で喰わせてもらっている。あいつがいないと生きていけない。俺は飼われている。可愛げのない家畜だ。
どうしてこうなってしまったのだろう。
いつからやり直せばいいのだろう。
その日、父が急に俺の部屋のドアを開けた。父は眉をひそめて部屋の中を見回し、床に散らばった服を蹴散らしながら、俺の寝るベッドの枕元に立った。
「相変わらず、汚い部屋だな」
俺は父の顔を見ずに頭から布団をかぶり丸くなる。しかし、父はその太い腕で布団を掴むと、一気に引き剥がした。
「もう我慢の限界だな。お前みたいな堕落したクズを雇ってくれるところなど、あるわけがない。お前は幸せものだ、家の工場で雇ってやる。今日から働け」
父は俺の腕をつかんで無理矢理立たせようとした。父の力は俺よりもはるかに強い。俺が手足をばたつかせてそれに抵抗すると、父は俺の頬を思い切り叩いた。痛みはすぐには感じなかった。殴られた俺はそのまま布団の上にうつ伏せに倒れた。内心、今日はこれですむと思っていた。しかし、その日の父は容赦しなかった。うつ伏せの俺の腕を再びつかんでベッドから引きずり落とした。俺がベッドに戻ろうとすると、再び顔を殴りつけた。ようやく俺の中にも怒りがこみ上げてきた。立ち上がって、右手を振りかぶり父に殴りかかった。父は殴りかかる俺の腕を左手の二の腕で弾き飛ばすと、俺の腹に膝蹴りを入れた。息が出来なくなった。
「元気だな。それなら働けるだろ」
腹を押さえて前かがみになる俺の髪の毛を父は鷲掴みにして、部屋から引きずり出した。
父はそのまま俺を引っ張り階段を降りた。そして、庭を渡って工場まで連れて行った。庭では姉の可愛がっている黒いラブラドール犬が、ひきずられる俺をあざ笑うかのように吠えていた。社員たち同様、姉にはへつらうくせに、少しも俺に懐かない犬だった。
工場に入ると父が急に手を離したので、俺はよろけて倒れた。何とか立ち上がると、そのとき狭い工場にいた五人の工員たち全員が作業の手をとめて、父と俺の方を見ているのが分った。そのとき初めて、俺は自分が泣いているのに気がついた。濁った泣き声さえもれていた。恥をかかされた。こんなに情けない姿を、なぜ他人に見せなければならない。この男は、俺を晒し者にして、何が楽しいのだ。俺は唸り声を上げて、再び父に殴りかかろうとしたが、父の拳が俺の頬に当たる方がずっと早かった。殴り飛ばされて、俺は気力を失った。床に倒れて、下を向いた。工員たちは皆、一言も口を聞かなかった。
「それだけか。お前は根性までないな。もう甘やかさないことに決めた。今日から働け。お前の姉は、事務の責任者だ。お前も現場作業の責任者になれ。お前のような役立たずが働かしてもらえることを、ありがたいと思え」
父は工員の一人に後は頼むと言うと、足で一度俺の腹を小突いてから去っていった。
工員の一人が俺の側に来てしゃがんだ。
「大丈夫ですか?」
俺は何も答えなかった。
「あれでも社長は、あなたのことを心配しているですよ。さ、立って、顔を洗って、作業着に着替えてきて」
俺がよろよろと立ち上がると、工員は俺の肩を叩いた。俺はその手を払いのけた。工員は俺の前に畳まれた灰色の作業着を突き出した。俺は相手の顔を見ずにそれを受けとると、そのまま工場のトイレに歩いていった。
トイレの鏡で、久しぶりに自分の顔を見た。ひどい顔だった。髪はぼさぼさのまま肩まで伸びて、薄汚い髭が生えていた。目の下には紫の隈ができ、顔は土気色で、目玉と殴られた左の頬だけが赤く腫れ上がっていた。何日も着替えていないTシャツは黒ずんでいて、まるで乞食のようだった。そこにいるのは傷ついた繊細な少年ではなく、ただの醜く不気味な男だった。
俺はその場にしゃがみ込んだ。働けるはずがない。こんな醜い姿のまま引きずり出されて、ひどい恥をかかされて、馬鹿にされながら、それでも工員たちには腫れ物に触るように気遣われながら、無様にこの工場で働けるはずがない。再び涙が湧いて来た。他の同世代たちは、今頃働いたり勉強したりしている。俺にはどこも行く場所がない。何も出来ない。涙はとどまることを知らず、溢れてくる。豚のような嗚咽がこぼれた。俺はそれを外の人に隠すために、トイレのレバーをひねって水を流した。便器に水が流れていった。トイレットペーパーで涙を拭いたが、紙が水に溶けて、顔中に小さな白い滓がついた。嗚咽も涙もとまらなかった。父が悪い。あいつが母を見捨てなければ、俺はもっと、もっとましな人間だった。人並みに働けていた。他人から馬鹿にされることはなかった。なぜ母は俺がこんなに苦しんでいるのに助けに来てはくれないのだろう。俺に手を差し伸べてくれないのだろう。もう、こんなところにいたくない、いたくない、いたくない。母さんに会いたい、母さんに会いたい。鼻水だか涙だか分からないぐちょぐちょした液体で顔中をべとつかせながら、俺は便器にかじりついて、泣き喚いた。
ドアを叩く音がした。扉の外から父の怒鳴る声がする。俺は気にせずに泣き続けた。トイレを流しても、俺の泣き声は工場中に響いていたのかもしれない。しかし、とめられなかった。泣きやもうとすると、息がとまりそうになった。このまま涙と泣き声とともに、すべてが出て行ってしまえ。何もかも、流れていってしまえ。乱暴にトイレのレバーを何度もひねって、ぐるぐると流れる水流の音を聞きをながら、顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
外から鍵を開ける音がした。乱暴にドアが開き、父が入ってきた。不機嫌そうな顔で俺を見下ろした。俺はまた蹴られるのではと身を縮めた。
「どうしてお前は、俺の命令した仕事をせずに、こんなところで泣き喚いてる」
低い静かな声だったが、父の怒りが伝わってきた。しかし、もうどうでもよくなってきた。
「俺は、母さんのところに行きたいんだよ、だから泣いてるんだよ」
惨めな俺の鼻声が響いた。
「母さんに会いたいだと? いい年しやがって、マザコンが。お前の母親はな、死んだんだよ」
すぐには父が何を言ったのか分からなかった。
「そんなわけない、そんなこと聞いてない」
「お前が知らないだけだ。お前が会いに行く母親なんていないんだよ。働くしかないんだよ」
「黙れ、この嘘つき、母さんが死ぬなんてこと、あるわけない、そんなこと、母さんが、俺の母さんが……」
涙で叫び声が出なくなった。立ち上がって、父に掴みかかろうとすると、まともに正面から鼻を殴られた。俺は尻餅をつき、鼻からは血が流れた。
「勝手にしろ。もう、お前をここにおいておけない。今日中に出ていけ」
父は俺を睨みつけると、そのまま立ち去った。父の後姿のいかつい肩が揺れていた。
それから誰もトイレには入ってこなかった。俺はしばらくぼんやりとドアを眺めていた。鼻から流れた血が顎を伝ってシャツを染めていくのが分かった。
どこに行けばいいかなど分からなかった。しかし、ここにとどまることも出来ない。高ぶった気持ちが少しずつ治まってきた俺は、立ち上がって、再び顔を洗った。鼻血で洗面台が赤くなった。洗っても洗っても、鼻血は垂れてきた。俺はトイレットペイパーを丸めて鼻に詰め込んだ。姉に相談するしかない、そう思った。
俺が牛のような足取りでトイレを出ると、工員たちは再び作業の手をとめて、俺の方を見た。工員の一人は、また大丈夫かと声をかけてきた。それを無視すると、俺は工場の建物を出た。
姉のいる事務所に行くために狭い庭を通ると、姉の犬がまた俺に向って吠えてきた。俺が犬の腹を蹴ろうとすると、犬はさっと体をかわして俺の脚に噛み付いた。痛みは感じなかったが無性に腹が立った。脚に食いついている犬の目玉を親指で突くと、犬は俺の脚を離して鳴きながら犬小屋に逃げていった。噛まれた痕からは、血が流れていた。飼い犬の癖に血の出るほど噛むとは。俺は何度か犬小屋ごと蹴ったが、もやもやした気持ちはおさまらずにくすぶっていた。
事務所に足を踏み入れると、事務の女たちがざわめいた。血まみれで顔が腫れ上がった俺の姿を見たからだろう。俺は三人の女たちを交互に睨みつけた。女たちは黙り込んだ。俺はパソコンに向っている姉の前に立った。
姉は他の女たちと違い、驚いた様子がなかった。
「あなた、どうしてここに来たの」
姉はデスクに向ったまま顔だけ振り向き、呆れたような哀れむような目で俺を見た。
「せっかく、お父さんに仕事もらったのに、やらないんだって? それで家を追い出されるんだって? 会社のお金を取りに来たんでしょ。駄目よ、そんなの。あげないからね」
姉の言葉は冷たかった。俺は姉が優しく慰めてくれると思っていた自分を恥じた。
「何だよ、それは。それが姉の言うことかよ。俺はそんな汚いこと考えてない。ただ、親父が俺に何で泣くんだって聞いたから、『母さんに会いたいんだ』って言ったら、親父に『もうここにおいていけない』って追い出されたから、姉貴にさよならを言いにきただけなんだよ。何で俺が、そんな汚いこと考えているなんて言うんだよ」
俺は、また泣きそうになる自分を、必死でこらえて、姉に詰め寄った。
姉は椅子を回転させてこちらを向き、そして疲れたような声で言う。
「あなたが会社の金奪いにきたわけじゃないってこと、どうやって証明できるのよ」
俺には姉がなぜ、そこまで俺を疑うのか分からなかった。俺はそこまでこの女に信頼されていなかったのか。この女は俺をずっとそんな目で見ていたのか。
俺は机の上のペン立てに刺してあったカッターナイフを取った。
俺は自分の左の二の腕の皮膚を縦に一直線に切り裂いた。ぼたぼたと血が事務机に垂れて、おいてあった書類を汚した。鋭い痛みが走って体が震えた。
「信じてくれるまで、切り続けるから」
姉は立ち上がって、俺の手からナイフを取り上げた。
「何やってるの。ちょっと、タオル持ってきて。どうかしちゃったんじゃないの」
姉はようやく慌てた表情を見せ、事務員に持ってこさせたタオルで俺の腕の傷を縛った。
「どうしちゃったの、もう。こんなことやめてよね。分かったわよ。あなたは、お金取ろうなんて、考えてなかったわよね」
「分かっただろ、俺の心は潔白なんだよ、何も悪くないんだよ」
姉はその形のよい薄い唇を捻じ曲げて、しっかりと手入れされた眉をひそめた。
「もういいから、ほら、いつまでも家にいると、お父さんにまた殴られるわよ。早く二階で仕度してきなさい。どうせすぐ許してもらえるんだから、しばらくは家を離れて友達の家にでも泊まってなさい」
姉は椅子から立つと俺の背中を押して、階段まで追いやった。俺はタオルの巻かれた手を押さえながら、姉を振り返らずにそのまま二階へ上がった。
階段を上がるとすぐ居間がある。父は昼間事務所にいないとき、よくそこのソファに寝転んでいるが、その日はいなかった。パチンコでもやりに行ったのだろう。俺はいつも父がそうするようにソファに横になった。
泊まりにいく友達の家など、俺にはない。高校には友達はいなかったし、中学の友達とは卒業以来会っていない。姉も俺に友達がいないことくらい知っているはずだった。俺にどこに行けというのだ。
横になって、緊張が解けてくると、切りつけた腕や、殴られた頬や鼻が痛み出す。静かに眠っていた痛みが目を覚ます。なぜ、自分の腕を切るなんてことをしたのだと、反吐が出るほど女々しい後悔が沸き起こってくる。
痛みで横になっていられず起き上がると、床に落とした足に何かが当たった。見ると、一升瓶だった。父の昨夜の寝酒らしかった。手に取ると、まだ半分以上残っている。
俺は蓋をとり、そのまま流し込むように飲んだ。辛い。喉が焼ける。これのどこが美味しいんだろう。匂いも気持ちが悪い。胸が熱くなるような不快感を味わいながらも、俺は酒を飲み続けた。飲めば痛みが消えるかと思った。鼻をつまんで、無理矢理に流し込んだ。最初は傷の痛みが逆にひどくなっていくようにも感じられた。しかし、次第にぼんやりとした鈍痛に変わっていった。
なおも飲み続けると、体中が痺れてきた。俺は再びソファに仰向けに横になった。色々なことがすべてどうでもいいように思えてきた。これが酒の力なのだろうか。いつの間にか口から薄笑いがこぼれた。
俺は寝たまま一升瓶をテーブルに叩き付けた。大きな音を立てて、瓶は真ん中から割れた。心地よかった。俺は起き上がって、瓶の根元を浅く持ち替えてもう一度残った部分をテーブルに叩き付けた。一度目ほどいい音はしなかった。もっと色々なものを割りたくなった。立ち上がると、足の裏にガラスの破片が刺さった。見ると少し血が出ていたが、それほど気にならなかった。
台所に行き冷蔵庫を開けると麦茶の瓶があった。キッチンの流し台に叩き付けると、一升瓶よりも軽い感触で、氷のように簡単に割れた。何だってしてやれという気になってきた。俺は食器戸棚を開けると、ガラスのコップを両手でいくつも取り出し、次から次へと床に投げつけた。コップがなくなると、今度は皿を投げた。やめられなくなった。掴んでは投げ、掴んでは投げを繰り返した。可笑しかった。鍋もやかんも投げた。俺は笑いながら、部屋中のものを投げた。
「どうなってるの」
姉と事務の女の一人が二階に上がってきていた。俺は姉の、鼻の穴を膨らました顔を見ると、ますます驚かしてやりたくなった。姉と事務の女の方を指差して笑い、俺は後ろを向いてジャージのズボンを下ろした。彼女たちに向けて尻を突き出し、腰をかがめて床に糞をした。酒で火照った尻が、外の空気に触れて心地よかった。
「何の真似、どうかしてるわ」
姉は叱るというよりも、唖然として言った。後ろの女は叫び声を上げた。俺は壊れた食器の山を飛び越えて、姉の側を通り抜け、そのまま階段を駆け下りた。姉と女は俺が近づくと、怯えて引き下がった。
「待って、お酒に酔ってあんなことしたのよ。今、あの子普通の状態じゃないんだわ」
後ろで姉が事務員に言う声が聞こえた。彼女もまた、弟をかばう悲劇の姉を演じて酔っているのだと思った。
俺はそのまま事務所に飛び込むと、事務所の机の上の書類を引っつかんで、そこら中にばら撒いた。二階に残っていたもう一人の事務の女が俺を止めようと後ろから飛びついてきた。背中に女の体の柔らかい弾力を感じた。荒々しい気分で俺は振り返って、その女を突き飛ばした。女は床に倒れて、スカートがまくれ上がり、白いストッキング越しに黒いパンティが見えた。俺は女の上にのしかかったが、女が手足をばたつかせて抵抗するので、女の頬を平手で引っ叩いた。女が静かになると、女の頬をべろりと舐めた。化粧臭い嫌な味がした。
倒れた女をそのままに、俺は立ち上がって事務所の外に出た。何かしたかった。このままではおさまらない気分だった。それは皿を割ることでも女を押し倒すことでもない、とにかく何かもっと狂暴な、もっと取り返しのつかない、決定的に破壊的なことをしてやりたかった。
庭に出ると、犬がまた俺に吠えてきた。蹴り飛ばしてやろうと犬小屋に近づいていくと、庭の木の枝を伐採するのに使ったらしい剣先の鋭く尖った鉈が、家の塀に立てかけてあるのが目に映った。俺はそのまま鉈を手に取り、犬に襲い掛かった。夢中で犬に向って鉈を振り回すと、犬も必死で吠えながらこちらに反撃してきた。なかなか致命傷を負わせることが出来ず、俺は犬に飛びつかれて仰向けに倒れた。倒れた俺に犬が飛び乗ってきた瞬間、俺の右手で持った鉈が犬の喉に突き刺さった。犬は急に大人しくなった。生温かく赤黒い血が俺の上に流れてきた。犬に力がなくなった。俺は犬を跳ね除けて立ち上がった。そして喉に刺さっている鉈を抜き、犬の傷口に指を入れた。温かくて気持ちが悪かった。血はまだ脈打ってあふれ出ていた。犬の口から微かな息が漏れている。俺は犬の顔を足で踏みつけて踏ん張り、傷口に入れた指で犬の皮を掴んで、剥がそうとした。簡単には出来なかった。血がとめどなくあふれてきて作業の邪魔だった。剥がしやすいように鉈で傷口を再び裂き、そして力ずくで剥がした。毛皮が剥げると、血の中から薄い鮮やかなピンク色の肉が見えた。腹まで剥がして力尽きて、そこでやめた。俺は毛皮の垂れ下がった血まみれの犬を掴んで、物干し竿にロープで縛りつけて吊るした。
体中、血まみれになっていた。犬の血は次第にべとついてきて、いっそう気持ちが悪くなった。風呂に入ろうと、家の方を向くと、姉と事務の女二人が入口から俺を見ていた。三人とも顔面蒼白だった。近づいていくと、俺が押し倒した方の女はけたたましい叫び声を上げた。腹が立った俺が睨みつけると、その女は駆け出した。庭の方に逃げていった。俺が女を追いかけようとすると、女は俺のすぐ前で放り出されていた鉈に躓いて転んだ。すると、それまでは恐怖の叫びだった女の声が、調子の外れた間抜けた嗚咽とも悲鳴ともつかない声に変わった。最初、何が起こったか分からず、俺は女の奇妙な声に失笑した。
女の股から血が流れた。犬の血よりも鮮やかに見えた。女は白目をむいて痙攣していた。口の周りには汚らしい泡がついていた。俺は女に近づき、血で染まったスカートをめくった。股間に鉈が突き刺さっていた。鉈は女の性器に斜めに刺さり、刃先はかなり奥まで行っているようだった。
いつの間にか、工員たちが女の周りに駆け寄っていた。俺は彼らに押しのけられて、女の前から引き下がった。吐き気と眩暈がしてきた。工員たちは何か騒ぎ立てながら、女の名前を呼んでいる。後ろを振り向くと、姉と目が合った。姉は青白い顔で、目を大きく見開いて、俺を見ていた。
姉はゆっくりと大きく息を吸いこんでから、口を開いた。
「自分が何したか分かってるの! 最悪! 信じらんない。気持ち悪い。最低。何であなたみたいのが私の弟なの? 頭おかしいんじゃない? もう私どうにかなりそう。あなたの顔なんて見たくない。誰の顔も見たくない。私にかまわないで、私は知らない、もうやだ、私はもう誰のこともかまってあげないんだから!」
姉は舞台女優のように大袈裟な身振り手振りで叫んで、持っていた箒を俺に投げつけると、そのまま家の中に走り去った。
その後、俺は工員の一人に見張られて、二階でシャワーを浴びさせられた。全身血まみれだったからだ。肌の細かい皺の隅々にまで入った犬の血はこすっても容易に落ちなかった。カッターで切りつけた腕がシャワーのお湯でしみた。俺がシャワーを浴びている間に、救急車の音がした。あの女が運ばれていったらしい。犬の死体と辺り一面の血液は、他の工員たちが救急車の来る前に片付け、女の怪我は事故ということにしたのだと、シャワーの前で俺を見張っている工員が説明していた。俺にはどうでもいいことのように思えた。気分が悪くなり、何度か吐いた。ドア越しに工員が大丈夫かと聞いてきた。入ってこられるのが嫌だったので平気だと答えた。酒の酔いは抜けて、気持ちの悪さだけが残っていた。
あの女が勝手に転んだんだ。あの女が間抜けなんだ。俺のせいじゃない。
工員から服を受けとって着替え、風呂場を出ると、台所で別の工員と事務の女が割れたガラスの片付けをしているのが見えた。
「ちょっと、ありえない。まだウンコの匂いするんだけど」
「女のくせに思っきりウンコとか言うなよ。まったく、何で俺らがクソの始末をしなきゃいけないんだか……」
彼らは出てきた俺に気がついて会話をやめた。俺は恥じたり怒ったりする元気もなく、ただ彼らの前を通り過ぎて階下に下りていった。
事務所には、工員たちが集っていた。怪我をした女の他に、女がもう一人足りないようだった。救急車に付き添ったのかもしれないと思った。俺が降りていくと、全員こちらを向いて、軽く会釈をした。
「姉さんはどうだった?」
一番年かさの男が、俺に付き添ってきた工員に尋ねる。
「駄目、まだ部屋から出てこない。何を言っても返事もしない」
俺は事務所の隅のパイプ椅子に座らされる。俺が撒き散らした書類はすでに片付けられていた。陰鬱な空気が漂っていた。
「どうするんだ、これから。社長に連絡はとれないのか?」
「さっき携帯に電話したら、そこの机の上で鳴ってやがった」
工員たちは、互いに顔を見合わせる。
「仕事続けるか?」
「馬鹿、そんな気分になれるかよ」
「犬の死骸もどうするんだよ」
「あと、この、坊ちゃんは大丈夫なのか? また暴れたりしないのか?」
一同が再び俺の方を向く。俺は睨み返す力もない。ただぼんやりとそれを眺めている。
「とりあえず、姉さんに出てきてもらわないと困るだろ。俺たちは完全に部外者なんだから。この家の問題だろ」
「そんなこと言ったって、部屋に閉じこもってんだから、しょうがないだろ」
「あの娘がいないだけで、この事務所も急に陰気な感じになるな」
「あの娘はいるだけで、周りを明るくするよな」
「あぁ、実際、この陰気な工場が持ってるのは、あの娘のおかげみたいなもんだな」
「一人で閉じこもって、まさか変なことしたりしないだろうなぁ」
「まさか、あの娘はあれでも気丈だから、そんなことしないだろ」
二階から、台所の片付けをしていた二人の工員が降りてきた。
「お前ら、ウンコ臭いから近寄るな」
「うるせえ、人にやらせといて、何言ってやがる」
束の間、笑いが起こるが、やがてまた重々しい空気が支配した。
俺は改めて姉がいるときの事務所との違いを感じた。彼女は、いつも美しい笑顔を振りまき、陽気な笑い声を上げ、この事務所の中心で輝いていたのだ。同じ姉弟でなぜこう違うのだろう。今、俺は彼らにまるでいないもののように扱われている。誰も俺に話しかけようとしない。同じ親から生まれ、同じように育ったのに、俺には他人をひきつける魅力がない。彼女の小さな顔、少しつり上がった大きな目、薄く形のよい唇、まっすぐに伸びた軽やかな髪、周りを幸せにする笑顔、話し好きで快活な性格、何一つ俺に似ていない。こんなときに部屋から出てこないのはあの女のわがままだろう。あの女はただ自分が心配されたいから、わざと彼らを困らせるために閉じこもっている。それでも、あの女はみんなから心配されていて、俺はいつも蚊帳の外だ。いくら狂暴に大暴れしても、それでも話題の中心になるのはあの女だ。俺は犬の死や事務員が運ばれたことを責められすらしない。ここに俺の居場所なんてない、今までも、これからも。
同じ部屋の中にいながら、俺だけ彼らとは別の空間に閉じ込められている気がした。姉はここにはいないけれど、それでも彼らの中心にいる。俺は一緒にいながら、取り残されて、いつまでも人間扱いされない。一人の方がずっといい。一人になりたい。ここを立ち去りたい。
俺が立ち上がって、事務所を出ようとすると、工員の一人が慌てて駆け寄る。
「ダメですよ、坊ちゃん。ここにいてもらわなきゃ。社長か、姉さんが許可するまで、勝手に出歩かないで下さい」
坊ちゃんという呼び方がわざとらしく不愉快だった。俺がその工員の顔を見ると、三十前のその男は、少しだけひるんだような表情を見せた。俺を恐がっているのだろうか。俺が近づくと、彼は身構えた。俺は自分が狂犬にでもなったような気がした。
「そうだ、部屋の前で、みんなで酒飲んで大騒ぎしたら、あの娘、驚いて気になって出てくるんじゃないか?」
一番若い工員が急に素っ頓狂な声で言った。
「あんた、こんなとき、何ふざけたこと言ってるの」
事務の女が怒った口調になる。
「ふざけてないだろ、っていうか、酒でも飲まずにこの状況に耐えられるか? 居間で俺らが騒いでたら、絶対お姉ちゃん出てくるぜ」
若い男は話しながら自分の意見に自信が出てきたのか身を乗り出して、皆に訴えかける。髪の茶色い、前歯の隙間の開いた小男だった。他の工員たちは互いに顔を見合わせる。
「もうやけくそだな。ぱっと騒ぐか」
年かさの男が若い男の頭を小突きながらそう言った。若い男は跳ね上がるようにして喜ぶと、酒を買いに行く用意をし始めた。こいつらは何も考えていない。ただ、騒いで飲んで発散したいだけなのだ。
一時間後、二階の居間のテーブルには日本酒や焼酎、スナック菓子、から揚げとポテトフライが並んだ。俺も彼らに従って二階に上がらされた。普段、従業員が二階に上がることはほとんどないため、初めは皆少し居心地の悪そうな顔をしていたが、それぞれがソファやカーペットの上など座る場所を決めて、互いの紙コップに酒を注ぎ終わると、寛いだ顔に変わっていった。
「坊ちゃんも一杯どお?」
女が上目遣いをして、壁に寄りかかって立っている俺に言ってくる。
「やめとけ、また酔って暴れられたら、どうする」
「またウンコされたりしてなぁ」
「やぁだ、アタシもうあんなの嗅ぎたくないからねぇ」
女はもう俺の方を向いていなかった。二十代後半の女は、姉と違い痛んだ髪をしていた。金色に染めていたが、すでに毛が伸びて地肌に近い部分に黒が見えていた。工員たちの言葉に、その肉づきのいい体を震わせて笑った。
「お前ら、しけた面で飲んでるんじゃねぇぞ。なるべくお姉さんに聞こえるように、でかい声で陽気に騒げ、それが出来ないやつは罰ゲームだぞ」
年かさの男がソファから立ち上がって言う。まだ一杯目なのに、すでに赤い顔をしている。
「罰ゲームって何するんすか?」
「イッキ飲みに決まってるだろ。おい、お前、何か歌え、歌わないと罰ゲームだ」
俺や父には慇懃なくらい丁寧な男だったが、工員たちを前にすると横柄だった。指名された工員は、どうして自分が歌わされるのかと騒ぎ嫌がりながらも、まんざらでもない風だった。
「待ってください、歌うのはまだ酔いが足りないですよ」
「じゃあ、罰ゲームのイッキ飲みをした後で歌え」
「なんなんすか、それは。結局、俺は飲まなきゃいけないんじゃないですか」
男は手元の紙コップの日本酒を一気に空けると、もう一杯と、女に酒を注がせた。二杯目も一気に空けると、男は立ち上がりひどく調子の外れた声で女性アイドルの歌を歌い始める。皆はそれを見ながら指を差して笑う。笑われた男はますます大袈裟に、振り付けまでしながら歌い続ける。
奇妙な酒宴は続いた。居間にはラジオから流れるけたたましい大衆音楽と、下世話な笑い声が響いていた。俺はただそれを見ていた。工員たちは酔いが回るにつれて態度が大きくなり、俺のことを大声で笑うやつも出てきた。他の工員にとがめられると、
「何言ってやがる。あんなひょろひょろのやつ、暴れだしたら俺が絞めてやる。おい、どうした、こっち見てんじゃねえ、文句あんのか」
俺は何も答えられなかった。何も答えられない自分が惨めだった。早く別の話題にならないかと願った。何も言えずに黙りこんでいた。
「姉さん、出てこないなぁ」
「やっぱ、これじゃ駄目なんじゃないのか?」
「騒ぎ方が足りないんだな、これはきっと」
「何かもっと盛り上がることないか?」
「野球拳だな、きっと」
男たちが歓声を上げる。
「それじゃ、勝負するか」
一番若い男が立ち上がって、事務の女の前に立つ。
「なんで私が野球拳しなきゃいけないの! 全然、関係ないじゃない、あんたたち、私を脱がしたいだけでしょ、野球拳なんて出来ないわよ」
「酒が足りないんじゃないのか?」
他の工員たちから、女の名前のコールが起こった。若い男は女の紙コップに酒を注ぐ。
「ちょっと、待って、何それ、負けたら私はあんたたちの前で裸にならなきゃいけないのに、勝っても全然徳しないじゃないの。あんたのちっちゃいチンコなんて見たくないわよ」
「ちっちゃいだと、見てから言え。よし、それじゃ、もしお前が勝って俺が先に全裸になったら、お前の望むもの何でも買ってやる」
「マジで? じゃあ、バッグ。プラダのバッグ」
「何とでも言いやがれ、勝つのは俺だ」
若い男が話し終わる前に、周りはもう野球拳の歌を歌い始めている。慌てて立ち上がった女が歌に合わせてぐるぐる回り踊る。嫌がっていたわりには楽しそうな顔をしていた。
男はじゃんけんが強かった。立て続けに女が脱がされた。ブラジャーに手がかかったときには、座の盛り上がりは絶頂に達していた。
「ほら、坊ちゃんも真剣な顔で見てるぞ」
「大人の女の体を見せてやれ」
からかわれた俺は女の方を見まいとしたが、囃し立てられた女は、わざと俺の正面に来て、目の前で卑猥な笑みを浮かべて勿体をつけながらブラジャーを外した。女は小太りだった。胸は白茶けて垂れていた。乳首は大きくピンク色だった。胸よりも脂肪の帯を巻いたような胴回りの方がいやらしく見えた。女は男たちの掛け声に合わせて、腰を振って踊り、胸を揺さぶらせた。女の仕種に刺激されて男たちは立ち上がり、手を叩いて踊り始めた。ラジカセから流れる、流行りの曲に合わせて、皆が狂ったように踊っていた。
その時、姉の部屋のドアが開いた。
「私が部屋に隠れちゃったっていうのに、何でみんな踊ったり歌ったり大騒ぎしてるの?」
女が振り返って舌先のもつれた声で言う。
「あなた以上に素敵な人がいるんだもん、それでみんな喜んで笑ってるの」
姉は部屋から出て、酒宴の中心を覗き込もうとする。そのとき、一番若い男がすかさず姉の後ろに回り、部屋のドアを閉めた。
「もうこれで、部屋には戻れないっすよ」
姉は振り返って驚く。
「やぁだ、あなたたち、私をおびき出すためにこの馬鹿騒ぎしたの? ちょっとやりすぎよ、これ」
姉は急に笑って、若い男の頭を叩く。叩かれた男は嬉しそうな顔をしてはにかむ。気狂いじみていた座が、姉の笑顔で一変して明るく健康的に華やいだ。事務の女も慌てて胸を隠した。姉は居間の中央に連れられてきた。皆が姉を中心に集り、姉に言葉をかけられたがっているように見えた。
社員たちは姉が部屋を出たことを喜び、姉とともに訪れた災難について嘆きあった。姉はすぐに皆をまとめあげ、こんな時期だからこそ一致団結しようと鼓舞した。下らない茶番だったが、茶番すら演じられない俺が批判出来たことではなかった。
やがて彼らは何か相談し合い、俺のところへやってきた。俺は風呂場に連れて行かれ、事務の女に伸びた髪を切られた。そして、若い工員に髭を剃刀でそられた。姉は風呂場を覗き、手の爪まで切るように言った。俺はされるがままになっていた。左手の傷にも包帯が巻かれた。
髪を切り髭もなくなった俺の顔はいやに貧弱になったように見えた。風呂場から出てくると、姉が俺に向っていった。
「もう、ここにおいておくわけにはいかないわ。父さんが帰ってきてお前のことを聞いたら、何するか分からないし、警察だって来るかもしれない。それに、お前自身にも、自分のしたことの重さを知ってもらわなきゃいけない。だから、この家を出て行って。これは、ここにいる皆で決めたことなの。従ってもらうわ」
厳しい口調だった。逆らう気にはならなかった。姉は俺のポケットに万札を何枚かつっ込んだ。俺はただ姉に会釈をすると階段を下りた。どうせこの家に俺の居場所はない。俺の居場所など、どこにもない。
外に出るのが恐くないかと言えば、嘘になる。庭に出て、門の扉を開け、道路に足を踏み出したときには背筋が震えた。もう戻れない。俺は外の世界で生きていかなければならない。今まで俺を拒み続けてきた外の世界。俺を見下し、無視し続けてきた外の世界。適応する能力のないものは、決して認めようとしない外の世界。すぐに徒党を組み、集団に迎合しないものを拒絶していく外の世界。
家の前の道を左に行くと、すぐ大きな川に出る。車の通りの多い橋の上を俺は歩いていく。風が冷たい。しかし、俺にコートを取りに帰る家はもうない。髪の短くなった頭も、綺麗に髭を剃られた頬も寒かった。
橋の中央で立ち止まると、河川敷ですすきが大きく揺れているのが見えた。川の水は少なかった。日は落ちてきて、斜めから射し込み、水面を鏡のように輝かせていた。欄干に手を置き下を覗くと、割り箸と空の弁当のプラスチックが流れてくるのが見えた。
俺は橋を渡り終わると、堤防の上を川上に向かって歩いていくことにした。そこは舗装されたアスファルトの道だった。どこまで続いているのか先が見えなかった。俺はどこまでも歩いてやろうと思った。
家の中でさえまともにやっていけなかった俺が、果たして社会の中で、他人と上手くやっていけるのだろうか、馬鹿にされずにやっていけるのだろうか、内なる惨めで狂暴な自分を隠して、周りに合わせて上手く笑えるだろうか。血みどろの内面を抱えながら、何事もない顔をしていられるだろうか。
そして、母はこんな俺を産んだことを恥じるだろうか、それとも黄泉の国から俺を見守ってくれるのだろうか。
夕闇が近づいていた。俺は歩き続けた。いくつもの橋をくぐり、自転車や犬の散歩とすれ違い、学校や自動車教習所の横を通り抜け、なお歩き続けた。空が暗くなると、川の水面も光るのをやめ、薄暗い色になった。
ある堤防沿いの家で、壁の落書きを消している三人が目にとまった。一人は少女、後の二人は老人だった。
ヤリマン アバズレ 淫乱 ガバガバマンコ
ラッカー・スプレーで汚い字が殴り書きされていた。あの少女のことなのだろうか。近づいていくと、少女は見た顔だった。俺は堤防を降りて彼らのところまで歩いていった。中学時代のクラスメイトだった。老人たちは祖父母らしかった。彼らは雑巾にシンナーをつけ、必死で壁をこすっている。その様子はひどく哀れだった。俺が眺めていると、少女が振り向いて睨んだ。白く大福のように柔らかそうな頬をしていた。黒いおかっぱの髪が真っ直ぐに下に伸びていた。
「何見てんだ」
俺がさらに近づくと、彼女は俺のことを思い出したらしく、表情を少し和らげた。
「お前こそ、何してるんだ。これ、お前の家か?」
少女はまた壁に向き直り、壁を拭き始めた。
「そうよ」
「ひどいな、誰にやられた」
少女は答えない。
「誰にやられたんだ?」
「そんなこと、あんたには関係ないでしょ」
彼女は苛立った声を出し、まつげの長い丸く大きな目を見開いて俺を睨む。
老人たちが俺が彼女の知り合いだと気がつき、こちらに会釈をしてくる。俺も頭を下げる。
「中学の同級生です」
老翁の方が、作業をやめて俺の前までやってくる。
「そうでしたか。私はこの子の祖父です」
「何があったんですか?」
背の低いその老人は、まったく少女に似ていなかった。
「本当に、ひどい話なんです。四十過ぎの男が半年くらい前からこの子につきまとって、この子が拒絶すると、いつもこんな嫌がらせをしてくるのです」
「おじいちゃん、言わなくていいから」
老翁は少女の制止を気にせず話した。
「いくら消しても、何度も書いてきますし、私たちが見つけたとき怒って抗議すると、逆に乱暴に怒鳴りつけてきて。そりゃもう、チンピラみたいな男なんで、この年の私じゃとても手に負えなくて」
「これが、全部、その四十男の仕業なのか? 何でもっと、抵抗しない、仕返ししないんだ。そんないい年して十代の女の子を追いかけまわすようなやつのやりたい放題にさせていいのか」
「私たちだって、出来るならそうしたいですよ。でも何せ目が真っ赤で体も大きくて、恐ろしくてとても年寄りがはむかえる相手じゃなくて。あいつはいつも、こんな大きなナイフを持っていて、それを突きつけて脅かしてきて」
少女はこちらの会話を無視して壁の落書きを拭いている。彼女が手を動かすたびに真っ直ぐに切りそろえられたおかっぱの毛先が揺れる。俺は彼女の方に向き直る。
「おい、悔しくないのか」
彼女は答えない。
「悔しくないのか」
「あんたには関係ないことだって言ってるでしょ」
「そんなことを聞いてるんじゃない。悔しくないのか」
「他人事だからって、なに偉そうに言ってるの」
少女は不機嫌につぶやくように言う。
「俺のことはどうでもいい。お前が悔しくないのかって聞いてるんだ」
少女は雑巾を地面に叩きつけて、あきれた顔でこちらを向く。
「あんた、何様なの? そんなこと言ったって、どうしようもないでしょ。おじいちゃんの話、聞いてなかったの?」
俺は軽く息を吸い込んで、怒鳴りつけた。
「お前自身が今、悔しくないのかと聞いているんだ、答えろ!」
少女は俺の頬を平手で思い切り叩いた。彼女は興奮で顔を紅潮させた。そして俺を叩いた手を小刻みに震わせた。
「馬鹿にしないで、あんたに何が分かるの! 当り前でしょ、こんなことされて悔しくないわけがないでしょ! 悔しくて仕方ないわよ、毎晩、毎晩、あいつが恐くて憎らしくて仕方ないわよ!」
そう叫んでから彼女は顔を背け肩を落とした。俺は腹の奥から熱いものがこみ上げてくるのを感じた。両腕に力が漲ってきた。
「それが聞けたらいい。その男は俺が始末する」
彼女はこちらを向かなかった。
「何言ってるの、あんたがそんなことする理由なんてないじゃない。余計なことしないでよ」
少女の声は独り言のようだった。
「悔しいんだろ? 俺も悔しい。だからやるんだよ」
少女はふらついた足取りで老婆によりかかり、そしてその胸に顔を埋めた。俺は爺の方に向き直り、料理と強い酒を用意して、やつが来るのを待つように言った。そして、やつが来たら、何も言わずに家に招きいれ、酒を振舞うように。老婆に抱かれていた少女が振り返って、濡れた声で男を招く役は自分がやると言った。
壁の落書きを消し終わると、婆は酒を買いに行き、俺は家の中に案内された。リビングを見回すと、ちょうど二階へ上がる階段のところが、食卓に座ったときに影になり見えないことが分かった。俺はそこで待つことにした。手鏡を用意して正面の壁に立てかけ、ちょうどテーブルが見える角度に固定した。
その少女と俺は、中学時代別段親しいわけではなかった。そもそも俺には中学に親しい友人などいなかった。彼女も社交的な方ではなく、ただ教室の隅で黙って本を読んでいる印象しかなかった。二人で話したことは数回しかないだろう。彼女は中学の頃には少年のように痩せていた。今は胸も膨らんで丸みを帯びた体形になっている。腕やスカートから覗く脚は餅のように白かった。その男を始末することが出来たなら、彼女は俺のものになるだろうか。
やがて老婆が日本酒を買って帰り、男をもてなす料理として出前の寿司が届いた。老夫婦には二階に隠れていてもらうことにした。少女は玄関の前で男が来るのを待った。俺は階段の下で息を潜めた。
一人になり階段に座ってしゃがみ込むと、腕の傷の痛みが戻ってきた。恐れているのだろうか。自分の鼓動が数えられる。鼓動に合わせて傷の痛みが刺すように脈打つ。何度か大きく呼吸をする。目をつぶると、事務の女が股から血を流して倒れるさまが思い出された。あの女は死んだのだろうか。今はそんなこと思い出している場合ではないと記憶を振り払おうとするが、白目をむいた女の顔がまざまざとして脳裏を離れない。俺もああなるかもしれない。男にやられてあの女のように白目をむいて倒れるかもしれない。俺は自分に、怒れ、怒れと唱えていた。お前がこれまで社会から受けてきた、様々な仕打ちを思い出すのだ。暗闇の中で俺は自分の両肩をさすりながら待っていた。
台所に電気がついた。野太いにごった男の声がする。
「何だよ、今日に限って。いやに優しいじゃないか」
「今日はおじいちゃん、おばあちゃんがいないの。だから、二人きりになってゆっくり話そうと思って」
「そうか、あのジジイとババアが邪魔だったんだな。お前と二人になれて、嬉しいよ、昔に戻ったみたいだな」
昔に戻ったみたい。少女と男は、以前本当に関係があったのだろうか。俺は聞き耳を立てる。
「座ってよ。お酒も用意してあるの」
少女の声は暗く微かに震えている。気づかれなければいいがと不安になる。手鏡にテーブルに座る男の姿が映った。色は浅黒い肌をして、異常なほどに肩幅が広く、ジャケットの下に派手な柄のシャツを着ていた。
「おぉ、寿司じゃないか。俺の好きな料理を覚えててくれたんだな。やっぱりお前は俺のことを思っていてくれたんだな」
「お猪口を取ってよ。注いであげるから」
「お前にお酌してもらうのは、いつ以来だろう」
脚が震えているのに気がついた。音がしてはまずい。震えをとめなければ。両足を抱えるが止らない。こんなこと初めてだった。震えは体中に広がっていった。歯までガチガチ言い始めた。音を消すために指を噛んだ。体中が寒かった。今すぐ飛び出して行きたくなった。まだ駄目だ、もっと酔わなければ。まだ駄目だ。
「お前は見るたびにいい体になっていくなぁ。ブラジャー、何カップになったんだ? 何だ、恥ずかしがることはないだろ、教えろよ」
男の声は次第に酔っていった。男が酔いつぶれたら、少女が合図してくれるはずだった。しかし、このままでは男が酔いきらないうちに、少女に手を出すのではないかと心配になった。しかし、今出て行って、あの大男に俺が勝てるだろうか。
「嫌がるなよ、お前の太腿は柔らかくて気持ちいいなぁ。もっと、こっち来いよ」
咥えた指はいつしか歯軋りを抑えるためではなく、怒りを鎮めるためのものになっていた。男が少女の体に触っている。鏡ではテーブルの下は見えないが、少女の苦痛に堪える表情は映っている。あの血管さえ透けて見えるような白い肌が汚されていく。俺の指から血の味がした。
「お前の寝室は、二階にあるのか? ちょっと疲れた。二階に行かせてくれ」
「えっ、二階は今は駄目なの」
「駄目、どうしてだ?」
「汚れてるから。汚い部屋を見られたくないの」
「何だ、そんなこと、俺はかまわない」
男が椅子を立つ。
「待って、私が気にするんだってば」
「お前おかしいぞ、二階に誰かいるのか」
「いるわけないじゃん、もう少し飲もうよ」
「まさか、今さら俺と寝るのが嫌だって言うんじゃねぇだろうな」
「いや、そうじゃなくて、今はまだいいじゃない、ね、もうちょっとここにいようよ」
男が少女の手を取り引っ張る。少女はそれを拒み手を振りほどいた。
「お前、俺を馬鹿にしてるのか」
男がジャケットのポケットから何かを取り出す。ジャックナイフだった。手鏡に男の持つナイフの光が反射する。男はナイフを少女の頬に当てた。
「おい、二階に行くのか、行かないのか」
少女は震えながら痙攣するように頷いた。
「ちくしょう、手間かけやがって」
男は苛立たしげにナイフをしまい、こちらに向って歩き出す。男の姿が手鏡から消えた。
足音が近づいてくる。もう少し、もう少し。十、九、八、七。俺は口から指を離して立ち上がった。六、五、四、もう男の気配はすぐ側まで来て、男の吐く息の音さえ聞こえる。三、二、一。
飛び出して、そのまま男の顔を殴りつけた。よろけた男と実際に間近で向き合うと、鏡で見たい印象以上に大男だった。二メートルはあるような、目を真っ赤に充血させた鼻の大きな男だった。男はすぐに向き直った。
「何だ、貴様は」
そういいながらもう俺に掴みかかっていた。俺は襟首を掴まれ持ち上げられた。
「お前、こいつの男なのか、くだらねぇことしやがって」
男の脂ぎった黒い顔が近づいてきた。俺は男の股間を蹴り上げた。男がひるんで手を離した隙に、食卓の上に置いてあった一升瓶を手に取り男の頭を思い切り叩いた。一升瓶は割れなかったが、男はそのまま前かがみに倒れた。俺は倒れた男の腹を何度も蹴り上げた。そして男を仰向けにすると、馬乗りになった。まだ男には意識があった。何か言おうとする顔めがけて右腕で力いっぱい殴った。男の頬骨の硬い感触が伝わってきた。男はそれでも俺を睨んでいた。俺は殴り続けた。馬鹿にしやがって、この変態め、どいつもこいつも、みんな馬鹿にしやがって、俺は男になる、俺は男になる。次第に男を殴る拳に痛みがなくなっていた。体の感覚が麻痺していた。殴るたびに、全身から何かが抜けていくような気がした。それは沸き立つ熱湯の湯気のように、俺の体中から噴き出していった。
男の上に馬乗りになったまま、どのくらい放心していたのか分からない。気がつくと急に体が重くなり、暖かい温もりが染み渡ってきた。少女が俺の背中に抱きついていた。
「ありがとう」
「これ、どうしようか?」
少女がつぶやいた。
俺たちは床に横たわる男の体の前に立ち、体を寄せ合っていた。男は鼻と口からだらしなく血を流していた。
「生きてるの?」
「分からない」
少女はテーブルから箸を取り、しゃがみ込んで男の体をつついた。
「動かないよ」
「どっちでもいいよ。河原に捨てよう」
少女は黙って男の足の方へ回った。俺は男の頭の方へ行き、両腕を掴んだ。お互いに目を合わせ軽く頷きあうと、男の体を持ち上げた。とても重かった。俺たちは少しずつ歩いて、男の体を運んだ。少女は眉間に皺を寄せ歯を食いしばっていた。真っ直ぐなおかっぱの髪が揺れていた。玄関まで来ると、一度男の体を床に下ろして、ドアを開けた。先に俺が外に出て様子を伺うと、通りにも堤防にも誰もいなかった。辺りはすでに真っ暗になっていて、街灯の光だけが、夜のアスファルトを浮かび上がらせていた。
「大丈夫だ」
家に戻り、再び男の体を持ち上げた。玄関を通るとき、少女が体勢を崩して、男の足を離してしまった。男の体はだらしなく、玄関前の道路に転がった。男の胸ポケットから棒状のものが転がった。手に取るとあのジャックナイフだった。間近で見るとかなり大きく重かった。柄の部分の焦げ茶色の木が美しく装飾されていた。俺はナイフを開いて刃を出した。二十センチ以上はあろう銀色の刃身が、街灯の薄明かりに照らされて怪しく輝いた。このナイフは俺のものだ。
終
* 本作品は文芸同人誌「孤帆」第10号に掲載した作品を加筆訂正したものです。また、塚田遼小説サイト「ぼくは毎日本を書く」に同時掲載しています。