繋がるかもしれない携帯電話番号
詩『聴けなくなった着うた』と繋がるエッセイです。
詩だけで止めておくほうがキレイなのかな、と思いつつも投稿してみました。
もう、10年くらい前の話。
ある朝、大好きな曲が携帯電話から流れた。
着うたと呼ばれるものだ。
別名「パカパカ」とも呼ばれるガラケーが光りながら、発信者名を表示している。
わざわざ表示されなくても、誰だか分かる。
この曲は、あの人だけの着信音だから。
この曲が携帯から流れると、胸が高鳴った。
こんな時間にどうしたんだろう。
何か話したいことでもあるのかな。
平日の朝方、あの人は出勤しているはず。
もしかしたら、「有給が取れたから会おう」という誘いかもしれない。
不思議に思いながらも、
嬉しさを隠しきれずに、通話ボタンを押した。
もしもし、という声は、あの人のものではない。
もっと年配の男性の声。
それは、あの人の父親のものだった。
父親が告げた内容は、
私の年齢では、あまり聞かないものだった。
うんとまだ先、何十年も先に聞くだろうと思っていた言葉だった。
そこから先は、感情が付いていかないまま、
物事は淡々と進んでいった。
携帯電話も解約したのだと、あの人の母親から聞かされた。
もうメールは届かないし、電話も繋がらないのだろう。
試していないから、分からないけれど。
10年経った今でも、ときどき、
あの人の番号に、電話をかけてみようかと思うときがある。
繋がらないかもしれないし、
あの番号は、もう違う人が使っているかもしれない。
もし知らない人が出たら、
「すみません。間違えました」と言えば良い。
ふと、
「リカちゃん電話」を思いだした。
会話のキャッチボールはできなくとも、
「もしもし」と少し低めの、あの人の声が聞けるのではないだろうか。
そんな自らの考えを、心のなかで嘲笑した。
2011年の東日本大震災が起きた後に、
岩手県に「風の電話」というものがあると有名になった。
電話線の繋がっていない公衆電話から、
もう会えない人、まだ帰ってこない人の電話番号を押して、話しかけるのだ。
「そんなことが、何になる」と思う人もいるかもしれない。
それでも、数え切れない人が、その公衆電話に生きるための勇気をもらっている。
私の携帯が、ガラケーからスマホに変わった今でも、アドレス帳には、あの人の電話番号が残っている。
いっそのこと掛けてしまおうか、と思って、すぐに留まる。
「この番号は、現在使われていません」のアナウンスや、知らない誰かが出た場合、私は耐えられるのだろうか。
それは、あの人がもう居ないという証明になるから。
発明王エジソンは晩年、ジョークではなく、真剣に「霊界通信機」を作ろうとしていたらしい。
結局、その発明が成功することはなく、エジソンも亡くなった。
もし完成していたら、どんな世界になったのだろう。
「死んだ爺さんに電話したら、毎回、小言がうるさい」なんて、
そんな幸せな厄介事も、増えたりしたのかもしれない。