プロローグ②
空気の変化を感じて、顔をあげた。
周囲は相変わらず、白いだけのぽっかりとした空間だ。
だけど今は、私の目の前に、ひとりのおじいちゃんが浮かんでいる。
(……さっきまではいなかったよね?)
唐突にあらわれたそのおじいちゃんは、にこにこと優しそうな顔で私を見ている。
ここが死後の世界なら、このおじいちゃんは只者ではないはずだ。
つい最近、兄さんの葬儀のときに聞いた、お坊さんの説法を思い出す。あんまり興味がなかったせいで、すでにうろ覚えだ。
(ええと。生前のおこない次第で、何に転生できるかが決まるんだっけ? 七日間ごとに七人で裁判して、四十九日かけて相談して。で、その裁判官のひとりが、閻魔さまなんだよね)
それなら、このおじいちゃんは、七人の裁判官のうちのひとりってことかな?
……いや、違うかも知れない。
目の前のおじいちゃんは、とてもじゃないけど、ひとを裁く人になんて見えない。
閻魔さまくらいしかしらないけど、絵本なんかでよく見る閻魔さまは、嘘つきの舌をひっこぬく怖い人だ。
でも、私の目の前にいるおじいちゃんには、亡くなったひとを裁くなんて似合わない。膝に猫をのせて縁側でお茶すすってるほうが、よっぽど似合う。
「さて。おちついたかな? お嬢さん」
「あッ、はい、すみません」
声をかけられて、私は反射的に謝った。
私はびしっと居住まいをただし、きっちり正座して、目の前のおじいちゃんに向き直る。
私が考えていたことを察したのか、おじいちゃんは笑顔のまま威圧感を醸し出していた。
(ごめんなさい。縁側でひなたぼっこしてるご隠居さまみたいとか思って、本当にごめんなさい)
心のなかで謝っていると、おじいちゃんの威圧感がふっとゆるんだ。
それを察して、私が顔をあげる。
ご老人は、にこにこ顔のまま、私の前にしゃがみこんでいた。
「素直でよろしい」
……私が考えていることは、この人には筒抜けらしい。
さすが裁判官。見た目はそれっぽくなくても、やっぱり凄い人なんだな。
「儂は閻魔王ではない。それどころか、裁判官でもないよ」
「あれ? 違うんですか」
「うん。儂はただの遣いの者じゃ。おぬしの沙汰を伝えに来た」
私は、首をかしげて、おじいちゃんの顔を見た。
沙汰を決めるというのなら、裁判はもう済んでいるということになるよね? でも、私は裁判にはかけられていない。そもそも、このまっしろい空間に来てから、誰とも話していない。
いつの間に沙汰を決められたのだろう?
(……ああ。母親に刺し殺されるような娘は、問答無用で地獄いきなのかな)
ちいさなこどもならまだしも、私はもういい大人だ。
本当なら、私が母さんを止めなきゃいけなかった。母さんを支えて、一緒に生きていかなきゃいけなかった。
けれど、私にはそれができなかった。
「私は、母さんが苦しんでいる理由を知ってたんです。兄が亡くなったのに、私が生きていたから。なのに、私は何もできなかった。母さんが私を刺したのは、私のせいです。……こんな娘じゃ、地獄いきになるのも当然ですよね」
自分で言いながら、どうしようもない悲壮感がこみあがってくる。暗くて重い空気が、自分の背中にのしかかってくるみたいだ。
けど、そんな私に、おじいちゃんはケロリと言い放った。
「ああ。それは違うよ」
「……え?」
意味がわからない私は、相変わらずにこにこしているおじいちゃんの顔を見つめる。
「君は、どうしようもない勘違いをしておる」
「……勘違い」
おうむ返しに呟いた私に、おじいちゃんはにっこりと微笑み返した。
勘違いって、なんだろう?
私は、生きている間、ずっと誰の役にも立たなかった。
兄さんの世話をするために生まれた私だけど、両親が生きている間は、私がやることは特になかった。
兄が若くして亡くなってしまったから、私は役立たずのままだ。なによりも大切な息子が死んで、息子のために作ったはずの娘が生きている。
母さんは、それが許せなかったんだろう。
私のせいで、母さんに罪を犯させてしまった。
それが私の罪なんだと、そう思っていたんだけど。
でも、それが勘違いだというのなら……
「……私が生まれてきたこと自体が、だめだったのかな」
「うん、それも違うな。君は勘違いをしていると言っておるじゃろうに」
また勘違いだと言われてしまった。
私に考えられる可能性は全部考えてみた。その全部が却下されてしまう。
なんだか、自分がどうしようもない馬鹿みたいに思えてきた。自分のことなのに、どうして何もわからないんだろう。
おじいちゃんは、困ったように微笑んでいる。
……察しの悪い人間でごめんなさい。
なんだか、申し訳ない気持ちになってきた。
おちこんでうなだれる私に、おじいちゃんは鷹揚なしぐさで頷いた。
私に答えを出させるのは、もう諦めたみたいだ。
「まあ、すぐに気付けるようなら、此度のような沙汰はおりん。君の前世を鑑みて、特例措置がとられることになったのじゃよ」
「……特例?」
「そう、特例じゃ。本来なら、転生までには日にちがかかる。だがな、君は今からすぐに転生する。それも、前世の記憶つきでな」
「……ぜんせの、きおくつき」」
特例。とくべつ。私だけ。
……なんで、私を特別扱いしてくれるんだろう?
ああ、特別な罰なのか。試練的なものを与えられるのかな。
「まあ、試練といえば試練かもしれん。今回の転生で答えが見つからなければ、転生を繰り返させると言われておるからな。勿論、前世の記憶つきで」
「……それって、何回も失敗したら、何回もの人生の記憶を持って生まれ変わるってことですか……?」
「そういうことになるね」
あくまでにこやかなご老人のセリフを聞いて、私の頭から血の気がひいた。
今回の人生だけでも罪悪感ハンパないのに、これを毎回繰り返すの? 毎回の人生で感じた罪悪感を持ったまま?
……それは、なんて生き地獄だろう。
この上ない絶望をたたえて、おじいちゃんの顔を見る。
「そう絶望的な顔をするもんじゃないよ。大丈夫だ」
「……何が大丈夫なんですか……」
今回、これだけ母親に恨まれて死んだ私が、次の人生で上手に生きられるわけがない。
記憶なんて持たせないで、ふつうに転生させてくれればいいのに。
通常ルートでの転生ができないなら、転生させずに消滅処理してくれても構わないのにな。
それができない理由があるんだろう。
このおじいちゃんはお遣いだというし、どれだけごねても仕方ない。
「……一回で終わらせられるように、善処します」
苦々しい決意を込めた私に、おじいちゃんはにっこりと笑ってみせた。
まったく、食えない笑顔だ。