「とにかく前向きに進めましょう」
「あー沢渡さん?溝口です。例の映画の原案の件ですが……お引き受けしようかと」
「いやそれはありがたい!本当に助かります!」
沢渡さんの声が途端に明るくなった。映画化の話は二ヶ月前から出ていたのだが、沢渡さんと俺が保留にしていたのだ。二人とも本業が忙しくて映画用の話など書く暇が無い、という理由で。
それならと出版社と映画会社がシナリオライターを立ててきたが、この人も会社員経験がなかった。
リアルさを売りにしてきた「ビジ達」にとってこれは致命的。沢渡さんが綺麗にお断りして製作委員会は歯ぎしりギリギリ。
本当の理由は、踏み出す自信がなかっただけだからね。
「で、どんなお話にしましょうか。アイデアはありますか?」
「一つあります。舞台をうちの業界にしようと思って」
「……いいんですか?」
「大丈夫ですよ、俺の名前がクレジットに出なければ。うちの業界は規模が大きい割に参入障壁が高くて特殊なんで、大学の研究対象にもなりやすい。業界マップや勢力図も毎年出版されているから、見る人がとっつきやすいと思います」
「なるほど……確かに」
「最近は競争が激化しすぎていて、IR情報をバンバン出しちゃうもんだから、従業員より記者の方が業界に詳しいくらいですよ。ネタには困りません」
「くれぐれもヤバい橋は渡らないでくださいね?機密情報のリークとか」
「そんなことはしませんよ」
機密情報のリークはしない。でも、そんなことをしなくても俺には別のやり方がある。
俺の頭の中には理沙の顔が浮かんでいた。
役員秘書。会社を越えた秘書ネットワーク。
その情報網がどれだけのものか、俺はこの数ヶ月の同棲生活でよく知っていた。理沙が同僚の秘書たちと愚痴大会をするたびに、飛び出してくる話の濃さと量に毎回驚かされていたのだ。
使えるかもしれない。
もちろん理沙には後でちゃんと相談する。必ず。
「とにかく前向きに進めましょう」
「よかった。本当に助かります。溝口さん、ありがとうございます」
電話を切ると、空っぽになった会議室で俺は少しだけ笑った。
俺の知識を会社でどれだけ使っても誰も聞かない。でも沢渡さんの漫画を通せば、後輩の大場みたいな奴が単行本を全巻買って読む。その同じ知識が、今度は映画になる。
笑えない話だが、笑うしかない。
それから一ヶ月半、俺は会社で冷や飯を食いながら、家に帰っては映画の原案を書き続けた。土日も祝日も、有給も使って。短い人生でここまで夢中になったことはなかったと思う。




