とにかくちょっと考えてみてもらえませんか?
四ヶ月後、沢渡さんの「ビジネスの達人」はちょっとした話題の作品になりつつあった。
「あ、溝口さんもそれ読んでるんですか?モーヤングの『ビジネスの達人』」
「あ、うん。最近な」
後輩の大場が休憩時間にモーヤングを読んでいる俺を捕まえて話しかけてきた。普段は漫画の話になんか乗ってこないヤツなのに、今日は、というかこの作品は例外らしい。
「面白いですよね。話題もタイムリーだしスピーディだし。僕なんか単行本全巻アマゾンで買っちゃいましたよ」
「へえ、えらく気に入ったんだな」
「溝口さんSWOT分析とかPPM分析とか知ってます?俺、マンガではじめて知りましたよ」
「お前、経営企画部に何年在籍してたっけ……?大丈夫か?」
リアリティとビジネストレンド重視に方針を変更して書かれた沢渡さんの漫画は徐々に人気を集めはじめ、多くのビジネスマンの支持を得るようになっていた。
最近では3週連続でモーヤングの表紙を飾り、カラーページで作者と財界人とのインタビュー記事が出るほどのカリスマビジネス漫画への道を着々と進んでいる。
「まず、言葉の定義から行きましょうか」という作中の台詞がこの年の流行語大賞にもノミネートされたりもするほど、沢渡さんの漫画は各方面に影響力を発揮し始めていたのだ。
通勤途中の駅の構内に貼られたポスターや、電車の中の吊り広告でその人気っぷりを見るたびに俺は「おいおい、すげえな」という気分にならざるを得なかった。沢渡さんはちょっとした方向性を与えればここまでのエンタメ作品が描ける人だったのだ。あれだけの向上心があればそれも頷ける。
俺はあの日電車で隣り合わせに座った飲み友達の大成功を少し羨みつつも大いに喜んでいた。
それからさらに月日は過ぎ去り、「ビジ達」は更に人気を集め、上り調子の俳優と注目の新人女優がこぞって出演するテレビドラマにもなった。ドラマは最終回がその年の最高視聴率をマークするほどの話題作になり、終わってもなお再放送のための番宣が連日流されるほどだ。さらにその最終回の放映直後に映画制作の発表があり、ファン達はヒートアップしていった。
「ビジ達」のドラマ最終回を自宅で理沙と見ていた俺はその勢いの凄さに舌を巻きっぱなしだった。
「へえ、『ビジ達』ついに映画にまでなっちゃうのか~。基君のアドバイスもまんざら的を外してたわけでもなかったんだねぇ」
「そうだな。俺達と酒飲んだ後の沢渡さんの漫画、今までとはかなり変わってたし、俺たちも多少は貢献したと言えなくもないぞ」
「ねえ、そんならいくらかもらえたりしないのかな私たち?」
「それは無理だろう。いくらなんでも。苦労して漫画描いているのは沢渡さんだぞ」
「基君に漫画描く才能があったら今頃私はセレブリティなのにな……」
「ハイそこ、ないものねだりしないで」
「ドモホルンリンクルの一斗買いが夢だったのよ……」
理沙は可能ならいくらかでももらえないのかと本気で考えていたようだった。残念だがそれはムシが良すぎるというものだ。肩をがっくり落としてみせる理沙の姿に苦笑いをしながらテレビのチャンネルを変えようとした時、俺のスマホが着信を告げた。
誰だ、日曜夜のこんな時間に……?
「はい、溝口です」
「どうも沢渡ですー。お久しぶりですー」
俺と沢渡さんはあの後も少しずつ連絡は取っていた。ビジネストレンドの解説や、基本的な経営学の知識、最近有名な戦略論やビジネスツールなんかの知識を俺は沢渡さんにチョコチョコ電話やメールで教えていたのだ。
「ああ、沢渡さん、どうしました?」
「いえね、溝口さんからもらったネタをベースに私の漫画ここんとこ好調だったんですけど……。いや、本当にありがとうございました」
「ハイ、知ってますよ。今もドラマの最終回見てたところです。絶好調じゃないですか」
「ご存知かどうか知りませんが、今度映画化ってことで原作頼まれちゃってにっちもさっちもいかないんですよこれが……ぶっちゃけ週刊連載の方が忙しすぎて映画の方の原作なんかとてもとても……」
「ああ、それは大変ですね……そういうことをお願いできる人いないんですか?編集さんとかがアイデアを出すとかよく聞きますけれども」
「私の担当はあまりビジネスとか経済とかがよく分からないらしいです。まだ入社3年目ってところですからね……」
「そんな若手がついているんですか……こういう時に頼れないとなると沢渡さんも大変ですね」
「そうなんです。それで、溝口さんにお手伝い願えないかと思いまして。謝礼はもちろんお支払いしますので」
「謝礼ですか? それは魅力的なお話ですね」
「ご希望でしたら原案とか原作協力って形でクレジットに名前も入れたりなんか出来ると思います」
「あ、仮にやるにしても名前はちょっとまずそうですね……」
「とにかくちょっと考えてみてもらえませんか?」
「はい。前向きに考えさせていただきます」
何とか頑張って即答は避けてみたが、行き詰まった日常にため息をつく我が身には、降って湧いたような楽しそうで刺激的なお誘いだ。
電話を切った俺の顔は相当ニヤけていたに違いない。理沙がその変化に気づかないわけがなかった。
「どうしたの?めちゃくちゃニヤけてるけど、電話誰からだったの?」
「セレブリティの神の御使いからだよ」
「セレブ?」
「うん。セレブ」
俺はその日の夜、いつになく寝付けなかった。次の日も、その次の日も、淡々と日常をこなしてはいたが、俺の頭の中は映画の原案を頼まれたことでいっぱいだった。
会社ではウザがられた俺の経営学の知識が使いようによってはこれほどまでに役に立ち、頼りにされるものだということを実感できたのがなんとも嬉しかったのだ。
◆◆◆◆◆
有頂天になった俺はいつものように経営企画部の戦略策定会議において、自説を展開する時間を貰って精一杯のプレゼンを行っていた。
「というわけで、市場全体の傾向は転換期特有の特徴を示しており、この状況に対する我が社の有効な戦略オプションは次の三つです……」
俺が渾身のプレゼンを始めてからわずか7分、聞いていた部長の顔がだんだん曇り始めてきたのがスクリーン横でレーザーポインターを操る俺にもありありと解った。
「小難しい話や理論が多くてさっぱりわからん」
「今期の彼の評価は考えないとですね。そういえば最近はなんだかそういうビジネス理論を振りかざす漫画が流行っているとか……?」
部長と次長が、興味の持てない俺のプレゼンから俺自身へと攻撃対象を変えていくのが分かる。なんだよそれ。聞いてくれよ……ちゃんと真面目にデータを分析したんだから……。
「若いものは何にでも感化されますからね。困ったもんだ」
「あー、溝口君。溝口君? ありがとう。もういいわ。ちょっとね、緊急の会議が入っちゃってね」
聞こえてるよ。部長、次長。そうかい。そこまで俺の話はつまんないのかよ。
「漫画の受け売り聞かされてもなあ……」
「時間のムダですよねえ……」
部長達が出ていき、一人会議室に取り残された俺は怒りと、情けなさと、その他諸々の感情が次々と溢れ出てきてパニックに陥りかけた。何だ? 何を間違った? どうして?
同僚も後輩も、俺のことを気の毒がりはしたがフォローする者はいなかった。
「漫画が俺の受け売りをしてんじゃねえか……クソッ」
例の映画の話があって油断が無かったとは言えない。しかし何かのタイミングが悪かったらしく、この会議を境に俺の部における役どころは相当きついものになってしまった。好事魔多しとはこのことだ。
俺の知識は沢渡さんの漫画に使われれば多くの人にとって有用な情報となり尊敬を集めることもできるが、俺自身の口から語るとただの知ったかぶりの生兵法になってしまっているようだ。
何故だ? 沢渡さんの技術がなければ俺の知識は身近な人にも届かないのか? ――いやそうは考えたくはない。おそらくは俺の身近な人達の方に俺の知識を受け取るだけの体制が整っていないのだ。
そう考えるしかなかった。自分自身の心を守るためにも。
「どいつもこいつも、俺の才能を認めねえ……」
どぉぉぉん……慟哭の涙が頬を伝う。
俺はその場でスマホを取り出すと沢渡さんに電話をかけた。それまで仕事が忙しくなるかもしれないからと保留していた決断を下したのだ。
「あー沢渡さん? 溝口です。例の映画の原案の件ですが、ええ、はい、お引き受けしようかと……」
それを聞いた沢渡さんの声は途端に明るくなった。
「いやそれはありがたい! 本当に助かります。どんなお話にしましょうかね?何かもうアイデアはありますか? 今、結構せっつかれちゃっていて大変なんですよ。どうすんだって」
「ちょっと思ったんですけれどね、映画ですからね、本編とできるだけ違うところでやるのがいいと思うんですよ。業種とか変えて、ええ、そうです。アクションとかお色気とか入れる余地がないとダメなんでしょう? で、リアリティを出すためにいいアイデアがあるんですよ」
「ほほう……どんなアイデアですか?」
「舞台はうちの業界……なんてどうでしょう? 異業種交換留学という制度に選ばれた主人公がうちの業界に4ヶ月間、出向してくるということで」
「!!……いいんですか? それは確かにリアリティは出るかもしれませんけれど……」
「大丈夫ですよ。俺が原案だとクレジットに出なければ。うちの業界は規模が大きい割に新規参入のハードルが高すぎて特殊だって言うんで大学なんかの研究の題材にされやすいんですよ。
それに、業界勢力図とか業界マップとかああいうのも毎年出版されてるでしょ? ですから業績がどうで、技術がどうで、どこの会社がライバルでどこの会社と協力関係にあるなんて言うのも他の業界に比べるとよく知られているわけです。見る人もとっつきやすいんじゃないですかね」
「ああなるほど……確かに」
「最近は競争が激化しすぎていて、何でもかんでもIR(投資家向け広報)で発表しちゃったりするもんだから従業員よりもマスコミの方がうちの業界に詳しいぐらいですよ。ネタを外にバンバン提供しているようなものですよ。今のうちの業界は」
「ま、まあ溝口さんに何かリスクがないならそれでいいんですけれど……くれぐれもヤバい橋は渡らないでくださいね? 機密情報のリークとか」
「ははは、そんなことはしませんよ」
正直、機密情報のリークをするつもりは全くないが、そんなことをしなくても俺の私憤を晴らすやり方はいくらでもあるのだ。
それから1ヶ月半、俺は会社で散々な冷や飯を食わされながらも、家に帰っては映画の原案をひたすら頑張り、土日祝日、時には有給休暇も取りながら映画の文芸さんや脚本家さん達と詳細を詰めて行った。短い俺の人生を振り返っても、ここまで何かに夢中になって取り組んだことは無いと思えるほどだ。
その甲斐あってか、映画「ビジネスの達人」はリアルなビジネス描写と本物の業界裏話が相乗効果を生み出し大ヒットとなった。
業界内で互いに足を引っ張り合うライバル企業同士のレベルの低さや発想の貧困さ、それに輪をかけた下劣な登場人物たちの行動が克明に描かれた「ビジ達」は、「近年稀に見る企業の暗黒面をえげつなく描いた問題作」と評判を呼び、脚本や原作に大きくスポットが当てられた。もちろん、そこに俺の名前はない。
「ねえ、某風呂漫画では映画化されても原作料は200万円しかもらえなかったんだって。基君、あんなに頑張ったのにあんまりもらえないってことはないよね?」
理沙が心配そうに俺に聞いてきた。映画が大ヒットしても原作者に支払われるのは雀の涙で、ほとんどは製作者委員会が持っていくなんていうのはよくある話だ。
「大丈夫だよ。作者も原案も『ビジネスの達人』だからね。契約にあたっては抜け目なくつつがなく、だよ。もらうものはもらってるから安心して」
そうだ、俺はただ働きをしない。実際に作業をしている事を周囲にアピールするために、わざわざ映画の現場まで行って声を張り上げてきたのだ。なので映画のスタッフの中に、俺の貢献を低く見積もる者などいない。
「ただの原案者でしょう?」などと言ってギャラを値切りに来た恥知らずな連中もいたが、きっちり恥というものを脳のシワに刷り込んでお帰り願ってやった。
「ネットで話題になってるよ。『原案者は何者だ?』って。大丈夫?」
理沙が時折、まとめサイトを読んでは心配そうに俺に聞いてくる。
「大丈夫だよ。基本的には公知の事実を元に作った話だからね。ゴシップ的な話については機密情報というよりはこぼれ話みたいなもんさ。みんなが興味があるのは機密情報よりはもうちょっと下世話な話の方だろ?そんなのどこの業界にも転がってる話だよ」
まあその「下世話な話」の当の本人たちにとってはゴシップの中身は相当な機密情報なんだろうけどな。そこは俺はあえて関知をしない。あえてだ。