申し訳ないですけど、かなり耳の痛い意見になりますよ?
俺達は駅から少し離れたところにある居酒屋に移動した。派手な看板で客を呼び込むチェーン店だが、店員が作務衣を着て忙しく料理を運び、厨房から「いらっしゃい」の大声が響き渡るこの煩雑な店の雰囲気は混乱している俺の気分に丁度合っていた。
「では……はじめまして。よろしくー」
ビールとつまみがちょいちょいと卓の上に並べられ、酒宴の準備ができた所で漫画家の沢渡さんが口を開いた。それを合図に俺と理沙は沢渡さんとグラスをカチンと合わせて、簡単な自己紹介を済ませた。
「私、もうモーヤングで連載を始めて3年ほどにもなりますが……」
「ええと、サラリーマン漫画の『ビジネスの達人』でしたっけ?」
「はい。さしたるヒットの兆候も無いのに続いているのはアイデアが副編集長から出てるからというのと、他の雑誌への対抗上ビジネス漫画が1、2本は必要だったからです」
「そんなことは無いと思いますよ。いいモノを描いてらっしゃるじゃないですか」
自虐気味な沢渡さんの作品紹介に俺はすかさずフォローを入れた。話は追っていないが絵は今風だし、描くもの次第ではヒットが狙えるとは思っていたのだ。
「気を遣わなくていいですよ。溝口さん、さっき横で見てましたけど、私の漫画飛ばしてましたよね?」
「あ、あははは、はい、えーと、その……」
理沙が真っ赤になって、卓の下で俺のスネを蹴飛ばした。見透かされてるぞ、ということなのだろう。
「私はね、溝口さん……悔しいんですよ。情けないんです。編集部の意向とは言え、読み飛ばされるような漫画を上から言われて唯々諾々と書き続けている自分がね。
しかし、企業で実際に働いたことのない私にはこれと言って熾烈な企業同士の戦いのアイデアもなければ、企業活動のリアルな描写もできないでしょう?
これから先、何を描いたものかと思っていたら、電車で横に座った人がやはり現場に不満を持ちつつも上の命令でやりたくないことをやっているともらしていた。これは何かの天啓かと思ってお声をかけさせていただいたというわけです」
俺は「あちゃあ」といった感じで自分の顔をピシャリと叩いた。
「あはは。基君、聞かれてたんだねえ」
「理沙……会社の不満は電車の中で言うの、もうやめような。誰も反応してないだけで聞いてはいるんだなぁ」
「まあ、声をかけた一番の理由は、何で私の漫画は飛ばされたのか、正直なところを聞きたかったんですよ。あれを目の前でやられると結構辛い。……恨み言じゃなくてね」
沢渡さんは苦笑いをしていた。俺もそうするしかない。理沙よ、これが大人の男の渡世術だ。
「はあ……読者の意見を聞きたいと」
「簡単に言えばそういうことです」
俺は自他ともに認める漫画マニアだ。描くのはさっぱりだが結構な数を読んできた。ビジネス漫画だって全く読んでいないわけじゃない。沢渡さんの漫画を飛ばしていたのにだってそれなりに理由と違和感があっての話だ。
「御馳走になっていて申し訳ないですけど、かなり耳の痛い意見になりますよ?」
「望むトコロですよ」
沢渡さんは眉を眉間に引き寄せて覚悟のありそうな表情を俺に見せた。
「基君はどかーん!バキーン!だだだだ!ごキュゥっ!ってのが好きなだけですよ?私は知ってまーす」
知らぬ間にビールをクイクイあおって酔いがまわった理沙が望まぬインターセプト。うわ、大丈夫なのかこのペース。あ、こら、おかわりを頼むんじゃない。すいません水をお願いします。
「理沙、そんな単純なもんじゃないぞ。俺の漫画との付き合いはお前との付き合いの7倍はあるんだ」
計算……間違ってないよな。合ってりゃ良いってものでもないが。
「ふえぇ……なによう……私より漫画の方がいいっての?」
「そういうこと言ってんじゃないだろ。今は」
ええい、酔っぱらいが……。しょうがない。今は沢渡さんだ。
「まず、沢渡さんのビジネス漫画に圧倒的に足りないのはリアリティです」
「む。やはりそうですか」
「今どき会社の机の上には例え社長だってノートパソコンの一台くらいおいてありますよ。女子社員に『これワープロ頼む』とか『コピーお願い』も無いと思います。最近は自分でプレゼンくらい作れないと出世できないですから、上に行くほどそういうリテラシは高いし、資料も多機能プリンタで部数指定でプリントアウトして、自動でホチキス止めしてもらえる時代ですからね。
業務連絡や辞令を壁に貼るのもないです。メールや社内イントラ、社内SNSなんかで通達は行いますよ。紙を使うのは余程かしこまった時だけです」
「う……それは業種に限らずですか?」
「沢渡さんの描いているような中堅ながら上場企業っぽい会社ならほとんどそうだと思いますよ」
「そうですか……他には?」
沢渡さんは「参考までに」と、鞄の中に入っていた自分の漫画の単行本を俺に渡してくれた。新刊の献本らしい。俺はそれをパラパラとめくっては気になるところを次々と指摘していった。
「そうですね……まず、こんな広い社長室は一部上場企業でもそうそうあるものじゃないですよ。最近はムダを取り除くのに結構熱心で、こんな費用対効果の薄い出費を役員が率先してやっている描写は少し違和感がありますね。
派閥、学閥なんかも結構概念としては古いんじゃないかな。確かに昔の上司・部下の関係を引きずる程度はあると思いますが、専務派と副社長派とか、そういうのは……。今は直近の業績が可視化されていて、役員の多数派工作はあまり意味ないと思います。多数派工作で業績が上がるならいいですが……」
「ほほう……」
俺の指摘はその後1時間も続いた。
沢渡さんはICレコーダーで俺の音声を録音し、逐一メモを取っていた。顔は真剣そのものだ。眼の前のジョッキに入ったビールは最初の乾杯だけで、残りはほとんど口がつけられず、最初は何センチもあった泡が完全に消えて無くなっていた。
「肝心なところは全部女でごまかしますよね。実際、想像つきます?こんな節操ない女。差し出された方も差し出す方もリスキー極まりないでしょ。ああここ、敵役があからさまにワルモノ顔なのも、意外性全く無いからやめたほうが良いですね。これじゃまるで不良漫画です」
理沙は酔いつぶれ、卓に突っ伏して完全に寝ていたが、俺の指摘はその後も続いた。
「なんでコイツ、普通にビジネスクラスに乗ってるんですか?下っ端は国内は普通にエコノミー、海外でも近いところはエコノミーですよ?
あ、逆にこの人はおかしい。会社都合で海外赴任をさせられている場合は国内にいるより少し良い生活をさせるのがビジネス慣習です。
ここもだ。管理職は飲む場所考えますよ。こんなガキの集まる場所で待ち合わせたりしません。
これ……こんな車どうやって買うんですか?東京で年収1200万のサラリーマンの可処分所得って、税金と年金と健康保険料引かれたらどれくらいになるかご存知無いのでは?
あと、ここも……」
「まだありますか……」
俺のマシンガントークは結局ラストオーダーの時間まで続いた。沢渡さんはそれを嫌がりもせずきちんと聞いて、適宜質問を入れてはその答えをメモしていた。どうやら本気で自分の漫画を考え直したいらしい。これがプロというものか。向上心が半端ない。俺も見習わねば……。
そうこうしているうちに店内に「蛍の光」が控えめなボリュームで鳴り出したので俺達の飲み会は終わりを迎えた。理沙は潰れてしまって歩けないので俺がおんぶして店を出る羽目になったが、たまにはこんな日があってもいいと思えるほど俺の心は落ち着いていた。きっと漫画の話が思う存分出来て楽しかったのだろう。月明かりの下、理沙を抱えた俺はえっちらおっちら沢渡さんについていった。
「ごちそうさまでした。今日は言いたい放題ですいませんでしたね」
「いやあ、でも助かりました。これから少しずつ絵面を変えてリアリティを出していくことから始めてみますよ」
「すいません。漫画描けるわけでもないのに偉そうに言っちゃって」
「ははは、いいんですよ。お客様なんですから。
私達漫画家は読者に『違うぞ、俺の言いたいことはそうじゃない』とは言えないんですよ。だけど、たまにはこうして『何をどうしたら納得してくれるんだ』くらいは聞いてみたいんです。人間ですからね」
ツイッターとか使わないんですか? と聞こうとしたがやめておいた。あそこはあそこで別の問題があるからな。
「……俺は毎日『どうして俺の言うこと聞いてくれないんだ』って上司に言っては撃墜されていますね」
「難しい問題ですね、それは。今日も痛感しましたが、助言と非難は紙一重ですから、溝口さんにとっては有用な提案でも、上司の方にとっては自分の認識不足の指摘と受け取られたのかもしれません。でも、助言や指摘をされるうちはまだ救いようがあるというか……溝口さんもその上司の方の良心を諦めてないんですよね?」
沢渡さんは右手を大きく振って、酔客狙いのタクシーを停めた。今日はここでお別れということだ。
「……どうなんでしょう。ただ承認欲求をこじらせているだけかもしれませんが……」
「私なんかは今日いただけた助言だけで随分作家人生が伸びたと思っていますよ。今日から描き始めますから……1ヶ月後くらいから私の漫画が少し変わっていると感じたらそれは溝口さんのおかげです。飛ばさずに読んで下さいね」
沢渡さんは「じゃあ」と軽く挨拶をして、タクシーで夜の闇に消えていった。
「んん……重いな。理沙」
「ごめんなひゃい……」
起きてるのか寝てるのかはっきりしない理沙を背負って、俺もまた家路についた。
漫画家が俺みたいな素人の話を3時間近くも聞き続けるって、そんなこと普通あるか?沢渡さんは煮詰まった現状をなんとかしようとして、日常では絶対やらないようなことをしてみようと足掻いたのだろうか?
とりあえず、これからは沢渡さんの漫画は飛ばさず読もう、そして、変化があったら心から彼の勇気を讃えよう。俺はガラにもなくそう思った。