「あなたの漫画のどこがダメか、話してもいいですか」
居酒屋のボックス席で向かい合うと、マンガ家の沢渡さんは乾杯もほどほどに話を切り出した。
「お二人はさっき電車の中でずっと会社のことしゃべってましたよね」
「え……っとお?」
固まるしかない。観察されていたのだ。
「会社の話。上司がどれだけクソか、自分のアイデアがどれだけ正しいか」
理沙が卓の下で俺のすねを蹴る。痛い。
「私ね、今の自分の漫画に行き詰まってるんです。リアルなビジネスを描かなきゃいけないのは判ってるんですが、何分私は若い頃からマンガ家一筋でして現場を知らない。想像だけで書くとオフィスラブやら汚職やら、そんなのばかりになってやたら嘘くさくなる。編集部の意向で仕方なく描いてるシーンが多くて……。それで聞かせていただきたいんです。溝口さん達がいるような、本当の会社の話を」
沢渡さんの目は真剣だ。ICレコーダーを鞄から出して、卓の上に置いている。
「えーと、僕もマンガ好きなんで協力するのは構いませんが、いろいろと守秘義務もありまして」
「構いません。業務内容よりは、どう働いていて、何に怒っているのかとか、どんな理不尽があるのかとか、そういうのを聞きたいんです」
「うーん……申し訳ないですけどかなり耳の痛い意見になりますよ?」
俺は一拍置いてから、沢渡さんに向かって言った。
「先に、あなたの漫画のどこがダメか、話してもいいですか」
沢渡さんの眉がぴくりと動き、それから、覚悟を決めた顔になった。
「……望むところですよ」
モーヤングをテーブルに広げて指摘を始める。
「このコマの社長室は広すぎる」
「女子社員にワープロを頼む描写は二十年前だ」
「業務連絡を壁に貼るのは今どきない」
「ヒラがビジネスクラスに乗るのは非現実的」
「このキャラクターの年収でこの車は買えない」
言葉が止まらない。今日の会議室で胸に押し込めたものが全部、別の出口を見つけたみたいに出て来る。
沢渡さんはICレコーダーを回しながら手帳にメモを取り続けた。ビールの泡は完全に消えている。
気がつけば理沙は酔いつぶれて卓に突っ伏していた。
「まだありますか」
「あと五ページくらいは」
沢渡さんは苦笑して、次のページを開く。
◆
店内のスピーカーから「蛍の光」が鳴り始めたので俺達は店を出た。
理沙は俺の背中で寝ている。明日このジャケット着ても大丈夫だろうか?
「今日はありがとうございました」
タクシーを探しながら沢渡さんが言った。
「役に立てたかどうか……好き放題しゃべっただけで申し訳なかったですね」
「いいんですよ。お客様なんですから。私たち漫画家は読者に『違う、そういうことじゃない』とは言えない立場でして。でもたまには『何をどうしたら納得してくれるんだ』くらいは聞いてみたい。人間ですからね」
俺はその言葉をしばらく反芻した。
「……俺は毎日『どうして聞いてくれないんだ』って上司に言っては撃墜されてますよ」
「助言と非難は紙一重ですから。上司の方には自分の認識不足の指摘と受け取られているのかもしれない。まあ、助言や指摘をされるうちはまだ救いようがあるというか……溝口さんも、その上司の良心を諦めてはいないんじゃないですか」
どうなんだろう。ただ承認欲求をこじらせているだけかもしれないが。
タクシーが止まった。乗り込む前に沢渡さんが振り返る。
「一ヶ月後から私の漫画が変わります。飛ばさずに読んでくださいね」
「約束します」
沢渡さんはタクシーに乗り込んで夜の中に消えた。
理沙を背負って歩いていると、今日初めて、自分が山下部長のことを考えていなかったことに気づいた。
「んん……ごめんなひゃい……」
理沙が眠そうな声で背中越しに言う。
「いいよ。今日は楽しかったから」
理沙はその言葉を聞いたのかどうか、またすやすやと寝息をたてていた。
「……本当だぞ」
◆
一ヶ月後、俺はモーヤングを開いてすぐ、変化に気づいた。
沢渡さんの連載ページ。社長室の広さが現実的な広さに変わっている。
小道具も変わっていた。セリフに臨場感がある。
悪くない。かなり悪くない。
俺は一ページ一ページ、採点するようにその漫画を読んだ。




