いい加減長いものに巻かれる気にはならないの?
極論すれば、日本のサラリーマンは徒弟制度の中で働いている。住み込みではない、師匠の生活の世話をしなくて良い、月給は出る。だがやはりこれは徒弟制度だ。
上司、先輩、メンターという師匠の敷いたレールを走るべく、師匠たちの技術と渡世術を継承し、顧客とのれんを引き継いで生きていく。
師匠のやり方を変えず、逆らわず、社内ルールと予算の制約の中でなんとか結果を出していく。そうすることで自分がいつか上司という名の師匠になる。この繰り返しこそが日本のサラリーマン文化だと言えるだろう。
その文化伝統の継承は決してポジティブなものだけとは限らない。家庭内暴力を受けて育った子供がいつか大人になり親になった時、自分の息子に暴力を振るうような、そんな胃の痛くなるような負の連鎖が当たり前の様に見られるのもサラリーマンの職場というやつだ。
学生の頃から温めていたアイデア、勉強会で仕込んだネタ、最新の経営理論を現場に活かそうとしても、それは許されない。徒弟制度に対する反逆に他ならないからだ。
変化は「上」から落ちてくるものでなくてはならない。「下」から上がってくるものは「上」の立場を脅かすので、余程の蓋然性がない限り許容される事はないのだ。
……まあ、いろいろ言いたいことはあるが、総じて「上」はクソだ。
今「上」だった連中だって「あんなクソみたいな上司に絶対になるもんか」と思っていた筈だ。しかし15年も経つとしっかり腐臭を周囲に撒き散らすクソに成り果てる。ビバ伝統!
そんな忍従の日々が続けば「下」で生きている人間も、何かしら自分の意見を誰かに聞いて欲しくはなる。そうだろう?
そんなわけで、ある日俺は「社内改善のアイデア募集」というイントラネットの楽しそうなバナーに騙されて、本気で考えたプランを3つくらい、綺麗なプレゼンに仕立てて応募フォームから送ってみたのだが……。
◆◆◆◆◆
「溝口、ちょっと来い!」
4営業日後、部長が怒りを隠しもせずに俺を大声で呼びつけた。
怒鳴られた俺の名は溝口基。俺の勇気と根気と文才を余すところなくパワポに叩きつけた結果は30分の説教ネタへと無惨な変貌を遂げた。「社内改善のアイデア募集」とは種を明かせば不満分子を洗い出すための偽装イベントだったのだ。
人を馬鹿にするにも程がある。
「だいたいオマエはいつも、頼まれもせんのにやれ改善案だ、提案だと……何がしたいんだ? 出世か?」
俺に説教するこの男は山下部長。いつも提案だの改善案だのを出すと全力で後ろ向きにダッシュすることから「エビ」と言われている。
「しかも、この内容は遠回しとは言え現行経営陣の批判じゃないか」
ああ……もう辞めてえこの会社……。
「で、取り下げればよろしいので?」
「その必要はない」
「へ?」
「次の会議、議題がないからこのプレゼンの3ページ目から7ページまでと11ページ目を削って俺の案として出しといてくれ。頼んだぞ」
なんだそりゃ? 前言撤回。エビじゃなくてゲソ……じゃなくてゲスだな。
こいつ、うちの会社が今週の週刊東洋経済の特集「危険な企業ランキング」の9位に入ってしまっていること、知らないんじゃないだろうか。
「転職、マジに考えようかな……」
ここ数日いつも頭によぎる考えだ。クソから馬鹿にされるために高いカネを出してまでMBAを取得したわけじゃない。他にどこか自分の力を生かせる場所がないものか、今まで自分に投資した金額を考えればそう考えるのも当然だろう。
もちろん、その決断をするにはスイッチングコストに見合うだけの報酬が必要なのだが、転職サイトが提案してくる案件は時節柄なのか、あまりに俺に厳しかった。
「帰ろう…」
俺の作ったパワポが俺の知らない定例会議で議題になっている間に定時が来たので、俺は馬鹿らしくなって帰ることにした。
「またエビちゃんとやりあったんだって?」
「うん。やりあったってほどのもんじゃないけど」
帰りの電車の中で話しかけてきたのは水上理沙。うちの会社の役員秘書をしているショートボブ。一応俺の彼女だ。親には内緒だが3ヶ月前から一緒に暮らしている。
運よく空いた急行のロングシートの端っこに二人並んで座ると、俺達はいつものように小声で今日の反省会を始めた。
「いい加減長いものに巻かれる気にはなんないの?あなた見てると心配になるわ」
「無理」
いつも同じ会話。理沙も俺がいつか改心して「分かりました」という未来は無いと思っているが言わずにはいられないらしい。
「それより俺の神聖な時間を邪魔しないでくれ。あと25分でこのモーヤングを読んでしまわなければならないんだ」
モーヤングは俺が唯一、毎週買っている漫画雑誌だ。最近は駅の売店にも置いてもらえなくなったので会社近くのコンビニで買って電車の中に持ち込んでいる。
「ハイハイ。その代り家には一冊たりともマンガの持ち込み禁止だからね?」
「ご協力感謝する」
同棲当初、俺の部屋にはマンガ雑誌と単行本が溢れていた。そのせいで転がり込んできた理沙の生活スペースがほとんど確保できなかったのだ。
理沙はしばらく我慢していたが、ある日ついに爆発し、泣いた。彼女は2時間泣きっぱなしに泣き、座って脚を伸ばす場所さえ無く、化粧品を置く場所も無いことを俺に訴えた。
俺は彼女にそこまでの忍従を強いていたことを深く反省し、お気に入りの漫画50冊を残して家の中にある漫画全てを廃棄した。そして今後、家には一冊のマンガも持って入らないと理沙と約束をしたのだった。
以後、俺がその約束を守っている限り、通勤時間内は俺の意向を尊重してもらえることになっている。
通勤電車に乗る時間35分、そして残り25分と帰りの夜道でモーヤングのお気に入り作品だけでも読んでしまわなければならない。俺は集中してお気に入りのマンガを読んでいた。社会派、SF、企業物、プロスポーツの裏舞台、ちょっとエロいハーレム物―― 読み進めているうちに俺は理沙と反対側に座っている男が俺の膝の上……いや、俺のマンガを横から凝視している視線を感じ取った。
うわ……めっさ見てる……
「キクカー キクカーッス 扉付近の方は一旦降りて、降りるお客様を先にお通しください」
視線を感じて数分後、自宅の最寄駅に電車が着いたと告げるアナウンスが車内に鳴り響いた。横に座っていた不審人物からの熱視線を感じつつもなんとかお気に入り作品の今週分を全部読み切った俺は、降りる直前に読んでいたモーヤングを閉じ、横の不審人物にそれを差し出した。
「あ、俺家にマンガ持って帰れないんでこれ、差し上げます。よかったらどうぞ」
「あ……いや、その……」
いきなりの俺の提案に、言われた方もびっくりしたようだ。結局マンガを受け取った彼は、あろうことか俺と同じ駅で電車を降りた。俺はバツの悪さと危機感を両方感じ、その不審人物とは少し距離を開けていつもより少しだけ速足で駅の構内を抜け出した。もちろん理沙も一緒だ。
「基君、誰?知ってる人?」
理沙が好気の目で俺に質問して来た。普段しない行動に加え、俺の顔が妙に真剣だったから当然の疑問だ。いつもは駅の入口を出てすぐ右手にあるファミリーマートのゴミ箱にバサッと漫画雑誌を投げ捨てる俺が、今日は何を思ったのか隣に座るオッサンにその雑誌をくれてやったのだから何かあると思ったんだろう。
「んにゃ。何か読みたそうだったからさ」
「ふーん。知ってる人かと思ったよ」
「マンガ好きな人に悪いやつは居ないよ」
「いやあ……結構いると思うなあ」
俺と理沙はそんなくだらない会話をして家までの道を歩いていた。
駅前の数少ない飲み屋の看板が途切れかけたその時、後ろから声が聞こえた。
「あっ……あの、すいません。ちょっと……」
振り返った俺は少し身構えた。さっき雑誌を渡した不審なオッサンが俺達の後を追いかけてきていたのだ。不審なオッサンはこれで完全な不審人物となった。くそ、カネなら無いぞ?
俺の右手は少し汗ばんで、ポケットの中にあるはずのスマートフォンを探していた。最悪、理沙だけでも無事に逃さなくてはならない。
「誰かと思えばさっきの……お礼なんかいいですよ?」
「そうですよ。どうせ捨てるんですし」
俺は若干震える声で、理沙は割と平気そうに、しかし努めて平静を装って相手を刺激しないようにオッサンに話しかけた。
俺達の態度があからさますぎたのか、オッサンは自分が不審人物扱いされていることをきちんと認識していたようだ。似合わない帽子にポロシャツ、綿パン。あからさまに勤め人ではなさそうなそのオッサンは鞄の中からなんとか名刺入れを取り出し、俺と理沙に一枚ずつ、名刺を渡した。
「いや、あの、そうじゃなくてちょっとお話させていただきたくて……」
焦って渡された名刺には、こじんまりしたイラストと一緒に見慣れない職業が書かれていた。
漫画家 沢渡しげや
あれ、俺がさっきまで読んでいた雑誌に連載している漫画家さんじゃないか?
「え……漫画家さんが俺に話ですか?」
いつもと同じ帰り道は、急にいつもとぜんぜん違う風景を見せ始めた。