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作り方その② 苺のヘタを取ってボールに入れ、砂糖をかける。

 その日、僕がいつもの様に公園に来ると、ベンチに朱の姿はなかった。

 僕は肩に下げていた双眼鏡を手に取り、辺りを見回す。

 そしてすぐに、昨日の中年男と抱き合っている朱を見つけた。

 何故か自分の中にどす黒く濁った感情が浮かんだ。

 それに少し戸惑いを感じたが、男の首が噛み千切られるのを見て、その感情は落胆に変わった。

 結局はただの鬼。

 ちょっとばかし顔が良く、人間のような振る舞いをしているだけのただの鬼なのだ。

 双眼鏡越しに彼女。いや、鬼と目が合った。

 その目は、どこか寂しげで憂いを帯びている様に見えた。

「おや、今日もバードウォッチングですか?」

 不意に声をかけられ、双眼鏡から目を離してそちらを向けば、昨日のひょろりとした刑事――鎌池が立っていた。

「ええ、よかったら一緒にどうですか?」

 そう笑顔で返すと鎌池は「いえ、一応勤務中ですので遠慮しておきます。」と断りを入れて「特に変わったことはありませんか?」と聞いてくる。

「いえ、特にありませんね」

 平然と笑顔でそう返すと鎌池は「そうですか。そろそろ暗くなるので、お早めにお帰り下さい。食人鬼の被害者の多くは男性ですので。」と言って、僕に背を向けて「それでは、また。」と口にするとそのまま去っていった。

 僕はその姿を見送って、もう一度双眼鏡で鬼の方を見たが既に鬼は餌と共に姿を消していた。

 今日はもう帰るか。

 そう思い、僕は家路についた。

 鬼に変な期待をした事が、そもそもの間違いだった。

 たまたまあの鬼が特殊で他より狡賢く、ちょっとばかり綺麗どころだっただけだ。

 まったく。どうかしている。

 そんなことを考えながら、家のドアに手をかけると、不意に目の前が真っ暗になって「だぁれだ?」と聞き覚えのあるじゃれついた声が耳に入る。

 考え事をしていたとはいえ、まったく気付くことが出来なかった自分の未熟さをひしひしと感じる。それと同時に、昨日までの恐怖を感じる事が出来ず、自分のことを情けなく思う。

「ねえ、まこと?まーこーとー?まことってばー・・・もしかして、立ったまま寝てる?寝てるの?寝てるね?よし。『可愛くて優しくて可憐でお茶目で病弱で薄倖の美少女で元気いっぱいな朱だろ?』えぇ!?なんでわかったの?『当たり前だろ。こんな可愛い声は朱以外ありえない。』きゃー!まことったらー!」

 僕がなにも言わないでいると、僕の代わりにいろいろとツッコミどころ満載なことをべらべらとしゃべり続け、仕舞いには目隠しすることをやめて僕の背中をバンッバンッと叩き始める。

「痛!痛いだろ!?」

 流石に堪えかねて声を上げると「あ、ごめん。」と朱は口にして、反省した様にしゅんっとする。

「いや、そこまで怒ってないから。そんな顔しないで。」

 そんな鬼に僕はそう言って「それで、何か用?」と聞く。

 すると鬼は一瞬嬉しそうな顔をしたが、すぐに顔を赤らめて「えっとね。」と口篭る。

 そんな彼女が次の言葉を発するまでの間、僕はまた物思いに耽る。

 何故僕はこの鬼を警戒できないのだろうか?

 鬼は鬼である。肉を喰らうしか能のない劣悪な生き物だ。

 そして鬼は人にまで牙を剥く。

 鬼は討ち祓わなければならない。

 だから、こんな様ではいけないのだ。

 常に警戒しておかなければならないのだ。

 鬼に気を許したが最後。

 あとに残るのは自分の骨と食い散らかされた肉片だけだ。

 御爺様と同じように――

「私が人を食べるのは、今日が最後。だから、まことの傍に居ても良い?」

 彼女の言葉が、僕が答えを決める前に考えることをやめさせた。

 真っ赤な顔で、恥ずかしそうにする朱。

 彼女は鬼だというのに、そんな彼女の言葉は不思議と信用できてしまえた。

 けれど僕は彼女の言葉に、なんと答えればいいのだろうか?

「まこと」

 僕の返答を待つ彼女は、精一杯に搾り出した声で僕の名前を口にして、潤んだ瞳で見つめる。

 ただそれだけのことで、心が騒ぐ。

 さっきまで、彼女に落胆して、彼女を鬼と割り切ろうとしていたというのに。

 何故、こんな風になってしまうのだろう?

 いや、考えてもわかるわけがない。

 こんな風になるのは初めてなのだから。考えるだけ、きっと無駄なのだ。

 そう思った僕はぶっきらぼうに「僕の傍に居るのは、君の勝手だ。わざわざ僕にお伺いを立てる必要なんかないよ」と口にした。

 少し、顔が熱い。こういうこととは無縁だった所為だろうか?

 そんな僕の答えを聞いた朱は「あ、ありがと。」と短く口にして、僕から顔を背けた。

 その顔は、外見相応な年頃の少女の照れて頬が緩んだものだった。

 そんな彼女に当てられてか、気恥ずかしくなって僕も視線を反らしてしまう。

 気まずく、心地よい沈黙が流れていく。

「あ、あのさ。明日ひまかな?ひまならちょっと付き合って欲しいんだけど。」

 その恥ずかしさに耐え切れずに口を開いたのは朱のほうだった。不安そうな顔で、頬を上気させる彼女はとても艶やかで、僕の胸を騒がせる。

 頭に仕事のことが浮かんだが、彼女と一緒に居るのなら問題ないだろうと思い「特に予定はないし、大丈夫だよ。」と言葉を返す。

 すると彼女は不安そうだった顔にぱっと花を咲かせて「ほんと?よかった。断られたらどうしようかとどきどきしたよ。それじゃあ明日のお昼に、いつもの場所で待ってるね」と口にする。

「うん。それじゃあ、明日のお昼に。」

 僕がそう返すと、彼女は僕に背を向けて『とっとっと』と数歩走って行き、その勢いのままに振り返って「まことっ!また明日ー!」と嬉しそうに僕に手を振る。

 そんな彼女を見て、つい頬を綻ばせてしまいながら、手を振り返した。

 そして彼女はそのまま走り去って行った。

 彼女を見送った僕は、いつものようにドアを開け『ただいま』と口にしようとする。

 しかし「おかえりなさい。お兄様。」とドアの前に立っていた雅に先に言われてしまった。

「た、ただいま。」

 突然の事に驚きながらも帰宅の挨拶を返すと、雅は笑顔で「お兄様、今の女―じゃない。さっきの女の子は何方ですか?」と聞いてくる。

「女の子。朱のことか?」

 雅の問いに僕が聞き返すと、雅の笑顔がいつもよりニコニコし始める。

「朱?お兄様が女の人を呼び捨てですか。そうですか。朱さんっていうんですか。とても可愛らしい子でしたね。お兄様?」

 そう口にする雅の足元で、弧月丸が珍しく僕に低く唸っているのが目に入る。

「ああ、少し変わってはいるが、確かに可愛いな。それで雅、それがどうかしたのか?」

 僕が靴を脱ぎながらにそう返すと、雅は俯いてぷるぷると肩を震わせ始める。

「雅?気分でも悪いのか?」

 心配して声をかけ、雅の頭に触れようとすると「お兄様の。ばかー!」と叫んで着物を翻してそのまま奥へと駆けて行ってしまった。

 一体どうしたのだろうか?

 そう思いながら、廊下を通ってリビングへと入ると「まこちゃんも大変ねぇ」となんだか嬉しそうににこにこしたガラス細工の様な美しい女性が声をかけてきた。

 渡辺 しずく

 僕の母上だ。今年で42だというのに、外見は二十歳にも満たない小娘のそれで、弥生さんといい勝負である。

 どんな時でも自分が楽しい事を優先し、父上の親馬鹿さ加減を止めようともしない始末。

 というか、母上がけしかけている事の方が多いのではないだろうか?

 とはいえ、きちんとすることはきちんとしている為、身内からはとても信用されている。

 自慢の母親である。

「ただいま戻りました、母上。」

 帰宅の挨拶を口にすると、母上は僕に近づき「はい。おかえり。」と言って、そのまま僕を抱きしめる。

 母上の癖であるのは知っているが、流石にもうこの年だ。こういうことは、少々気恥ずかしいものがある。

 しかし、それを言っても母上が離れてくれることがないのは把握しているので、諦めてされるがままにする。

「母上。雅はなにか嫌なことでもあったのですか?なにやら機嫌が悪かったようなのですが」

 そう僕が聞くと、母上は「あの人に似て本当に鈍感ねぇ」とあらあらと仕方なさそうに笑う。

 僕が頭に疑問符を浮かべていると「まあいいわ」と口にして、僕を包む手をほどき「雅ちゃんには悪いけれど、私はあの子のことを応援しているから」とよく解らないことを言う。

 僕がそれに「はあ。そうですか。」と間の抜けた言葉を漏らすと、母上はくすくすと笑って「そのうちわかるわ」と口にした。


 そしてその日の僕の夕食は、何故かみんなより質素な食事、と言っていいのかすら疑問な粗食だった。

 流石にこれには僕も一言言おうとしたが、名前を読んだ瞬間とても朗らかな笑みで睨まれたため、発言を控えることにした。

 多分、なにか文句を言っていたら、唯一のししゃもすらも取り上げられ、白米と具なし味噌汁あと漬物だけになってしまったに違いない。


 翌日。僕は約束通り、昼に公園を訪れた。

 いつも彼女が腰掛けているベンチに目を向ければ、いつかの様に無知な鼠が大口を開けたライオンの前でぺちゃくちゃと食べてくださいと言っていた。

 どれくらいでこの鼠は喰ってもらえるだろうか?

 そんなことを考えながら鬼を眺めていると、あることに気がつく。

 それは、彼女の顔だ。

 いつもであれば、こびりつくような笑顔を浮かべていた筈なのに、今は心底困り果てたような顔をしている。

 そんな彼女と目が合うと、彼女はほっとしたような柔らかな笑顔を浮かべて、立ち上がり「あ!まことーっ!こっちこっちー!」と恥ずかしげもなく声を上げる。

 すると鼠は「ちっ。彼氏待ちかよ。」とうんざりした様な言葉を漏らして、そそくさと逃げていく。

 僕はつい頬を綻ばせて彼女に歩み寄り「ごめん。待たせたかな?」と口にする。

 それに彼女は「ううん、全然。ほんのさっき来たとこだから。それより行こう!会わせたい人が居るの!」と言って、僕の手を引っ張って行く。

「会わせたい人って?」

 そう僕は尋ねたが、朱は「それは会ってからのお・た・の・し・み♪」と勿体振って、楽しそうに笑った。

 公園を出た僕は、朱に引っ張られるまま小一時間程歩き、長い坂道を更に小一時間程登らされ、教会のある丘へと辿り着いた。

 正直に言おう。

「疲れた。」

「うっわぁ。まことなっさけなぁい。」

 間髪入れずに言われた朱の言葉に「五月蝿い。二時間以上歩かされたこっちの身にも少しはなれ。」と不満だらだらに返すが、正直自分でも少し情けなく感じる。

「まったく仕方ないなぁチミは。ちょっと待ってて。」

 朱はそんな僕にそう告げると、近くの自販機まで駆け寄っていく。

 そして二つの缶を持って戻ってくると「はい」とにっこりと笑って、僕に片方の缶を差し出す。

「ありがとう。」

 そう素直にお礼を言ってそれを受け取り、ラベルを確認するとそれはわりと有名なコーヒーメーカーが販売している缶コーヒーだった。

 僕が缶を開けて一口飲んで「ふうっ」と息を吐いて、目の前に広がる町並みを眺める。

 そこからは、いつも朱を見張っている公園も僕の家も見えた。

 というか、僕の家は少し目立つ。ここからでも、目立つ広い庭と大きい正門で直ぐにわかってしまった。

 彼女は僕の隣でクスッと笑って缶コーヒーを飲み、彼女も町並みを眺める。

「それで、僕に会わせたい人って?」

 ここまで来たのだ。もう白状してくれても良いだろう。

 そう思いながら彼女にもう一度尋ねたが、やはり彼女は答える気がないらしく「もうすぐ来るよ」と楽しそうに言うだけだった。

 しばらくすると、一人の修道女が教会から出てきてこちらへと近づいてきた。

 その修道女にぶんぶんと手を振る朱。

 どうやら彼女が僕に会わせたい人らしい。

 正直、仲間の鬼にでも会わせるつもりか?とも疑っていたが、杞憂だったな。

 そして目の前にやってきた修道女は慎ましくお辞儀をしてニコリと笑い「お久しぶりです朱さん。元気にしていましたか?」と優しい声で言う。

「お久しぶりですシスターニコル。私はいつも通り元気ですよ」

 そう朱が返すと、修道女―シスターニコルは「そう、それはよかったです。」と笑顔で言って僕の方をちらりと見ると「ところで朱さん。そちらの方は?」と朱に尋ねる。

「この人は、私と将来を誓った」

「僕の名前は渡辺 真と言います、シスターニコル。彼女、朱さんとは最近知り合った友人です。」

 僕が朱のどこかで飛躍しまくった言葉を遮ってそう答えると、シスターニコルは「あら、そうなんですか。朱さんにお友達が出来ただなんて、わが事のように嬉しいわ」と口にする。

 そんな僕の隣で不服そうに「まことが真面目に答えるからつまんない。まったくもう。」とぼやく朱。

 僕は溜息を吐きそうになるが「朱さん。今日いらしたのは彼の紹介以外になにか理由があってのことではないのですか?」というシスターニコルのどこか見透かしたような言葉が遮る。

 言いづらそうに「え、えっと。」と言い淀む朱にシスターニコルは「話して御覧なさい。それともここじゃなくて、懺悔室で聞いたほうが良いかしら?」と優しく気にかけるシスターニコルは、過ぎた言い方をすれば天使のように見えた。

 いや、時として神父や修道女を天使に見立てて言うこともある。だから、そう見えてもおかしくはないのかもしれない。

「い、いえ。まことにも聞いてもらわないといけないので、ここで聞いてください。」

 朱はそう言って、意を決した様に深呼吸をする。

 シスターニコルはそんな彼女に「わかりました。」と静かに頷き、言葉を待つ。

 先程までの楽しげな空気は沈黙に呑まれる。

「シスターニコル。私は人ではありません。私は人を喰らう鬼です。」

 それは、自らの存在の告白だった。

 しかしシスターニコルは動揺することなく、次の言葉を待つ。

「初めて人を食べたのは、この孤児院を出て数日経った時のことでした。私が買い物帰りに公園へ立ち寄ると変な男に言い寄られました。嫌がる私を男は無理矢理に林の方へと連れ込み、服を破き私の身体を舐めるように見回しました。その時、心の底からその男を嫌悪して、次の瞬間には目の前に男の首が転がっていました。それを見た時の私の心の中はとても興奮していて、止め処なく涎が零れて。気がついた時にはその血を啜り、肉を舐め骨をしゃぶっていました。」

 彼女がそう続けても、シスターニコルの顔には動揺も恐怖も浮かばない。

 その代わりにただただ朱を慈しんでいるようなそんな顔が広がっていた。

「私は、鬼なんです。」

 そう口にして言葉が途切れた―――

 ああ。確かに彼女の言う通り、彼女は鬼だ。

 なのに僕は、そうじゃないと言いたかった。

 そんなことはないと言ってやりたかった。

 だけど、言えない。

 言ってはいけない。

 だって僕は―――

「でも、そんな私を可愛いって言ってくれる人が出来ました。真似事かもしれない。頑張ったって出来っこないかもしれない。だけどそれでも。人みたいに生きてみたいって思いました。だからもう人は食べません。」

 どうしようもなく可笑しかった。

 彼女の言っていることではなく、自分の狭い世界が。

 彼女の望みや理由ではなく、自分の浅い考えや形に無理矢理はめ込もうとする理由が。

 どうしようもなく可笑しくてつい笑いが込み上げてしまった。

 そんな僕を見て、彼女はなんだか安心したように頬を緩めた。

「朱さんがここで暮らしていた頃は、周りと打ち解けれなくて、いつも一人だったから。ここを出て行くときは、ちょっと心配だったのだけれど。もう大丈夫そうね。安心したわ。」

 そんな僕と朱を見て、シスターニコルはそう言って笑った。

「シスターニコル、私が恐くはないんですか?私を咎めないんですか?私が食べたのは一人や二人じゃないんですよ?たくさん、たくさん食べたんです。おいしくておいしくて仕方なくて。たくさんたくさん。」

 そう朱が不安そうに目を反らして聞くと、シスターニコルはこう言った。

「罪は憎めど人は憎まず。それに、人だってたくさんの生き物を殺します。食べるために。生きるために。であれば、他の生き物が食べるためもしくは生きるために人を殺すことがあってもおかしくはないし、むしろそれだけでその生き物を責めたり殺したりする方がおかしいわ。そしてこれからは、朱さんは人として生きて行きたい。人になろうとしている。そんな貴女を誰も責めはしません。きっと神もお許しになります。私達の神はとても心が広いのですよ。」

 そしてその顔は、彼女の鬼としての性を責めることは無く、ただただこれからの彼女の人としての生を祝福していた。

 その様は、やはり天使という形容が相応しく思えた。

 朱がその言葉に涙を流すと、シスターニコルは「あらあら。泣き虫なのは変わりませんね。」と口にして、彼女を抱きしめて、あやすように背中をポンポンと叩いた。


 しばらくして朱は泣き止み、シスターニコルと世間話に花を咲かせていた。

 それも、僕を所々に巻き込んであることないことだ。僕の言葉を勘違いしている内容に脚色つけまくっている。例えを上げれば、僕がケーキを食べさせられた時なんかは恥ずかしくて耳まで赤くしていた事になっているようだ。事実は顔面蒼白だったというのに。

「ところで、朱さんは今どちらに住んでいらっしゃるんですか?」

 そんな世間話の中、シスターニコルがなんとなしにそう尋ねると、朱は「え、えーっと。」と顔を反らす。

「どうかしたの?」

 そんな朱にシスターニコルが不思議そうに聞くと、朱は「その。家賃滞納して追い出されて以来、ずっと野宿なんです。」と小さな声で言い辛そうにとんでもない事を白状した。

「朱さん。」

 これには流石のシスターニコルも呆れて言葉が出ないようだ。

 僕に関しては言葉どころか溜息も出ない。

 そんな僕ら二人の呆れきった視線に居た堪れなくなった朱は「だ、だって。財布落としちゃってお金なかったし。し、仕方ないでしょ!?」と口にして僕に対して八つ当たりする。

「でも、年頃の娘が外で野宿は流石に。」

 そんな朱を見かねたシスターニコルは眉をひそめて考える素振りをした。

 そしてすぐになにか思いついたらしく「あ、そうだ」とシスターニコルは声を上げて、笑顔で朱に「しばらく孤児院の方に来ませんか?子供達もきっと喜ぶわ」と口にした。

 その提案に朱は「え、えっと」と言い淀みながら僕に『どうしよう?』言いたげな視線を飛ばしてくる。

 それを受けた僕は心の中で溜息を吐いて思考を走らせる。

 いくら彼女が人としての道を歩もうとしていても監察対象であることに変わりはない。とするなら、辺境とまでは行かないまでも街からかなり離れた教会においてしまっては、監察は今まで以上に面倒になる。それなら近場に置いてしまった方が楽だ。確か家には空き部屋がいくつかあるし、離れの茶室なんかは滅多に使っていない。そこでしばらく面倒を見ても問題はないだろう。

 考えが纏まった僕は「いえシスターニコルそれには及びません。今日から彼女は僕の家で面倒を見ることになっていますので」と口にした。

 すると、朱は僕の突然の言葉に「ふぇ!?」と奇妙な声を上げ『え?いいの?本当に?本当の本当にいいの?』と叫び出しそうなくらいに目をキラキラとさせる。

 それに僕が軽く頷くと『やったー!』と子供のように声を上げそうな顔で、こっそりとガッツポーズをする。

 そんな朱にシスターニコルが「あら、そうなの朱さん?」と確認すると朱は慌てながらに「そ、そうなんですシスターニコル!わ、私今日からまことと一緒に暮らす事になっているんです!」と答えた。

「そうですか。それでは渡辺さん。朱さんのこと、よろしくお願いしますね。」

 僕がその言葉に「はい」と答えるとシスターニコルは安心したように頬を綻ばせ、教会の鐘が鳴った。

 まるで、見計らったかのように。

 その音を聞いたシスターニコルは残念そうな顔をして「あ、いけない。そろそろ戻らないと。」と口にする。

「シスターニコル、今日は私の為に時間を割いて頂きありがとうございました。」

 そう朱がシスターニコルにお礼を言うとシスターニコルは残念そうな顔を精一杯の笑顔に変えて「いえいえ。今日は朱さんの元気そうな顔を見れて、本当に嬉しかったですよ。また遊びに来てくださいね。」とそう返して、教会へと戻っていった。

 その姿が見えなくなった頃、不安そうな顔をした朱が「そ、それで。ほ、本当に一緒に暮らしていいの?」と聞いてくる。

 僕がそれに「あとで父上に確認を取らなければならないが、多分大丈夫だろう。」と答えると朱は顔を朱に染めて、僕の腕をとって駆け出した。

 その様は子供がはやくはやくと急かすそれだった。

 だがその速度は子供のそれとはかけ離れており、帰り着くまでにかかった時間は僅か5分。

 なぜ僕は2時間以上も歩かされたのだろうか?

 そんな不満が頭の片隅を通り過ぎると「ま、まこと。細かい事気にしちゃ駄目だよ?器の小さい男は格好悪いんだから。」と僕の感情に気付いた朱が注意する。

 しかし、自分に落ち度があることを理解しているらしく、明らかに僕から目を逸らしている。

 これではどちらが注意されているかわからないな。

 そう心の中で呆れて少し笑いを溢し「僕はまだなにも言ってないんだけど?」と朱に言う。

 それを聞いた朱は『うわ、ずるい』と言いたげな視線を投げつけてくる。

 だけど僕はそんな朱を気にも留めずに家のドアを開き「ただいま」と口にした。


***


 夕餉の準備をしていると、足元で寝ていた弧月丸がむくりと起き上がり、わたしの袴の裾を引っ張り始める。

 きっとお兄様が近くまで帰ってきているのだろう。

「ありがとう弧月。」

 わたしは弧月丸にお礼を言って、鍋の火を弱火に落としてからエプロンを脱ぎ、急いで玄関へと向かう。

 廊下に出ると、既にお兄様は靴を脱いで家に上がろうとしていた。

 わたしは急いで目の前まで駆け寄り「おかえりなさい、お兄様。今日はお早いのですね。」と笑顔で出迎える。

 するとお兄様は「雅、いつもありがとう」と言って頭を撫でてくれる。

 優しい優しいお兄様。

 大好きな大好きなお兄様。

 誰にもあげたくない。誰にも渡したくないお兄様。

「あれ。まことって妹居たの?」

 不意にお兄様の後ろから女の声が聞こえて、全身の毛が逆立つ。

 誰?そう疑問に思うとお兄様の横からひょこりと顔が出る。

 その顔は知っている。昨日お兄様と楽しそうに話していた女だ。

 なんでこの女がここにいるの?

 お兄様はみやびの頭から手を離し、その女の方を振り向く。 

 いやだ。なんでみやびじゃなくてその女を見るの?

「ああ、いや違うんだ。この子は狗鳴 雅。父上の古い知り合いの娘さんで、理由あってうちで面倒を見ているんだ。」

 なんでそんな楽しそうな顔をするの?

「へぇ。みやびちゃんって言うんだ。私は春日 朱。よろしくね」

 この女は嫌だ。とても不快だ。今すぐにでもその首を掻っ切ってしまいたくなる。

 だけどお兄様の前でそんなことを思っている顔は出来ない。

 わたしはすぐに貼り付けた笑みで「どうもはじめまして春日さん。」と口にしてぺこりと頭を下げる。

 ああ、嫌だ。今すぐに殺虫剤でこの害虫を駆除してしまいたい。お兄様とみやびの大事な時間を邪魔するなんて赦せない。

 しかし女はそんなわたしに気付きもせず「か、かわいい!まこと!みやびちゃんちょうだい!」と叫びながら、がばっ!と抱きついてきた。

「ちょ!?は、離れて下さい!」

 突然のことに驚いたわたしは慌てて女を引き剥がそうとしたけれど、抱きしめるその力は女性のそれとは違い、離れる事を許されない。

「こら、なにやってるんだお前は。それと雅はやらん。」

 お兄様はその女に呆れたように言って、その女の襟首を掴んでわたしから引き剥がす。

「やー!やだやだやーだー!みやびちゃんこんなにかわいいんだよ!?もはや天使なんだよ!?欲しい欲しいほーしーいー!」

 しかし、女は懲りる事なくまた抱きつこうとする。

 けれどお兄様はその襟首を手放さずに「ああ、雅は可愛い。だからといって出会ってすぐに抱きつかれたら雅も迷惑だ。わかったら大人しくしろ。」と口にした。

 そう言われた女は、諦めきれないような顔をしながらも「はぁい。」と返事をして大人しくなった。

 だけど、どうしよう。お兄様がみやびのことを可愛いだなんて。嬉しい。嬉しすぎてどうにかなってしまいそう。

「それじゃあ雅、僕は父上に仕事の報告を済ませなきゃならないから、またあとで。いつもの美味しい晩御飯を期待しているよ」

 お兄様はそう言ってわたしの頭をもう一度撫でてくれる。

 それにみやびが「は、はい!楽しみにしててくださいね!」と笑顔で応えるとお兄様は女を連れておじ様のいらっしゃる書斎へと歩いていく。

 みやびはぺこりと頭を下げてその背を見送り、足早に台所へと戻った。

***

 まことに連れてこられた部屋には、将棋盤を囲む厳格な男性と綺麗な少女の姿があった。

 ちらりと目に入った盤上の戦局は、とても一方的なもので、男性に残された駒は王将のみ。

 それをわざわざ時間をかけて量産したであろう〝と金〟が囲み、その更に外周には金、銀、飛車、角等で更に囲んでいる。

 しかし、男性は表情を崩すことなく、次の手を考えているようだった。

 良く言えば、どんな状況でも諦めない。その姿勢はとても格好良い。

 だけど悪く言えば、勝敗が決しているのに嫌だ嫌だと駄々を捏ねる子供。

 つまり、すっごく格好悪い。

 それに対して少女は、こびりつく程の笑みで次の手を準備している。

 きっとこの少女は相当なサディストか、この男性になにかしらの恨みがあるのかもしれない。

 そんなことを思っていると「真よ。お前ならこの局面をどう切り抜ける?」と男性がまことに聞いてくる。

 余程負けたくないのだろう。でも、はっきり言ってこれ以上ないくらいに詰んでいて、切り抜けるもなにもない。

 まことは呆れた顔を隠して「父上、母上に将棋で挑むのは諦めてください。」とやんわりと言った。

「え?」

 その言葉に誰よりも早く反応したのは私だった。

 この男性がまことのお父さんなのは、なんとなくわかっていた。

 だけど、この少女がお母さんだというのはあまりにも予想外で目もまん丸になってしまう。

 というか、どう考えてもおかしい。だってまことはどう見積もっても二十歳は軽く越えている。それなのにこの少女がお母さん?ううん、もしかしたらまことのお父さんの再婚相手とかで、実はこの厳格なお父さんはすっごい性癖のロリコンなただの変態ということもあるのかもしれない。もはや犯罪者だよ。

「どうかしたか、朱?」

 まことにそう聞かれた私は「い、いや、あの、その。なんでもない。」と言葉を閉ざしてそのまま黙りこんでしまう。

 だって、たとえロリコンとはいえ、いつかは私の義父さんになる人だ。そんな人に失礼なことは言えない。

 そんな私にまことが?マークを浮かべていると「あら。あらあら。まことが女の子連れてくるだなんて。お母さん感激だわぁ。」と少女――まことのお母さんは言いながらこちらへ近づいてきた。

 しかし、その歩みは私達の前に来ても止まることはなく、そのまま私に詰め寄ってくる。

 驚いた私は「え?な、なに?なんですか!?」と声を上げながら後退る。

 だけど、一瞬にして歩を詰められ抱きすくめられてしまった。

 正直、何が起こったかわからない。

 抱きすくめられたことはわかる。

 現に今、私は彼女の腕の中に居て、されるがままに抱きしめられているのだから。

 でも、どうやってその歩を詰めたの?

 歩を詰める為に足を速めたわけでも、跳躍して私に抱きついてきたわけでもない。

 まるで、映画のフィルムの一部を切り取って、無理矢理繋いだような。はたまた、世界が彼女の為に彼女の都合の良いように世界歪めたような。

 そんな全能な力を目の当たりにしたような気分だ。

 だけど、当の本人はそんなを気にも留めず、抱きしめたまま頭を撫でくり回して「かいぐりかいぐり。まことったら、もう24にもなるのに、彼女の一人も連れてこないものだから、正直心配だったのよ」と母親らしい悩みを口にしている。

 そしてそんな彼女にまことがすごく呆れた顔で「母上、わかっていて言ってますよね?」と言うけど、彼女は「もちろん。一昨日にお茶をしてきた子よね?昨日は昨日で玄関前ですっごく熱々で、雅ちゃんが焼いてたくらいだし。つまり、彼女よね?」と嬉しそうな顔で答える。

「え?か、彼女!?わ、私達まだそんな!で、でもでもゆくゆくはそうなりたいっていうかー!」

 私が驚いてそう声を上げていると「朱、落ち着け。」とまことに睨まれてしまった。

 まことに睨まれたり恐がられたりするのって、やっぱり私が鬼だからなんだろうな。

 鬼なんかに好かれたって、やっぱり迷惑なんだよね。

 一人で舞い上がって馬鹿みたいだな。

 だけどそれでも、私はまことの事を―――

 そう心に思い馳せ私が押し黙っていると「まこと。女の子を睨んだりしちゃいけませんよ?」とまことのお母さんは口にして、やっと私から離れてくれた。

 でも、こういう気分の時はやっぱり抱きしめてもらっていた方が落ち着くな。

 そして彼女はそんな浮かない顔の私に『大丈夫よ』と笑顔だけを向けると、くるりと後ろを振り返り、将棋盤に手をかけている男性―まことのお父さんを睨みつけ「はじめさん。手が滑ったーとか言って、将棋盤ひっくり返して無効試合。なんて、そんなつまらないことしませんよね?」とにこりと笑った。

「ま、まさか。わ、私がそんなことをするわけがないだろう?」

 まことのお父さんは目を逸らしながらそう言って将棋盤から手を離すと、まことのお母さんに目だけで『こっちに来て』と言われたのか、震えあがったチワワが大人しく近寄って くるかの様にこちらへとやってくる。

 そしてまことのお母さんは悪戯っぽい顔で「それでまこと?この子を連れて来たってことは、なにかお願いがあるんじゃないの?」とまことに尋ねる。

 まことは『わかっていてわざわざ引き延ばさないでください』と言いたそうな顔をしながらも「はい。しばらくの間、この娘に離れの茶室を貸したいのですが、よろしいでしょうか?聞けば、家を追い出されて行く当てがないらしく、野宿しているそうで。」とお願いしてくれる。

 それを聞いたまことのお母さんは迷うことなく「そう。朱さんも大変だったのね。自分の家だと思ってゆっくりしていって。」と笑顔で快諾してくれた。

 まるで最初から全てを見通していたかのような対応に驚きながらも、私は「あ、ありがとうございます!ふ、不束者ですがこれからよろしくお願いします!」と頭を下げた。

 これからここで、私の人としての生活が始まる。

 きっとまことやまことの両親。そしてみやびちゃんにもたくさん迷惑をかけるだろう。

 それでも私は、まことに好かれるようになりたいのだ。


***


『みやびは可愛い』

『みやびは天使』

『みやびが欲しい』

 夕餉の準備に戻ったわたしの頭の中はそんな愛の囁きをするお兄様で一杯だった。

「ああ、お兄様。で、でもまだ心の準備が。だけどみやびはお兄様になら。」 

 わたしが物思いに耽っていると、後ろから弧月の「くくっ」という笑い声が聞こえてきた。

 わたしは後ろを振り返って「弧月、言いたい事があるならきちんと言いなさい。」と弧月を睨みつけながら口にする。

 それに弧月は「いや、別に。ただ、八千代といいお前といい、好きな男のこととなると途端に独り言が増えるなと思っただけだ」と笑いながら返してきた。

 わたしは先程までの自分のはしたなさに気恥ずかしくなりながらも「し、仕方ないじゃないですか。わたしのお兄様への想いは、わたしの心の中だけでは納まりきらないんですから」と言い訳をする。

「まあ、狗鳴の娘らしいと言えばその通りなのだが。せめて料理くらいはしっかりしろよ?」

 そう孤月に咎められたわたしは「わ、わかってます。あんまり無駄口が多いとお肉を大豆と交換しますよ?」と返して鍋へと目を向ける。

 そこでは今まさに噴き溢れんばかりに泡だっていて、私は慌てて火を止める。

 そんな私を見て笑う孤月を睨みつけて黙らせ、調理に戻る。

 今日の献立は肉じゃがに鯖の塩焼きに蛸の酢の物とお味噌汁。

 昨日と一昨日お兄様に八つ当たりしてしまったお詫びに、お兄様の好きなもので揃えてある。

 あの女が敷居を跨いだことは許せないけど、お兄様の好みを熟知しているわたしの敵じゃない。

「ところでだが、あの女ここに住むそうだぞ?」

 その言葉を聞いて『カランッ』と手にしていたおたまを落っことしてしまった。

 わたしの聞き間違いでしょうか?孤月がとてもおかしなことを口にしたような気がします。

 わたしは孤月を両手で引っつかみ笑顔で「孤月?わたしは笑えない冗談は嫌いなんですよ?」と言って掴んでいる手にじわじわと力を込めてあげる。

「い、痛い!止せ雅!私は本当のことを言っただけだ!」

 そう孤月は『キャンキャン』と犬のように泣き喚きながら答える。

 恐らく嘘ではないのだろう。しかし、これからお兄様とあの女が一つ屋根の下だと思うと我慢できず「一服盛ろうかな?」と思ってしまう。

「み、雅。お、折れる。私の腕が折れる!」

 怒りに呑まれてしまっていた私は、気がつかないうちに孤月を掴む手に際限無く力を込めてしまっていたようで、孤月が苦しそうにしていた。

 わたしはそんな孤月に「あ。ごめん孤月。」と言って手を離す。

 自然落下した孤月はその場でうずくまり、わたしになにか言いたげな顔をする。

 わたしは菜箸で鍋から肉じゃがの肉を一切れ取って「これあげるから許して?」とにっこり笑う。

 すると孤月は「雅。お前は怒ると周りが見えなくなる癖を直せ」と言いながらも肉を頬張って、ご満悦の顔をする。

 そんな孤月を眺めていると、突然孤月の耳がピクピクッと動き、目で『誰か来る』とわたしに伝える。

 わたしが慌てて佇まいを直すと、おば様が台所に入ってきて「あ、雅ちゃん。今日からお夕飯は一人分多く作ってもらってもいい?」とわたしにお願いしてくる。

 あの女の分か。そもそも、お兄様の近くに他の女がいるというだけでも不快なのに食事まで。

 そう思いながらも、わたしはそれに笑顔で「はい、わかりました」と応えた。

 そんなわたしをおば様は悩ましい顔で見つめる。

 なんだろう?と思っていると、おば様はふわりと頬を綻ばせて口を開いた。

「やっぱり雅ちゃんも狗鳴ねぇ。貴女のお母さんそっくりだわ」

 おば様の顔はとても懐かしそうで、とても優しいものだった。

 でも、わたしには理解は出来なかった。

 本来なら『よく言われるんですよ。』とか『全然似てませんよー』とか笑いながら喋れるはずなのに。

 だけど、わたしはお母さんを知らないから。そんなこと何一つ言えないし、理解もできない。

 それがとても申し訳なかった。

「みやびちゃん、そんな顔しないの。」

 そう言って抱きしめてくれるおば様はとても温かで、きっとお母さんがいたらこんな風なのだろうと感じさせてくれた。


***


 その後、朱に家の中を案内してから夕食となった。

 テーブルには、雅が作った美味しそうな料理が並べられており、僕の隣にいる朱はがつがつと食べまくりながら「これ全部みやびちゃんが作ったの!?すっごくおいしいよ!」と歓喜の声を上げる。その様はとても行儀が悪く、連れて来た僕としてはとても恥ずかしい。

 そんな僕の気も知らずに「まこと!この肉じゃがもおいしいよ!ほらほら食べてみて?はい、あーん。」と朱は言って、僕の口にじゃがいもをなすりつけてくる。

 怒りたい。今すぐこの能天気馬鹿の頭を引っ叩いてくどくどと説教をしてやりたい。

 僕がそう思いながらもどうにか我慢していると、反対側から雅に腕を抱き寄せられ、じゃがいもから開放される。

「春日さん。美味しいのはわかりましたので、お兄様にあんまりベタベタしないで下さい。」

 みやびは僕の腕に抱きついたまま、朱を睨んでそう言うと、僕にいつも通りの愛らしい顔を向け「お兄様、今日の肉じゃがは自信作なんですよ。是非一口食べてみて下さい」と言って食べやすいサイズのじゃがいもを掴んだ箸を僕の顔に近づける。

 それを見た朱が「みやびちゃんの方がまことにベタベタしてるじゃない!」とずるいずるいと子供のように駄々を捏ね始めたが、みやびは「わたしはいいんです。」と返して僕に向き直り「早く食べてみてください。お兄様の為に頑張ったんですよ?」とニコリと笑う。

 僕はそんな雅に『自分で食べれるから大丈夫だ。』と返そうと思ったが、反対からも朱に抱きつかれ「まことはこっちの肉じゃがを食べるのー!」と言って、またじゃがいもをなすりつけられ、再び怒りがこみ上げてくる。

「春日さん、わたしとお兄様の邪魔しないでください!」

「そっちこそ。未来の夫婦の邪魔しないでよ。」

 しかし、二人は僕をそっちのけで睨み合いながら言い争う。

 流石に怒りは一周して呆れに変わり、僕は父上と母上に『助けてください』と視線を送る。

 しかし返ってきたのは「まことったらモテモテねぇ。お母さん嬉しいわ。」という楽しそうな母の言葉と父上の同情の目だった。

 この二人に助けを求めた僕が馬鹿だった。

 母上は快楽主義者だ。今起きている事は、母上にとってはとても面白いことであり、間違っても手に入ったおもちゃを自分から捨てることはない。更に言えば、母上は出来る事ならもっと面白い方向へと持っていこうとする人であり、今も『私も混ざって、まことを困らせたいな』と言わんばかりの顔をしているのだ。

 ちなみに、父上がただただ同情の眼差しだけを送っているのは、そんな母上に常日頃より弄られている為、僕に助け舟を出した場合、標的が自分に移ることを理解しているからである。

 一家の大黒柱。渡辺家の厳格な現当主。百戦練磨の鬼討士。

 そんな肩書きも母上の前では、道端の石ころとさして変わらない。

 ついでに言うと、僕が現状を打破するために声を荒げた場合、間違いなく母上から今以上に面倒な状況へと叩き落される事になる。

 つまるところ、これ以上悲惨な目に遭わないよう現状を維持した方が身の為ということだ。

 僕は心の中で深い深い溜息をこぼして、現実へと目を向ける。

「大体、突然押しかけて来てお兄様にベタベタして。お兄様が迷惑している事に気がつかないんですか!?」

 そう声を荒げる雅は僕の目には少し珍しい。

 いつもの雅は、お淑やかで控えめな、それでいてとても健やかな女の子だから、こういう雅が珍しく見えるのだろう。

 そしてその言葉に対して朱は無駄に大人ぶった得意げな顔をして「はあ。みやびちゃんはわかってないなぁ。男の子は可愛くてスタイルの良い女の子にこういう風にされるのが好きなんだよ。」と口にする。

 その知識をどこから仕入れてきたのかを問いただしたくなるが、僕としては食事の邪魔をされるのは不快でしかないため、間違いなくその主張は当てはまらないだろう。

 そして、雅の主張も所々間違っており、同時に僕の食事を邪魔していることに違いない。

 まったく。今日から寝食を共にするというのに、この調子で大丈夫なのだろうか?

 これからの生活に一抹の不安を感じていると「お、お兄様。やっぱり、お兄様も胸の大きな方が嬉しいのですか?」と雅が真剣な顔で僕に聞いてくる。

 しかし、僕がその問いに答えるより早く朱が「みやびちゃん。男の子はみんなナイスバデーがいいんだよ。」と勝ち誇ったように言う。

 だけどみやびは挑発する朱をキッと睨みつけて「春日さんには聞いてません。」とだけ返して僕に向き直り「お兄様。どうなんですか?」と目を潤ませて聞いてくる。

 正直に言えば『どうでもいい』の一言に尽きるが、妹同然の雅からこんな風にせがまれてそれは口には出来ない。

「慎ましいくらいの方がいいんじゃないか?」

 だからとりあえずそう返すことにした。

 それを聞いた雅は頬を染めて「あ、ありがとうございます。」と口にして黙りこくってしまう。

 そんな僕と雅のやり取りを見ていた朱は頬をぷく~っと膨らませてご立腹のようだ。

 とりあえず、平和に食事が出来そうなので朱は放置しよう。

 下手につついてまた揉められたら堪ったもんじゃない。

 そんなことを思っている僕を『つまんないなー』という顔で見ている母上がいるが、無視することにした。

 間違いなく、明日から大変だな。

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