作り方その① 美味しそうな苺を摘んできて。
空が朱に染まる頃。
人気の少ない公園のベンチに、彼女はいつものように座りこんでいた。
もう少し時間がずれてしまえば、痴漢なんかにも遭いかねないだろう。
とはいえ、実際それは杞憂というやつである。
何故なら、彼女にはそんな心配は必要ないからだ。
むしろ、痴漢の方が不運であるとしか言えない。
もちろん彼女がブスだとか、デブだとかいうわけではない。
それどころか、とても可愛いくて、美少女という言葉がよく似合う。
ただ、彼女はーーー
「ねぇねぇ、きみ可愛いね? 」
不意に声が聞こえて、彼女の方に目を向ければ、見るからに軽そうな男と派手な格好をした薄情そうな男が彼女をナンパしている真っ最中だった。
しかも、普通の女の子なら嫌悪感バリバリな状況だろう。
しかし彼女の顔は、嫌悪ではなく喜びに満ちていた
それはそうだ。だって彼女はいつもここで人を待っているのだから。
僕には、彼等がとても哀れに思えた。
だけど同情はしない。
それはそうだろう?
獅子の口に自ら入って行く鼠を哀れに思えても、同情はしないだろう?
しばらく男二人は、彼女にいくつか口説き文句をかけた後「よかったら今から俺達と遊ばない?」と誘いをかけた。
すると彼女は、とても嬉しそうな顔をして「それじゃあ、私鬼ごっこしたいなぁ」と口にした。
もちろん、二人の男は揃って「は?」と間の抜けた声を漏らす。
だけど軽そうな男は「そんなことよりさ、もっと楽しいこと」と笑って立て直す。
でも彼女は迷わずに口を開いて「私が鬼。お兄さん達が逃げ切れたら、イイコトしてあげる。」と言ってスカートの裾を少しだけ持ち上げる。
その途端男二人は目の色を変え「やるやる!コイツ元陸上部だから、脚速いんだぜ!」と騒ぎ始めた。
もちろん、勝敗は見えている。
勝つのは彼女だ。
大体、いくら脚が速い人間でも、獣には敵わない。
つまり、彼等は彼女には敵わない。
それに、彼等は既に蜘蛛の巣にかかった餌だ。
そこから逃れることが出来る者はいやしない。
彼女は楽しそうに「じゅ~う。」面白そうに「きゅ~う。」嬉しそうに「は~ち。」と数を数え始めた。
そして最後に彼女が「ゼロ」と口にする時には、その目は先ほどまでの楽しそうなものではなくなり、同時に楽しそうだった声は既に色を無くしていた。
そのまま彼女は、まるでそこには誰も居なかったかのように消えてなくなる。
僕は迷わずに双眼鏡を逃げて行った二人へと向ける。
片方は茂みに隠れ、もう片方は木の上に隠れていた。
正直に言おう。彼等は彼女を舐めている。
いや、舐めていなくても結果はそう変わりはしないが。まあ、バレバレ過ぎている。
そして、木の上に隠れている方の後ろ側の木の葉が揺れて、男の頭は一瞬にして黒い影に呑まれ、頭を失った身体は辺りに鮮血を撒き散らしながら、地べたへと落ちて行った。
ここまで聞こえた『ドサッ!』という音に、茂みに隠れていた男が目を向けた。
どうやらかなり動揺しているようだ。
それはそうか。
さっきまで一緒にナンパしてた男がこの有様だ。
そりゃあ動揺もするだろう。
けれど、そんな暇があるなら、声を上げたり、すぐにでもここから逃げ出すべきだろうに。
そう思っていれば、彼もまた黒い影に呑まれた。
そして、鮮血の中に佇む少女。
彼女はそんな二人の肉を貪り始めた。
なにをしているか?
見ての通り食事だ。
彼女が偏食なタイプなのかどうかは別にするとして、彼等は基本どんな肉でも食す。
確かにたまに、魂だけを喰らうタイプもいるが、彼等にとっては大分当たり前なことだ。
そして、人に害を為す鬼を狩るのが、僕のお仕事。
なんだけど。
『ピリリリリ。』
携帯の着信音が鳴って、僕は彼女の食事を眺めながらに電話に出る。
はい、もしもし。
『異常はないか?』
冷淡な声で迷わずにそう問われた。
僕の父だ。
つい最近まで、鬼狩りを生業としていたけれど、それもいよいよ僕に代替わりということもあって、何かと仕事中に連絡してくる。
「はい、父上。別段異常はありません。彼女自身いつも通りで、自ら人には危害を加えず、かかった餌だけを食べています。」
『そうか。ならば良い。』
僕の返答に父はそう返して、電話は切れた。
え?十分人に害をなしているって?
誰が獅子の口に自ら入って行く鼠を助ける?
要はそういうことだ。
そろそろ切り上げるか。今日はもうなにも起きないだろうし。
そう思って、僕が双眼鏡から目を離そうとしたその時、一瞬だが彼女と目が合った。
そんな気がした。
気がつかれたか?
そう思うだけで冷汗が溢れる。
相手は鬼だ。
この距離でも、僕を視認するくらい造作もないだろう。
しかし、五分程経っても彼女が僕を始末しにくることはなかった。
やはり、気のせいだったのだろうか?
そう思いながら冷汗を拭い、僕は家路についた。
「ただいま。」
僕がドアを開けながらにそう口にすると、廊下の奥からとたとたと可愛らしい足音を鳴らしながら綺麗な黒髪をした愛らしい少女が着物をぱたぱたさせながら僕の方へと駆け寄ってくる。
そして僕の目の前まで来てニコリと笑い「おかえりなさいお兄様。」と口にした。
狗鳴 雅。
お淑やかでとても優しい良い子だ。
狗神を代々祀ってきた一族、狗鳴家の現当主。
僕とは一応〝幼馴染〟にあたる間柄だが、雅は幼い頃に両親を亡くしており、自立できる年頃になるまでは家で面倒を見ることになっている。
その所為か昔から兄と呼び親しまれている。
「わんわんっ」
そんな雅の足元で僕に『おかえり!』と吠える子犬が一匹。
弧月丸。
いつも雅の傍にいるが、家にきて既に13年は経つというのに、未だにその姿は子犬のままだ。
父上は時折、弧月丸を連れて縁側で飲んでいるが、恐らくというか間違いなく何かあるのだろう。
「ただいま、雅。それと弧月丸もただいま。」
そう僕が笑顔で返すと雅が嬉しそうに「今日もお勤めご苦労様です。夕餉になさいますか?それとも湯浴みになさいますか?」と聞いてくる。
「とりあえず湯を浴びたいかな。少し汗をかいたし。」
僕が答えるのを聞いた雅は「それでは御揚がりになる頃に夕餉をお召し上がり頂けるようにしておきますね」とニコリと笑うと、弧月丸を引き連れて廊下の奥へと戻っていく。
「出来た娘だな。」
ふと、そんな言葉が漏れてしまい、自分が少し爺臭く思えてしまった。
翌日。
彼女は相も変わらずにそこに座っていた。
もちろん、餌を待って。
僕はいつものように彼女から少し離れたベンチに腰掛ける。
そして、しばらくすると、男が二人現れた。
しかし昨日の様な連中とは違い、しっかりとした警戒心と疑心暗鬼が伺える。
もちろん、ぱっと見ではただの男二人だ。
しかし、その中に潜むものは、手練れの者や場慣れした人間にはそうそう隠せはしないだろう。
そして、男二人は彼女より僕の方が近いからか、僕の方へと歩み寄ってくる。
そして「あの、すみません。今お時間よろしいでしょうか?」と馬鹿丁寧な言葉を吐いた。
「はい?なんでしょうか?」
いつも通りそう言葉を返すと、二人は手帳を取り出して「実はこういう者でして。」と口にした。
堅苦しそうな方が神埼 慶司。
もう片方の少しひょろっとしている割には、どこか読み切れない感じの方が鎌池 連太郎。
恐らく神埼より、鎌池の方が数段上だろう。
「刑事さん?」
僕がそう呆気に取られた振りをして声を漏らすと、神埼が「いえ、最近ここいらで連続殺人事件が起こっていまして。なにかご存知ないですか?」と本題を切り出した。
「そういえば、そんな噂がありますね。なんでも、人を食べる食人鬼が居るとか。あれって噂じゃなかったんですか?」
そう僕は好奇心半分、恐怖半分を装って返すと、鎌池は「ええ。事実です。よければ、最近この辺りで変わったことがなかったか話していただけますか?」と僕に答えながらに聞いてきた。
「ううん、僕はいつもこの辺りでバードウォッチングとか猫の観察やってますけど、特に変わったことは。たまに木がおかしな揺れ方をしたりはありましたけど、他には特になにも。」
そう答えると、神埼が「バードウォッチング?」と声を漏らした。
「ええ。鳥とかの観察が趣味なんです。」
そう答えて、手にある双眼鏡とカメラを持ち上げてみせる。
すると鎌池の目に疑念の色が浮かんだ。
僕がここに居る理由がバードウォッチングだとして、こんな所で見る鳥とは?そんな感じだろう。
「どういった鳥を観察してるんですか?」
鎌池は楽しそうな笑顔でそう聞いてきたが、流石にバレバレだ。
とはいえ、今の僕はただの素人。
「あ。実は。す、雀を。これをバードウォッチングって言うのもあれなんですけど、可愛くって。」
頬を少し染めて恥ずかしそうに答えると、鎌池の疑念は一瞬にして氷解した。
「いえいえ。雀だって立派な鳥です。生き物を観察するというのはなかなか面白いですからね」
そう鎌池は笑顔で口にした。
だけど、おかしなところを見せれば、鎌池はすぐにまた僕に疑念を向けてくるだろう。
「それでは、お手間を取らせました。」
神埼がそう口にすると、鎌池と二人で彼女の方に歩いて行く。
流石に警官は食べないのか、彼女は二人の質問に年相応な対応で答えて行く。
もちろん、嘘八百だ。
そして、最後まで誘いの言葉をかけることはなかった。
それからしばらくすると、一人の男が現れた。
年は三十半ばといった所か?無精髭が目立つ男だ。
その男は彼女のそばまで行くと「ねえ、お嬢ちゃん。お小遣い欲しくないかい?」と声をかけた。
餌だ。
しかし、彼女はそれに言葉を返すより先に、一瞬だが僕に目を向けた。
気付かれている。
「ごめんなさい。今日はちょっと都合が悪くて。また今度なら付き合ってあげる。」
そう彼女は男の誘いを断った。
初めてだ。
初めて彼女は餌を見逃した。
それは何故だ?
警官が来たから警戒してか?
いや、違う。彼女にとっては、幾ら優れた人間でも、所詮は人間だ。
なら何故だ?何故見逃した?
決まっている。
僕だ。僕が監視していたことに気がついたからだ。
僕は迷わずに、傍に置いてあるカメラの三脚ケースを手繰り寄せる。
中に入っているのは鬼切丸。代々受け継いできた鬼を斬る為の刀。
「そうかい。それじゃあまた今度。」
そう男が言葉を返して立ち去ると、彼女は僕の方を見つめた。
そして、男が遠ざかり、辺りに静けさが戻ると、彼女は口を開いた。
「ねえ、お兄さん。一緒に遊ばない?」
きた。
彼女は襲いにきた。
間違いなく僕を襲いにきた。
それならば、斬るに十分な理由だが、まだ足りない。
何故なら、彼女はまだ襲ってない。
これはまだ誘いの段階である。
「遊ばない。」
そう僕が答えると、彼女は僕の傍に寄ってきて「大丈夫。食べないよ?」と楽しそうに言った。
「なんのこと?」
もちろん、白を切る。
この場で頭をガブリッなんて冗談でも笑えない。
「恍けてもダーメ。ずっと見てたでしょ?それで。」
そう彼女は双眼鏡を指差して笑顔で答える。
そして、次の瞬間僕の手を引っ掴み――
喰われる!
そう恐怖した。
当たり前だ。姿こそ人のそれだが、鬼は鬼。
人の肉を食するもの。
しかし、僕の恐怖は空回りに終わった。
「行こう!」と言った彼女に引っ張られて駆け出し、公園をあとにする。
そしてそのまま住宅街を駆け抜けていく。
過ぎ去っていく景色は僕が全力疾走する時に見るそれよりも遥かに速かった。
気が付けば街の喧騒に包まれていて、辺りを見渡せば既に駅前へと出てしまっていた。
流石にここでは一目に付き過ぎて、襲うどころか暴れることすら叶わない。
仮に襲ったとしても、次の餌が来なくては割に合わないというものだ。
「さぁて。本当は手を付けたくないんだけど。」
そう言って彼女は僕に背中を向けてバッグから封筒を取り出し、それにパンッパンッと手を合わせると、中から三枚程諭吉さんを取り出した。
「さて。とりあえずそこでお茶しよ?」
そして僕に向き直って、そうニコリとした可愛らしい笑顔で言った。
正直、少しドキリとしたけど、相手は鬼だ。
人間ではない。いつでもこちらに牙を向けられる。
僕は頭をクールダウンさせて「うん。」と答えると、彼女と共に見覚えのある喫茶店へと入った。
「いらっしゃい。」
そう声をかけられて、そちらに目を向ければ、お店の名前が刺繍してある黒いエプロン姿の綺麗で優しそうな女性がカウンターに立っていた。
宵月 楓
本人は年齢を25だと言い張っているが、僕の知る限り十年以上この店で店主をやっていて、正直疑わしい。
だけど見た目は本当に二十台前半くらいにしか見えない。
店には楓さんしかおらず、とても静かだ。
僕は楓さんに会釈して、彼女と共に店の奥の方にある二人掛けの席に座った。
「とりあえず、何か頼もう?」
そう言って彼女はメニューを僕に見せながら「あ、これ美味しそうだね?」とか「これ可愛い~」とか言っていて、まるで女の子とデートしていると錯覚しそうになる。
そんな僕の前に、コトリと二人分のケーキとコーヒーが置かれて「こぉら、まこ君。もっと彼女ちゃんの話を聞いてあげないと。そんな風じゃ彼女ちゃんに嫌われちゃうぞ?」と悪戯っぽい声で楓さんに言われてしまう。
「か、彼女じゃありません。」
僕はそう返しながら、テーブルに並んだ物に疑問符を浮かべて「それと、まだ僕達注文してないんですけど?」と聞いた。
すると楓さんは「あ、それ試作品だから、よかったら味見してくれないかな?君達みたいな初々しいカップルに感想もらえると、私としても嬉しいし。」とにこやかに僕の最初の言葉をガン無視して答えた。
そんな僕の目の前では鬼が「か、彼女だなんて。初々しいだなんて。ぴったりなカップルだなんて。」と一人ぶつぶつ言いながら真っ赤になっている。
一つだけ言わせてもらいたい。
鬼が恥ずかしがるな!鬼が!
そう思いながら「はぁ。」と溜息を吐いてしまう。
「あらあら。溜息吐いてると本当に彼女ちゃんが逃げちゃうよ?まこ君。」
そう言われて僕は「違いますってば。それにまださっき会ったばっかりだし。」と返すと楓さんの顔が悪戯っぽいものに変わる。
「ヘぇ~。さっき会ったばっかりなんだぁ?でも、まだってことは、いずれはぁ~。」
「違いますってば!」
慌てて楓さんの言葉に僕が返すと「はいはいわかりました。とりあえずゆっくりしていってね。」と楓さんは潮時と判断したのか、僕にウィンクしてそのままカウンターの方へと戻って行く。
「それで、一体何の用ですか?」
その姿を見送りながらに、僕は比較的冷静にそう口にする。
一体どんな答えが返って来るのか。
そう思いながらテーブルに並べられたカップの中に入っているコーヒーの水面を眺める。
しかし、彼女からは一向に言葉が返ってこず、少しだけ彼女の方に視線を向ける。
「そもそも、出会ったばっかりなわけだし、まだそんな。お付き合いなんてはやいというか、それに急展開過ぎるし。」
あぁ、なんだろうか?頭が痛くなってきた気がする。本当にコレは鬼なのか?
そう呆れだらけになる頭。
けれど、間違いなく彼女は鬼だ。
過去に何人も色仕掛けや情にほだされて懐柔されたりして死んだ鬼祓いや坊さんが居る。
だから、油断してはならない。
鬼は鬼なのだから。
そう思い、僕は今一度気を引き締める。
「おい。いい加減にしろ。」
僕が少しの怒気を含んで口にすると、彼女はすぐにぴくりっと反応して、僕の方を見る。
やはり鬼である。
怒気や悲愴。恐怖や焦燥。所謂負の感情にすぐに反応してみせる。
これが人であるなら、自分の世界から中々帰ってこないものだが、こういう所は流石というか、やりやすいというか。
嫌悪感より、好感を抱いてしまうものだ。
「えっと、ごめんね。怒らせちゃった?」
しかし、しょんぼりしてそう口にする彼女はどうにも鬼らしくない。
おそらく種類としては赤鬼なのだろう。
あのスピードは間違いなく、赤鬼特有のものだ。
しかし、まだ断定は出来ない。
最も赤鬼の特長としてあげられる、凄まじいパワーを見ていない。
その力は、ビルなんかを軽く粉微塵にする程のものだ。
正直、パワー勝負ではさっぱり勝ち目がない。
確かに、現代の銃火器類を使えばなんとかなりそうにも思えるだろうが、そんな物、彼等に当たりはしない。
それこそ、街一つが無くなってしまうほどの空爆でもしない限り無理だろう。
しかし、赤鬼にも弱点がある。
それは、その頭の悪さだ。
力に頼りきっていて、なんでもパワー押しで片付ける彼等は、頭をあまり使わない。
というか、大抵の場合は使わなくてもどうにかなるので、むしろ使う必要がないのだ。
その為、赤鬼を狩る時は主に封殺を行う。
封印する場所を決め、そこに誘き寄せてから、そのままさようなら。というやつだ。
しかし、普通の赤鬼であれば、こんな風に人を遊びに誘ったり、ましてや先日までのように餌を待つなどという面倒はしないはずである。
「ね、ねえ?」
不安そうな声が聞こえて、僕は彼女の方に意識を戻す。
「いや、そこまで怒ってないよ。ところで、僕に何の用ですか?」
そう言って改めて聞くと、彼女は安堵の笑みを浮かべて「よかった。用って言えるような用はないんだけど。よかったらお話ししてみたいなって思ってたの。」と答えられて、僕は思わず目を点にして「え?」と間抜けな声を漏らしてしまう。
「あ!そういえば自己紹介まだだよね?私、の名前は春日 朱。お兄さんの名前は?」
しかしそんな僕のことを気にもせず、そのまま自己紹介へと移る。
僕は呆れだらけの溜息を心の中で漏らして「渡辺 真。」と短く答えた。
「まこと。まことかぁ。良い名前だねぇ。」
そう嬉しそうに鬼が笑う。
僕はそれに「ありがとう。君の名前も良いと思うよ。とっても似合ってる。」と密かな皮肉を混ぜて返した。
すると彼女は真っ赤になって「え?そ、そうかなぁ?」と照れて答える。
何故今のわかりやすい皮肉に気付かない?いくら赤鬼でも、ここまで馬鹿じゃない。
僕は心底呆れながらもそう恥ずかしそうにしている彼女が可愛いと思ってしまった。
駄目だ。鬼は鬼。勘違いしてはいけない。
そう思い返して、僕は「ところで、いつから気付いてた?」と彼女に聞く。
「えっと、君が公園に来始めて三日目くらいかな?最初はなにやってるのかなぁ?って思ってたんだけど、こっちに望遠鏡向けてたから、見られてるんだなぁって気付いて。ずっと声をかけようって思ってたんだけど、恥ずかしくて。」
そう話している彼女は顔を少しずつ朱に染めていき、最後の方には紛らわせるように頬を人差し指で軽くかいていた。
だけど、その赤らめた顔とは相対に、僕の顔は少し青ざめているだろう。
それはそうだ。
鬼の言ったことが本当だとすれば、気づかれていたのは既に一月以上前ということになる。
それだけ長い間、相手に気付かれていないと思っていた僕は、一体何度死んでいたのだろうか?
正直、それを考えるだけでもぞっとする。
やはり、この鬼の仕草だけを見過ぎている。
あまりに間抜けで呆れがさす所為で、この鬼の恐ろしさが霞んでしまっていた。
今でも、鬼は僕を簡単に殺せる位置にいるのだ。
いくら鬼切丸が幾度も鬼を斬ってきたからといっても、別に特殊な力があるわけでもない。
実際は古い割にはとても手入れされていて、切れ味が多少良いだけの、ただの刀だ。
そう、今のこの状況は僕にとっては、とても好ましくない。
この距離と間合いはいいとしても、鬼切丸は三脚ケースの中。
鬼切丸を取り出し、抜いた時には僕の首が飛ぶ。
だから確実に退路を確保しておかなければならない。
「でも、なんで今日になって急に声をかけて来たんだ?」
僕は鬼にそう聞きながら周囲に視線を巡らせる。
運が良いことに、鬼は恥ずかしがってもじもじしながら下を向いている。
無防備過ぎる気もするが、今はそれがとても有難い。
「えと。その。さっき、可愛いって言ってくれたから。」
どうやら、神崎と鎌池の二人に吐いた嘘を自分のことだと思っているようだ。
「それに、私の側に寄ってくる人達と全然違うし。私が寄って来た人達に何をしているのかも知ってるのに、私のこと見ててくれて。それで可愛いって言って貰えて。私、嬉しくて。だから声かけたの。」
そう恥ずかしさで火でも吹けそうなくらいの顔になる鬼。
それに対して『実は君を監視していて、必要とあらば殺す予定だ。』とは流石にこの場では言えない。
言えばきっとこの場で僕はゲームオーバーだろう。
だから、僕はそんな鬼に「そっか。でも、本当に可愛いと思ったから。」と嘘を吐く。
その嘘に鬼は「あ、ありがと。」と口にして、頭から煙を出しながらに俯いた。
僕は心の中でもう一度溜め息を吐いて、もう一度店内を見回して退路を確認する。
しかし残念なことに、この喫茶店にはカウンター横などにある裏口はなく、出口は入ってきたドア一つだけ。
だが窓ガラスでも割れば、逃げれなくはない。
大丈夫だ。落ち着け、僕。
そう自分を落ち着けていると『ピリリリリ』と携帯電話が鳴り響き、僕は鬼に「ごめん。ちょっと失礼するよ。」と声をかけると、そのまま電話に出ながら立ち上がって背を向ける。
『異常はないか?』
いつも通りの冷淡な声。
僕はそれに迷うことなく「一つ問題が発生しました。」と答える。
『なにがあった?』
父上からそう聴かれて、僕は「鬼にお茶に誘われまして。今一緒に喫茶店に来ています。」と正直に答えた。
すると電話越しで密かな笑い声が聞こえる。
ああ。母上もそこにいるわけだ。
その笑い声は間違いなく母上のものだった。
全く。二人していつも心配し過ぎだ。
特に父上はいい加減に子離れしてもらわないと、僕としても少し困る。
そう。この電話は、報告や連絡の為の電話ではなく、父上が僕を心配してのものだ。
本来全く必要はない。
『そうか。別に牙を剥いてきたというわけではないのだな?』
そう父上が僕に冷淡な声のまま心配そうに聞いてくる。
僕は迷わずに「はい。今の所はそんな風なそぶりはみせておりません。」と返した。
『それでは、仕事にも差し支えが出るだろうから、切るぞ。』
父上は僕の返答を聞くと、そう言って電話を切った。
ただ、母上は我慢の限界だったらしく、最後の方には大きな笑い声を漏らしていた。
「まったく。」
ついそう口に出して二人に呆れて、鬼へと向き直ると、鬼の顔が恥ずかしそうなそれから不服そうなそれに変わっていた。
それはそうだ。
間違いなく聞かれていた。
「ずるい。」
そうポツリと鬼は口にした。
来るか?
僕は密かに身構えて、鬼の動向を伺う。
「私のケーキよりそっちのケーキの方がおっきくてずるい!」
鬼の言葉がとてつもなく予想外すぎて、僕は「は?」と間抜けな声を漏らして、目を点にしてしまう。
「は?じゃないよ!そっちのほうがおっきいの!」
しかし、鬼にとってはなにやらとても重要らしく、僕の間抜けな声に食ってかかってくる。
「それで結局どうしたいの?」
僕が少し面倒臭くなりながら、鬼にそう聞いてあげると、鬼は物欲しそうな顔で「そっち頂戴。」と口にした。
まあ、そんなところだろうとは思ったが、この鬼は本当に鬼なのだろうか?
正直、畏怖という感情はこの喫茶店に入ったときと比べて、天と地ほどの差がある。
それでも警戒を怠らないのは、一応鬼というカテゴリに入っているからでしかない。
一度そのカテゴリから抜いてしまったのなら、僕はこの鬼に警戒も畏怖もしないだろう。
しかし、それがどれだけ危うい事かという事がわからない僕ではない。
だから僕は、目の前に居る少女を鬼という言葉以外で表すことが出来ない。
一度でも、鬼でなくしてしまえば、きっと僕は油断して簡単に命を落としてしまうだろう。
まったく、儘ならないな。
そう思って短く溜息を吐くと「全部食べていいよ。」と苦笑しながら口にした。
すると鬼は「え?ほんと?」と目を子供のようにきらきらと輝かせて聞いてくる。
「うん。僕は甘いもの苦手だしね。」
そう返して僕はコーヒーを一口すすった。
そして鬼は微笑みながらに「ありがと」とお礼を言って、嬉しそうにケーキを一口含んだ。
すると鬼は「おいしい。これおいしい!」とおおはしゃぎしはじめた。
姿見だけであれば、本当に可愛いのにな。
楽しそうにはしゃぐ鬼を見て、ついそう思ってしまい、僕は頭を振ってその考えを頭の外へと投げやる。
そんな僕の前にずいっと伸びる黒い影。
背筋が一気に凍った。
正直、飛退く暇などなかった。
油断。
その一言の重さを本当に感じる。
しかし、その黒いものは僕の顔の前でピタッと止まった。
それはどう見ても、先ほど鬼にあげたケーキの一部を突き刺したフォーク。
「まことも食べて。これすっごいおいしいんだよ?」
そのフォークの先にはにこりと笑う鬼。
「いや、いらない。」
恐い。
口を開いた途端、そのままグサリと刺さることを連想してしまう。
そうなってしまうことを想像してしまう。
そうなってしまう可能性に怯えてしまう。
けれど、鬼は「だめ。あーん。」と拒否させる気はないらしい。
「わかった。食べるからフォーク貸して。」
せめて自分で食べれるのなら、この恐怖から開放される。
しかし鬼は「あーん。」と言って、依然食べさせる気満々らしく、フォークをこちらに渡す気配はない。
鬼の顔は人の笑顔そのものだ。鬼の笑顔ではない。
しかしそれがわかっていても、わかってはいけない。
鬼は鬼なのだから。
鬼は鬼でなければならない。
だから、恐れなければならない。
だから、討払わなければならない。
「まこと。私は、ただの朱だよ。」
そう鬼が口にした。
悲しそうに。切なそうに。辛そうに。
「ただの朱なんだよ?」
一雫の水滴が絹のように白い頬を流れ落ちていく。
電話は聞かれていた。
朱を恐れている事も知られていた。
朱を鬼としてしか見れない事もばれていた。
なのに何故、気づかない振りをしたのだろう?
何故その時僕を責めなかったのだろうか?
疑問ばかりが浮かんでくる。
「ねえ、まこと?私は朱じゃだめ?朱で居ちゃだめかな?」
そう聞かれて、僕は何も答えずに宙ぶらりんになったままのケーキを食べる。
しっとりとした甘みは、僕には少ししつこく思えて仕方ない。
そんな僕を見て、彼女は何かを察したのか、涙色の顔のまま嬉しそうに笑う。
『パシャッ』という軽い音共に眩しい光が襲った。
目を一瞬細めたが、すぐに光は止んで、光の襲ってきた方にはカメラを持った楓さんだけが残っていた。
「いやぁ。まさか彼女ちゃんが急に泣き出すとは思わなかったけど、良い絵が撮れたわぁ。」
僕がジト目で見ていると、誤魔化すようにそう口にする楓さん。
「こらこら。そんな嫌そうな目で見ない!これは君達の記念なんだから。それに!コーヒーとケーキご馳走してるんだし~」
楓さんはどこか含みのあることを言って最後にはこれ見よがしな笑顔を振りまく。
そんな楓さんに、僕は深い深い溜息をコーヒーで飲み込んで、小さく「はぁ」と溜息を吐いた。
そして僕の溜息を聞いた楓さんは勝ち誇ったような笑みを浮かべて「ゆっくりしていってね」と改めて言って、鼻歌混じりにカウンターの方へと戻っていった。
「ね、ねえ。あの写真って、お店の中とかに貼られちゃうんだよね?」
そう朱は恥ずかしそうに微笑んでケーキをもう一口フォークに突き刺して僕に差し出す。
「多分そうだね。」
そして僕はそう答えながらそのケーキを迷わずに口にした。
すると朱は「なんだか恥ずかしいね。」と言いながら嬉しそうな顔をする。
その顔は幸せそうな女の子の顔で、僕は少しドキリとした。
その日の帰りはいつもより遅い時間になってしまった。
辺りは暗く、街灯の頼りない光がぽつりぽつりと道路を照らしている。
そんな夜道を歩く僕は、彼女――朱という名前の少女のことを思い出していた。
恥ずかしそうに頬を掻いたり、ケーキの大きさで捏ねたり。
彼女は本当に鬼なのだろうか?
いや、鬼であることは間違いない。けれど、鬼とは思えない。
「ただの朱。か」
そう呟いた頃には、もう家のすぐ傍だった。
僕はいつもの様に「ただいま。」と口にしながら、ドアを開ける。
「おかえりなさい、お兄様。」
するとそこには、笑顔で帰りを待っていた雅が居た。
「遅くなってすまない。」
そう雅に謝ると、雅は「いえ、気にしないでください。」といつもの優しい笑顔で口にする。
僕が靴を脱いで家に上がると雅は優しい笑顔のまま「そういえば、今日は年若な女性とお茶をなされて来たと、叔母様から聞いています。楽しかったですか?」そう聞いてくる。
「ああ、変わった女だったが。そうだな、楽しかった。」
そう僕が答えると雅は「そうですか。お風呂と夕餉の準備は出来ていますので、早めに済ませてくださいね?みやびはもう休みますので。」と言って奥へと下がった。
「本当に出来た娘だ。」
そうまた爺臭い言葉が出てしまったが、雅は本当に出来た娘なのである。
しかしその日の夕食は、遅かった所為もあり、いつもと違って冷たく、そしてその後の風呂の湯はとてもぬるかった。