幸福なる敗北者
1
幸せな一生とは何だろう。彼は考える。愛すべき妻子に囲まれて安らかに眠ることだろうか。そう終えるためには、地道な努力がいることだろう。
彼は材料を機械にはめこみ、二十ほどあるゲージを調整してスイッチを入れた。エンジンがかかり、機械がうなる。がたんごとん、電車の走行音に似た音が響く。
大きな鉄の箱が材料を食らい、小さな部品を吐き出していく。十五分に一度、製造された部品を検査する。歪みはない。がたんことん、機械はうなり続ける。
高校を卒業し、工場に就職してから五年が経った。溶剤の強い臭いも、この騒音も、周藤修にとっては日常の一部になっていた。ぼうっと機械を見ながら彼は考える。
今朝、亮子から仕事終わりに会いたいとメールが来ていた。彼女も遅くまで働いているので、平日に顔を合わせるのは珍しいことだった。何かしら重要なことを伝えたいというのはメールの文面からも察せられた。
——月のものが来ない
ありえないことではない。子が出来るのならば求婚をして籍を入れよう。高校卒業と同時に付き合い始めてからもう五年だ。できちゃった婚でも恥じることはない。そうしたら素朴ながらも幸せな家庭をつくりたいものだ。
——別れましょう
ありえることだ。亮子はスーパーの社員で収入が良いとは言えない。自分だってこれだけ働いてきて大卒採用の新人より給料が低い。共働きをしても、家庭を築くにはあまりに心許ない。別れた直後は悲しむだろうが、いずれ立ち直れるだろう。マンネリな二人には良い岐路になるかもしれない。
両極端な想像を交互に膨らましながら、彼は己に問う。幸せな生き方とは何だろう。
2
昼休みを告げるベルが鳴り、周藤は製造機を止めた。他の機械を担当している同僚二人と社員食堂へ向かう。
一方は浅黒く日に焼けた男で、スポーツを続けているのか体格が良い。ぼさぼさとした髪を金に染めており、垂れ目ではあったが目つきは悪く攻撃的な印象を受ける。歳は三十の前半で、名前は福井と言った。
もう一人は青白い肌をした痩せ気味の男だ。顔の輪郭は角張っており、目は細い。口のはしに泡をため、甲高い声でべちゃくちゃと喋っている。歳は三十の半ば、森と言った。
食堂ではAランチとBランチが選べた。券売機に金を入れる。カウンターにはもう料理が置かれているので、食券と交換する。冷えて乾いたご飯、それも慣れた。
福井と森はよくパチンコの話をした。それに妻の愚痴や、子供の話、風俗での失敗談が合間に交じる。味わうという様子もなく、料理を口に詰め込み、よく噛まずに飲み込む。まるで餌を食らう動物のようだ。あの台が当たった。あそこの女は良い。食べ物を口に入れたまま、そんなことを語り合う。
周藤は何をしている? 彼は黙って二人の会話に耳を傾けている。同僚らが幸せなのかを考えている。二人とも国内大手の製造会社に正社員として勤め、愛すべき家庭を持っている。三十年分のローンを組んで一軒家だって手に入れた。幸せな毎日が、安定した日々が待っている。そんな生活を望もうと、手の届かない人はごまんといるだろう。
それでも周藤は先輩たちに惨めさを感じてならない。それはパチンコを最大の娯楽として意義のない時間を過ごすからだろうか。ならば意義のある時間、行為とは何であろう。周藤の愛する読書だろうか。いいや、その行為のどこに意義がある。
幸せとは、愛すべき妻子に囲まれ安らかに眠ること、だとしたら、金も女も得られない読書に何の意味があるだろうか。いっときの気晴らしだ。暇つぶしの読書家、それはパチンコ好きと何ら変わりがない。
周藤は己にこう言い聞かせる。自分の現状も捨てたものではない。少ないながらも安定した収入があり、愛すべき人がいるということは。このまま地道な努力を続けていれば、きっと幸せになれるだろう。
こうして周藤は一つの答えを用意することが出来た。だが、彼はその答えに何か卑しい嘘が隠れているように思えて仕方なかった。
3
電気信号で制御されようと、気温や湿度、油の具合、それらの影響で機械の動作は変化する。なので十五分毎に検品をする必要があった。吐き出された部品の具合を見て設定を調整する。デジタル化が進めども、全てはアナログの上に成り立っている。
休憩時間は四十五分、昼食と仮眠で終わる。後は夜の十時まで同じことを繰り返す。それが週に五度続く。楽しくはない。慣れた今ではつらくもない。指示された通りに動くだけ。
公言することはなかったが、周藤はこの時間を嫌ってはいなかった。話し声など感情の乗った音は掻き消される。騒音も慣れてしまえば無音と変わらない。ひとりの時間、何を考えても自由な時間。空想に耽れば、気づかぬ内に時計の針は一周している。
今日は九時頃と早めに仕事を終えられた。のたのたと作業着から私服に着替え、電車に乗って亮子との待ち合わせ場所に向かう。車内は空いており殆どの乗客が座れていた。周藤はドア付近でシート横のパイプに寄りかかる。女の喋り声が嫌でも耳に入ってきて、彼はイヤホンを忘れたことを悔やんだ。
三十過ぎの化粧の濃い女と幸の薄そうな女がハワイ旅行へ行った同僚について話している。前者の若づくりして鼻にかかった声が周藤にはただ不快だった。
海外旅行は羨ましいけど、ハワイはなんか品がないよね。友人を羨みながらも、蔑むような口振りだ。なぜ、そんなことを語る必要があるのか。
苛立ち、焦り、不快感、不定形な想いを、言葉という形に凝固させ、吐き出して、胸の内に貯めて腐らないようにする。気持ちは整理され、解体される。そうする必要があるからこそ、人は話をするのだろうか。
自分が直線的に考えすぎていることに気づき、周藤は別の面から会話について考える。大事な人と共有することで幸せは二倍になり、不幸は半分になる。誰かがそんな美しいことを言っていた。どういう原理が働いているのだろうか。
人は一人では生きられないと言う。日常を描くドラマ、孤独死のニュース、テレビを見れば、家族との日常は幸福で、孤独な暮らしは不幸と教えてくれる。二人以上で生きるということは何かを共有することである。もしかしたら、その共有するということ自体が、幸せと近しい間柄にあるのだろうか。だから人は会話を求めるのだろうか。
自分の考えが正しいか確かめるために女たちの様子を彼は探ろうとした。だが、気づかない間に二人はもう電車を降りたらしかった。がたんごとんと音が響く。想いの込められた音は聞こえない。
ふと、周藤はこの光景に不気味なものを感じた。いつもの景色と違いはない。シート席に老若男女が腰掛け、新聞や本を読んだり、携帯電話やゲーム機を操作している。自分の領域を確固と守り、付近の他人へ迷惑をかけぬようにマナーを守っている。
彼らは隣人との共有を拒否している。目が向かう先は平面に描画された図形、耳はイヤホンに塞がれている。外部を遮断し自分のための空間をつくることを心がけている。それは、周藤だって同じだ。
もし、共有が素晴らしいものならば、こんな光景が生じるのだろうか。己が工場で自由を感じられたように、人々が心から望むのは一人の自由な空間ではないだろうか。
いいや、違う。周藤は己の思考を呪う。それらしい答えを一つでも見つけると、あれこれ脈絡のない些事を積み立てて、正しさを信じ込もうとする己を呪う。
スマートフォンでメッセージを送り合う人たちがいる。彼らは決して全ての共有を拒絶していない。人々と共有を求めている。
朝の通勤電車を思い出す。脂ぎった中年の男と若い女学生、何の関係のない者同士が体を密接させている。今だって肩が触れる位置に関係のない男女が座っている。お互いに何も意識せず、扱いは物と変わらない。背景にしか過ぎない。
みんな他人を人でないと無視する環境に慣れている。赤の他人との共有は拒絶する。けれど、家族や恋人、同僚や友人との繋がりは意識する。大事にする。それは——
考えがまとまるより先に電車は目的の駅に着いた。大事にすべく彼女と会うのだ。こんな身にならないことへ頭を使う必要はない。周藤は己にそう言い聞かせる。
4
清水亮子は中学の同級生だった。当時の思い出が周藤には殆どなかった。卒業後、彼は工業高校に、彼女は公立高校の普通科に進んだ。高校二年の夏に同窓会で再会し、話が盛り上がりメールアドレスを交換した。進路の相談をしている内に親しみを覚え、周藤から告白をして恋人同士となった。
亮子は素朴な女だった。中肉中背で、顔も際立った美人とは言えないだろう。十代の頃は若さと言う輝きがあった。けれど、それは歳と共に磨かれる性質にはなかった。
待ち合わせ場所のファミレスで、先に席へ着いて携帯電話を操作している彼女の姿を遠目に見ながら、周藤は女の老いをまじまじと感じていた。目尻には皺ができ、鼻先は脂で光っている。若さは彼女から足早に逃げてしまった。
けれど誰が彼女を咎められるだろう。偶像とは異なり、生き物は老いる。自営業の両親を手助けしながら、恋人の収入に不満ももらさず地道に貯金をし、記念日には手編みのマフラーをくれた。迷惑もかけず、負担にもならない。彼女が良い妻になるのは目に見えていた。だからこそ彼は交際を続けていた。
そういった打算的な考えは何時だって周藤から離れてはくれなかった。損得、幸不幸、0という境界線を引き、自分をプラスにしたかった。そうせずに生きるには、世界があまりにも不安だった。
たわいもない話から始めた。近くの遊園地で行われるイベントのポスターを見かけたと彼が言った。まるで集客できそうもない内容だと二人で笑う。そこは彼らが初めてデートをした場所だった。色んな初めてを語り合い、昔話を楽しんだ。そんな時にも、電車内で生まれた疑問は不気味な低音で彼の心を揺らす。
幸せなものが、自ずから幸せを吹聴する必要があるだろうか。そう感じられないから、縋るように過去の出来事を美化して語るのではないか。彼は己の問いに答えられない。
亮子は今の会社を辞めると言う話をした。父親が倒れ、どうしても家業を手伝わなければならないらしい。彼女は申し訳なさそうに一緒に居られる時間が減ってしまうと告げた。
周藤は肩すかしだった。想像していた急激な変化は訪れなかった。けれど、彼が曖昧に描いてきた幸せの想像図は、今まで以上にぼやけてしまった。
亮子には姉が一人いたが、数年前に結婚して家を出ている。男兄弟はなく跡継ぎはいない。家族経営の小さな印刷会社で給料なんてあって無いようなものだ。いいや、金なんてどうでも良い。自営業につきっきりになる女と結婚できたものか。それとも、自分が婿に入るべきか。将来性のない会社を継ぐために? 周藤の目が細められる。彼は苛立っている。けれど相手を気遣う言葉だけを投げて本心は明かさない。
二人とも本音で語ることが苦手だった。周藤は熱しやすい所があり、直線的に感情をたかぶらせてから、それを落ち着かせるために別の方向から物事を考える癖があった。そうやって擬似的に客観性がもたらされ、感情任せの発言が幼く愚かなものに思えて、気づけば想いとは別のことを口走っていた。
別れる時、亮子は名残惜しそうな瞳で彼を見た。寂しいと言った。彼はそういった気配を馬鹿らしく感じて、彼女の誘いを優しく断る言葉を探していた。無性に独りになりたかった。
急に、下腹部が、胃の底が痛んだ。目がちかちかして、全身が痺れた。苦しかった。そうして、気づくと彼女を抱きしめていた。
どうしてそんな事をしたのか、彼自身分からない。ただ、そうせずには心が押し潰れてしまいそうだった。この時は彼女の温もりがただ必要だった。
5
周藤の勤めている会社は週休二日制であった。彼の場合は日曜日と平日のどれか一日が休みで、今日がその日であった。周藤はせっかくの休みなのに自室の布団から出ずに幸せについて考えている。
——妻子に囲まれながら安らかに眠る。どうしてそれが幸せなのだろう
子孫を残せたことで生物として満足するのか。それとも、集団生活を営む人間として、必要とされ、自分の場所があることに喜びを感じるのか。
——必要とされる喜び
存在価値を認められて幸せと感じる。ありそうなことだ。己が価値を感じる相手に自分を正しく評価されてこそ、その感情は生まれるだろう。互いを知る必要がある。その為には?
——会話、そして整理
言葉を交わすことで相手を理解することが出来る。言葉として表すには感情を整理しなければならない。想いを十全伝えることは出来ない。削り削って既存の型にはめなければ相手に伝えられない。そうやって定型に押し込めて、削ったものを忘れる。
苦労話や愚痴だってそうだ。何に対してストレスを感じたか整理し、共有して、労いの言葉をもらう。苛立ちや疲労はごまかされ、愚痴を吐けたことに満足するだろう。これが、幸せか? だが、少なからず救われた気分にはなる。
今だって、と周藤は思った。このあやふやな悩みを力任せに彫刻し、文字にさえすれば、考えは整理され、想いは屠殺され、気が晴れるかもしれない。だが、出来なかった。
暗がりへ向かう思考を、周藤は上へ、高く、飛翔させようとした。今の考えは幸せから離れてしまっている。自堕落な空想に酔うのは容易く、得るものは少ない。
人は動物であり、種を残すため、生きるための本能がある。大昔から集団行動をせねば生きられぬ貧弱な動物だ。同種と交わること、それは本能的な欲求ではないか。性交に肉体が快感を味わうように、他者と交わることで心地よさを得られるのかもしれない。
共有を求めるのが本能的なものだとしたら、独りを欲するのは理性から生じる願いだろうか。亮子を抱きしめた感覚を、周藤はふと思い出す。あの時、自分は本能的な、感覚の奥底から愛情というものを感じていたのだろうか。それが満たされることが、幸せなのか。
延々と自分と語り合った。疑問は無限の広がりを持つ空想の中を動きまわり、流動的に変化した。一貫性も論理もなかっただろう。しかし、言葉という鎖もなかった。その自由さは彼を幸せにした。
ああ、そうなのか。と彼はつぶやいた。額に薄く血管が浮かび、唇が震えた。今までの定義が逆転する。あるひらめきが彼を襲う。
ひとり、独りでいることこそ、本当に求めているものではないか。共有を求めるのは、理性的、言い換えれば打算的な必要に駆られてではないか。そうして目指すのは歪んだ幸せではないか。
異性とふれあい子をつくる幸せ。種は子孫を必要とする。友人や家族と仲睦まじくする幸せ。人は一人で生活を保てない。独りの生を愛そうにも、生活はそれを許さない。そうした現実をごまかすため、仕方なしに偽の幸せを掲げる。物語の中に問題のない家族を描き、我々はそれが幸せな風景だと思い込もうとする。そうでもしなければ、求めるものを得られない現実はあまりにも望みがない。
誰もが他人を背景と思い込む電車の光景にも、それが現れているのではないか。知人や恋人とは必要に迫られ交際をするが、赤の他人との縁は遮断する。それは大きな獣を狩るために原始人たちが協力した時から延々と続いているのかもしれない。日が暮れれば、彼らは快楽の餌に惹かれて異性と交わっただろう。それ以外の時は? 不気味に思えたあの鉄の箱の光景、けれどあれは本来皆が求めている姿ではないか。自分が恐怖を覚えたのは、それが無視されているからではないか。
この考えが正しいかどうか、他人と確かめ合う必要もない。自分の求める幸せは、ただ一人で想いを想うことだろう。彼はそう確信した。
偽りの幸せが彼を甘い香りで誘う。本当の幸せは私だ。独りよがりを待つのは惨めな死しかない。恋人を愛せ、私はその未来でしか待たない。そうやって優しく脅しつける。彼はまるで動じない。未来の幸せ? 明日は永遠に来ないというのに、そんな定かでない物のために今を捨てるのか。
偽りの幸せに屈することは、ありもしない偶像の奴隷になることに思えた。それは彼にとって敗北に違いなかった。
目をつむり、深く息を吸う。言葉や形に落とし込めない無限の広がりを持つ己の思想を愉しみ、五感が与える全ての刺激を味わい、感じることを感じ、考えることを考える。周藤は誰にも共有する必要がない至高の幸せを味わっている。
6
週休二日とは一体誰が決めたのだろう。労働者に対してこの休みの割合は全くもって適切に思えた。深く考えを巡らす時間はなくとも、気晴らしをする余裕はある。周藤はそんなことを考えている。
気がつけば、いつもの時間に起きて、いつもの時間の電車に揺られていた。まるで誰かに遠隔操作されているようだ。目をつむり、他人を遮断して周藤は独りを楽しむ。誰も彼を邪魔はしない。彼も誰にも影響を与えない。
工場につき、作業服に着替えて、朝会を終え、自分の担当場所へ向かう。材料を機械にはめこみ、二十ほどあるゲージを調整し、スイッチを入れた。エンジンがかかり、がたんごとんと機械がうなりだす。音のリズムに合わせて彼の思考も幾重の層が生まれ、圧縮され、掻き消え、再誕する。
思えばあれほど不安がる必要はなかった。老いぼれた先を気にして、恋人をつくり結婚する必要があるだろうか。年金生活のためにこれからの四十年間をふいにするようなものだ。その頃には甘い誘惑を信ずるほど衰えて、偽りの幸せを全うできるかもしれない。だが、それは望んでいない。
機械の音に分解され、己の身が空気に溶けてゆく。営業や広告屋のように、何も造れないくせに手数料だけで金を生む輩を周藤は嫌った。だから、社会の役に立つために物を造る職を選んだ。けれど商品は一、二年で飽きられて捨てられる。ゴミを量産しているに過ぎない。物に価値などない。
頭から言葉を追い出して、感覚だけで埋め尽くす。何も考えず、感じる。この幸せ、これこそが幸せ。生きるために必要最低限の事はしなければならない。でも、この幸せを捨てては手段と目的が逆になる。
彼の世界を不気味な赤が脅かす。赤い明滅が彼の目を刺激する。甲高い警告音が鼓膜を振るわす。周藤は呆然と立ち尽くしている。
何しているんだ! おい、どうした! 誰のラインだ。おい、周藤、何をしている。周りからの言葉で我に帰され、周藤は急いで機械のスイッチを切った。
駆けつけた上司は、直ぐに技術者を呼んだ。材料がうまく設置されていなかったらしい。上司は周藤を睨み、烈火の勢いで彼を怒鳴り、なじり、こけにした。
セットしてから二度点検する手はずになっているだろう。そんなことを忘れたのか、猿でも出来るぞ。甘ったれるな。クズが。謝って許されることじゃない。せっかくうちのラインは事故ゼロが続いていたのに、お前のせいでパーだ。お前のせいで課のボーナスは減るだろう。皆にあとで土下座して謝れ。周藤は何度も頭を下げた。かんしゃくが収まると、上司は背を向けて、ぼけっとしてないで早く動け、うすのろが、と怒鳴った。
機械の内側にはさまった材料の欠片を全て取り出さなければならない。そう技術者に告げられた。少しでも残っている内に動かすと復旧が更に難しくなる。今日の製造ノルマは決まっている。それを終えられなければ会社の信頼に関わる大問題になる。周藤は全力で機械の整備に当たった。昼休みを伝えるベルにも気づかない。
機械に入り込んで作業していると足を叩かれた。邪魔されたように思えて、睨みながら振り返る。体格の良い同僚、福井がいた。
焦るとまた事故になるから休めと彼は言った。森は購買で買ったおにぎりを渡してくれた。休憩時間なのに二人とも機械の整備を手伝ってくれた。周藤は胸が痛かった。こみ上げるものを感じていた。
夜が近づく。納期も迫る。先にノルマを終えた福井と森が彼のラインを手伝ってくれた。どうにかして仕事が終わったのは十二時前だった。上司に頭を下げ、同僚や技術者にも謝り回った。体が重かった。
鋭い目つきで睨みながら、福井は面を貸せと言ってきた。助けてもらった手前、周藤は大人しく従う。
工場から駅まで向かうバスに乗る。隣に座る福井の自分よりも高い体温を肌で感じる。相手は不機嫌そうに顔をしかめている。何か話すべきと思いつつも、言葉は浮かばない。無言のままバスに揺られる。
駅前のコンビニで缶ビールを三本買った。そうして店の前でプルタブを開ける。彼らはこうやって安く手短に飲むのを好んだ。周藤は嫌いだった。みっともない行為だと思っていた。
甲高い声で、細い目をより細めながら、森はこの前行ったピンサロで自分のふとももより太い腕の女が出たと言う話をした。握り潰されちまうや、と言って福井はげらげらと笑った。周藤も小さく笑った。
酒に酔って頬を赤くしながら、あんまり気にするなよ、と福井が言った。彼らは自分を元気づけようとしてくれている。この優しさも周藤の論理に従えば、集団の中で足を引っ張る個体が出ないようにするため、そんな打算的な行動と判断できる。己の世界を崩す惑わしだろうか。
ビールを一本飲み終えて、二人と別れた。ふとスマートフォンの画面を見て、亮子から幾つも通知が来ていることに気づいた。今日は土曜日、夜から彼女と会う予定だった。
電話をかける。彼女は出ない。もう家に帰って寝てしまったのだろうか。謝罪と言い訳のメッセージを送る。「開封済み」と表示された。彼女は起きている。「はやくきて」そう返事が来た。
約束の場所までいち早く到着したかった。だが、電車は貧しい男独りのために止まれはすれど、加速はしない。駅につき、車両を飛び出て、走る。彼女はいつものようにコンビニで待ってくれていた。立ち読みする雑誌がなくなっちゃたよ、と亮子は言った。
翌朝、周藤はとても早く起きた。隣で眠る彼女の髪を優しく撫でながら、彼はぼろぼろと涙をながした。女の目にできた皺も、乾いた肌も、彼には黄金のように輝く宝物なのだろう。小さな声で愛の定型句など囁いている。ああ、彼は誘惑に負けてしまった。そうして、とても幸福な気分を味わっている。まったく、幸福な敗北者である。