05
アンが目を覚ましたのは、黒真の部屋だった。まだ頭が働いていない。揺れる視界に手を伸ばしてみる。すると、声がかけられる。
「ん?起きたか?」
その声に、アンは、急速に頭が働き出した。
「ま、魔王様?」
「おう。アン。起きたみたいだな」
アンは、急いで上半身を起こした。急に体を起こした所為か、頭が揺れるような感覚がした。
「あっ」
勢いよくベッドに再び倒れそうになるのを、黒真が受け止めた。
「大丈夫か?」
「はい。だ、大丈夫です」
アンは、至近距離から黒真に見つめられ、顔が真っ赤に染まるのを感じた。顔が熱くなる感覚。そして、体の奥深くがギュッとなり、疼くような感覚。俗に言う、恋慕と言うものなのかもしれない。アンは、それを自覚したとたん、思ったことがあった。
「魔王様」
「どうした?」
呼びかけに応えてくれるその声は、温かみのある、優しい声。アンは、黒真に言う。
「もし、もしよろしければ、ですけれど……」
「何だ?」
アンは、言うかどうか、暫し迷ってから、小さな声で言う。
「黒真様とお呼びしてもよろしいですか?」
アンの言葉に、黒真は、「なんだ、そんなことか」と思った。もっと何か重大なことがあるのかと思った黒真は、あっさりと答える。
「ああ、構わないぞ」
黒真の答えに、アンはパーッと明るい顔をする。眩い笑顔に黒真は、微笑ましい気持ちになった。
「で、では。不肖、アン・リー・メイド。黒真様のメイドとして、生涯を尽くすことを誓います」
違和感と悪寒を同時に覚えた黒真は、アンを見る。アンは、黒真のために生涯を尽くすと言った。これは、アン流のメイド十ヶ条によるものだ。
「アン・リー・メイド流メイド十ヶ条と言うものを自分で定めています」
アンは、メイド十ヶ条を語り始める。黒真は、なにやら不穏な雰囲気を感じ取り、少し引き気味である。
「一条、主には生涯を尽くすこと。二条、主と決めた者のためには全てを捧げること。三条、主と生涯寄り沿うこと。四条、主への忠誠を誓うこと。五条、主と共に生涯をすごすこと。六条、主には、羽を見せること。七条、主を愛すること。八条、全身全霊を主のために使うこと。九条、自分のものは、全て、主のものとすること。十条、以下をなんとしてでも守ること」
十ヶ条、全てを黒真に聞かせた。黒真は、取り返しのつかないことをしてしまったような、後悔の念に襲われる。軽々しく名前で呼ぶことを許可したが、アンにとっては、それが主となる契約のようなものだったのだろう。こうなった以上、一生付きまとわれるのではないか、と言う思いに襲われた黒真。ストーカーがストーカー宣言した時のような、言い知れない恐怖感。黒真の頭に一瞬「ヤンデレ」の単語が過ぎるが、アンの性格を考えて、そこまで悪化はしないだろうと、考えを改める。
「お、おう。よろしくな」
少し、脅え気味で返答をした。肯定的返答に、アンは、顔を綻ばせる。
「黒真様。たとえ、元の世界に帰られてしまっても、必ず、アンは、お側に添い遂げます」
黒真は、「ひぃっ!」と声をあげそうになってしまった。黒真は考えを改める。アンは、「ヤンデレ」になるかもしれない。
それからの日々は、単調だった。同じような日々。黒真が寝たら、七時間経つとアンが起こしに来て、出来立ての暖かいご飯を食堂でアンと二人で食べる。アンと話したり、本を読んだりして、時間を潰す。またご飯を食べる。また時間を潰す。またご飯を食べる。風呂に入る。時間を潰す。寝る。また起こされる。
ただ、それだけだった。黒真は、それに不満があったわけではない。むしろ、自由な時間に、満足感すら感じていた。しかし、それと同時に、やることがどんどん無くなっていく虚無感にも襲われていた。
時折届く勇者一行の現状に苛立ちを覚えながらも黒真は、勇者が来るのを待った。
黒真が異世界に来てから約一年の日々が経った。黒真は思っていた。勇者として召喚されたのならば、生死の危険はあるが、冒険ばかりで退屈はしない。だが、魔王は、ただ待たされるだけ。
(あいつも、こんな気持ちだったのかな)
黒真は、一人の女性を思い浮かべ、そう考える。
(あいつも第一声は、「遅かったな!」だったもんな。そりゃ、一年近く待たされれば、そうなるな。俺ももうじき来る勇者に言ってやるか)
勇者達は今、パークスライムの毒沼を渡っている途中だと報告が来ていた。
それもかなりのペースで進んでいるそうで、魔王城に来るのも時間の問題だろう。アンもそれを見越して準備に入っている。準備と言っても、魔王の威厳がどうとかで、黒真のための衣装を作ったり、部屋のセッティングをしたりしているだけなのだが。アンは、戦闘には参加しないらしく、準備担当らしい。
扉がノックされる。
「アンか?どうした」
扉が開き、アンが顔を見せる。
「勇者一行がパークスライムの毒沼を突破しました。もうじきここに着くかと」
アンの言葉に、黒真はにやりと笑った。
「そうか、来たか」
嬉々としている黒真に、アンが衣装を渡す。
「黒真様。マントです」
そう言って、マントを羽織らせ、肩で止める。
「黒真様、お似合いですよ」
アンの笑み。頬が赤く、艶やかな笑みに、黒真は、一瞬、心を奪われた。
――バァアン!
大きな音により、現実に引き戻される。
「来た、ようですね」
アンが言う。
黒真は、ゆっくりと立ち上がる。アンを見ながら告げる。
「絶対に、勝つ」
「はい、黒真様。御武運を」
黒真は、ゆっくりと歩き出す。この戦いが終われば、黒真は、元の世界に帰れるだろう。だから、きっと最後になる。そう分かっていても、黒真は、振り返ることなく、黒真は、前へと進む。
黒真は、一人部屋にいた。バタバタと足音が聞こえる。おそらく勇者一行が近づいてきたのだろう。中には人のものとは思えないような足音すらする。
――バァン!
ドアが勢いよく開かれた。
「遅かったな、勇者よ」
黒真は、魔王っぽく、そう言った。
「貴様が、魔王か!」
勇者はそう叫ぶ。黒真は、面を食らったような顔をした。
「お、女?」
思わずそんな声が洩れてしまった。黒真が驚いたのも無理は無い。普通、勇者といえば男だろう。しかしそれは偏見でしかない。勇者が男しかいないわけではないはずだ。
「そうだ!我こそは、勇者。勇者エル・トリアだ!」
堂々と叫ぶ様子を見て、黒真は、恥ずかしくないんだろうか、と思ったが、本人は恥じている様子が微塵も無い。
「俺は、紫藤黒真。魔王だ」
黒真は、ふと考えていた。自分がどうして魔王でいることを認めたのか。普通なら、全力で拒否してもよさそうなものだが、黒真はあえて、受け入れていた。それは、一人の女性を思ってのことだった。
黒真は思う。
(俺は、きっと、あいつに並びたかったんだろうな)
そう思わざるを得えなかった。無論、アンの影響も少なからずある。しかし、魔王になり続けたのは、きっとそれが原因だ。
「魔王、貴様をここで倒す!」
勇者は高らかに宣言した。
「エル・トリアって言ったか。お前は、何故勇者になった」
黒真は聞いた。
エル・トリア。銀色の髪と海のように蒼い瞳。お世辞にもいいとは言えないプロポーション。特に、胸はない。白磁のように白い肌には、傷一つなく、本当にこれまで苦難を乗り越えてここまで来たのか、と疑いたくなるほどだ。手に携えた剣も、どこかの名剣とかではなく、ただのその辺に売っている鉄の剣だ。勇者かどうかすら疑いたくなる。
「我は、祝福されて生まれた。だから、勇者になった。逆に問おう。貴様は何故、魔王などをやっている」
黒真は答える。
「俺は、ある女と対等な関係になるために魔王になった」
そう言った。するとトリアは眉を顰める。
「そんな理由で魔王になったのか?貴様は馬鹿か?」
トリアに次いで、賢者、ジャネック・イスバーンが言う。
「今代の魔王は愚か者だな!前の魔王の方が、まだしっかりとしていたよ!」
賢者の賢者らしくない口ぶりに、黒真は、なんとも言えない顔になる。
ジャネック・イスバーン。先々代勇者。賢者とは名ばかりで、実際の素行は割りと悪い方。見た目は金髪のシスター。二十代に見えるが、実は六十代を過ぎている。それは【聖力】ではなく、ただの体質だ。大きな胸は、トリアを比較対象とすると、もっと大きく見えてしまう。シスターの着る修道服は、大幅に改造されており、少々露出が高めだ。
「何だ、その口悪シスター。いや、まあ、格好的に賢者なんだろうが……」
黒真が聞くと、トリアは、額を押さえて項垂れる。
「まあ、その、なんだ。パーティに汚点を入れておくのは、ハンデとして重要だからな!」
仲間を汚点呼ばわりするトリアもトリアだが、それでまた、胸を張るような格好をするジャネックもジャネックである。これでは汚点と呼ばれても仕方がない。こんな人が、魔王に勝てるわけも無い。だから、負けたのだ。
「おい、お前ら。仲間内で悪口を言ってる場合じゃねぇよ」
武道家、リュウ・マシバが二人に喝を入れた。
「おお、いいこと言うじゃないか、武道家君」
リュウは、筋骨隆々のいかにも武道家だ。坊主頭に、鉢巻。古典的とさえ言える。ボロボロの胴着は、血が滲んでいて、いかに厳しい訓練をしてきたかが窺える。
「うるせぇ!」
「ガウッ!」
リュウの怒鳴り声と同じように、猛獣の声が唸りをあげた。
「それは、アルベントサーベルキャットか」
黒真の見覚えのあるその虎を見て、そう呟いた。
「知ってるの?」
褐色の肌を持つ少女が聞いてくる。獣使い、ニムル。ボサボサの茶髪は、手入れが行き届いていそうに無い。服もボロボロだ。ちなみに、彼女が、これほどまでに野性的なの、別に野生で育ったとかではなく、獣使いが獣と心を通わせるために、自然と一体になっていたからである。
「まあな。アルベントサーベルキャット。鋭い爪と大きな体躯。大きなものだと全長が十メートルほどにもなる魔獣だ。知能も高く、人語が理解できるものもいるらしいな。弱点は、牙だ」
そう言った瞬間に、アルベントサーベルキャットの牙が折れた。
黒真が【魔力】を使ったのだ。空間を操る能力、【絶対領域】。黒真は、空間の位置情報を把握し、範囲的に、アルベントサーベルキャットの牙のところに空間を生み、空間を、普通の空間から切り離した。それにより、アルベントサーベルキャットの牙は、折れたのだ。
「な、なに?」
ニムルの声。勇者一行に緊張が走った。
「よう、アルベントサーベルキャット。次は、どうしてもらいたい?」
黒真は、少し鋭い声で問う。アルベントサーベルキャットは、脅えたように震え上がる。そして、一目散に、魔王城から逃走した。
「さて、まずは、邪魔な奴を帰した」
黒真は、静かに勇者一行を見る。
「お前、なんだよ……」
リュウが、黒真をありえないものでも見る目で見た。
「これは、ちょっと、まずいよ!」
ジャネックも叫ぶ。ジャネックは、分かっているのだ。黒真の異質さを。
「いや~、あれだ!ごめんね~!愚か者とか言っちゃって!訂正するよ!今代の魔王は、化け物だ!」
「ほぉう。そりゃ、凄いって意味だよな。お褒めに預かり光栄だぜ、賢者さん」
何かよく分からないものに全身を嘗め回されるような不快感と不気味な覇気に、思わず半歩、身を引いてしまう。今まで感じたことの無い感覚に、ジャネックの中の【全能の書】が反応する。自分の敵が自分に発する何かと言う、自分に関することを知ってしまう。それは、異質、異常、不気味、どの言葉も正しい。
「どうした、ジャネック?」
トリアの声に、言葉を返すこともできない。それくらいの悪寒が、ジャネックの全身を駆け巡った。
「【絶対領域】。空間支配の【魔力】。それと……もっと危険だよ!」
「大丈夫だ。何があっても我が切り裂く」
トリアは、そう言って、黒真に切っ先を向ける。
「【絶対切断付加】!」
【絶対切断付加】【デュランダル・バースト】。
「この【聖力】は、我が剣と認識した剣に、絶対的切断能力を宿す!」
勇者と剣の関わりを体現した力。剣であれば、金属製・木製問わずあらゆるものに、全てを切ることができる力を付加することができる。
「そうか。【デュランダル】か。まあ、妥当な能力だな」
黒真は、頷きながら、手を前に翳す。
「【絶対領域】」
そう言った瞬間、トリアの持っていた鉄剣の刀身が四等分にバラけ落ちた。
「空間を支配し、生み出し、分離、破壊、破裂、膨張、様々なことに特化した最上級魔術だ」
パチンと指を鳴らす。すると、トリアの足元が弾け飛んだ。
「これが俺の能力だよ」
にやりと笑う黒真に対し、ジャネックが睨むように黒真を見て言う。
「それだけじゃないんでしょ!」
瞬間、「バンッ!」と弾ける音がして、ジャネックの体が後方に吹き飛んだ。リュウが何とか受け止める。
「お、重っ」
リュウから出た言葉に、ジャネックが蹴りを見舞う。
「あ~!何か、禁句っぽいから、黙っとく!」
ジャネックが黒真に向かって言った。
「そのほうがいいぞ。さて、定番の魔王一人に対し、パーティ四人くらいで戦うデスマッチと行きますか」
嫌味ったらしく黒真が言う。するとリュウが言葉を返す。
「ハッ、お前なんか、俺一人で十分だぜ!」
そう言って、黒真に向かって飛び掛っていく。武道家だけあって動きは速い。跳び膝蹴りだ。
「フンッ!」
しかし、その蹴りは空を切った。リュウは顔をしかめた。一瞬、黒真はどこへ言ったのかと探す。
「ほらよっ!」
そして、その顔面に、黒真の回し蹴りが炸裂した。
「ブホッ」
よろめくリュウは、そのまま地面に落ちてしまう。上手く受身を取れずに背中を打ち付ける。床を転がるリュウをそのままジャネックの方へ蹴り飛ばす。
「きゃ!ちょ、重い!」
「テメェ、人に重いって言われて蹴るくせに、自分は重いって言うのかよ!」
リュウの怒号にジャネックは怒号で返す。
「こっちは女!そっちは男!」
にらみ合う中、ニムルが言う。
「さっき、『仲間内で悪口を言ってる場合じゃねぇ』ってリュウ、言ってた」
ニムルの指摘にリュウが「うっ」と呻く。ジャネックはその様を見て大笑いする。
「はぁ……。と言うわけで、基本、貴様とのハンデのための荷物だ。我一人と貴様一人で戦うとしよう。それで異論はないか」
黒真は、感心したような顔でトリアを見て、「ふぅん」と頷く。
「俺はそれで構わないぜ。勇者と魔王の一騎討ち。燃える展開じゃねぇの」
黒真が言う。一方、勇者一行のトリアを除く面々は、いつものか、と言いたげな表情でトリアを見ていた。
「なっ、何だ!何か言いたいことでもあるのか?」
トリアが聞くと、ジャネックが言う。
「いや~、別に。そんな、言ってることが城に入る前と違う、とか、いつもの、相手が自分の好みだと、一騎討ちしようとする癖が出てるぅ~とか微塵も思ってないよ~」
思っていると言っているようなものだ。次いでニムルも言う。
「城に入る前、『魔王とは、皆で力を合わせて倒そう。いいか、くれぐれも一人で跳びかかろうとするなよ』って言ってた」
その言葉に、トリアとリュウが、「うっ」と声を洩らす。
「どうでもいいけどよぉ~。早くお前等倒さないと俺、帰れないんだけど」
黒真の言葉に、トリアの反応が変わる。
「帰れない?ここは、貴様の家だろう?」
トリアの尤もな台詞に、黒真は、溜息が出た。
「あ~、もう。どうでもいいだろ?俺は、ただ、お前等を倒す。それが目的なんだから。そして、お前等も俺を倒すのが目的なんだ。とっとと決着つけようぜ」
痺れを切らした黒真の言葉に、トリアは、予備の剣を構えなおす。
二人の間に、鋭い緊張感が流れる。
「ハッ!」
「おらっ!」
どっちが先に動いたのか。それは、判断できないほど、同じくらいのタイミングで動き出した。黒真の腕が伸びる前に、トリアの切っ先が黒真の首へと伸びる。しかし、それは、黒真に届かない。黒真の寸前で、何か壁のような物に阻まれる。抵抗を感じ、上手く切れない。
「たとえ、空気の塊を切れても、空気の塊で阻まれたら手を動かせねぇだろ?」
黒真の言葉に、トリアは笑う。
「それは、どうかな!」
剣から手を離し、一瞬で、持ち手を変えた。右手で振っていたのを、左手で逆手に持ち、振るい薙ぎ、空気の塊を切り裂いた。
「手が空気で阻まれるなら、剣と手を密着させ、手に当たる空気の塊を切りながら、お前へと剣を振るえば、関係ない」
トンファーのように、逆手に持った剣を振ってくる。黒真は、それをギリギリで避ける。これでリーチの差はあまりなくなったが、武器を持たない黒真は、接近戦ができないことには、あまり勝ち目はない。
「セイッ!」
トリアの剣が触れる寸前。黒真は、剣を二つの空間に分け、別離した。
「チッ!」
半分に分けた剣の片割れをもう一方の手に逆手で握る。トリアの武装が増えただけだった。
「うおっ!やばっ!」
黒真は、慌てて避ける。
「貰った!」
だが、剣をすぐさま切り替えしたトリアに黒真は、反応速度が遅れる。それが隙となり、剣が黒真に届く――はずだった。
トリアの勝利が確定するはずだった、その瞬間、トリアの視界から、黒真は消えた。そして、手に持っていたはずの二分割された剣も消えていた。
「危ねぇ~。危うく死ぬところだったぜ」
それは、普通なら、ありえないことだった。黒真は、トリアの後ろ、それもかなり後方。
「嘘……だ」
トリアは、驚愕のあまり、腰が抜けそうになった。いくら筋力が強くともいける範囲ではない。しかしトリアは、思い出す。
「まさか、空間を入れ替えたのか?」
空間を操る能力を黒真は持っている。それなら黒真の瞬間移動に見間違えるほどの移動能力もおかしくは無い。
「ん?まあ、そんなところだ」
この現状で、黒真が今行ったことを知るのは、黒真本人と、黒真の能力を全て知ったジャネックだけだ。
「さて、と。剣を一応取り上げてみたが、あれみたいだな。お前の手元から離れれば、切断能力も切れるみたいだな」
トリアが触れている時限定の能力のため、投擲などに用いれないがゆえに、上級聖力なのである。
「予備の剣は、流石に持ってないか?」
「ああ、貴様が今持っているのが最後の予備だ。我は、もう剣を持っていない」
それゆえに、トリアは、ほとんど黒真に勝てる可能性を失った。
勇者が祝福を受ける【聖装】は、力としては、状態異常に対する耐性しか与えない。それゆえに、魔王の【魔術刻印】のような肉体的強化はない。黒真と素手で接近戦をすれば、力で押し負けることは確定だ。それ以前に、黒真に触れることすらできないだろう。剣を持たぬトリアは、【絶対領域】で形成させる、空間の空気を細かく分け結合させて作り上げた壁を突破することは不可能だからだ。
「これで、終わりだぜ」
トリアは、殺される、その恐怖に目を瞑る。
――パキン
あっけない音に、トリアは、目を開ける。すると黒真の手元では剣がバラバラに砕け散っていた。
「な、なんだ?」
トリアのきょとんとした顔に、黒真は言う。
「いや、剣が折れたらお前に勝ち目ないし、別に殺す必要も無いだろうし」
そう言って黒真は、ジャネックを見る。
「あっちの元勇者さまも生きてるんだから、別に殺さなくてもいいんだろ?」
誰に対しての問いかトリアたちにはわかりかねたが、黒真は、自己満足し、マントを脱いだ。
「さて、と、これで、帰れるのか?」
黒真は、そう言いながら、アンのことを思った。おそらく離れ離れになるであろう少女。この一年ほど、熱心に、自分の世話をしてくれた少女。黒真は、その少女に何も告げずにこの場から消えることに、酷く心苦しい思いだった。言うチャンスはあった。けれど黒真は、結局何も言わなかった。自業自得だ。言わなかった彼が悪い。そんなことは、黒真も分かっていた。
「あっ。おい、貴様!わ、我はまだ戦える!」
「いや、もういいだろ」
黒真のそんな言葉など、無視してトリアは、殴りかかってきた。リュウがボソリと言う。
「あ~、全然腰はいってない。あんなんじゃ、痛くも痒くもないだろ」
その言葉どおり、黒真は、難なく捌いている。
「はぁ。やめようぜ」
「やめない!」
変化は、突然だった。結果は、一瞬だった。
眼前が突如白く染まりあがった。その光は、黒真を殴っていたトリアごと、包み、リュウやジャネック、ニムルの眼前から忽然と消えてしまうのだった。
「なっ、何?」
ジャネックの慌てた声が、室内に響いた。
黒真がデシスピアに行ってから一年。黒真は、トリアを巻き添えに、デシスピアから消えたのだった。
――2051年、3月末日。トリアは、日本のエスサイシア大使館前に、謎の反応と共に叩き落されたのだった。
「わ、我は、一体……」
そこに一人の女性がやってくる。
「貴方も、どこか、よく分からないところからきたの?」
トリアに忍刀を向ける女性、フューゼ・クランベリールだった。
トリアは、フューゼにきつい取調べを受けるのだった。
――2051年、5月末。黒真がデシスピアに行ってから一年と二ヶ月。黒真は、気づけば、自室に居た。机の上には、一冊の本と自分のスマートフォン。デシスピアに行ったときに置いていった荷物だった。
「終わったのか?」
それにしても、と黒真は思う。
「トリアの奴、巻き込まれてなきゃいいんだが……」
その後、黒真は、妹に首根っこを掴まれ、親の前に突き出され、事情聴取を受けるのであった。