第一話 束の間のしあわせ
緑豊かな国、ベルナーガス――。
数年前、国を襲った悲劇を糧に、今は多くの人々が前向きに、そして幸せに暮らしている。もうじき二十二才になる若き国王、ブラッド・デロルト・ベルナーガスが見守る大地は、緩やかとだが、確実に豊かな恵みを育んでいる。彼の努力と、そして優しき思いやりに、国民たちは心から感謝し、厚い信頼を寄せていた。
そんなブラッドを影から支える者たちの存在も大きいだろう。
彼の護衛を務めるジョージ――。
常に傍に仕え、国務に置いて相談にも応じ、よりよいアドバイスをしている。護衛としてだけではなく、友として、そして父としてブラッドには大切な存在でもあった。
側近のナナ――。
城に仕える者たちとは違って、元が町娘だけあってその素朴さに救われることがある。だが、彼女は少々小言が多い。新手の教育係だと思えば納得できるが……。
妹のクレア――。
国王という硬い職務から逃げ出したいときは彼女を呼ぶ。すると、おもしろいほどに引っ張り回してくれるのだ。彼女と居るときが一番、若者としての本来の自分に戻ることができる。
ついでにケンカ友だちのカーシュ、というヤツもいるが、コイツとはつい最近大喧嘩をしたばかりで名前を聞くだけでも腹が立つらしい。
――そんな周りの環境のおかげで、ブラッドは日々を苦痛なく過ごす事ができていた。一国の主として……。
タ、タ、タ、と、小走りに歩きながらナナはキョロキョロと辺りを見回した。
城内の廊下――。大窓が連なり、そこから眩しいほどの日差しが入り込んで皆の表情を更に生き生きとさせた。だが、そんな彼らに、ナナはすれ違い様に挨拶を交わし、足を止め、そのついでに尋ねる。
「ブラッド様は見かけませんでしたっ?」
怒りを露わにし、直視するのも恐ろしいナナに「い、いいえ……」と頭を振りながら「……また逃げられたのですね」と心の中で笑う。
ナナは「ありがとうございますっ」とお礼を言って、再び小走りに歩き出した。
……まったく! 今日は大事なお話しがあるって言っておいたのに! どこに行ったのかしら!
ナナの目を盗んで国務から逃げ出すブラッドには常に注意を払っている。だが、それでもたまに気が抜けてしまう時があり、その隙を狙われてしまったら、もうおしまいだ。一度逃げられると、なかなか見つけ出せない。無駄に広い城だから、当然と言えば当然だ。
遊びたい気持ちはわかるわよ? 私だってそうだもの。……けど、それならそれでちゃんとお仕事をこなしてからじゃないと困るんだってば!! “あの子たち”に振り回されて……私の幸せはどこに行ったの!?
やはり、面倒見のいい性格が祟ってしまった――。
ナナは眉間にしわを寄せて口をへの字にしつつ、目の前、過ぎった人に「……あっ!」と駆け寄った。その先には、同じようにキョロキョロとしているルルゥの姿が……。
「ルルゥさんっ!」
呼ばれたルルゥはペコリと会釈して、顔を上げるなり困惑げに首を傾げた。
「クレア様をご覧になりませんでした?」
先に問われたナナはキョトッと瞬きを繰り返し、間を置いてがっくり肩を落としてため息を吐いた。
「私はブラッド様を捜しているの……」
「まぁ、それじゃ、また……ですか?」
お互い顔を見合わせて、「……はあ」と同時に脱力する。
「今日はテーブルマナーの復習をご予定に入れていたのに……。クレア様ったら……」
「……ホントに、あの兄妹は……」
目を据わらせて腕を組むナナの、「お仕置きしてやる」と言わんばかりの雰囲気にルルゥは戸惑うような笑みを向けた。
「あの……、お二人だけじゃなく、ジョージ様もいらっしゃらないようなんです、け、ど……」
語尾を細くしてそろっと上目遣いで窺いながら告げると、ナナはじっとりと目を細め、「……ほんっとに……あの親子たちはぁ……」と、怒る気も無くしてガックリと頭を落とした。
その頃――
「ポカポカ……、ポカポカ……」
「……ヌクヌク……、……ふあ……あぁ……」
敷地内にある森に囲まれた湖。その畔の木陰の下、木を背もたれに本を読むジョージと、その彼の伸ばした右足の太ももにクレア、左太ももにブラッドが頭を乗せて、心地よい微睡みに包まれている。
太陽の暖かい温もりと涼しい風が絶妙なバランスで彼らを誘うのだ。「お昼寝をしよう」と。
クレアは青草の上、ゴロンと寝返り打ってうつぶせになると、ジョージの太ももに頭を乗せたままで腕を伸ばし、足をパタパタ上下に振りながら向かい側にあるブラッドの髪の毛を弄んだ。
「ねぇねぇブラッド。なにかお話ししてよ」
「次はクレアの番」
「ブラッドのお話しの方がおもしろいんだモン」
口を尖らせて髪の毛を三つ編みにする。その感触がなんとなく気持ちよく、ブラッドは「ふあぁ……」と大きく欠伸をして、ボンヤリ眼で青空を見つめた。
「この前、暴れバララールの話しをしたろォー? 雑草共の話しもしたし、大魔女伝説もー」
無気力な声に、クレアは更に拗ねる。
「もっと他に。もっともっと、ブラッドがフェルナゼクスで何してたか知りたいよ。ねぇ、ジョージ?」
相槌を問われ、ジョージは読書中の本からクレアに目を向けて微笑んだ。
「……そうですね、興味はあります」
「ほらね」と、クレアはブラッドの髪の毛でまた別の三つ編みを作る。
「フェルナゼクスのお話しって、おもしろい。……いいなぁ、ボクも行ってみたいなぁ」
吐息に憧れを含ませるクレアに、ブラッドは青空を見つめたままで苦笑した。
「そりゃ……、あそこはおもしろい所だったけどさ。……でも、ここがいいよ」
「どうして?」
「んー……。生活する上じゃあ、こっちの方が性に合ってる」
「よくわかんない」
「わからなくていい」
素っ気なく突き放されて、クレアは頬を膨らまし髪の毛を引っ張った。「いてて」とブラッドが小さく声を上げるとジョージに「いけませんよ」と苦笑気味に注意され、クレアは謝ることなく口を尖らせて再び三つ編みに精を出した。
「ねぇねぇ聞かせてよ。どんなことして遊んでたの?」
「俺の話しより、冥界の話しの方がおもしろいよ」
「おもしろくないっ。ずっと意地悪ババァにこき使われてたんだから!」
クレアは不愉快げに眉をつり上げた。彼女曰く、「意地悪ババァの執務室でひたすら掃除をしたり、意地悪ババァの肩揉みをしたり、全然自由がなくてつまらなかった!」らしい。
「もう絶対、意地悪ババァに会いたくない! 今度会ったら殴ってやる! 勝ってやる!」
「……クレア様、そろそろ言葉遣いに気を付けてください」
ジョージは困り顔でクレアの頭を撫でた。
「……もう十六才なんですから。……落ち着いていただかないと」
「なんで? ボク、これでいいもん。ね、ブラッド?」
「だな」と、ブラッドは頷いてもう一度大きな欠伸をした。
「……眠い。……寝る」
「お話しはっ?」
「また今度な」
そう断って目を閉じられ、クレアは「……ヒドイっ」と頬を膨らまし、ジョージは太腿を占領されたまま、苦笑して本に目を戻した。
「よぉ、クラウディア」
「カーシュっ」
ガシッ……と足にしがみつかれて、歩くこともできず立ち往生。けど、嬉しそうに懐いてくるクラウディアに「邪魔だ」とは言えず。「……ああ、ジョージさんたちの気持ちが今ならわかる」、そう思う今日この頃だ。
復興が進むウェルター――。廃墟となっていたこの街も日を追う事に変わり、人が集まり、再び活気を取り戻しつつある。
もっと賑やかな街にするため、この街に留まって指揮しているスコットと、そして、愛娘を連れて遊びに来ているピートの二人に会いに、カーシュは久しぶりに森から出てきた。
多くの人が行き交う街の広場の隅、カーシュの右足にしっかりとしがみついて顔をすり寄せるクラウディアに父親のピートは「やれやれ……」と苦笑しつつ、軽く腰を曲げて彼女の頭を撫でているカーシュに近寄った。
「どんな人混みだろうが、絶対お前だけは見つけるんだよなぁ」
――それは喜んでいいのかどうなのか。カーシュは「ははは……」と引きつった笑みを返しただけ。
ピートは「ほら、動けないだろ」と、もうすぐ四才になるクラウディアを軽々抱き上げ、太い片腕だけで身体を支えた。
「そんなに好きなら、カーシュの嫁さんにでもなるか?」
冗談で訊いたつもりが、クラウディアは「うん!」と、嬉しそうに大きく頷く。
ピートはため息混じりに苦笑して、やはりなんとも言えない笑みを浮かべているカーシュに目を向けた。
「で? 話しがあるんだってスコットから聞いたぞ?」
「あ、……はい。その……大した話しじゃ、ないんです……けど……」
はぐらかすように視線を逸らして言葉を濁す。どこかぎこちない彼にピートが小首を傾げていると、「お待たせしましたー」と、愛想のいい笑顔でスコットが人混みをすり抜けてやってきた。
「やぁカーシュ、久し振り」
笑顔で手を差し出され、カーシュも同じく微笑み握手を交わした。
「ご無沙汰してました。なかなか顔を出せなくてすみません」
「たまには泊まりにおいで。ご馳走しますよ」
「はい、ぜひ」
しっかりと合わせた握手をどちらからでもなく解くと、ピートは「……で?」と、クラウディアを抱え直しながら改めて切り出した。
「話しって?」
カーシュは顔を上げたが、すぐにサッと俯き、前で組み合わせた指を絡ませ目を泳がせながら口を開いた。
「あの……、一応、念のために、二人にも……許しをもらっておこうと思って……」
戸惑う小声に、ピートとスコットはキョントし、互いを窺うように顔を見合わせた。
「まぁ……、そろそろ、その……俺もハタチになるし……」
「……、まさか、お前」
ピートが唖然と目を見開くと、
「……嘘でしょ?」
と、スコットも口をあんぐり開ける。
カーシュは焦りを交えて顔を赤くし、せわしなく二人を交互に見つめた。
「そ、そのっ……。だ、駄目じゃないですよねっ? ……は、反対ですかっ? だ、駄目ですかっ?」
セカセカと、まるで緊張を押し隠すように細かい身振り素振りで話す。
「こっちに戻ってきて二年経つしっ。そろそろ落ち着いた頃かなってっ……。そ、そのっ……、ほ、ほらっ、二人は父親同然でっ、やっぱり、前もってちゃんと許しをもらっておいた方がいいかとっ」
挙動不審その者だが、ピートとスコットは突っ込むことなく、ポカンとした顔で目を見合わせている。
何も言わず、ただ目と目で通じ合っている風の二人に、カーシュは次第に勢いをなくして目を細めた。
「……駄目、……ですか……」
呟いて悲しげに俯くと、ピートは苦笑し、首を振った。
「いや、駄目って訳じゃないが……」
「それはそれで、わたしたちは心から祝福しますよ」
と、ピートの後にスコットが笑顔で続き、カーシュは目を見開いて嬉しそうに顔を上げた。
「ホントですかっ?」
「けど」と、二人は遮って、一歩、身を乗り出す。
「……お前、本っ当にいいのか?」
誰にも聞き取られないようにと声を潜めるピートに真顔で問われ、カーシュはキョトンとし、「……え?」と瞬きをした。
「いい、……って?」
「後悔しませんか?」
スコットにも真顔で訊かれ、カーシュはパチパチと更に瞬きをした。
「後悔って……何がですか?」
「考え直すなら今だぞ、今」
まるで、戦事に立ち向かおうとするのを引き留めんとするような、そんな真剣な面持ちでピートはカーシュの鼻先を指差す。
「いいか? 人生は長いんだ。お前はまだその半分も生きちゃいない。……残り生涯を共に過ごす相手を間違えると、エラいコトになるぞ?」
「……、はあ」
「その相手に選んだお前の根性は見上げたもんだが、……本当にいいのか? ナナじゃなくていいのか? 間違えてないか?」
本当に心配しているのか、真顔で問いかけるピートに「……ホリーと何かあったのかな?」と内心勘ぐりながらそれを問いかけることはしない。
ピートに続いて、スコットは腕を組み、「うーん……」と訝しげに眉を寄せて考え込んだ。
「未だに男言葉を直せないんですよ? 未だに走り回って暴れているんですよ? 選んでくれたことには感謝しますけど……、本当にいいのか、疑問、……いえ、不安です。振り回されて、キミが窶れていくんじゃないかって」
いったいどっちの“父親”なのか――。
「やめておけ」とは言いにくい、だから遠回しに説得する。そんな雰囲気を漂わせる真剣な二人にカーシュは苦笑した。
「心配してくれるのはありがたいけど。……でも俺、もう決めたから」
「ほんっとうにいいのかっ?」
ピートが改めて強めに訊くが、カーシュは笑顔で頷いた。
「大丈夫ですよ。これからは、俺が躾けます」
自信満々で答えると、ピートとスコットは顔を見合わせて肩の力を抜いた。
「まぁ……お前がいいって言うなら」
「けど、本当に大丈夫ですかね……。貰い手がいたのは……嬉しいやら……寂しいやら……心配やら」
スコットは何かを思い出して小首を傾げた。
「そういえば、ジョージには? 言いました?」
カーシュは「あー……」と、曖昧な声を出して視線を上げた。
「ジョージさんには、まだ……」
「ブラッド様には?」
「……そのつもりだって言ったら、ボコボコに殴られて城から摘み出されました。……それから城内立ち入り禁止が続いてます」
答え終わってすぐにガックリと頭を落とすカーシュに、スコットは小さく吹き出し、苦笑した。
「どちらが父親だかわかりませんね」
「けど、ジョージも案外、ブラッド様と同じタイプかも知れないぞ?」
話しについていけずに退屈そうに髪の毛を引っ張るクラウディアを抱き直しながら、ピートはニヤリと口元に笑みを浮かべた。
「愛娘を取られてよく思う親はいないからな」
「……俺、殺される……」
恐怖の色を滲ませて生唾を飲むカーシュにピートは愉快げに笑った。
「ジョージにはいつ言うんだ?」
「……今日、この後、行こうと思ってるんですけど……」
「おもしろそうだから付いていくか」
ピートがワクワク顔で提案すると、スコットも楽しそうに頷いた。
「ジョージの意外な一面が垣間見れるかも知れませんね」
――まるで他人事だ。
カーシュは少し目を据わらせるが、そんな彼に構うことなく、ピートはクラウディアの顔を覗き込んだ。
「クラウディアも行くか? ジョージおじさんとブラッド様に会えるぞ?」
「クレアがいるぅ」
と、クラウディアは不愉快そうに頬を膨らませた。いつの頃からか、クレアのことを“恋敵”として認識してしまったようだ。
ツンとそっぽ向く彼女にピートは苦笑し、宥めようと頭を撫でた。
「クレア様はクラウディアのお姉さんだろ? 仲良くしなくちゃ駄目だぞ」
「クレア嫌いーっ」
躊躇いもなくスパッと答えて首にしがみつかれ、ピートは「やれやれ……」とため息混じりに背中を撫でる。
スコットは苦笑して、落ち込んでいるカーシュの肩を叩いた。
「さ、傷の手当てならわたしがしてあげますからね」
「……。俺、やめた方がいいですか?」
すっかり気落ちした声に、スコットは愉快げにポンポンと再度肩を叩いた。
【――駄目でした。……様々な手を尽くし、今までがんばりましたが……、もう、止められそうにありません。……最後の最後まで、努力はします。……しかし、時間の問題です。……気を付けてください。……呪いは大地を焦がします。……ブラッド。あなたに、キュラレラの御加護がありますように。心から――】
ブラッドはカッ! と目を覚まし見開くなり、勢いよく体を起こして鋭い目つきで空高くを見上げた。
衝動的な、彼の異様な様子を察し、ジョージは眠っているクレアを起こさないよう、読んでいた本を閉じて青草に起き、訝しげに、それでも真剣にブラッドの背中を見つめて窺った。
「……どうしました?」
「……、……」
「……ブラッド様?」
返事も身動きもせず、ブラッドはただ、空のどこかを睨むように見ている。ジョージが左手を伸ばして背を向けたままの彼の左腕を掴むと、それで封を解いたようにビクッと肩を震わし、ゆっくりと顔を動かしてこちらを振り返った。――愕然と大きく目が見開かれ、何か危機感を背負っているような表情をしている。
ジョージは少し眉を動かして目を細めた。
「……どうかしましたか? 少々顔色が悪いようですが」
「……、ああ、……いや……」
戸惑い軽く目を泳がすが、表情が強ばり、呼吸も荒くなってきた。
「……なんでも……ないんだ。……ちょっと……嫌な夢を、見て……」
気を落ち着かせようとしているのか、喉が渇いているのか、何度も唾を飲んで深呼吸をするブラッドに、ジョージは真顔で首を傾げた。
「……悪夢、ですか?」
「……、……悪夢……か、な……」
言葉尻を小さくして改めて青草の上で胡座をかいて座り、背中を丸めて深く呼吸を繰り返す。
――膝の上で組み合わせた手が震えている。押さえようと力を入れると、余計に震えが大きくなる。
グッと奥歯を噛みしめて必死になろうとする、そんな自分に気付くと、ハッとし、困惑げに目を泳がした。とにかく気を落ち着けようと深く息を吐いて目を閉じるが、胸の奥、心臓の鼓動の速さが収まらない。
――今の声は間違いない。……止められそうにない……? ……まさか……。
頭の中でグルグルといろんな思いが駆け巡った。
どういうことだ? “あれ”で無事に終わったんじゃなかったのか? ……どうする。このままでいるのか? ……いや、それが本当なら、このままでいられなくなる。間違いなくここにも……――
心音に合わせて呼吸が段々と荒くなり、息苦しさに眉を寄せた。
明らかにおかしいブラッドの背中を見つめて、ジョージは探るように目を細めた。
「……ブラッド様?」
「……、……」
何も返事はないが、肩がかすかに震えている――。
ジョージはじっと様子を見ていたが、意を決して小さく切り出した。
「……何かありましたか?」
問いかけに、ブラッドはギュッと閉じていた目の力を解き、そっと開けた。……視線の先、拳を作っていた自分の両手、指の間から血があふれ、手首に伝っている。
「……、あ……」
思わず目を見開いて、怯えるような声を出してしまった。ジョージはすぐに、クレアの頭をそっと持ち上げて青草の上に乗せると、ブラッドの前に回り込み、唇を震わせて戸惑いを露わにする顔を見て彼の視線を追い、強く握られたままの拳に目を向けた。
「……、大丈夫です。……さあ」
血が流れる拳をそっと包んで、爪が食い込む指を一本一本、強引に上げていく。痛みでブラッドは顔を歪め、呼吸を荒くした。
ジョージは、すぐに上着のポケットから綺麗なハンカチを取り出すと、それを歯で噛み切って二枚にし、指を立てたまま硬直させるブラッドの手に巻き付けた。
「……傷が深いようですから、治療しましょう」
「……」
ボー然と、気が抜けたように俯いてどこかを見つめるブラッドに、ジョージは顔をしかめ、肩を強く掴んで揺さぶった。
「ブラッド様」
ブラッドはハッと顔を上げ、目を見開いてジョージを見上げた。とても真剣で、獲物を狙うような鋭い目をしている彼に、ブラッドは一瞬、躊躇いを見せたが、すぐに取り繕おうと「……はは」と情けない笑みを浮かべた。
「わ、悪い……。ちょっと……嫌な夢のせいで。……もう、大丈夫だから」
「……、ブラッド様」
その場凌ぎなど通用しない。そんな厳しい目で、ジョージはブラッドの肩を強く掴んだ。
「……一人で抱え込まず、おっしゃってください。……わたしは、何時如何なる時でも力になりますから」
真っ直ぐな目に、ブラッドは少し苦しそうに顔を歪めた。――ジョージに寄りかかろうとした。だが、「あっ、いた!」と、声が聞こえて、ハッと気を取り戻し、振り返った。
ナナを先頭に、スコット、クラウディアを抱えたピートとカーシュが遠くからやってくる。
「探したんですからね! いなくなるならなるで、ちゃんとどこに行くのかを言ってから出てください!」
立ち止まる前から説教モードに入るナナを、ブラッドはいつものように面倒臭そうに……見なかった。無表情な彼の視線に、ナナは「……?」と小首を傾げ、どうしたのか問いかけようとしたが、下ろしてもらったクラウディアが横を走り抜け、笑顔でブラッドの首にしがみついたので口を閉じた。
「国王様こんにちわぁーっ」
クラウディアの勢いで少し背を仰け反らせつつ、でも、それでようやく気が落ち着き、ブラッドは苦笑してクラウディアの頭上を見下ろした。
「……よく来たな、クラウディア。元気にしていたか?」
そっと、血に染まった両手をみんなに見せないように背中に回す、そんなブラッドを見てジョージは少し目を細めたが、みんなを心配させまいとしての行動だろう、その気持ちを汲み取って、今は何も言わないようにした。
ピートとスコットは、ぐっすり眠っているクレアを見下ろすと苦笑した。
「クレア様はまたお昼寝ですか」
スコットは静かな寝息を立てるクレアの傍に腰を下ろし、軽く頭を撫でる。
「昼寝の癖が付いてますね」
ジョージは彼らを見回し、苦笑するピートを見上げた。
「……今日はどうした? 揃って来るなんて珍しいな。……何か約束があったか?」
「ん? ああ……まぁな」
ピートは言葉を濁してナナの斜め後ろにいるカーシュに目を向ける。
カーシュは、クラウディアを膝に置いて抱きつかれるままのブラッドを見た。視線に気付いたブラッドも、彼をじっと見る。……お互いそれ以上は何もせず。
ジョージは二人の様子に首を傾げつつ、クレアの肩に手を置いて軽く揺すった。
「……クレア様、みんなが来てますよ」
静かな声に、クレアは「んー……」と少し顔を歪め、寝転んだままで背伸びをしながら大きく欠伸をした。「はしたないっ」とスコットがすぐに注意する。
クレアは寝ぼけ眼でボンヤリ辺りを見回しながら起き上がると、スコットとピートを見上げ「……えへへー」と笑った。
「ピートー、スコットー、遊ぶー?」
「違いますって」
と、ピートが苦笑気味に答えて首を振った。
クレアは目をゴシゴシと擦っていたが、ブラッドに抱きついているクラウディアを見つけると、笑顔で手を伸ばした。
「クラウディア、来てたんだ! こんに」
パシッ! と、撫でようとした手を叩き落とされ、クレアは言葉を切らし、ピートは「こら!」と不愉快そうな表情をするクラウディアに怒った。
「なんてコトをするんだ! 謝りなさい!」
「クレア嫌いっ」
と、謝るどころかそっぽ向いてブラッドにしがみつく。
ズゥーン……と落ち込むクレアを見て、ジョージは苦笑しながら頭を撫でた。
「……ピートを取られると思っているんですかね……」
「す、すみません、クレア様」
ピートも「ははは……」と微妙な笑みを向けた。
「どうも女より男の方がいいみたいで、なかなか女の子に懐かず」
言っている側から、クラウディアはブラッドから離れてナナに近寄り、足にしがみついた。
「ナナ、大好きぃっ」
ナナは「……え? ……あ」と戸惑い、クレアは更に落ち込む。
「……ボク、……クラウディアに嫌われてる……」
悲しげな声にスコットは笑いながら「よしよし」と頭を撫でる。
その様子に、カーシュは少し笑った。三才児にバカにされる十六才も珍しい。
ピートは呆れるように額を抑え、ナナは「あはは……」と愛想笑いをしながら、軽く背中を丸めてクラウディアの頭を撫でている。
……いつもと変わらない、ほのぼのとした雰囲気――。
ブラッドはボンヤリと彼らを見ていたが、少し視線を落とし、間を置いてゆっくりと立ち上がった。
「……ナナ、みんなの分の食事と部屋の準備を申し付けておいてくれ」
静かな声に、ナナは顔を上げ、「……わかりました」と返事をした。
「執務室に戻られますか?」
「……、いや。……少し……調べたいことがあるから書庫にいる。用があれば呼んでくれ」
「……はい……」
なんとなく元気のないブラッドの様子を気にしながら、小さく返事をする。
ブラッドはそのまま、「……先に失礼」と、一人歩いていった。カーシュはその背中を振り返って小首を傾げ、顔をしかめてナナを見た。
「……あいつ、どうした? ……、何かの作戦か?」
「何も聞いてないけど……。ちょっとおかしいわね……」
二人の会話を聞いて、ピートとスコットは顔を見合わせる。
クレアは目をパチクリとして、じっとブラッドの背中を見送るジョージを窺った。
「ブラッド、なんだか変」
「……、そうですね」
ジョージはそう返事をして、ゆっくり立ち上がった。
「……少し話しを聞いてきます。……いいですか?」
「うん。……、ボクも行こうか?」
「……いいえ、クレア様はみんなと一緒に」
微笑み首を振って、ピートとスコットに目を向けた。
「……いいか?」
「ああ、行ってこい」
ピートが頷くと、スコットも同意する。
「クレア様のことはご心配なく。ちゃんと見ていますから」
「ボク、一人でも大丈夫なのに」と、クレアは少しふてくされた。
ジョージは小さく笑うと、「……また後で」と、ブラッドの後を追って歩いていった。
カーシュはその背中を見送り、コソコソと小声でナナに訊く。
「……、まさか、俺のせい?」
「……そんなことはないと思うけど。それなら、今頃ケンカになってるはずでしょ?」
「……それもそうか」
納得して頷くカーシュに、ナナは少し笑った。
「……それで、クレアちゃんにはいつ言うの?」
「……」
カーシュは、スコットとピートを相手に笑顔で話しをしているクレアを見て視線を上に向けた。
「その前に、ジョージさんに……なぁ……」
「ブラッド様は断固反対だから、ジョージさんを味方に付けると強いわよ?」
「……、その前に、俺、ジョージさんに殺される可能性が高いから」
「ふふ、そうかもね」
笑うナナと複雑そうなカーシュ。そんな二人を見上げてクラウディアは首を傾げた。
「クラウディアも仲間に入れてぇー」
と、拗ねるように腕を伸ばすと、カーシュは、「ごめんごめん」と笑顔で抱き上げた。
「――……それで、……何かあったんですね?」
城に戻ることなく、その手前、木陰の下で膝を山にして座り込み、じっと怪我をした手を見つめるブラッドの傍に腰を下ろした。
「……話してください」
冷静ながらも口調は真剣。そんなジョージを見ることなく、ブラッドは間を置いて深く息を吐いた。
「……まだ、今は……。少し、考えをまとめたい。……頭の中が混乱していて。……何をどう話したらいいか……よく……」
曖昧な言葉に、ウロウロと泳ぐ目。困惑しながら、深く項垂れるブラッドに、ジョージはそれ以上のことができない彼の肩を抱いた。
「……話しができるようになったらいつでも呼んでください。……いいですね? 決して一人で抱え込むことのないよう、……わたしたちは常に傍にいますから……」
「……、ああ、……わかってる……。……ありがとう……」
小さく返事をして、青草をじっと見つめた。
……確かめる方法は一つしかない。……、くそ……。
「――ボク、どうしてクラウディアに嫌われるの? 何かしたかな? 意地悪してないのに」
小石を湖に投げると、チャポン……と水面が揺れる。
クレアは拗ねるように、また石を投げた。
「ボクばっかり嫌う。ボク、クラウディアと遊びたいんだよ?」
少し離れた所では、クラウディアがピートとナナを相手に湖の水で遊び、スコットはみんなの後ろで、ジョージが残していった本を読んでいる。
膨れっ面のクレアの隣り、カーシュは苦笑した。
「お前がいつまでもピートさんから離れないからだろ。クラウディアが焼き餅焼いてるんだよ」
「だって、ボク、ピートとも遊びたいモン」
「お前もそろそろ親離れしろよ。もう十六だろ」
「関係あるの?」
「……、ないのか?」
「ないと思うぞ」
「男言葉もやめろ」
「うるさい」
と、そっぽ向いてまた石を投げる。どこか投げやりな態度に、カーシュはため息を吐いた。
「少しは女らしくしろよ。ナナを見習え」
「あっ! そういうこと言っちゃいけないんだぞ! 差別だ!」
「区別だろ」
「ボクはボクなのにーっ!」
駄々を捏ねるようにふてくされて、ポンポンと、石を次々投げ入れる。
「やめろって。魚が驚くだろ?」
クレアはピタ、と石を投げるのをやめた。そして、代わりに青草をむしり取る。
「……いいんだモン。どーせボク、みんなの嫌われ者だ」
自虐的になりながら、ぐすん、と、寂しげに俯くクレアに、カーシュは「困ったヤツだな……」と苦笑した。
「いじけるなよ。そのうちクラウディアも懐くって」
「……、ずっと遊んでくれなかったら?」
「……、……諦めろ」
「やだーっ!」
ジタバタと足をばたつかせ、ブチブチ青草を引き向く。
「ボクも遊びたいーっ!」
「わ、わかったわかった」
煙たがって軽く仰け反り、落ち着けっ、と言わんばかりに手を挙げて制する。
クレアは、焼け気味に草を湖に投げ入れようとして湖の傍に身を乗り出したが、ビクッ! と肩を震わせた。
「……キャアァ!!」
甲高い悲鳴と共に身を翻してカーシュにしがみつく。いきなりのことにカーシュは驚いて、咄嗟の判断でクレアを抱き締め引いた。その時、視界に入ってきたのは、湖からの不気味な手――。クレアの足を掴み、引っ張っている。
カーシュは大きく目を見開き、「くそ……っ!」と焦ってクレアを強く引っ張った。
クレアの悲鳴に、ピートとスコットが「どうした!?」とすぐに走ってやってきた。
「クレアの足に……!!」
カーシュが焦るように二人を見上げると、ピートはすぐに足元を見る。そして、腰を下ろすとクレアの足に絡まる茶色く痩けた根っこのようなモノを引っ張り取った。
「コレか?」
カーシュは「……え?」と、目をパチクリさせた。
「……、……あ、……え……」
「驚かすなよ、何事かと思っただろ」
ピートはため息混じりに苦笑し、スコットは、カーシュにしがみついたまま肩を震わせるクレアの背中を撫でた。
「大丈夫ですよ、クレア様。湖の枯れ草が引っかかっていただけですから」
クレアはソロ……と顔を上げ、ピートが「ほら」と上げて見せるダランと垂れた大きな枯れ草を見て肩の力を抜いた。
「……ビックリした……。……お化けの手かと思った……」
「クレア様は臆病ですからねー」
クレアはムッと眉をつり上げ、カーシュから離れるとすぐに笑うスコットの腕を殴る。
スコットが「いた!」と悲痛な声を挙げて、クレアに説教する間、カーシュは少し顔をしかめた。
……枯れ草? ……お化けの手?
考えながら、訝しげに目を落とした。脳裏で、あることを思い出しながら。
……あれは……アンデッドの手だった……――
「……、文句があるなら言えよ」
「……。なら、二度とここに現れるな」
夜食が終わり、まだまだ楽しい話しが続いていたのに、一人、席を立ってその場を離れるブラッドのその態度が気に食わず、カーシュは彼の後を追った。
夜景が広がるテラスに出て、互いに少し距離を置き、顔を見ることなく言葉を交わす。
「……いい加減にしてくれよ。……たかが兄妹だろ」
「知ったことか」
「あのなぁ」
「お前には絶対やらない」
「……。お前が父親か」
目を据わらせて、やっと睨む。だが、ブラッドは真顔で遠くを見ているだけ。
カーシュはため息を吐いた。
「……何が気に食わないんだよ? ……そんなに俺が駄目なのか?」
「駄目だ」
「……。ほんっとにイヤなヤツだな、お前は」
「相手による」
「……」
カーシュは不愉快げにそっぽ向いた。
しばらく静かな時間が過ぎ、カーシュは少し視線を動かして俯いた。
「……、なぁ、……本当に、真剣、俺じゃ」
「駄目だ」
即答。
カーシュは眉を吊り上げてブラッドを睨んだ。だが、彼は“心ここにあらず”で遠くを見つめているだけ。いつもとかなり様子が違う。両手も何故か、ずっと革の手袋をしている。
カーシュは少し顔をしかめた。
「……なんだよ? なんだか昼間から様子がおかしいけど……何かあったのか?」
「……、別に」
そう無愛想に答えてカーシュを残したまま部屋に戻ろうとしたが、腕を掴まれて足を止め、振り返った。
「……なんだ?」
いかにも不愉快そうに訊くと、カーシュは腕を放し、少し躊躇い気味に、それでも小さく言葉を切り出した。
「ちょっと……変なことを聞くけどさ」
「……なんだよ」
「……ほら、クレアって……元が元だろ? ……こっちに戻ってきたとしても……なんらかの繋がりって、残るモノなのかな?」
躊躇いを露わに訊くカーシュに、ブラッドは顔をしかめた。
「繋がり?」
「たとえば……、あっちの住人と……意志の疎通ができる、とか」
ブラッドは間を置いてカーシュの方に体を向き直し、訝しげに腕を組んだ。
「何かあったのか?」
「あったワケじゃないけど、気になったから……」
「なんで気になるんだよ? 何かあったから気になるんだろ?」
「大したことじゃないって。……湖で、足を引っ張られたんだ。……水草が絡んだだけだったんだけどさ、……最初見たとき、……正直、アンデッドだと思ったんだよ」
「……、アンデッド?」
「クレアも同じみたいだった。……お化けに掴まれたって、驚いていたから。違ったけどさ、……なんとなく気になったんだ。もう大丈夫なのか、どうなのかって……」
視線を反らして言葉尻を小さくするカーシュに、ブラッドは少し視線を斜め下に置いて考え込み、しばらくして深く息を吐いた。
「……繋がりが決してないとは言い切れない。……昔、子どもの頃、俺がクレアと話しができていたように、なんらかの繋がりがあれば、それだけのアクションを起こすことは可能だってわかってる」
カーシュは顔を上げた。
「……じゃあ、……ひょっとしたら」
「けど、扉が開いていない状況での接触は無理だろう。こっちに現れることができないんだからな」
「……、そ、そっか……、だよな……。……やっぱり目の錯覚か……。よかった……」
ホッと胸を撫で下ろすが、
「……何かの警告、かもな」
そう小さく呟いたブラッドの言葉を耳に捉え、首を傾げた。
「……、警告?」
ブラッドは「……ああ」と、そう返事だけをしてテラスを出た。
残されたカーシュは、意味がわからないまま。間を置いて「……あっ! また話しが流れてしまった!」と、ガックリ頭を落とした。
【――みんな、誰もがそう。……幸せを願っていただけなの。ただそれだけ。……わかるでしょう? ……護りたいものがあっただけ。誰も高望みはしていないの。……本当は、とても臆病なのよ。けれどね、……弱さを見せられなくて。強く見せなくちゃ、怖くて。……国王もそうだった。もっと私を信じて、弱さを見せてくれていたなら――。……止めたいけれど……私には、何もできない。……ごめんね、クレア。……ごめんね……】
クレアは目を開けた。――真っ暗で何も見えず、一瞬、ここがどこだかわからなかった。すぐに目が慣れてきたが、それでも、ここがどこだかわからないまま……。
天井を見つめる視線をゆっくりと動かし、周りを窺った。ただ、自分の速い心音と荒い呼吸が嫌になるほど耳に響いて、それが段々と恐怖を沸き上がらせた。
ギュッ……と毛布を掴み、目に涙を浮かべて鼻をすする。そして、なんとかがんばって起き上がると、寝間着のままでベッドから降り、裸足で歩き出した。
「グス……」と、こぼれる涙を拭いながら、ペタ、ペタ……と裸足で部屋の中を回る。目元を拭い、壁伝いに歩き回って、「うっく……、ひっく……」と息を詰まらせた。
「……っ、……ジ、ジョージ、……ブラッド、……っ、ピ、ピート……、……スコットぉ……」
ポロポロ涙をこぼし、それでも歩きながら名前を呼ぶ。
「うっ……、……っ、カーシュ……、……カーシュ。……どこ……、……っ、どこ……」
懸命に拭う涙と部屋が暗いせいも伴ってよく周りが見えなかった。なので、何かに足が引っかかった、と思った瞬間にはガシャーンッ! と派手な音を立てて躓き転んでいた。
「うわぁっ!!」
「な、なんだ!!」
暗い部屋の中で焦る声がする。
クレアは「うっ……、っく……」と座り込んだまま泣くだけ。
すぐに部屋に明かりが灯り、クレアは眩しさに顔を伏せた。
「……クレア様っ!」
いち早く見つけたスコットがすぐに駆け寄り、ピートとカーシュも後を追う。ティーカップなどの食器を乗せていた引き車が倒れ、食器は割れて散乱。クレアにはガラスの欠片が飛び、ついでに茶色く寝間着が汚れている。
スコットは「大変だ!」と、泣いているクレアの傍に腰を下ろして顔を覗き込んだ。
「大丈夫ですか、クレア様っ?」
ピートは「何事ですか!?」と入って来た兵士たちを振り返った。
「ジョージを呼んできてくれっ。あと、ぬるま湯とっ」
「わかりました!」
兵士たちはすぐに行動に移す。
客間――。クレアのわがままで、みんな一緒の部屋に寝泊まりをしていたのだが……。
カーシュはスコットの隣りに腰を下ろし、クレアにかかっているガラスを掴み取った。
「一体どうしたんだ、こんなこと……」
「ケガは?」
ピートが聞くと、スコットは外見をざっと見て、
「……足をケガしてますね。消毒しなくちゃ」
そう言ってクレアの背中に腕を回し、彼女を抱き上げた。
ピートは、スコットにしがみつくクレアを見て頭を撫でた。
「大丈夫ですか?」
「……っ、う……、……」
まだ涙がこぼれる。
スコットに運ばれてベッドまで行き、そこに下ろしてもらう頃に兵士がぬるま湯の入った桶を持ってきた。
「包帯と消毒薬を持ってきてくれますか?」
「分かりましたっ」
スコットは手際よく桶のぬるま湯で手を洗う。
カーシュは目を拭うクレアの隣りに腰を下ろした。
「……おい、大丈夫か?」
クレアは息を詰まらせながらゆっくりと顔を上げたが、突然、「やだぁ!!」と大きく叫ぶと同時に、タックルするようにカーシュにしがみついた。ベッドの上、勢い付いてカーシュはそのままクレアに押し倒され、息苦しさに「ゲホゲホッ」と激しく咳き込む。
ピートは「お、おいおい……」と、焦るように手を伸ばした。
「ク、クレア様?」
「やだぁぁっ……! 水、やだぁ!!」
その言葉に、ピートもスコットも表情をなくして動きを止めた。
……水がイヤ、って……――
騒々しさに、ピートと寝ていたクラウディアは目を覚ますが、カーシュにしっかり抱きついているクレアを見て「ムカッ!」と眉を吊り上げると、すぐにそこに行き、ベッドに載ってクレアの服を引っ張った。
「カーシュ駄目ぇ!! カーシュ、クラウディアのぉーっ!!」
騒々しさを増すそこに、今度はジョージとブラッドがやってきて更に収集付かなくなってしまったが、とにかく、クレアの怪我の手当を済ませ、割れた食器類の片付けをメイドたちに申し付けた後――
「……ぐすん」と、クレアは鼻をすすり、ジョージの膝の上に乗ってしがみついた。
やっと騒々しさもなくなり、互いが落ち着いて向かい合っている、客間の床の上。
ジョージはクレアの背中を撫でた。
「……どうしたんですか、クレア様」
何度問いかけても、クレアは息を詰まらせるだけで答えない。
ブラッドは腕を組むと、鋭い目つきでカーシュを睨んだ。その視線にカーシュは顔をしかめ、何かに気付いたのかブンブンッ! と頭を振った。「何もしてない! 何もしてないって!」と、そう弁解するように。
ピートは膝の上のクラウディアを抱いてため息を吐いた。
「寝ぼけてたのかぁ?」
「水が怖いって言ってましたしね……」
と、スコットも吐息混じりで続く。
ジョージは、クレアの頭を撫でた。
「……大丈夫。……落ち着いて」
「……っ、……っ」
「……どうしました? ……怖い夢でも見ましたか?」
「うっ、……っ」
クレアは再びポロポロと涙をこぼしだした。
「き、聞こえた……、き、……聞こえた、の……」
息を詰まらせ、それでも懸命に途切れ途切れで言う。
「き、……聞こえた……、……っ」
「……何がですか?」
「……っ、ボ、ボクっ……、ボクっ、こ、ここにっ……いられないのっ? ……消えるのっ?」
その言葉にみんなが目を見合わせ、ジョージはクレアを優しく抱きしめた。
「……何を言っているんですか。そんなことあるわけないでしょう?」
「で、でもっ……聞こえたっ……。……声が聞こえたっ……。……また聞こえた……」
何度も息を詰まらせ、その度に肩を震わせる。
「ボ、ボク、……ボク、……消えちゃう……」
「消えちゃえぇ」
ピートは、ゴンッ、と、ニヤリと笑うクラウディアの頭にゲンコツを落とす。
ジョージは、なかなか泣き止まないクレアの背中を撫で、耳元でそっと訊いた。
「……どんな声が聞こえたんですか? ……覚えていますか?」
「……、……」
「……クレア様?」
クレアは軽く鼻をすすって、しばらく間を置いて答えた。
「……お母さんの、声……」
ピートとスコットは顔をしかめ、カーシュはゆっくりと、窺うようにジョージとブラッドを見た。
ブラッドは腕を組んだままで難しい顔をし、ジョージは表情一つ変えない。
「……エレイン様、ですか?」
ジョージの問いかけに、クレアは頷いた。
「……悲しそうな声で……ボクに謝るの。……ごめんねって……。……止めたいけど、できないって……」
ブラッドは眉を動かし、目を細めた。
クレアは息を詰まらせてしっかりとジョージにしがみつく。
「ボク、ジョージの傍にいたい。ここにいたい」
ジョージは間を置いて苦笑した。
「……もちろんです。……わたしがあなたを離しませんから。大丈夫。……安心してください」
ポンポン、と優しく背中を叩く。
ピートは、不愉快そうに頭を押さえるクラウディアを膝の上に、訝しげに腕を組んだ。
「けど……、なんだろうな。……俺たちには声なんて聞こえなかったが……」
「何者かの誘惑でしょうか?」
スコットは真顔で互いを窺う。
「どこかの扉を開けるように、と」
「……その可能性はあるだろうな」
ピートとスコットの話しを聞いていたカーシュは、ふと、ブラッドを見た。とても険しい表情で床を見ている――。
「……、ブラッド?」
訝しげに名を呼ぶと、彼は顔を上げた。
「なんだ?」
「……、なんだ、じゃなくて。……ホント、どうしたんだよ? おかしいぞ、お前」
顔をしかめるカーシュを無視して、真顔で目を逸らすブラッドに、クレアを抱きしめていたジョージも顔を向けた。
「……ブラッド様」
何か答えを求めるような目に、ブラッドはジョージを見て、間を置いて首を軽く振って深く息を吐いた。
「……ただの夢だと思うけど……、気になるしな。……少し調べてみる」
「……どうやって? 何を調べるんだ?」と、カーシュが顔をしかめると、ブラッドはため息混じりに自分の頭を指差した。
「俺の記憶。……ここにはいろんな情報が詰まってるからな」
そう答えて手を下ろすと、息を詰まらせるクレアの頭を撫でた。
「心配するな、クレア。……大丈夫。……何かあっても、俺が護ってやるから」
クレアはグスン、と鼻をすすり、小さく頷いた。
――しかし、そうはいっても何かを調べる手立てはない。頭の中にある情報では不足すぎる。何かしら、もっと“重要な”事態が起これば“覚悟”を決めるが……。
だが、考えあぐねるだけで、その後、何も起こらず。クレア自身にも、ブラッド自身にも。
ただの夢だったのか、なんなのか。それを追求する事も出来ないまま、時間は過ぎ、いつしかあまり気にも留めなくなっていた。
けれど、ブラッドはそうもいかない。心の中のモヤモヤが、いつまでも消えなかった――。
「……なんなんでしょうか……」
「食品検査は?」
「やっています。野菜、果物、水、家畜、すべて問題はありません」
「土壌検査も行いましたが、やはりこちらにも問題はありませんでした」
「人から人へ感染するのでしょうか……」
「近隣諸国は?」
「問題ないようですね。これは、ベルナーガスのみに流行っている病のようです」
「……、新種の病原菌か。……国医たちを集めて、すぐに研究させてくれ。それと、城内に患者を受け入れる場所を。ただし、監禁なんて真似はするな。広い敷地を利用して構わない。不自由なく治療に専念できるよう、心がけてくれ」
「わかりました」
――数日後。何事もなく、時間が過ぎていた。
あれからブラッドは、国務と、そして“調べ物”に追われていた。最近、奇妙な病気がベルナーガス全土に広がっているらしい。肌に黒点のような痣が浮き出て、それが全身に広がり、高熱を出して寝込んでしまう。死者はいないが、それも危うい状況だ。原因追及に乗り出したものの、患者の数は増えていく一方だ。
しかも、それだけじゃない。
ここのところ、ずっと天気が悪い。太陽が顔を出さない大地では、作物の育ちも悪くなっていく。まだしばらくは問題ないだろうが、数ヶ月もすれば、間違いなく、食糧問題が起こるだろう。
国務室で、次から次へと報告が上がってくる内容を確認しながら、ブラッドは深く息を吐いて額を抑えた。どこか疲れきっている様子に、片隅のテーブルで書類をまとめていたナナは目を向けた。
「何か、お飲み物でも用意しましょうか?」
「……、いや、いい……」
そう答えて、隣の大きなテーブルでベルナーガスの地図を広げて、印を付けているジョージを窺った。
「どうだ?」
「……そうですね」
ジョージは地図を見下ろして腰を伸ばした。
「……、これは、偶然でしょうか……」
呟くようなその声に、ブラッドは腰を上げて近寄り、ジョージの隣で地図を見下ろした。
病気を発症した者が住んでいる町や村に、赤い印を付けているのだが――。
「……ここは……」
「……はい。……迷いの森です」
広がる赤い点の中心を見てみると、そこは間違いなく、あの、迷いの森だ。
ブラッドは顔をしかめてジョージを見上げた。
「ピートたちは? 大丈夫か?」
「はい……。病気にかかったという話しは聞いていません」
「……」
ブラッドは訝しげに腕を組み、じっと地図を見つめた。
「……迷いの森って言ったら、確か……」
「……ええ。……以前、冥界の者が語りかけてきた場所です……」
「……、偶然、か……。それとも……」
ブラッドは目を細めて言葉を切らした。
城内で慌ただしさが増す、その頃……――
「カーシュ! 遊びに来たよーっ!」
元気のいい声に、薪を割っていたカーシュは手を止めて顔を上げた。
曇り空の下――。白い馬に乗ってやって来たクレアは、地面に降り立つと手綱を木に縛り、笑顔でカーシュに駆け寄った。そして、腕に下げていたかごを「はいっ!」と差し出す。
「食べて! ルルゥに教えてもらったんだ! パイだよ!」
「ありがとう」
カーシュは苦笑気味にそれを受け取った。
意外にも、クレアの料理はまともだ。不味くもなく、ちゃんと食べられる。
クレアは「へへへっ」と笑って、小屋の方に歩いた。
「休憩休憩! ボク、スープ作ってあげる!」
最近は料理にはまっているようだ。少しずつ女の子らしくなってきているクレアに、カーシュは笑みをこぼし、斧を壁際に置いて後を追った。
「ジョージさんにはちゃんと言ってきたのか?」
小屋の中に入ってすぐの炊事場、かごをテーブルに置いて訊くと、クレアは「んー」と、水場で鍋を用意しながら口を尖らした。
「ジョージ、最近忙しそう。ブラッドとナナも」
「……また勝手に出てきたのか?」
手を洗って、ため息を吐いた。
「黙って城を抜け出したら、また怒られるぞ」
「カーシュがね」と、クレアはにっこりと笑った。
カーシュはガックリと項垂れつつ椅子に座ると、かごの中、上に被せてある生地を取って、中のパイに手を伸ばした。
「……お、旨そう」
「へへへーっ。ボクの自信作! ぜーったい、おいしーよ!」
その言葉通り、一口食べてみると、確かにおいしい。
カーシュは満足げに食べながら、水を用意して目の前に置き、水場に戻るクレアを目で追った。
「……ン、そういえば……、どうだって? 最近の病気」
「まだよくわかんないって」
クレアは答えながら、水場にある野菜を品定めする。
「食べ物とかが原因じゃないって言ってた。お医者さんたちも困ってたよ。お薬が作れないから」
「……怖いな」
カーシュは視線を落として呟き、野菜を刻むクレアの背中を見た。
「……お前も気を付けろよ?」
「ボクは大丈夫」
「そんなのわからないだろ」
「平気平気」
愉快げに返事をしながら進めるクレアに、カーシュは手に付いたパイの粉をテーブルに擦り落としながらため息を吐いた。
「お前が平気でも、病気はそういうわけにはいかない。誰にでも感染するなら、注意しないと。……俺が城の方に行くから、お前はあんまり外に出るなよ」
忠告するように言うと、クレアは料理の手を止め、口を尖らせて振り返った。
「お城にはみんながいるもん」
「当たり前だろ」
「もーっ!」
クレアは不愉快そうに頬を膨らまし、包丁を置くと、カーシュに近寄って彼の膝の上にまたがって乗った。カーシュがキョトンとしていると、彼の胸に手をおいて、どちらからでもなく目を閉じ、そっとキスをする。
唇を離すと、クレアはカーシュの胸に寄り添いもたれ、目を閉じた。
「……ここなら、誰にも邪魔されない。……ずーっと、カーシュといれる。……だから、ここがいい……」
呟くような落ち着いた声を耳に、カーシュはクレアの背中に腕を回して抱きしめた。
愛おしむように背中をゆっくりと何度も撫で、カーシュはぼんやりと遠くを見つめて目を細めた。
「……、クレア?」
「……うん……?」
「……、……俺と……、……一緒になるか?」
「……」
「……俺と……結婚、……してみるか……?」
窺うような、自信なさげな声に、クレアはじっとしていた。
カーシュはドキドキしながら、でも、一向に返事のない時間に不安を感じ、クレアを抱きしめたまま目を泳がした。
「……、ク、クレア……?」
「……」
「……、あの……」
「……グス」
と、鼻をすする音が聞こえ、カーシュは少し目を見開いた。
抱いている腕にかすかに伝わってくる、クレアの震え――。
グス、グス、と、何度も何度も鼻をすすり、息を詰まらせる。そんなクレアを、カーシュはギュッと強く抱きしめた。
「……、絶対、……絶対幸せにするから。……傍にいるから」
クレアは息を詰まらせ、何度も頷くと、カーシュの首にしっかりしがみついた。
カーシュはホッと肩の力を抜いたが、
「……ジョージに殺されないようにね」
と、鼻声で耳元で言われてガックリと項垂れた。
その頃……
「ロバート、どこへ?」
「ああ、……ベルナーガスにな。ブラッド様からお呼びがかかったんだ」
ウェルターの馬小屋で、馬に手綱を付けるロバートに気付いたティモが近寄ってきた。
「ブラッド様から? 珍しい」
「恐らく、流行っている病気のことだろう」
「それはロバートの専門外だ。医者じゃない」
ティモが苦笑して首を振ると、ロバートも苦笑した。
「医者を必要としていないんだろう。……まあ……わたしの方も話したいことがあったからちょうどいいがな」
そう答えて準備を進めつつ、思い出したように顔を上げ、首を傾げるティモを見た。
「ちょっと用事を頼まれてはくれんか?」
「いいですよ」
「スコット殿を誘ってでも構わん。……いや、その方がいいだろうな。……すまんが、街の出生記録帳を探しておいてくれ。わたしの書庫には置いていなかった。街のどこかにあるはずだ」
「この街一番の、古株のロバートがわからないんじゃ、どこを探せばいいのか……。ウェルターじゃあ、残ったのは俺たちとカーシュとナナだけだし」
「……なら、カーシュの家を調べろ」
「……。カーシュの家?」
「ギルフォイルの日記帳でもいい。あやつは几帳面なヤツだったから、何かしらの記録を付けておるかも。……とにかく、出生記録らしきものを見つけてくれ」
真顔で頼むロバートに、ティモは「……わかりました」と、戸惑いながらも頷いた。
「わたしはこの後すぐに出かける」
「もうすぐ夜ですよ?」
「今晩はカーシュの所に泊まっていく。明日の早朝、あいつも誘ってベルナーガスへ行くつもりだ」
「そうですか。まあ、あいつもいつも一人だから、喜ぶでしょ」
肩をすくめて笑うティモに、「だといいがな」と、ロバートは苦笑し、準備ができると早速馬の背に荷物を置いてまたがり、ティモを見下ろした。
「すまんが頼んだぞ」
「気を付けて」
「ああ」
ロバートは、ティモに見送られながらゆっくりと馬を歩かせて街を出て、手綱を引っ張り走らせ、森に入る前に隣の森、迷いの森にチラっと目を向けた。そして、カーシュの小屋まで木々を除けて馬を走らせたが、小屋の傍、綺麗な白い馬がいるのに気付くとキョトンとし、それでも馬を下りて木に手綱を結んだ。“友だち”が現れて、二頭の馬は互いに顔をすり寄せる。
ロバートは荷物を下ろして抱えると、二頭の顔を撫で、小屋に近寄った。
「おい、カーシュ。わたしだ。ロバートだ」
声をかけてドアをノックすると、すぐにドタドタッ! バタバタッ! と慌てるような音が聞こえ、ロバートは顔をしかめ、そのままドアを開けた。
「ロ、ロバートっ……」
ドアのすぐ向こうにカーシュが引きつった笑顔で立っていたが、どうも様子がおかしい。足元から頭まで見ると、髪も洋服も乱れている。
訝しげに眉を寄せていると、木板の向こう、ベッドがある方からヒョコっとクレアが顔を覗かせ、「……あっ」と、笑って手を振った。
「ロバートーッ!」
「わっ、バカッ……!」
カーシュが焦って振り返る。
ロバートは薄い布で身体を隠すクレアを見て、間を置いて呆れるようなため息を吐くと、じっとりとした横目を向けた。
「……、カーシュ……」
「い、いやっ……、そのっ……」
顔を赤くして慌てて首を振るが、何も言葉が出ない。
ロバートは再びため息を吐いて額を抑えた。
「……お前というヤツは……」
「……えっ。……あ、その……」
「えへへーっ」と、クレアは布を身体に巻いて戸惑うカーシュの隣りに立つと、彼の腕にしがみついた。
「いいんだ! だって、ボク、カーシュのお嫁さんになるんだもん! それに、もうずーっと前から!」
嬉しそうに報告するクレアの口をカーシュは慌てて塞ぐ。
ロバートは更に呆れがちなため息を吐き、目を据わらせながらも、分が悪そうな、引きつった笑いを浮かべるカーシュから顔をしかめるクレアへと目を移した。
「……洋服を着なさい」
ため息混じりに注意されてクレアは「うん」と頷き、カーシュが手を離すとおとなしく奥に引っ込む。
ロバートは、ポリポリと頭を掻くカーシュを窺いつつ小屋のドアを閉めた。
「……ジョージ殿には? 知っているのか?」
「……、ジョージさんにはまだ。……ずっとチャンスを窺ってるんだけど」
「報告が先だろう」
「う、うん……。それは……まあ」
やはり分が悪そうなカーシュにロバートは深く息を吐きつつ、壁際に荷物を置いた。
「今晩、泊めてもらおうと思ってきたんだが……、邪魔か?」
横目で問われ、カーシュは慌てて首を振った。
「邪魔だなんてっ……全然!」
「ロバート、お泊まりするの?」
洋服を着てきたクレアが笑顔で首を傾げると、ロバートは苦笑した。
「ああ、そのつもりだ」
「じゃあボクも!」
楽しげな笑みで手を大きく上げると、
「い、いや、お前は帰れ」
と、真顔でカーシュに遮られ、クレアは頬を膨らませて首を振った。
「ロバートにもボクのご飯、食べてもらうのっ。ロバート、食べたいよねーっ?」
笑顔で相槌を問う、その無邪気さにロバートは「やれやれ……」と情けなく笑った。
「……仕方ない。……カーシュ、ジョージ殿に鳩を飛ばせ。わたしが許可をしたと」
「……。ご、ごめん」
カーシュは申し訳なさそうに謝って、鳩小屋へ向かうため、いったん外に出る。その背中を見送り、ロバートは笑顔のクレアに目を移した。
「……カーシュと夫婦になるのか」
「うんっ」
嬉しそうに頷くクレアに、ロバートは優しい笑みを浮かべた。
「そうか……。あいつなら、きっと、クレアちゃんを幸せにできるだろうな」
「ボクもそう思うっ。ボク、カーシュに幸せにしてもらうんだっ。ボクも、カーシュを幸せにしてあげるのっ。そう決めたんだよっ」
「……そうか……」
クレアはにっこりと笑うと、「よーし! がんばって作るぞー!」と袖を捲り、意気込みを露わに炊事場に向かう。その背中を見て、ロバートは苦笑した。
――クレアの手料理を食べ、三人で楽しい夜を過ごした後、夜行性の野鳥たちの声を子守歌に、クレアはベッドを占領して先に寝付いてしまった。
柔らかなろうそくの炎に照らされながら、カーシュとロバートは果実酒を用意してテーブルに向かい合っている。
「しかし……、時間が経つのは早いものだな」
物思いに耽るようにロバートは果実酒に目を落とし、微かな笑みを浮かべた。
「お前も、ついこの間までおしめをしていたのに」
「それって、いつの話し?」
まさかそんな大昔に遡るとは思ってもなく、カーシュは果実酒を飲んで苦笑した。
「俺、もうすぐ二十だよ?」
「……、そうだな。もう、そんな年だな」
ロバートは果実酒を一口飲んで息を吐き、穏やかな笑みで対面のカーシュを見た。
「……結婚か。……しかも、クレアちゃんと」
表情は笑顔だが、どこか呆れるような声に、カーシュは、やはり分が悪そうな、恥ずかしそうな笑みを浮かべた。
「もうやめてよ、それ」
「いやいや。そういう意味じゃなくて。……よく決心したな」
カーシュは少し視線を落とし、「……うん」と頷いた。
「……最初に出会ったときから、なんとなく思ってたんだ。……長い付き合いになるって。……その通りになっただけだよ」
そう答えて笑みをこぼし、ひと息吐いて言葉を続けた。
「……俺は、ジョージさんやブラッドみたいに強くないし、賢くもないし、……財産もない、ただの庶民だから……。正直言って、この先どうなるかわからない、って思うんだ。……でも、……クレアはずっと辛い思いをしてきたし。……短い間だったけど、その姿を見てきたから。……あいつを、普通に、……本当に普通に、幸せにしたいんだ。……不便な思いをさせるかも知れないけど、……あいつを笑顔でいさせることは、俺にもできるんじゃなかな、って、そう思って……」
穏やかな笑みを浮かべ、果実酒の入っているコップを揺らした。
「……これからもずっと、あいつと一緒にいたいんだ。……あいつと一緒なら、俺、すごくいい人生が送れる気がする……」
静かな声で語るカーシュに、ロバートは目尻にしわを寄せた。
「そうか……。お前とクレアちゃんが幸せになるなら、それで満足だ。……きっと、ギルフォイルもあの世で喜んでいるだろうな」
その言葉に、カーシュは表情を消す――。気まずそうな様子に気付いて、ロバートは間を置き、首を傾げた。
「……どうした?」
「……。父さんは、……喜んじゃいないよ」
悲しげな笑みで呟くカーシュに、ロバートは顔をしかめ苦笑した。
「確かに悪さをしたヤツだったが、しかし」
「……俺が、父さんを斬ったんだ」
視線を落として言葉を遮り告げたカーシュに、ロバートは口を閉じて、訝しげに眉を動かした。
「……俺が、……父さんの命を奪ったんだ。……だから、……父さんは、俺のことを恨んでいるよ。……きっと……」
「……。そうか……」
ロバートは目を細めるカーシュを見て深く息を吐き、間を置いて真顔で切り出した。
「……最後の時、……ギルフォイルは抵抗したか?」
「……いや。……覚悟を決めた感じだった……」
「では……、大人しかったと?」
「……ああ。……少し……笑ってたかな」
カーシュはそう答えて目を逸らし、テーブルの隅をじっと見つめてどこか不愉快げに、悲しげに笑った。
「自分の息子に殺されるって時に笑うなんてさ。……どうかしてるよな。ホント……」
「……後悔しておるのか?」
「……。してないよ」
カーシュは真顔で首を振った。
「後悔なんてしてない。……父さんは、俺のためだと言ってたくさんの人を犠牲にした。そんな勝手な話し、ないだろ。……俺のためだなんて嘘に決まってる。……自分のためだよ」
どこか睨むように告げるカーシュに、ロバートは間を置いて果実酒を飲み、一息吐いた。
「……カーシュ。お前もいずれ、父となるだろう。……今抱えている思いは、その時に全て捨てろ」
穏やかさの中にも警告を交えるようなその言葉に、カーシュは顔をしかめた。
「……忘れろって事?」
「ああ、そうだ。……ギルフォイルに対しての思いは、キレイさっぱり、忘れるんだ」
「……、よくわからないよ」
「……いずれわかる。……いずれな」
か細く笑みを浮かべて答え、ロバートはコップを置いた。
「明日、一緒にベルナーガスへ向かうぞ」
「……。え? お、俺も?」
キョトンとした顔で自分の鼻先を指差すと「ああ、そうだ」と頷かれ、引きつった笑みを浮かべた。
「……、い、いや……。今行ったら、またブラッドに殴られるよ。……あいつに殺されるかも知れない」
嫌そうに目を据わらせるカーシュにロバートは笑った。
「今のうちに殺されておけ。後が楽だぞ」
「死んだら元も子もないよ」
「なあに。お前はそう簡単には死なんだろ。今もピンピンしとるではないか」
「……死ぬときは死ぬって」
情けない声を出してガックリと頭を落とすカーシュにロバートは愉快げに笑っていたが、ふと、思い出したように顔を上げた。
「そうだ、カーシュ」
少し真顔で切り出され、カーシュは「ん?」と眉を上げた。
「……病気が流行っているのは知ってるだろう?」
「ああ、みたいだね。……クレアにも訊いていたけど、原因がわからないって。……最近、天候も悪いし……。なんだか、悪いことがいっぺんに押し寄せてるみたいだ」
少し不安げに首を振ると、ロバートは真顔で目を細めた。
「……お前はどうだ? 病気にはなっていないか?」
「俺?」
カーシュはキョトンとし、自分の両腕を確認して苦笑した。
「今のところ、黒点は出てないし元気だよ。大丈夫」
「……そうか。ならいいが……」
どこか意味ありげに視線を斜め下に向けるロバートに、カーシュは顔をしかめた。
「どうした? ……何か知ってるの?」
「ん? ……いや、な。……、気になることがあってな」
「……気になること?」
繰り返したカーシュに、ロバートは頷き、間を置いて切り出した。
「……お前は、幼少の頃を覚えているか?」
「んー……どうだろう。何才くらいの時?」
「……赤子の時だ」
「それは無理だよ」
カーシュは苦笑して肩をすくめた。
「赤ん坊の時のことなんて、みんな覚えてないって」
「……そうか。……そうだな」
「ン、なに? 俺が赤ん坊の時に、何かあったの?」
「……お前の母親については、どう聞いた?」
「……、母さんは、俺を生んですぐに死んだって、父さんに聞いたよ。身体が元々丈夫じゃなかったから、って……。……そうじゃなかったの?」
どこか不安げに聞くカーシュに、ロバートは首を振った。
「いや、お前の母親、……アリアは、病弱だったがため、お前を生んですぐに命を落とした。それは本当の話しだ」
「……そっか」
カーシュは小さく返事をして視線を落とした。
「……母さんの事なんて、全然知らないから……、俺……」
「いい娘だった。気が優しく、ウェルターで一番の美人だったな」
「そうなんだ? ……そんな話し、初めてだよ」
カーシュは少し笑みをこぼし、果実酒の入っているコップを見つめた。
「……母さんか。……もし生きていたら……」
そう呟いて言葉を切らし、一息吐いて気を取り直すようにロバートを見た。
「ン、それより、……俺が赤ん坊の時のことと、今の病気と、なんの関係が?」
首を傾げて再度聞くと、ロバートは間を置いて首を振った。
「まあいい。明日、ベルナーガスに行けばブラッド様にもお話しをせねばならん。お前も少し話しに立ち会うといい」
「……、できればブラッドとは会いたくない」
「義理の兄になるお方だぞ?」
「……。わ、忘れてた……」
カーシュはうんざりげに肩を落とした。
――それから、しばらく他愛ない話しで時間を過ごして就寝し、そして翌朝。クレアが朝食を作り、それを食べると、早速旅支度をしてベルナーガスへと馬を走らせた。
夕方前に城に辿り着くと、クレアの後を付いて国務室へ向かう。途中、城住者たちに挨拶をされながら、カーシュは「……はあ」とため息を吐いた。
「……ブラッドのヤツ、絶対、突っかかってくるぞ」
「んじゃ、覚悟して」と、クレアは足を止めることなく振り返って笑う。まるで他人事だ。
ロバートは苦笑し、じっとりと目を据わらせるカーシュの肩をポンポンと叩いた。
「早いか遅いかのことだ。ジョージ殿もおられるだろう。挨拶だけは早く済ませておけ」
「……、帯刀してないことを祈ってて」
すがるような目で訴えられ、ロバートは「こらこら」と情けなく笑う。
「護衛が帯刀していなくてどうする」
――それもそうだ。
カーシュはガックリと肩を落とした。
国務室の前、両脇に立つ兵士に、「こんにちわ!」と、クレアが元気よく挨拶をし、彼らに笑われながら開けてもらったドアから中に入った。……途端、
「カーシュ!!」
予想通り、いきなりブラッドがものすごい形相でズカズカと近寄ってきた。カーシュは「ほら来た!!」と言わんばかりに目を据わらせ、巻き込まれないようにと、ロバートは脇に除けて奥のテーブルにいるジョージとナナに笑顔で近寄った。
「ロバートが一緒だったからってなんのつもりだ!!」
「なんのつもりも何もないだろ!!」
睨むブラッドに、カーシュも負けじと睨み返す。
「ちゃんと鳩も飛ばして連絡したし!!」
「ジョージにだろ!!」
「当たり前じゃないか!」
「ふざけるな!!」
喧嘩腰の二人の間、彼らを見上げてクレアは目を据わらせ腰に手を置いた。
「もー。二人ともいい加減にしなよー。みっともないぞー」
「もう二度とこいつに会いに行くな!!」
不愉快げなカーシュを指差しブラッドにそう怒られて、クレアはムッと眉をつり上げた。
「やだ! ボク、カーシュに会いに行くんだから!!」
「駄目ったら駄目だ!!」
「行くのーっ!!」
今度は兄妹喧嘩だ。
ナナは呆れるようなため息を吐いて、苦笑気味にロバートを窺った。
「二人とも、いい子にしていました?」
ロバートは「ん? あ、ああ」と、微妙な笑顔を見せた。
「まあ……そうだな。元気だったな」
「いいか!? カーシュだって男なんだぞ!! 何か間違いがあったらどうするんだ!!」
「間違いって何!?」
とんでもない方に話しが進み、「ヤバイ!」と、カーシュは顔色を変えて慌てて二人の間に入り込んだ。
「ま、まあまあっ。そ、そんなっ……兄妹ゲンカしなくてもっ……」
「ボクはカーシュのお嫁さんになるんだからいいんだもん!!」
大きく言い切ったクレアに、ナナは「……、あら」と目をパチクリさせ、ロバートは視界の片隅でジョージを窺った。……特に変化はない。
ブラッドは、ギロッとカーシュを睨んだ。
「……まさか、お前っ……クレアに言ったんじゃ……!」
カーシュはもうどうすることもできず、やけくそ気味にクルッと身体の向きを変え、そのままジョージに近寄った。そして、無表情な顔をしているジョージの前で足を止めると、覚悟を決めて大きく息を吸い込んだ。
「……クレアと結婚させてください!」
「させるか!!」と、ブラッドが怒鳴り即答する。
カーシュはそんなブラッドを無視して、尚、ジョージを見上げた。
「……クレアを幸せにしてみせます! ……絶対に幸せにします! だから!」
カーシュは踏ん張ってグッと拳を作った。
「……お嬢さんを、ボクにください!!」
ナナとロバートは目を見合わせ、ブラッドはギリギリと歯を噛みしめていたが――
「……そうか。……やっとか」
カーシュは「……え」と表情を消して目を見開いた。
頭の中が一瞬にして空っぽになる。どこか驚きを隠せない彼に、ジョージは苦笑した。
「……まだかまだかと、待っていた。……そんなに勇気のいることだったか?」
「……、えっ……」
予想外の展開に戸惑うカーシュに、ジョージは微笑んだ。
「……お前なら申し分ない。……クレアをよろしく頼む」
カーシュは呆然としていたが、「……は、はい!」と、嬉しそうに大きく返事をした。
クレアも嬉しそうに笑って、不愉快そうに目を据わらせて腕を組んでいるブラッドを窺い、顔を覗き込んだ。
「……、ジョージが許してくれたよ?」
「……、俺は許さないっ」
「……。ホントに許さないの?」
「……許さないっ」
「でもボク、カーシュのお嫁さんになるよ」
クレアはにっこりと笑った。
「カーシュと一緒にいたいんだ。だから、ボク、カーシュのお嫁さんになる。カーシュのお嫁さんになって、幸せになる」
にこにこと笑って告げるクレアに、ブラッドはじっとりとした横目を向ける。恨めしそうと言うよりは拗ねているようだ。
クレアは笑って、ブラッドの腕に自分の腕を絡ませた。
「カーシュとも家族だねっ。ボク、家族が増えて嬉しい! ねえ、ブラッドも早くお嫁さん見つけてよ! たくさん家族作ろう! もっとたくさん! 楽しいから! みーんなと一緒に暮らして、楽しく過ごすの! ずーっとお祭りみたいに!」
無邪気なクレアに、ブラッドは段々と意気消沈してくる。ガックリと肩を落とし、楽しそうなクレアにされるがまま腕を引っ張られ、怒る気力もなくしたのか、ため息を吐いた。
ナナは苦笑し、ホッとするカーシュの横に近寄った。
「……よかったわね、カーシュ」
そっと声を掛けられて、カーシュは気恥ずかしそうに頷いた。
「……ありがとう、……ナナ」
「クレアちゃんを幸せにしてあげてね。……あなたなら、絶対できるから」
「ああ。……わかってる」
力強く頷くカーシュに、ジョージも、そしてロバートも笑みをこぼす。
クレアは呆れ顔のブラッドににっこりと笑った。
「ねっ? カーシュとは間違いなんてないよ! お嫁さんになるんだから、カーシュとは何したって問題ないんだ! もう、内緒にしとくの大変だったよー! バレたらどうしようってドッキドキだったんだー! これで堂々と子作りしちゃうぞー!!」
……その場の空気が凍った――
「……あいつは手加減ってものを知らないんだろうな……」
「なんで殴られたの?」
「……、なんでだと思う?」
「うーん……。わかんない」
真顔で首を振るクレアに、軽く頬を腫らしたカーシュはガックリと項垂れた。
その日の夜――。それぞれ別に夜食を取り、自由に行動している。
クレアはカーシュを引っ張り、城の最上階にある展望台へとやって来た。
夜空と、城下町の薄明かりを眺めながら、クレアは首を傾げた。
「ボク、何か変なこと言った?」
「……あのな、クレア」
「ん?」
「……頼むから、みんなにすべてを報告するのはやめてくれ……」
「ん? ボク、全部を報告って、まだしてないよ?」
「……。ど、どこまでみんなに話すつもりなんだ?」
「えーとね、カーシュの癖のこととか。あ、ボク、背中にほくろがあるって初めて知った。カーシュも背中にあったのを見つけたよ。右肩のね、トコ。あと、耳の裏のトコ。見えないところにあるのって、なんかおもしろいね。宝探しみたい。今度、ジョージとブラッドのも探してみようっと」
「……」
これは教育が必要だ。と、カーシュは心の中で強く決心する。
クレアは笑顔で柵に手を置いた。
「でも、ジョージも認めてくれたしねっ。これで、好きな時に、自由にカーシュのトコに行けるっ」
「い、いや……。しばらくはやめておいた方が……」
引きつった笑みで首を振ると、「なんで?」と、キョトンとした顔で首を傾げられ、カーシュは情けない笑みで肩の力を抜いた。
「婚儀を挙げるまでは、な。……じゃないと、俺、ブラッドに殴り殺される」
「仲良しだね」
「……。仲良しに見えるか?」
「うん」
真剣な顔で大きく頷かれてカーシュはため息を吐き、気を取り直すように遠い夜景を見つめながら柵に腕を乗せて体重を預けた。
「……でも、……ホント、なんかホッとした。……ジョージさんに反対もされなかったし」
「ジョージは反対しないよ」
クレアは微笑んで夜空を仰いだ。
「ブラッドと同じで、カーシュのこと、気に入ってるからねー」
「ブラッドには嫌われてるって」
「そんなことないよ。ブラッドは、カーシュのこと好きなんだよ?」
「……、気持ち悪い」
ぶるっと身震いするカーシュにクレアは「ふふっ」と笑って彼と腕を絡めた。
「……楽しくって、いいね、こういうの」
「……、ああ、そうだな……」
「ずっと続くよね、こういうの」
「……ああ」
「じゃあ、ずーっと、楽しいね」
「……、ああ……」
カーシュは微笑み自分を見つめているクレアに穏やかな笑みをこぼす。
「……たくさん、幸せになろうな」
クレアは「うんっ」と、とびきりの笑顔で大きく頷いた。