episode1-3
――本当によろしいのですか?
腰に届くほど長い黒髪は艶を帯びて緩く波打つ。その一房を片手に、もう一方の手にはハサミを持ちマリーは鏡に映った少女に聞いた。
――いいの、やって
瞼を閉じたままで答えた。
直視する勇気はなかった。
ざくっ
鋭い音。
そう。
長い髪を切り落としたとき、残酷さを含んだ現実を知ったのだ。
――後戻りは、できない
「お嬢様、お目覚めくださいませ」
マリー?
夢現がないまぜになり、思わず髪に手を伸ばしていた。
触れ、すぐに先へ辿りつくほど短い髪。
ああ――これが現実
「お嬢様?」
「……ゆめ」
窓に薄く引かれたカーテンから漏れ入る光が瞼を優しくくすぐって目覚めを導く。
いつも、なにかの岐路に立つときに見る過去の夢。
この夢を見るような時期だろうか今は。
「やだ……ねむいぃ」
もそもそと布団に潜り込む。
「お嬢様」
呆れを含んだマリーの声が聞こえたけれど、布団の防御壁の中で抗戦を決め込むことにする。
夜明け近くまで、いつもの部屋に籠ってグレア家の見取り図の製図作業をしていたのだ、睡眠時間が足りる訳がない。
とはいえ、作業に付き合っていたはずのマリーが平然と朝の仕事をこなしているのだから、言い訳にならないだろうが。
「お急ぎになられた方がよいかと思いますよ」
「むりぃ」
「……ご忠告はいたしましたよ」
不吉な言葉とそれは同時だった。
どっ、とベッドに伏せた顔の横に何かが突き刺さる音がした。そしてーー殺気。
反動をつけて柔らかなベッドの上を転がる。
直後セシリアがいた場所にナイフが突き刺さった。
枕を掴みナイフが飛んできた方向へと投げる。何かに当たる音。
「最悪の寝覚めね。ねぇ、リチャード?」
「おはようございます。お嬢様」
視線の先にセシリアが投げた枕を手に微笑む執事がいた。微笑みながらあげた逆の手にはズラリとナイフが並ぶ。
「いついかなるときも鍛錬は必要です」
「だからって起き抜けを襲うことは無いと思うわ」
「失礼致しました。ご朝食のお伺いに参りましたところマリーが困っておりましたのでつい」
父の代からベイツ家に使えるリチャードは優秀な執事でありーー優秀な隠密でもある。
ベイツの裏稼業を担う大切な一員だが、少々仕事に忠実過ぎて行き過ぎることがままある。
「いいわ。あなたがやり過ぎるのはいつもの事よね。準備をするから出て行ってくれるかしら?」
「かしこまりました、お嬢様」
リチャードは丁寧な礼をし背を向けた。
それを見たセシリアはベッドに刺さったナイフを素早く抜き取り、去りゆくリチャードの背へ投げつけた。
「……あら、残念」
「お戯れを、お嬢様」
飛んできたナイフをあっさりと短刀で叩き落とした有能執事は何事もなかったかのように微笑みを残して部屋の扉の向こうに消えていった。
「っとに食えないオヤジね。いつかあの厚い面の皮を剥ぎ取ってやりたいわ」
セシリアは頬杖をついて文句を垂れた。
「セシリアさま、お支度を整えてもよろしいでしょうか?」
一連の出来事を見たにも拘らず、平然とマリーは仕事をこなす。これがベイツ家にとっての日常なのだ。
「今日は、アナスタシアをご用意いたしました」
マリーは愛用の鬘一つ一つにつけた愛称をセシリア告げて、鏡台へ促す。
「はぁい」
セシリアは可愛らしく返事をして、ベッドから跳ねるように飛び降りた。
「おはよう、パパ」
新聞片手にコーヒーを啜る紳士にセシリアは声をかけた。
灰褐色の瞳はいかにも人の良さそうな色を浮かべて微笑む。
年齢の割に引き締まった身体は彼がルカスだったころの名残りをみせる。
「おはよう、シシィ。よく眠れたかい?昨日はグレア家の夜会だったんだろう?」
「ええ、製図をまとめるのに時間がかかったけれども、ぐっすりよ。ところでママはお散歩?」
いつも、父に寄り添う母の姿が見えず、セシリアは首を傾げた。
ふっと父が微笑みをこぼした。何かおかしい。
父の向かいの席に腰を下ろし、なんでもないように周囲に目を配った。
ふと飲み物を運んできた給仕係に目が止まる。
ベイツ家の使用人の数は普通の上流階級に比べてずっと少ない。リチャードしかり、マリーしかり、でベイツ家の使用人は裏稼業を担う一員でもあるから、全員の顔と名前を当然セシリアは知っていた。
20歳を少し過ぎた給仕係の彼は料理長の縁のある者ということで数年前にベイツ家にやって来た。
けれど、今日の彼には少しの違和感がある。
「……ママ、お散歩はもうお終いなの?」
セシリアは、グラスを置いて立ち去る背に声をかけた。
振り返った彼はどう見ても20歳を少し過ぎた青年にしか見えない。けれど、彼が微笑んで発した声は
「流石ねセシリア。パパとママの自慢の娘だわ」
綺麗なソプラノの音を奏でた。それはベイツ家の女主人の声だった。
「残念だったねエリザ」
全く別人のしかも男の姿をした妻に、父はいつもと変わらない愛情のこもった視線を向けている。流石父である。
母は別人に化けたまま、父の隣の席に着いた。
そこへ、本物の彼、給仕係が母のための紅茶を運んできた。
ありがとう、と微笑みを浮かべて受け取る母に頬を引きつらせている。
そこで動揺していては、隠密失格だよ。
かつて同じことをされた執事頭のリチャードが平然と仕事をこなしていたのをセシリアは思い出していた。流石、父の侍従だ。
「いや、ママの変装技術は全く衰えを知らないね。いや、一層増しているくらいだ。今でも思い出すよ。王子と姫君を同じ女優が演じていたと知った時の驚きと感動をね」
愛しくてたまらない様子で父は母に微笑んだ。
耳にタコができるほど聞かされた二人の恋物語の始まりだ。
女優だった母を上流階級だった父が見初めたというロマンスは、一度目は微笑んで、二度目は愛想笑いを浮かべ、三度目には表情を失う、という連続で聞かされたものを飽きさせる、嘘みたいにありきたりで安っぽい恋愛小説のような話だ。
いや、普通の紳士は変装技術の高さに惚れたりしないのか。それをありきたりと思える点で、セシリアも立派なベイツ家の一員なのだといえる。
「あら、でもシシィにはすぐに暴露てしまったわ。シシィ、どうして分かったのかしら?」
「……瞳の色よ」
不快なものを見た時のように眉をひそめてセシリアは言った。
変装した母の瞳にはセシリアと同じ紫の色が微かに浮かんでいた。
沈むセシリアを見て、ベイツ夫人は残念そうに呟いた。
「あら。では、今回も失敗なのね。リチャードががんばって作ってくれたのだけどダメね」
「新しい目薬か?」
「ええ。瞳の色を濃くして、黒に見えるようにするんだけど……セシリアがお寝坊さんだったから効果が切れ始めたのかもしれないわ」
沈む両親へセシリアは明るく笑ってみせた。
「大丈夫よママ。私、月がなくてもちゃんとルカスをこなせているもの。別に月のカラス(ルカス)じゃなくても任務さえ全うできれば誰も文句は言えないわ」
光のない新月の夜にだけ動くようになったのは、この珍しい瞳のせいだった。
ヴィオレッタの通称がまかり通るほど、紫の瞳はとても珍しい。満月の光はその珍しい紫の瞳を明るく照らしてしまった。
ルカスの姿で紫の瞳に気付かれれば、ルカスとセシリアを結びつけるのは容易い。
そうなれば、ベイツ家などすぐに消されてしまうだろう。
自分は月のカラス(ルカス)になれないかもしれないと知ったときの絶望感をセシリアは忘れられない。
忘れたつもりでも、ひょっこりと顔を出すのだ。そう、昨日のようにーー
ーールカスの威を借った偽者なのではーー
ーーパァンッ
大きな音をたてて、セシリアの手にしていたグラスが砕け散った。粉砕されたグラスは砂のようにセシリアの手から零れ落ちてゆく。少し残っていた飲み物の水分が手を濡らした。
「あらあら」
子どもが転んだときのような、呑気な声はベイツ夫人。
「セシリアが粉砕するのは久々だなぁ」
娘の小さな頃を思い出すように懐かしむのは、ベイツ氏。
突然グラスが砕け散ったにもかかわらず、平然とそれを片付け、新しい飲み物を用意する、使用人たち。
そして、グラスを片手で粉砕させた張本人のセシリアは何事もなかったかのように、新しいグラスに口をつけた。
ーーごくごく普通ベイツ家の日常である。