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ラプソディーは月とともに

作者: 沙堂 瑠々亞

 あと368年と3ヶ月と11日で、地球は超新星の爆発に巻き込まれて消えるらしい。

 そんなニュースが飛び交ったのは、今から30年も前のこと。

 「今から全世界の皆さんにお伝えすることがあります――いいですか、覚悟して聞いてください、落ち着いて」――大統領の同時通訳で発表された臨時ニュースに、誰もがぽかんと口を開けた。それくらい現実味がない大事件発表だったのだ。

 真実味を帯びたのは発表から一年ほど経ってから。小惑星爆発で地場が狂ったとか歳差運動が歪んだとかグランドクロスで引力が傾いたとかで、月と地球との距離が「ありえない」くらい近くなった。これにはもう地球全体が大騒ぎで、新興宗教は活発化、EUの同盟国は二倍に増加、「突然巨大」になった月を見ると落ちてくる恐怖で吐いたりパニックを起こす「月面恐怖症候群(セレノフォビア)」なんてものも現代病のひとつになって、とにかく世界の様子は一変した。――らしい。

 なぜ伝聞調なのか。それは15歳の私が生まれる、31年前のことだからだ。



「そーすっと夕飯はお好み焼き! 朝食は女子リクでフレンチトーストに決定な~っ」


 理科室は中等部と高等部の部員が集まって、騒がしかった。

 兼正かねまさ副部長が手元のモニターにペンを走らせる。電子黒板の三分の二を占めた夕飯と朝食のメニュー案一覧に、大きくて赤い丸が踊った。三分の一になったスペースで、作業工程が書かれている。献立内容を真っ先に議論してしまうのがうちの部活らしい。


「そんじゃ分かれて作業開始~。買い出し班はオレと外、合わせ班はイチカと機材運び。イチカに遅れないでついてってーっ」


 チャラい外見でも意外と真面目に部活動する兼正副部長の鶴のひとことで、中高合わせて三十名弱の部員たちは ばたばたと移動しはじめた。

 うちの天文部は月に一度学校に泊まる日がある。新月の日を狙い、「特別活動部」と称して観測を行うのだ。まずは買い出し班と合わせ班に分かれて準備をする。今日はその月イチの天文部特別活動日で、夏休み前の最後の活動日でもあった。

 くじ引きで私は合わせ班になっていたので、イチカ部長についていく。

 四階の理科室を出て、隣の理科準備室に入る。廊下からの光が差し込む暗い部屋の中、頭を垂れていても、脚をぴんと伸ばしているキリン――天体望遠鏡が待っていた。

 イチカ部長が部屋の明かりをつける。


「今日使うのはポルタとスカイポット、あと奥のスターライト。銀塩とデジで写真撮るし、隣の三脚も用意で。双眼鏡は八個ぐらいあればみんなで回せるから……あぁ、とりあえずそこにあるのを二箱持っていって。足りなければ後で兼正が持っていくと思う」


 的確に指示する様は、眼鏡クールビューティーの称号にふさわしい。これ言ったらすねられるけど。

 女子は二人がかり、男子はひとりで機材を抱える。二人組になるのが遅れて、私はひとりで早見盤とガイドブックが入った箱を持つことになった。機材に比べればましだけど、この箱も結構重かったりする。

 普段は使わない屋上行きの階段をのぼり、あらかじめ開いていたドアをくぐる。ふわりと生温かい風が肌をすり抜けた。夏が近いことを知らせる、大気を含んだ重たい風だった。

 率先して重い機材をひとりで持っていったイチカ部長は、本当にすごい。


「新人組はわたしと主要星座の確認ね。箱の中に蛍光塗料の早見盤と双眼鏡ニコンがあるから用意して。中学二年はシートと布団広げて小物準備で。中学三年と高校二年は写真撮りの準備、ほかはファインダー合わせの場所決めをお願い」


 新人組というのは中学一年と、高等部に新しく入ってきた高校一年のことだ。私は持ちあがりの高校一年なので、一応天文部には入部四年目になる。ファインダーを合わせるべく、近くにあった望遠鏡を持ち上げた。フェンスにつかず離れずの距離に置く。フェンスの下は誰もいない校庭だった。その奥に広がるのは暗い林と、ぽつぽつ灯る家々のあかり。校庭は防犯のために申し訳ない程度の街灯がついていて、トラックの円周模様をぼんやりと浮かび上がらせている。

 ふだん校庭の街灯はつかない。街でも住宅地でも、街灯はつかない日のほうが多い。だから、天文部の合宿日は暗い土地を見下ろすことができる特別な夜でもあった。

 そらを見上げる。針で穴を開けた時のようなこまごました光がまたたいていた。いつも地球を押し潰さんとしてくる月の姿は、どこにもなかった。今日が、新月で月の出ない夜だから。

 大きく場所を取る月がないかわりに、星の動きがよく見えた。

 大人いわく、昔は月が肉眼で2cmほどと小さく映るものだったらしい。双眼鏡を使ってやっとクレーターを見ることができたという。

 肉眼で直径に50cmに見える円を見慣れていた私にとっては、月がぽっかりと消えうせてしまった今の状態のほうが恐く思える。闇を照らしてくれるあかりいらずの月が、私にとっては日常であり夜の世界の象徴だ。

 ――大人に不審がられる、言ってはいけない思考のひとつだろうけれど。


「あ。まだ春の大曲線残ってるじゃん」


 ひとりごとのような、誰かに話しかけているような、どっちつかずの声がして――私は振り向いた。さっきまでの私と同じく、空を見上げている男子生徒がいた。


「橋川くん」


 フルネームは橋川はしかわ 実言みこと

 同じクラスになったことはいちどもないけれど、中一のときから同じ部活で顔を合わせてきた男子だ。いつだったか放課後、部活の用事でふたりになったのをきっかけに、橋川くんと私はよく話すようになった。 私が中一だったときの部長が、橋川くんのお姉さんだったとか。部存続のために無理やり天文部に入部させられたとか。うちのお兄ちゃんと橋川くんのお姉さんが同じクラスだったとか、意外に共通点も多くて、廊下で会えば挨拶くらいは交わすようになった。


「そっちも合わせ班だったんだ」


 姿が見えないので、てっきり買い出し班なのかと思っていた。


「イチカ部長が残れって言うから。あれだな、どうやら部長は俺と兼正副部長との仲を裂きたいらしいな」

「……ううん賢明な判断をしたと思うよ、イチカ部長は…」

 

 冗談めかして言う橋川くんに、冷静に突っ込んでしまった。

 さすがイチカ部長と言わざるを得ない。橋川くんと兼正副部長は部内で悪友コンビとして知られているのだ。二人が買い出しに出たが最後、部費電子マネーを食費ではなくまるごと別のものに使ってしまうことを恐れたのだろう。

 はたと気づいた。そういえば橋川くんは、天然調子でトラブルメーカーで人を巻き込むスキルが異常にけている男子だった。このままふらりと他へ行かせては、誰かとじゃれて遊ぶようになって、準備が遅々《ちち》として進まなくなるかも知れない。

 イチカ部長がキレたりしたら大変だ。彼がここに来たのはラッキーだと思わないと、と私は意を決して切り出した。


「そ、そしたらさ! 橋川くんにもここで手伝ってほしいんだけどっ」

「いまさら。俺、手伝うつもりで椋前くらまえんとこ来たんだけど」


 すると橋川くんは望遠鏡の胴体をひょいと抱え上げた。私は小物入りの箱を屋上に上げるだけで息切れしたというのに。やっぱり男の子なんだなあと感心していると、橋川くんは私に軽く目を合わせて、また頭上を見上げた。


「――俺、春の大曲線好きでさあ」


 少しどきりとした。目が合ったときに、ふっと微笑まれている気がしたから。


「大曲線っつっても、北斗七星の端からちゃんとからす座のクラズまで通ってるやつ。あれって本によってはスピカで止まってんだよ。曲線に認められてねえの、からす座って」


 つられて宙を見上げていた。久しぶりに雲もない、月もない夜空。明日から7月に入るという暦ではあるけれど、この時間帯ではまだ春の星座が夜空を彩っている。天頂近くに見える北斗七星の端、もしくはおおぐま座の尾端にあたるベネトナーシュ。うしかい座のアルクトゥルス、南の方角で横たわっているおとめ座のスピカ。それにからす座の脚の付け根にあたるクラズ。それらを結ぶと、空に大きな曲線が描かれる。……春の大三角形、春のダイヤモンドに続いて、プラネタリウムでよく紹介される図形パターン(アステリズム)だ。

 橋川くんの言う通り、本によってクラズは春の大曲線に含まれているものと含まれていないものがある。しかも、スピカで止まっているとするもののほうが多いのだ。たぶん諸説あるとかどれが正しいとかあるんだろうけれど、言われてみると、どうせならクラズも入れておいてくれたほうがいいかもしれなかった。


「月が近づいたのって、お前らもう終わりって意味だったりしてなあ」


 まともに話をするようになって四年。橋川くんはこんな風に、脈絡みゃくらくのない話を振る。誰かに話しかけているようなひとりごとを言うかと思えば、突然好きな星座の話をして。宙を見上げて、誰もが知っていて口に出さない 未来のできごとの同意を求めてくる。


死刑勧告しけいかんこくっつうの。どうせ地球滅びんだからっていう、300年前からの」


 彼は禁則事項を口にした。私は肯定も否定もしなかった。それは未曾有みぞうの危機であり、全世界が一丸となって回避しなければいけない問題だ。その手の話は冗談めかして話す雰囲気ではなくなり、言ってはいけない言葉のひとつとして15年前に全世界で制定された。起死回生に躍起やっきになった大人たちは、かつて自国ででていたとされる月さえ嫌うようになったのだから。


「……橋川くんは、地球が滅ぶと悲しい?」

「椋前は滅ぶ実感わいてんの。ちなみに俺にはない」

「だよね」


 どさくさに某機構が「やっぱり月に行ってませんでした」と公表したのもとがめられず、国家予算の半分をもらい受けるようになった今。宇宙科学は惑星衝突の回避の手立てとして考えられるようになり、機構の職員と宇宙学者は世に貢献する名誉な職業となった。反対に、娯楽としての星座の知識は、旧世界の遺物のようにとらえられるようになった。

 でも私たち生徒が変わることはない。

 的を射た彼の言葉を借りるなら、『実感がわかない』から。

 地球に緩やかで確実な死が訪れているとか、小学校のころから必修になった天文学を必死で覚えて回避方法を探さなければいけないとか――それよりも、友達同士のいざこざとか、家族の不和とか、小テストの結果とか、大事なものが他にあるから。

 それに私たちは知っているのだ。前よりちょっとだけ延びたらしい87歳の平均寿命だと、今生きている地球上のすべての人が この星の終わりを見ることができないと。

 きっと次の次の次のそのまた次の世代ぐらいの人がなんとかやってくれるだろう。

 大統領の世界中継を聞いていた世代の憂いと焦りとはうらはらに、聞いていなかった若い世代の一般人は、けっこうのんきに暮らしていたりする。


「“声をらして叫んだって、夏は永劫えいごう続かない”」

 

 なにかの詩を暗唱するかのごとく、橋川くんがつぶやいた。


「え?」

「たとえばさ、椋前。夏が終わってほしくないと声を嗄らして叫んだとして、なにが残る?」


 ファインダーへ目標物を入れながら抑揚よくようなく問いかけてくる。やっぱり唐突で、話に一貫したつながりがない。


「自分のノドがガラガラになるだけで、夏が続くわけないだろ」

「はあ」


 片目をつぶってつまみを器用に回している。方角から、たぶん西に沈みゆくスピカに合わせているのだと思った。金星や木星に合わせようとしないのが橋川くんだ。イチカ部長から特に指示は受けてないから、たぶん大丈夫だろう。


「結果、諦めるという行動がいちばん正しく映る。これってすごく大事じゃね」

「はあ……?」

「だから地球が滅びてもしょうがないかって思うんだよ。だいたい人間っていいように地球扱ってきたじゃん。今頃ツケが回ってきたんじゃねえの。――夏が終わること分かってて、自分の喉をガラガラにするバカどこに居んだよ」

「はあ……」


 私、はあしか言ってない。

 つまり橋川くんが言いたいのは、と頭の中で単語を並べて推理する。脈絡がないようで、話に筋道が通ってないわけじゃない。会話(というか一方的な喋り)の前後から考えると……要するに。

 地球が滅ぶというのは確定事項であって、諦めろということ……?


「いやいや、だめだよ! いま頑張ってる人たち無碍むげにしてるよ!」


 手を振って全力で否定した。

 いくら実感がなくっても、諦めろという結論が短絡的たんらくてきでいけないというのは分かる。


「橋川くん、異次元の切り返しって言うんだよ、それ。夏が終わるのはあたりまえなんだから。声嗄らして叫ぶのは意味ないよ。夏が終わるのを仕方ないって諦めるより、夏のあいだに何かしてたほうが絶対いい」


 架台かだいのクランプを緩めるためにかがんでいる橋川くんが、こちらを見上げた。目を丸くしていたけれど、次第に彼の瞳孔どうこうせばまっていく。眉間みけんにきゅっとしわを寄せて、どこかこわばっている顔になった。こちらの発言を見極めているような、射抜くようなまなざしを向けていた。

 彼のあまり見たことのない表情を見て、私もかたくなる。

 それほど私は変なことを言っただろうか。急に言葉にまったけれど、引くに引けない。


「そ、そういう思いで今の大人たちは動いてるんじゃないのかな。自分が生きている一生の間に、少しでも打開策とか考えるようにしようって。せめて次の世代につなげられるなにかがしたいって」


 真摯しんしなまなざしを真面まおもて対峙たいじする。わけもなく緊張した。さっきまで揚々(ようよう)としていた彼の瞳が、こちらの本性をあばき出そうとする暴力的な視線のように思えた。――言っていてしっくりこなかった。自分に対しても、相手に対しても、なにか違和感がある。

 そのちいさな疑問を振り払うように続けた。


「私だって実感ないけど、でも」


 300年後、何もしなければ地球が滅ぶことが確定事項としても。私たちの世界がすごく小さいことで悩んで回っていたとしても。今生きている地球上のすべての人が、この星の終わりを見ることができないと知っていても。


「いま大人たちが躍起になってる意味は、わかるよ」


 とたん、目の前のくちびるがを描いて曲がった。肩が小刻みに震えたかと思うと、ぷっと吹き出される。今までの彼の硬い表情は、この笑いをこらえていたせいじゃないかっていうくらいに。


「ははっ、やっぱり椋前って楽しいな。薄々(うすうす)勘付いてはいたけどさあ。考えてること俺と対極ちがうっぽいのに、辿たどり着いてんのは同じなんだ」


 楽しいというのは人を評価する形容詞に該当するんだろうか。ぽかんとする私を前に、橋川くんはけらけら笑った。私が持っていた低倍率用接眼レンズのひとつを受け取る。


「俺だって躍起になってる意味も必要性も理解してるよ。けどさあ、大人は『めったなこと言うな』とか釘刺すだけじゃん。同級生まわりだって大人と同じ思考が正しいって思ってる。地球が滅ぶって言うのが禁則事項とか、月はむべき象徴だとか」


 鏡筒の接眼部にセットすると、のぞき込みながら話す。

 橋川くんは、普段から天然調子で、きまぐれで、トラブルメーカーで。こちらが答えていいのかわからない、問いかけのようなひとりごとを言う。そしていつも、私に真偽しんぎを問うをあたえない。


「じゃあ、夏を終わらせないように声を嗄らした奴がどれだけ居るんだって話だろ」


 とまどわずに私は彼の話を聴けるようになった。たどりついてるのは同じ、と橋川くんが言った意味はよくわからない。けれど、共通点は多いと思っている。たとえば、年の離れたきょうだいがいるとか。親の影響で聴く海外のアーティストが似通っているとか、食べ物の嗜好が似ているとか。

 それと――同意こそ避けていたけれど、大きな共通点がひとつ。

 大人に言えばきっと不審がられる、言ってはいけない思考が、同じようにあるから。

 ふわりと風が通り抜けていく。夏到来の夜風は素肌に心地よかった。ピント合わせ用のつまみを回して、橋川くんがファインダーを調節する。


「あぁ、そしたら俺、将来宇宙飛行士にでもなるかな。宇宙工学とか惑星科学とか他の観点でなんかできるかと思ってたけど、やっぱ機構のイヌにならないと助けらんねえし。なれば国からすっげえもらえるらしいし、星見んのもこれから好きなことになるだろうし。名誉ももらえれば最高だし」


 つっこんでもいいものかどうか。その場かぎりの思いつきなのか、冗談で場を盛り上げようとしているのか、いまいち判断がつかない。天文部に四年在籍しているのに、星見るのがこれから好きなことになるとか言っているのはどういうわけなんだろう。

 私は彼の話を聴いてはきたけれど、いたことはなかった。いまの真意を問いただしてみたかった。他の観点ってなに。なにができると思ってるの。機構の狗にならないと、橋川くんが助けられないものって、なに。

 私はてのひらのなかの、接眼レンズを軽く握る。


「……ねぇ、橋川くん」

「椋前。俺は、あれをいって主張できる」


 呼びかけに相手の声が重なった。私が言おうとしていることを、先手でふさがれたみたいだった。

 耳障みみざわりにならない程度の、はしゃぐ声が奥から上がった。ビニルシートを敷く部員が悪ふざけをはじめたらしい。イチカ部長のおさめる声も聞こえてきた。ファインダー合わせを終わらせた部員たちが、方々《ほうぼう》で観測を始めている。


「さっき言った春の大曲線。俺はベネトナーシュからクラズまで通ってて、はじめて大曲線って呼べると思ってる。この宙だってそうだ、星座も月も太陽も惑星も、全部があってはじめて宙って呼べるんだろ」


 橋川くんはファインダーから右目を外し、宙を見上げている。輝くたくさんの恒星こうせい矮星わいせいを。頭上で広がる星座を。今夜だけはがらんどうになった、ないがしろにされたままの黒い円を。かつて人とともにあり、今は憎き象徴とされている「あれ」を、私たちは月と呼ぶ。


「だからあの巨大になった月だって、俺は善い存在だって言える」


 頭上で星座が瞬いている。人が勝手に線を引いてまとめた天球。光の速度が一年かかる単位ではかられた星々。私たちのはるか上で、広がっている。


「――おまえは、違うの?」


 唐突に問われ、即座に言うべきこたえを見つけられなかった。

 どうして橋川くんが知ってるの。だれにも言ったことのない、月に対しての禁則事項な思考を、どうして問いただせるの。

 同時にかちりとあてはめることができた。彼が私に見せた、さっきの表情。わたしが感じた違和感の正体。橋川くんは私を見極めていたのだ。私が禁則事項に対して、疑問を口にできる人間か。まわりの同世代と同じように、大人の言うことこそ正しいと思っているのかどうか。きっと彼は私が肯定も否定もしないと知っていて、ひとりごとのように話していたにちがいない。だから私は橋川くんに対して違和感を覚えていたのだ。なんのために見極めようとしていたのか、彼の真意が分からなかったから。

 ごく自然に目を合わせられた。今度は橋川くんから視線をそらさなかった。

 否定も肯定もしていなかった私が、はじめて示そうとした意思表示だったかもしれない。

 黙って首を横に振る。短くこたえようとして――口を開きかけたところで、突然響き渡った音にはばまれた。

 夜に作業する穏やかな作業音をばりばり破る、空気の読めない大きな音だった。屋上の扉を勢いよく開ける音がして、全員が一斉いっせいに振り返った。


「お~っすお前ら調律ご苦労! おみやげに花火買ってきたからなーっ」

 

 部内でツートップのトラブルメーカー、兼正副部長が帰ってきたのだ。

 副部長は大きな袋をぶんぶんと振り回している。続いて他の部員がひょっこりと顔を出した。買い出し班が戻ってきたらしい。

 通常は買い出し班が学校に戻ったことをメールで知らせれば、全員で理科室に移動、夕飯調理の後で観測開始、というのが常だ。けれど花火セットという言葉に、部員たちがわいわいと反応してしまった。


「飯食って観測したらやっちゃるぞー。ちなみにまみやん顧問もバレないようにやれとのお墨付きだぁっ」


 ふくぶちょーグッジョブ!!という拍手喝采はくしゅかっさい、惚れちゃう兼正!というひやかしが上がる。そして、奥からゆらりと立ち上がる影がひとつ。イチカ部長が兼正副部長を成敗せいばいしにやってきた。

 天然調子できまぐれ、という点では橋川くんと同じだけれど、訂正したい。ムードメイカーでもある兼正副部長は、圧倒的に空気が読めなかった。たぶん兼正副部長は、花火セットを自慢したいがために買い出し班全員で屋上に戻ってきたのだ。刀があったら兼正副部長は、確実にイチカ部長に斬られていただろう。


「あーあ。たまには副部長助けてやんねえとな」

 

 奥のひと悶着もんちゃくをへらりと笑い飛ばした。悪友を救出するべく、橋川くんが向かおうとする。彼はもう『ここ』へは戻ってこないかもしれない。なぜだろう、そう直感した私は、つい呼びとめてしまっていた。


「ねぇ、橋川くんはっ」


 数歩離れた時点で、ゆっくりと橋川くんが振り返る。数回瞬きを行う彼は、呼びかけの続きを待っていた。どうしても訊きたいことがあったのだ。

 なんのために橋川くんが私を見極めようとしていたのか、はたしてお眼鏡にかなったのかはわからない。一方的に私が彼を同じだと思っていても、口にしなければ伝わらないだろう。けれど、『禁句』を言った彼なら、もしかしてわかってくれるかもしれない。これからも同じように話してくれるかもしれない。

 そんなねがいに似た思いをこめて、訊いていた。


「橋川くんは――『夏が終わることわかってて、声を嗄らすバカな奴』なんでしょう?」


 問いに驚くようでもなく、橋川くんがまた眼を細めて笑う。


「あたり」


 なにかとんでもない犯行の計画を内に秘めた、そんな不敵な表情で。

 彼が続けたひとことを、私はずっと忘れないだろう。


「俺、地球から人類脱出させたいんだよね。仲間見つけて」



 結局、お好み焼き大試食会が始まり、観測もそこそこに花火大会が始まった。

 部員が思い思いに屋上に散らばり、配られた手持ち花火に火をつける。私も他の子から火種ひだねをもらってつけてみる。目にまぶしいカラフルな火の粉が、ススキの穂のようにふき出した。兼正副部長が買ってきたものにはスパーク花火もあって、遠くから見ても電流みたいな火があがっている。イチカ部長ですら楽しそうにしていて、0時を回ろうとしても、みんなが眠る様子はなかった。

 イチカ部長を説得した(もとい丸めこんだ)橋川くんも、向こうがわで他の男子と一緒に花火に興じている。はたから見れば、私と話していた禁則事項なことなんて、ぜんぶ考えてませんからっていうくらいに。

 みんなの歓声かんせいが聴こえる。そこには、大人たちが嘆くこれからの絶望なんてなくて。大人たちが躍起になって模索している活路なんて、お構いなしで。

 禁則事項だけしないことを遵守じゅんしゅすれば、それなりに生きていける世界。

 もしかしたらみんな、この現状に違和を感じているのかもしれない。生まれてしまった違和感を異物とみなして殺して、友達同士のいざこざ、家族の不和、小テストの結果、恋愛、すべてひっくるめて、生き続けているのかもしれない。

 宙を見上げる。春の大曲線はかなたに消え、いつのまにか夏の大三角形が夜空をおおっていた。はくちょう座のデネブ、こと座のベガ、わし座のアルタイルの三つの星を結んでできるアステリズムだ。 

 地球からわし座のアルタイルまでの距離は、17光年。こと座のベガまでの距離は25光年。はくちょう座の0等星デネブにいたっては、1800光年の彼方にある。

 あの星たちはいまも光を発している。発しているあの光がこちらに届いた時、はたして地球は存在しているのだろうか。そのとき地球上に住んでいる誰かは、きちんとあの光を見てくれるのだろうか。


“声を嗄らして叫んだって、夏は永劫続かない。”


 橋川くんの言葉を思い出す。

 足掻いたって変わらない、変わりようがない、そんなことはわかってる。

 だから私たちは、精いっぱい人生を謳歌しようとしているんだ。いつか途切れても、誰かがその線を引いて継ぎ足してくれるように。色づきはじめた小さな変化を、記憶として、誰かに覚えていてもらえるように。

 もういちど視線を奥に移したら、やっぱり笑っている橋川くんと目があった。

 明日からはじまる夏が、ずっと続く未来もあるかもしれない。ノアの箱舟計画だって300年後にはできあがっているかもしれない。

 ――きみが探している、その仲間の一人でいられたらいいのに。

 私は微笑み返す。返事のできなかったこたえを、いまここでつぶやいた。


 《了》


Swear not by the moon, the inconstant moon.

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