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アレクの冒険 ~剣と魔法の冒険ファンタジー

沈黙の村

掲載日:2026/03/29

# 沈黙の村


## 序章 妖精との出会い


 宿場町ブレンの定期市は、月に二度、広場を人と荷車で埋め尽くす。干し肉、革袋、薬草束、鋳物のナイフ――ありとあらゆる品が天幕の下に並び、売り子の声が秋の空に響いていた。

 通りを歩く若い男がひとり。黒髪を短く刈り込み、腰に長剣、背に小弓と小型の盾を負っている。冒険者の身なりだが、どこか牧歌的な雰囲気が抜けない。名をアレクという。アルムス山脈の羊飼いの家に生まれ、今は各地を旅して暮らしている。

 人混みをすり抜けながら、アレクは干し果物の袋を二つ買い、革の水筒に林檎酒を詰めてもらった。次の目的地までは三日ほどの道のりだ。食料はもう少しあったほうがいい。

 ふと、露店のひとつに足が止まった。

 獣商の天幕だった。小鳥や小動物のかごが積まれた棚の端に、ひときわ小さなかごがぶら下がっている。虫かごほどの大きさだ。

 中に、手のひらに乗るほどの少女がいた。

 透明な羽根が薄く光を弾いている。幼い顔立ちだが、その瞳には年齢にそぐわない鋭さがあった。妖精だ。


「お兄さん、お兄さん。冒険者だろ。旅のお供にどうだい」と商人が声をかけてきた。


 かごの前に値札がぶら下がっている。金貨一枚――四万ソル。観賞用としても高価な部類だが、妖精の相場を考えれば妥当な値段だった。希少な生き物を飾り棚に置いて愛でる趣味は、富裕層のあいだで根強い。

 もっとも、四万ソルあれば安宿なら100日は泊まれる。かなり良い防具も買える。気楽に出せる金額ではない。


「可愛いし、欲しいけど。だいぶ高いかな」


 小さな妖精は、かごの中でぶつぶつと何かをつぶやいていた。声は鈴を転がすように高く澄んでいるのに、口調はどう聞いても不機嫌そのものだ。妖精語らしい。意味はまるで判らないが、文句を言っていることだけは伝わってくる。

「妖精語は判らないな」

 アレクがぽつりとつぶやいた。独り言だ。特に誰に向けたわけでもない。

 かごの中の妖精がぴくりと動いた。小さな唇がきゅっと引き結ばれ、透明な羽根がかすかに震える。

 次の瞬間、澄んだ声がかごの隙間から漏れた。

「――昆虫じゃないのよ」

 エルフ語だった。

 アレクは一瞬だけ目を細めたが、それきり何も言わなかった。露店の主人がこちらを見ている。店先で長話をする場面ではない。

「おやじさん、この妖精をもらおう」

「へえ、金貨一枚になりますが」

「ああ」

 アレクは革の財布から金貨を一枚取り出し、主人に渡した。主人は歯で噛んで真贋を確かめると、満面の笑みでかごごと差し出した。

「毎度あり。餌は花の蜜と果物の汁で充分ですよ。水だけは切らさないでくだせえ」

「ありがとう」

 かごを受け取ったアレクは、そのまま市の人混みに紛れていった。かごの中の妖精は、腕を組んだまま黙り込んでいる。エルフ語で話しかけたのに反応がなかったことが、どうやら面白くなかったらしい。


――


 その日の宿は、広場から二筋ほど入った小さな旅籠だった。

 二階の部屋は簡素だが清潔で、窓からは西日が差し込んでいる。アレクは荷物を下ろし、剣帯を外してから、机の上にかごを置いた。

 かごの中で、妖精はまだぶつぶつと妖精語をつぶやいている。身振り手振りを交えて何やら力説しているが、当然ながら中身はさっぱり判らない。ただ、かごの留め金をじっと見ているあたり、どうにかして開けようとしているのかもしれない。

 アレクは黙ってかごの留め金に手をかけ、かちりと外した。

 妖精語がぴたりと止んだ。

 小さな扉が開く。妖精は大きな目をまばたきさせ、おそるおそるかごの縁に手をかけた。何かの罠かと疑っているようだ。

 アレクは椅子に腰かけ、干し果物の袋を開けて一粒つまんだ。妖精のほうは見ていない。

 沈黙が続いた。

 妖精はかごの縁に腰かけると、また妖精語でぼそぼそとつぶやき始めた。今度はさっきより声が小さい。独り言のつもりらしい。市場でエルフ語に反応がなかったから、この男にはエルフ語も通じないと踏んだのだろう。


「何か言っているみたいだな」

 アレクが干し果物をもうひとつつまみながら言った。

 妖精にも、干し果物をあげるが、警戒しているのか食べない。

 そして、再び何か言っている。


 妖精語はエルフ語や精霊語の親戚の言語なのだが、アレクには判らなかった。


「妖精語は判らないな」

 妖精はちらりとアレクを見た。そして、小さく鼻を鳴らした。


「どうせエルフ語も判らないでしょ」

 エルフ語だった。馬鹿にしたような、ふてくされたような響きがある。通じない相手に悪態をつく気楽さが、その声には満ちていた。


「干し果物をくれるのは良いけど、大きすぎるわよ。昆虫じゃないのよ。せめて半分に千切ってくれないと。まったく、人間は体ばっかり大きくて、妖精に比べると無教養でガサツよね。エルフを見習ってほしいわね」


「判るよ」

 アレクは干し果物を噛み終えてから、さらりと答えた。

「エルフと妖精の会話は妖精語だと思ったけど。エルフ語を話せるとは、なかなか賢い妖精だな」

 エルフ語だった。発音に濁りがない。流暢と言っていい。

 妖精の羽根が、ぶわっと逆立った。

 透明な翅が硬直し、大きな瞳がさらに大きく見開かれる。小さな口がぽかんと開き、かごの縁を掴む手が震えた。


「…………」


 妖精は声を失った。

 文字どおりの絶句だった。ありとあらゆる文句を並べ立てていたあの口が、音ひとつ発せない。


 アレクはそんな妖精を一瞥し、椅子から立ち上がった。窓辺に歩み寄り、木枠の留め具を外して窓を大きく開ける。夕暮れの風が部屋に流れ込んだ。


「行っていいよ。窓は開けておくから」


 穏やかなエルフ語だった。命令でも提案でもなく、ただ事実を告げるような口調だ。

 妖精は呆然とアレクを見つめていた。人間がエルフ語を話す。それも片言ではなく、まるで森の民と暮らしていたかのように自然に。その事実が小さな頭の中でうまく処理できないらしく、透明な羽根がせわしなく震えている。

 アレクは窓辺を離れ、ふたたび椅子に座った。干し果物の袋から一粒取り出し、手でちぎると机の端にそっと置く。それから自分ももう一粒をつまみ、何事もなかったかのように咀嚼を始めた。


 妖精はしばらくかごの縁に座ったまま動かなかった。


 やがて、ふわりと翅を広げた。小さな体が宙に浮く。机の端に置かれた干し果物に目をやり、一瞬だけ手を伸ばしかけたが、すぐに引っ込めた。

 何も言わなかった。エルフ語も、妖精語も。

 妖精はまっすぐ窓に向かい、夕焼けの空に飛び出した。透明な羽根が橙色の光を受けて、一瞬だけ宝石のようにきらめく。そして、あっという間に見えなくなった。


「嫌われちゃったな」

 アレクは窓の外をしばらく眺めていたが、やがて小さく息をつき、荷物の整理に取りかかった。明日の出発は早い。

 机の端の干し果物は、そのまま残されていた。


 ――だが、もしアレクが宿の屋根の上を見上げていたなら、煙突の影にちょこんと座り込み、こちらを覗き込んでいる小さな影に気づいただろう。

 透明な羽根を背中にたたみ、腕を組んで、しかめっ面で。

 妖精はまだ、そこにいた。


---


## 第一話 依頼


 翌朝、アレクが冒険者組合の扉をくぐったのは、通りにまだ朝靄が残っている時刻だった。


 組合の一階は木造の広間で、奥の壁一面が掲示板になっている。荷運び、護衛、害獣駆除。色褪せた羊皮紙に混じって、一枚だけ真新しい紙が留められていた。インクの色が濃い。昨晩か今朝に貼られたものだ。


 アレクは近づいて読んだ。


『ガルデ村との連絡が途絶えた。定期の行商人も戻らない。領主が様子を見に送った兵士三名も帰還せず。原因の調査を募る。報酬は金貨三枚。詳細は受付にて』


 金貨三枚。破格だった。それだけ切迫しているということだろう。


 行商人が戻らないだけなら、道中の事故かもしれない。だが兵士まで消えた。疫病なら報告が先に来る。盗賊なら痕跡が残る。何が起きているのかまるでわからない――だからこそ調査依頼なのだ。そして、死ぬかもしれない命がけの調査依頼。


 アレクは受付に向かった。


 窓口の奥で書類を整理していた中年の職員が顔を上げた。目の下に隈がある。昨夜から対応に追われていたのかもしれない。


「ガルデ村の件ですか」


「詳しく聞かせてください」


「ガルデ村は街道から東に外れた小さな集落です。住民はおよそ一〇〇人。炭焼きと畑仕事で暮らしています。月に一度か二度、行商人が物資を届けるのですが――先月の行商人が戻りません。最初は道中の事故と思いましたが」


「兵士も戻らなかった」


「はい。領主が三人送りました。五日経っても帰還なしです」


 五日。短いようで長い。徒歩で半日の距離なら、とうに戻れるはずだ。


「何が起きているか、心当たりは」


「皆目。だから金貨三枚なのです」


 アレクは書類に名前を書いた。


――


 集合場所は組合の裏手にある小広場だった。井戸とベンチがあるだけの、何の変哲もない空き地だ。


 アレクが着くと、すでに四人が待っていた。


 最初に目に入ったのは大柄な男だった。三〇代前半だろう。日焼けした顔に顎鬚を蓄え、使い込んだ革鎧の上から片手剣と大盾を背負っている。腕や首筋に古い刀傷がいくつも走っていて、見るからに荒事慣れした風体だ。


「カルロ・ヴェルデだ。傭兵上がりでな、今はこの辺で依頼を拾って食ってる。ガルデ村のあたりなら地理は頭に入ってるぜ。よろしくな」


 声が大きい。笑い方も豪快で、朝の広場に響いた。


 その横に立っていたのは細身の女だった。年はカルロと同じか少し上か。髪を短く束ね、動きやすさだけを考えた装備を身につけている。腰の剣だけが丁寧に手入れされていて、それが彼女の優先順位を物語っていた。


「サーラよ。地元の冒険者。カルロとは前に一度組んだことがある」


 短い自己紹介だった。アレクと目が合うと小さく頷いたが、それ以上の愛想はない。冷静で、無駄のない人だと思った。


 三人目は若い男だった。金髪で、身なりが几帳面に整っている。背に弓と矢筒を負い、手元には革表紙の手帳を開いていた。アレクとそう年は変わらない。一七か一八といったところだ。


「ニコ・フェルトです。弓が専門です。あの、ガルデ村って古い文献に名前が出てくるんですよ。もとは林業の集落で、近くに古い森が――」


「おい、まだ出発もしてないぞ」とカルロが笑った。


 ニコは少し赤くなって手帳を閉じた。伝承の話になると止まらなくなる性質らしい。


 四人目は少し離れた場所に立っていた。四〇代の男だ。がっしりした体つきだが、姿勢に力みがない。腕を組んでおり、その腕には古傷がいくつも重なっていた。元兵士だという話だが、佇まいを見れば説明は不要だった。


「ダンだ」


 それだけだった。視線がアレクを一瞥し、すぐに外れた。


 アレクは五人の顔を見渡した。傭兵、剣士、弓使い、元兵士。悪くない構成だ。


「俺が先頭を歩く」とカルロが言った。「あの辺りの道は把握してる。街道を東に折れて、丘をふたつ越えれば昼には着く」


「道の状態は」とサーラが訊いた。


「往路は問題ない。最近雨も降ってないからな」


「帰りは」


「さあな。何が待ってるか次第だ」


 カルロは笑ったが、他の誰も笑わなかった。


 アレクは自分の装備を確認した。長剣を腰に、小弓と矢筒を背に、小型の盾を左腕に。腰の袋には煙幕がふたつ。水と干し肉は一日分。何があるかわからない依頼だ。余計な荷物は持たない。


「行きましょう」とアレクは言った。


――


 町の門を出ると、道は緩やかな起伏の草地に変わった。朝の空気が冷たくて気持ちいい。空は高く、雲がゆっくり東へ流れていた。


 カルロが先頭、サーラが二番手、ニコとアレクが中ほど、ダンが最後尾。自然とそうなった。ダンは言葉こそ少ないが、一定の歩幅と速度を崩さず、後方に注意を配っている。体に染みついた動きだ。


「ガルデ村って、行ったことあるか」とカルロが振り返った。


「ないですね。この地方自体が初めてに近いですね」とアレクは答えた。


「小さい村だよ。炭焼きの煙が年中立ち上ってる。子供のころ、親父に連れられて炭を買いに行ったことがある。のどかなところだ」


「のどかなところから人が消えた、ということね」とサーラが言った。


「だから気味が悪いんだろう。疫病なら噂が先に届く。盗賊にしちゃ静かすぎる」


 サーラは黙って頷いた。


「じゃあ何だと思います?」とニコが訊いた。手帳を片手に、もう片方の手で顎を押さえている。


「怪物だろうな。もっとも、兵士三人が戻らないような怪物がいるなら、もっと前から被害が出てるはずだ」


「どんな怪物でしょうね」


「さあな」とカルロは前を向いたまま言った。「着いてみなきゃわからねえ。わからねえときが一番怖い」


 ニコが手帳を開きながら口を挟んだ。


「あの辺りの森には、古い時代の遺跡があるって記録があるんです。エテルニア期の、たぶん祠か何かの跡で――」


「足元を見ろ」とカルロが前を向いたまま言った。


「あ、すみません」


 ニコは手帳をしまった。三歩ほど歩いて、また取り出した。サーラが横目で見て、かすかに口元を緩めた。


 道は丘の斜面を縫うように続いている。草の匂いと土の匂いが混じっていた。風が吹くたびに、背の高い草が波のように揺れる。


 アレクは歩きながら考えていた。連絡が途絶えた村。戻らない行商人。消えた兵士。情報が少なすぎる。現地を見るまでは何も言えない。


 ふと、最後尾のダンが歩幅を縮めた。


 ほんの一瞬だった。足が止まったわけではない。ただ一歩が短くなり、首がわずかに傾いた。何かを聞いている。耳が拾ったものを確かめるように、呼吸すら浅くなった。

 二拍。三拍。

 ダンの歩幅が元に戻った。何事もなかったかのように、同じ速度で歩き続ける。


「周囲に異常なし」


 低い声だった。短く、正確で、それ以上は何もない。だがその報告は、目だけでなく耳で周囲を確かめた上での言葉だった。風の中の鳥の声、草を踏む足音の反響、木立の向こうの気配。元兵士の体は、音で世界を測ることに慣れている。


「考え事か」


 カルロが声をかけてきた。


「少し」


「まあ、着けばわかるさ。わからなかったら逃げりゃいい。金貨三枚は惜しいが、命よりは安い」


 気楽な口調だったが、目は笑っていなかった。傭兵上がりの男は、危険の匂いを嗅ぎ分けている。


――


 門を出る時、アレクはふと視線を感じていた。


 宿場の軒先に、旅装の女が立っていた。楽器を背負っている。吟遊詩人だろう。女はこちらを見ていたが、目が合っても何も言わなかった。わずかに口元が動いた気がしたが、それだけだった。


 今はそれを気にしている場合ではない。


 丘の向こうに、ガルデ村がある。


 五人は黙って歩き続けた。風が草を揺らし、道はなだらかに東へ続いていた。



## 第二話 沈黙の村


 鳥の声が途絶えたのは、村まであと三〇〇メルほどのところだった。


「静かだな」


 カルロが言った。前を歩きながら、わずかに歩幅を縮めている。


「違う」

 ダンが答えた。足を止めずに周囲を見渡す。

「静かなんじゃない。いないんだ」


 アレクも気づいていた。草むらの羽音がない。枝の上の鳴き声もない。石に止まる鳥すら、一羽もいない。


 自分たちの足音すらうるさく感じられる静けさだ。

 サーラが剣の柄に手をかけた。ニコが手帳をしまった。


 誰も何も言わなかった。それで十分だった。


――


 村に入ると、生活の気配だけが残っていた。

 洗濯物が干したままになっている。薪が割りかけで放置されている。かまどのそばに野菜が並んでいる。昼食の支度でもしていたのか。


 だが人がいない。声もない。犬も鶏も、動くものの気配が全くない。

「みんなどこに行ったんだ。神隠しにでもあったような」

 サーラが呟いた。

「全てを途中で放り出すだけの何かあったのだろう。何かが」

 ニコが言った。


 五人は広場に向かった。無人だった。井戸のそばに桶が置いてあり、縄がたるんでいる。桶の中の水は乾いていた。


「教会に行ってみよう」

 カルロが声を落として言った。

「皆が集まるとしたらそこだろう」


――


 教会の扉は半開きの状態だった。


 ダンが扉に耳を当てた。しばらく待つ。物音なし。小さく頷いてから、ゆっくりと扉を押し開けた。


 中へ足を踏み入れた瞬間、アレクは思わず目を細めた。


 暗い、というより、明暗の差がきつかった。


 高い位置に並ぶステンドグラスから、昼の光が鋭く差し込んでいる。赤、青、金色の光が細長く床へ落ち、石畳の上に鮮やかな色の帯を作っていた。光の当たる場所だけを見れば、むしろ明るい。祭壇の前の床も、通路の一部も、色のついた光を受けてはっきり見える。


 だが、そのぶん影は深かった。


 柱の裏、長椅子の足元、壁際、祭壇の下。光が届かない場所は黒く沈み、輪郭さえ曖昧になる。明るい部分と暗い部分がきっぱり分かれ、教会の中はまだらに切り分けられていた。少し位置を変えるだけで、見えていたものが闇に飲まれ、逆に隠れていた場所が光に浮かび上がる。


 ダンが先に進む。カルロが後方を確認しながら続く。全員が足音を殺していたが、静まり返った堂内では、それでも靴底が石を擦る音が妙に響いた。


 アレクは左右を素早く見た。


 礼拝用の長椅子が何列も並んでいる。光の当たった背板は古びた木目まで見えるのに、その下は真っ黒で、人が伏せていてもすぐには分からない。太い柱も同じだった。片側には光が当たり、白い石肌が浮かび上がっている。だが裏側は夜のように暗い。誰かが身を寄せていても不思議ではなかった。


 祭壇も、正面だけが淡く照らされている。


 聖像の胸元には赤い光が差していた。だが顔の上半分は影に沈み、目元が見えない。そのせいで、穏やかなはずの像が妙に冷たく見える。壁に描かれた聖人たちも、光を受けた部分だけが浮かび、残りは暗がりに溶けていた。半分だけ見える顔や手が、かえって不気味だった。


 気配はなかった。

 だが、安心できる静けさではない。

 礼拝堂全体が、彼らの足音を聞いている。そんな錯覚がある。


 目が暗さに徐々に慣れてきた。


 そのとき、アレクは気づいた。


 礼拝席に人が座っている。だが、誰も動かない。


 一人ではない。三人、五人、七人――。祈りの姿勢のまま、誰も頭を上げない。呼吸もない。


「……石だ」


 ニコの声が震えていた。


 近づくと、はっきりわかった。村人が祈りの姿勢のまま石に変わっている。表情まで残っていた。目を閉じている者も、顔を上げかけたまま止まっている者もいた。


 祭壇の近くに、別の石像があった。


 鎧を着けた男が二人、弓を構えたまま石になっている。矢をつがえた姿勢のまま固まっていた。弓は二人とも同じ方向――南東の壁の角を向いている。しかし、奇妙なことに狙っている高さは、わずかにそれぞれ異なっていた。


 その隣に、もう三体。逃げている二人の兵士と大きな盾を構えた兵士だ。


 逃げる兵士は振り向きもせず前を向いたまま石化していた。

 もうひとりは大きな盾を体の前に構えたまま石になっていた。盾を正面に掲げ、腰を落とし、前に踏み出そうとした姿勢だ。視線を遮りながら接近しようとしたのだろう。盾の陰から覗く顔は歯を食いしばっていた。それでも石化していた。盾ごと、丸ごと、灰色の石に変わっていた。


「領主の兵だ」

 ダンが端的に言った。

「ロングショットを試みて、失敗したみたいだな」


 ダンの目が盾の兵士に留まった。何かを考えているようだったが、それ以上は言わなかった。


「間違いなく石化の呪いだろうな」


 カルロの声は静かだった。驚きより、認識が先に来た口ぶりだ。冒険者なら見ればわかる。これは病気でも毒でもない。


「バジリスクでしょうか? それとも、コカトリスか?」


 ニコが訊いた。声が上ずっている。手帳を取り出しかけて、やめた。


「不味いな」とカルロは言った。「石化の怪物なんて滅多にいやしない。話には聞くが実物に出くわしたって奴は見たことがねえ」


 カルロの声に、いつもの軽さはなかった。


 ニコが石像の一体を丁寧に確認した。表面の苔の付き具合と、石の乾き加減を指先で確かめている。


「数日は経っています。二日か、三日か」


 サーラが石像を数えた。奥まで合わせて全部で一八体。老人も、子供もいた。


「怪物が来て、兵士たちが盾になったんだ」とカルロが言った。「村人は教会に逃げ込んで――」


「違うと思います」

 アレクが言った。


 全員がこちらを向いた。


「それじゃ、逃げる兵士を説明できません。それに矢が狙っている高さが僅かですがバラバラです。まるで別の距離の獲物を狙っているみたいです」

「どういうことだ」

 ダンがアレクに視線を向けた。

「つまり、五人とも怪物とは異なる距離で石化したと言うことです。そして、誰かが、ここに石化した彼らを運んで、飾ったんです。まるで、インテリアのように」


 沈黙が落ちた。


「……なぜ」とサーラが言った。


「腐らないからです」


 石化中は時間が止まる。石化を解除できる怪物なら、石化した人間を保存できる。必要なときに解いて、食う。


「ここは食糧庫です」


 誰も言葉を返さなかった。


「石像をわざわざインテリア風に並べる怪物なんて、聞いたことがありませんが。可能性は低いですが、一種類だけです」

「まさか、メデューサか」

 カルロがつぶやいた。


「そう考えるのが筋だと思います。推測ですが」


 アレクの目が盾の兵士に向いた。視線を遮って近づこうとした男。それでも石になった。何が石化の条件なのか。まだわからないことが多すぎる。


「石化解除の薬は」


 ニコが訊いた。


「持ってない」とカルロが首を振った。「そんなもん、事前に用意する奴はいねえよ。高いし、そもそも石化の怪物に出くわすなんて想定しない」


 ニコが石像のひとつに手を伸ばしかけて、止めた。


「教会の町まで戻れば手に入るかもしれませんが……往復で四日はかかります」


「四日じゃ間に合わない」とダンが言った。端的だった。「今、外にいる可能性が高いんだぜ」


「撤退だ」

 カルロの声に迷いはなかった。

「今すぐ」


――


 慎重に、壁沿いに角を確認しながら動いた。


 カルロが先頭。ダンが殿。サーラとニコが中央、アレクが右を警戒する。村の入口まであと三百メルほどだった。



 もう少しで村の外に出られる。畑の柵も見えている。丘へ続く道も、その先の草地も見えている。


 だが、誰も足を速めなかった。


 焦ってはいけない。それだけで死ぬ。全員がそれを分かっていた。


 カルロは盾を低く構え、石壁の角に近づくたびに一度止まった。顔は向けない。剣の先を鏡のように使い安全を確かめてから進む。


 サーラは左手を壁に添えていた。視線は周囲に向いている。ニコは唇を噛み、手帳ではなく弓の弦に指をかけていた。


 ダンは最後尾で、ほとんど音を立てなかった。


 歩いているのに、足音がない。石畳の上を進んでいるはずなのに、靴底が地面に触れる気配だけが残る。元兵士の動きだった。背後を守る者は、自分の存在を敵に知らせてはならない。その習慣が、体に染みついている。


 アレクは右の路地を見た。


 空の桶。倒れた鍬。石壁にかかった干し草の束。


 動くものはない。


 それでも、どこかから見られている感覚が消えなかった。


 細い路地に差しかかった。


 左右の家が近く、空が細く切り取られている。南へ伸びる道の奥は、昼間なのに暗い。壁の影が重なり、そこだけ穴のように沈んでいた。


 カルロが手を上げた。


 止まれ、の合図。


 全員が足を止めた。


 風がなかった。


 その無風の中で、かすかに音がした。


 アレクが息を止めた瞬間、矢が来た。


 サーラが崩れた。


 何かが肩を叩いたような、鈍い音だった。次いで、サーラの体が横に傾く。左肩に矢が刺さっていた。矢羽根が震えている。石壁の角から――路地の奥、南の方角から放たれた一本だった。


 サーラは声を上げなかった。


 ただ、膝が落ちた。


 石畳に膝が当たる音。倒れかけた体が壁にぶつかる音。剣の鞘が石に擦れる音。


 その音に、反射的に横を向いた者がいた。反応の良さが裏目に出た。


 ダンだ。


 殿を務めていたダンが、背後の物音に首を回した。目を背けて歩いていた。正面を避け、角を確認するときも視線を落としていた。それでも、仲間が倒れる音には体が反応した。兵士の反射だ。訓練が骨に刻んだ動作だ。


 目の端に何かが映った。路地の奥の影。うごめく何か。


 それだけだった。


 顔を見たわけではない。目が合ったわけでもない。はっきりと姿を捉えたわけですらない。暗い路地の奥で、何かがうごめいたと認識しただけだ。


 次の瞬間、ダンは石になっていた。


 変化は一瞬だった。


 皮膚の色が失われ、血の気が引くより早く灰色が走った。頬、首、手の甲、革鎧の端、剣帯、靴。人間の輪郭を保ったまま、全身が硬い石へと変わっていく。


 足を踏み出しかけた姿勢のまま。横を向いた一瞬のまま。灰色の石像がそこに立っていた。


「ダン!」


 カルロが振り返り、すぐに顔をそらした。


「――目が合ったわけじゃないのに」


 かすれた声だった。ダンは目を合わせていない。ただ、路地の奥のうごめく影を目の端で認識してしまった。ほんの一瞬の反射が、命取りだった。


 アレクは懐から煙幕玉を引き抜いて、投げた。


 相手の位置は確認できない。勘だけで方向を決めて投げた。


 陶器の小筒が石畳に当たり、割れる。次の瞬間、白い煙が噴き出した。路地を這うように広がり、南の方角を塗りつぶしていく。


「走れ!」


 カルロがサーラを支えた。ニコが反対側に回る。アレクは右を見ず、足元だけを見て駆けた。ダンの石像が視界の端に入る。見ない。振り返らない。助けられない。今は、助けられない。


 矢が一本、煙を裂いて飛んだ。


 壁に当たり、乾いた音を立てた。


 さらにもう一本の音が聞こえた。


 四人は近くの民家に飛び込んだ。


――


 扉を体で押さえる。


 カルロが肩で扉を閉め、すぐに閂を下ろした。アレクが窓を確認する。薄い板戸。割れた隙間。外から覗かれれば終わりだ。近くの棚を倒して窓の下に押し込む。


 ニコは裏口へ走った。椅子をかませ、さらに横倒しにした机を引きずって塞ぐ。音を立てすぎるな、と言いたかったが、今さらだった。外にいるものは、もうこちらの場所を知っている。


 室内は暗かった。



 そして、台所の近くに石像があった。


 二体。


 ひとりは女だった。片手に包丁を持ったまま、腰をひねった姿勢で固まっている。何かの物音に振り向いた瞬間なのだろう。


 もうひとりは老人だった。椅子に座り、スープを飲む姿で石化していた。


 逃げるより石化した。この家の中で、日常の途中に。


 カルロが短く息を吐いた。


「くそ……」


 それだけだった。


 サーラが壁にもたれて座り込んだ。顔色が悪い。左肩の矢は貫通していない。


 ニコが手拭いと水を取り出した。


「見ます。動かないでください」


「毒矢じゃないみたいですね。大丈夫です」

 サーラが自分で言った。


 言葉は冷静だった。だが額には汗が浮いている。息も浅い。


 ニコは頷き、矢の周囲を確認した。几帳面な手つきだった。だが、指先は震えていた。水で血を拭うたびに、布が赤くなる。


 アレクは扉から離れず、耳を澄ませた。


 外は静かだった。


 静かすぎる。


 煙幕はもう薄れているはずだ。メデューサが追ってくるなら、足音がする。矢を撃つなら、弦の音がする。だが何も聞こえない。


 聞こえないことが、かえって怖かった。


 ダンが石化した。


 サーラが負傷した。


 出口は近い。


 だが、メデューサにこちらの場所を把握されている。


 しかも、こちらはまだ石化の条件を理解していない。


 目が合わなくても石になる。


 目の端でも駄目。


 なら、どこまでが駄目なのか。


 影は。


 反射は。


 輪郭だけなら。


 考えようとしたが、頭の中がまとまらなかった。



「時間がない。作戦がある。聞いてくれ」


 全員の目がカルロに向いた。


 外の気配はまだ扉の向こうにある。


 近い。


 近すぎる。


 カルロは低い声で続けた。


「アレクは囮になれ、裏口から出ろ。その間に、俺たちがやる。鏡でも刀身でも、直接見ずに位置を確かめながら攻撃する。ペルセウスのやり方だ」


 議論をしている時間は、アレクは頷いた。


 ニコが胸元に手を入れた。


 小さな手鏡を取り出す。手のひらほどの大きさの、古い鏡だった。


 サーラが息を整えた。


 それから、自分の肩の矢を掴んだ。ニコが止めるより早く、短く息を吐いて引き抜く。血が溢れた。だがサーラは顔色を変えなかった。ただ、額の汗だけが増えた。


「やれる」


 言葉は短かった。


 全員がアレクを見た。


 カルロは扉を睨んでいる。サーラは傷を押さえながら剣を取った。ニコは鏡を握りしめている。


 全員が、まだ戦うつもりだった。


 正しい判断かは分からない。



 そのとき、外に気配が来た。


 正面の扉の向こう。


 何かがいる。


 足音ではない。息遣いでもない。壁越しに伝わる、重さのようなものだった。そこに人が立っている、というだけで空気の圧が変わる。見なくても分かる。


 全員が息を殺した。


 ニコの手が止まる。


 サーラも痛みに耐えたまま、声を飲み込んだ。


 扉の向こうで、何かが木に触れた。


 爪か。


 指か。


 それとも蛇か。


 かり、と小さな音がした。


 カルロが剣の柄を握り直した。


「縮こまっているよりマシだ」


 静かな声だった。


 いつもの豪快な笑いはなかった。だが、声の芯は折れていない。


 だが、ここに縮こまっていれば、扉を破られる。窓を壊される。逃げ場を失う。外の怪物がこちらを待っている以上、どこかで動くしかない。


 囮を引き受ける者は一人でいい。





## 第三話 おとり


 裏口の扉は、押しただけで細く軋んだ。


 アレクはその音に一瞬だけ動きを止めた。外から反応はない。だが、反応がないことが安全を意味しないことは、もう分かっている。


 背後でカルロが低く言った。


「囮は死ぬ役じゃねえ。走る役だ。間違えるなよ」


「分かっています」


 アレクは短く答えた。


「行け」


 アレクは体を横にして、扉の隙間から外へ滑り出た。


 石壁の影に背をつけ、まず呼吸を整える。視線は地面に落とした。石畳の目地には乾いた土が詰まり、その隙間から細い雑草が伸びている。見るのはそこだけでいい。顔を上げてはいけない。


 路地は狭かった。両腕を伸ばせば左右の壁に届きそうなほどで、建物と建物のあいだから見える空は、刃物で切り取ったように細い。アレクは壁に沿って進み、角に近づくたびに足を止めた。目で確かめるのではなく、音を聞く。石壁の向こうに何かが動いていないか、空気が乱れていないか、それだけを拾おうとした。


 村の中は異様に静かだった。


 今は細かな音がすべて抜け落ちていた。耳に残るのは、自分の呼吸と、慎重に置いた足が石畳に触れるわずかな響きだけだった。


 だが、慎重すぎてはいけない、それでは囮にはならない。

 建物からある程度離れると、今度は意図的に駆け出し音を立てる。

 怖さはあるが、今はそれどころではない。

 それに石化は死でない。怪物が倒されて解ける呪いもあれば、薬草や魔法で解除されることもある。

 作戦が成功すれば元に戻れると信じて走るしかなかった。


 その静けさの中で角を曲がった瞬間、アレクは空気の重さが変わったのを感じた。


 目の前に何かが現れたわけではない。音がしたわけでもない。だが、背中に湿った布を押し当てられたような圧迫感がまとわりついた。首の後ろが冷え、肌が粟立つ。見てはいけないものが、こちらを見ている。その確信だけが、視線より先に体へ伝わってきた。


 気づかれた。


 アレクは走った。


 顔は上げない。視線は石畳に固定したまま、足だけを前へ出す。さっきまで殺していた足音を、今度はわざと響かせた。ここにいる。こっちへ来い。そう知らせるために、石畳を強く蹴った。


 背後で弦の鳴る気配がした。


 次の瞬間、右脇腹に焼けるような痛みが走った。


「っ……!」


 声を噛み殺し、走りながら脇腹に手を当てる。指先に矢の軸が触れた。深くはない。だが傷口から血が滲み、服の下を熱い線になって伝っていく。


 止まるな。


 痛みを確かめるのは、後でいい。止まれば、矢より先に視線で殺される。


 路地を抜け、広場の端を横切った。視界の端に石像が入る。村人だ。座り込んだ姿勢のまま、灰色の塊になっている。見てはいけない。目で追ってはいけない。アレクは自分にそう言い聞かせ、地面だけを見て走り続けた。


 背後の気配が動いた。


 ついてきている。


 アレクはさらに足音を強くした。石畳を蹴る音が壁に跳ね返り、広場の隅へ広がっていく。


「こっちだ」


 小さく呟いた。


 聞こえたかどうかは分からない。だが、背後の重さがわずかにこちらへ寄った。


 いい。


 こっちを見ろ。


 石壁の角を曲がり、北へ走る。脇腹の血が腰を伝い、足跡のそばに赤い点を残していった。


   * * *

 アレクが裏口から出ると、室内に短い沈黙が残った。


 扉が閉じる音さえ、やけに大きく聞こえた。三人はしばらく動かなかった。外へ出たアレクがすぐ石になるかもしれない。そう思っていたからだ。



 遠ざかる足音が聞こえた始めた。


 最初は壁際を探るような、慎重な足音だった。それが途中から、わざと大きくなる。石畳を強く蹴る音が、路地の壁に跳ね返った。


 ちゃんと囮の役をやって、敵を引きつけている。


「意外と度胸がある奴ね」

 サーラはアレクのこと見直した。

「ここからは私たちの仕事ね」

「そうだな。俺たちの見せ場だ」

 カルロは床に置いていた鏡を取った。


 この家の壁に掛けられていたものだ。農家にあるには少し上等な、木枠つきの鏡だった。曇ってはいるが、姿は映る。持ち手はないので、布を巻いて左手で押さえる。


「あいつがアレクを追っているなら、背中か横が取れる。俺が中央に出る。サーラ、お前は左。ニコ、お前は右だ」



 次の瞬間、びん、と細い音がした。


 弓弦の音だった。


 すぐに、矢羽根が空気を裂く音が続く。命中したかどうかは分からない。だが、アレクの足音は止まらなかった。むしろさらに大きくなり、北の路地へ逃げていく。


 カルロが小さく息を吐いた。


「走ってる。まだ生きてる」


 サーラが壁に背を預けたまま、痛みに耐えて目を細めた。


「追ってるわね」


「見えるか」


「見えるわけないでしょ」


 サーラは短く返した。


「でも、何となく音で判る」


 ニコも頷いた。顔色は悪いが、耳は外へ向いている。


「音が二つあります。アレクさんの足音と……もう一つ。重いというか、引きずるような音です。北へ動いています」



 外で、もう一度、弦の音がした。


 矢羽根の風切り音。


 距離は遠ざかっている。


 三人は同時に息を止めた。


 アレクの足音は、まだ続いている。


 カルロが顎で合図した。


「行くぞ」




   * * *



 サーラは左の路地へ出た。


 肩の傷が熱い。矢を抜いたばかりの傷口から、血がじわじわと滲んでいる。だが、痛みは今考えることではない。必要なのは、距離、角度、間合い。それだけだ。


 アレクの足音は北へ遠ざかっている。


 それを追うように、別の気配も動いていた。


 見えない。


 だが、いる。


 メデューサはアレクを追っている。少なくとも、そう思えた。


 サーラは刀を抜き、磨き上げた刀身を斜めに立てた。直接見るのではない。映すだけ。位置を拾い、間合いに入った瞬間に斬る。


『見るな。映すだけ』


 自分に命じるように、心の中で低く呟いた。


 刀身の上に、歪んだ路地が浮かび上がる。石畳、壁、差し込む日差し。その奥に、黒い影があった。人の形に見える。だが、人ではない。頭部から垂れ下がるものが、一本ずつ別の意思を持つように揺れている。


 蛇だ。


 何本もの蛇が、髪の代わりに蠢いていた。


 サーラは息を止めた。


 距離はある。角度も悪くない。直接見てはいない。神話通りなら、これで位置を取れる。


 そう判断した。


 その判断が、最後だった。


 指先から感覚が消えていく。肩の痛みが遠のき、血の熱さも分からなくなる。体が動かないのではない。動かそうとする前に、動くものではなくなっていく。


 サーラは刀を構えた姿勢のまま、灰色の石へ変わった。


 最後まで、剣先は下がらなかった。


   * * *


 ニコは胸元から取り出した手鏡を、両手で支えるように掲げていた。


 手のひらほどの小さな鏡だ。母の形見だった。冒険に出るとき、持っていく必要はないと自分でも思った。荷物になる。割れたら困る。戦いの役には立たない。それでも置いていけなかった。


 お守りのつもりだった。


 まさか本当に命を預ける道具になるとは、考えたこともなかった。


「角度は浅く……真正面にしない……」


 小声で呟きながら、鏡を少しずつ傾ける。額に張りついた金髪から汗が落ち、目に入りそうになったが、拭う余裕はない。手を動かせば角度が狂う。角度が狂えば、こちらの顔が映るかもしれない。


 アレクの足音は、まだ遠くで続いていた。


 まだ生きている。

 まだ走っている。

 まだ時間を稼いでくれている。


「神話では、これで……」


 言いかけて、ニコは口を閉じた。


 神話がそのまま通じる保証などない。そもそも、知識が正しく使えているなら、村はこんなことになっていない。だが、ほかに手がない。手元にある知識と道具で、今できることをするしかなかった。


 鏡面に、路地の奥が映った。


 壁際の暗がりに、黒い影がある。人の頭から生えた無数の蛇が、鏡の中で音もなく揺れている。


 ニコは喉を鳴らした。


 見たくない。


 だが、見なければ位置が分からない。


 逃げ出したい気持ちを押さえ込み、鏡の縁を握る指に力を込める。


「母さん、少し借ります」


 声は震えていた。


 それでも、鏡は下ろさなかった。


 鏡越しだ。直接見ていない。だから大丈夫。そう考えた瞬間、指が動かなくなった。


 最初に止まったのは手だった。次に腕、肩、喉。叫ぼうとした声は形にならず、唇の手前で閉じ込められる。


 ニコは手鏡を掲げた姿勢のまま、石に変わった。


 金色の髪も、額の汗も、震えていた唇も、指のあいだに挟まれた小さな鏡も、すべて灰色の中に沈んだ。


   * * *


カルロは中央の路地に出た。


 左手には、民家の壁から外した鏡を抱えている。木枠つきの古い鏡だ。表面は少し曇っているが、像は映る。盾の代わりにするには頼りない。だが、直接顔を向けずに相手の位置を拾うには、これしかなかった。


 声は出さない。


 アレクを囮にした以上、こちらから注意を引き戻してはならない。カルロは息を殺し、鏡の角度だけを少しずつ変えた。


 鏡の中に、路地の交差点が映る。


 石壁。日差し。北へ伸びる細い道。その道の上に、点々と赤い跡が残っていた。アレクの血だ。跡は北へ続いている。


 その先で、びん、と細い音がした。


 弓弦の音。


 続いて、矢羽根が空気を裂く音が路地の奥へ走った。アレクを狙ったのだろう。距離はある。少なくとも、剣が届く間合いではない。


 カルロはそう判断した。


 メデューサの意識は、アレクに向いている。


 今なら横を取れる。


 左にサーラ。右にニコ。中央に自分。三人で広がり、アレクを狙っているメデューサの横と背を押さえる。顔を上げず、鏡越しに位置を拾い、相手がアレクへ矢を向けているうちに叩く。


 それが作戦だった。


 だが、半歩進んだところで、カルロは違和感を覚えた。



 アレクを本当に追っているなら、影は跡を追って路地の奥へ消えていくはずだった。だが、そこに映る痩せた人影は、交差点の陰から離れない。北の路地へ矢を撃ちながら、体の向きだけをわずかに変えている。


 追っているのではない。


 撃っているだけだ。


 カルロの手に、冷たい汗が滲んだ。


 サーラから合図はない。ニコの足音も聞こえない。最初は、二人とも音を殺しているだけだと思った。サーラなら無駄な音は立てない。ニコも、今だけは慎重に動いているはずだ。


 しかし、沈黙が長すぎた。


 戦いが始まる前の静けさではない。


 終わった後の静けさだった。


 鏡の中で、蛇の髪がゆっくりと揺れた。


 メデューサはアレクを追ってなどいなかった。アレクを狙って矢を放ち、追っているように見せていただけだ。こちらが出てくるのを待っていた。左右と中央に分かれた三人を、一人ずつ仕留めるために。


 誘い出された。


 そう理解した瞬間、鏡の中の影がこちらを向いた。


 カルロは鏡を捨てようとした。目を閉じようとした。だが、どちらも間に合わなかった。直接見たわけではない。顔を上げたわけでもない。それでも、鏡の中の輪郭を、蛇の髪を、その顔を、認識してしまった。


 指先から熱が抜けていく。


 木枠を握る左手が固まり、剣を持つ右腕も途中で止まった。革鎧も、剣帯も、歯を食いしばった顔も、その形のまま灰色へ変わっていく。


 カルロは石になった。


 鏡を抱え、剣を振り上げかけた姿勢のまま。


 最後に理解したのは、アレクを囮にしたのではなく、自分たちが誘い出されたということだった。


――


 路地から、音が引いていった。

 

 アレクは石壁に背をつけたまま、しばらく動けなかった。耳を澄ませても、合図はない。剣がぶつかる音も、矢を放つ音も、誰かが走ってくる足音も聞こえない。


 サーラなら、成功しても失敗しても短い合図を出すはずだった。ニコなら、恐怖を押し殺しきれず、何かを言いかける声が漏れてもおかしくない。カルロなら、どれだけ声を抑えていても、剣を振るう気配までは消せない。


 それなのに、何も聞こえなかった。


 戦いが始まる前の静けさではない。すべてが終わった後に残る、重い沈黙だった。


 失敗した。


 その考えが胸の奥に落ちた瞬間、アレクの体は民家の方へ戻りかけた。だが、足は動かなかった。戻って何ができるのか。声を出せば位置を知らせるだけだ。顔を上げれば、自分も石になる。仲間を助けるつもりで駆け戻って、石像をひとつ増やすだけかもしれない。


 アレクは息を押し殺した。


 さっきの矢の音を思い出す。あれは、すぐ背後から追いすがって放たれたものではなかった。ある程度の距離を取って、路地の奥から狙った矢だった。弓は近すぎれば使いづらい。なら、メデューサは自分を追って遠くへ離れたのではなく、一定の場所に残ったまま射っていたのではないか。


 もしそうなら、アレクが囮になったのではない。


 自分を追っているように見せて、カルロたちを外へ出させたのだ。


 その考えにたどり着いたとき、背後の空気が重くなった。粘つくような視線が、路地の奥からゆっくり戻ってくる。いや、戻ってきたのではない。最初から、それほど遠くへは離れていなかったのだ。


 振り向いてはいけない。


 アレクは地面だけを見て走った。


 村の外れが近づいてくる。畑の柵、乾いた草地、丘へ続く細い道。背後の気配は一定の距離を保ったまま、すぐには詰めてこなかった。


 追ってこない。


 どうせ血を流して倒れると思われたのかもしれない。あるいは、今すぐ仕留める必要はないと判断されたのかもしれない。どちらにせよ、立ち止まれば終わりだった。


 畑を抜けるころには、右脇腹が熱く脈打っていた。服の内側を血が伝い、腰のあたりまで濡れている。足元が少しふらつく。呼吸が浅くなり、視界の端が白くちらついた。


 農家の小屋が見えた。


 扉は半開きだった。アレクはほとんど転がり込むように中へ入り、背中で扉を閉めた。


 床に膝をつく。荒い息を整える前に、右脇腹の矢を掴んだ。軸を折り、歯を食いしばって先端を引き抜く。浅い。内臓までは届いていない。それでも、抜いた瞬間に血が溢れ、手拭いを押し当ててもすぐ赤く染まった。


「ほんと、お人よしなんだから」


 人間語だった。


 アレクは顔を上げた。


 目の前に、小さな光が浮いていた。手のひらに乗るほどの少女。透明な羽根が薄く光を弾いている。腕を組み、しかめ面でこちらを見下ろしていた。


 フィーアだった。


「……フィーア。人間語を話せたのか」


「内緒よ。バレると大変なの」


「ついてきていたのか」


「ついてきていたんじゃないわ。見張っていたの。あんた、放っておくとすぐ無茶をするんだもの」


 フィーアはふわりと降り、アレクの脇腹を覗き込んだ。すぐに眉をひそめる。


「うわ。思ったよりひどいじゃない」


「浅い傷だ」


「そういうのは、血を止めてから言いなさい」


 フィーアが透明な羽根をひと振りすると、金色の鱗粉が傷口に降りかかった。血に触れた粉が淡く光り、じわりと温かさが広がっていく。溢れていた血は少しずつ弱まり、焼けるような痛みも鈍くなった。傷が消えたわけではない。だが、立てないほどではなくなる。


「妖精の鱗粉か」


「貴重なのよ。あたしがいなかったら、あんた、ここで血まみれのまま倒れていたんだから。感謝しなさい」


 アレクは短く息を吐いた。


「ありがとう、フィーア」


「……素直すぎるのも、ちょっと調子が狂うわね」


 フィーアは目を逸らしたが、すぐに表情を引き締めた。


「それと、あなたたちの作戦。失敗したわ」


 アレクは手拭いを押さえたまま、静かに顔を上げた。


「見ていたのか」


「上からね。かなり離れていたし、透明にもなっていたわ。あいつの顔をまともに見たわけじゃない。頭に蛇がある、くらいしか分からない距離だったから、あたしは平気だったみたい」


「姿を見るだけでは、石にならない?」


「たぶんね」


 アレクは黙って聞いた。


 フィーアは続けた。


「あんたを追っているところを横から襲うつもりだったんでしょう?」


「そうだ」


「でも、あいつは追っていなかったわ」


 アレクの指が、手拭いの上で止まった。


「やはり、そうか」


「気づいていたの?」


「少しだけ。矢羽根の音の時間が少し長くなっていた気がした」


 フィーアは小さく頷いた。


「あいつは路地の交差点あたりに残っていた。そこからあんたに矢を撃って、追っているように見せていたの。あなたの仲間が出てくるのを待っていたのよ」


 小屋の中に、重い沈黙が落ちた。


 アレクは目を伏せた。予想していたことだった。だが、フィーアの口から聞くと、胸の奥がさらに沈んだ。


「みんなは?」


 フィーアは少しだけ間を置いた。


「みんなダメだったわ。鏡や剣を使って直接見ないように努力していたけど」


 アレクは目を閉じた。


「反射は駄目か」


「駄目ね。鏡でも刀でも、顔を認識したら終わりみたい」


「伝承と違う」


「伝承なんて、人間があとから都合よく整えた話でしょう。細かいところまで信用するものじゃないわ」


 フィーアの声は冷たく聞こえたが、責めているわけではなかった。ただ、そういう言い方しかできないのだ。


「でも、全員死んだわけじゃないわ。石になっただけ。戻せる方法があるなら、まだ終わっていないでしょう?」


 アレクは目を開けた。


「そうだな。もしかしたら、妖精の鱗粉で戻せるかも」


「それは無理。さっき、試したけどダメだった」


「メデューサには役立たないか」


「あぁ、そんな言い方ないじゃない。助けてあげたのに」


 フィーアはぷいと横を向いた。


「でも、変なものなら見たわ」


「変なもの?」


「老人よ。杖をついて、村の中を歩いていたの。あの怪物の近くを通ったのに、石にならなかった」


「目が見えていないのかもしれない」


「たぶんね。歩き方も、顔の向け方も、見えている人のそれじゃなかったわ。あの怪物も、老人にはほとんど反応しなかった」


 アレクは息を呑んだ。


 見えていない。


 顔を認識できない。


 なら、石化しない。


 ばらばらだった事実が、少しずつ一本の線につながり始めた。


「どこで見た?」


「水車小屋。川沿いよ」


 フィーアはアレクの目を真っ直ぐ見た。


「案内するわ。……その前に、もう一回言っておくけれど」


「何を?」


「あたしがいなかったら、あんたはここで倒れていたの。だから、ちゃんと感謝しなさい」


「さっき言った」


「一回じゃ足りないの」


 アレクは、かすかに笑った。


「ありがとう。助かった」


 フィーアは満足したように鼻を鳴らした。


「よろしい。じゃあ、死なない程度に急ぐわよ」

――


 村の北端に水車小屋があった。


 古い木造の建物で、壁板が所々剥がれている。横を流れる細い川の水が水車にかかっているが、軸が錆びているのか、車輪は止まったままだった。


 アレクは扉を叩いた。三回、間を置いて。


 中から声がした。


「……誰じゃ」


 老人の声だった。しわがれているが、芯がある。


「旅の冒険者です。怪我をしています」


 沈黙。それから、かんぬきが外れる音。扉が薄く開き、若い女の顔が覗いた。二十代後半だろう。頬がこけている。寝ていないのだ。女の後ろから子供が覗いている。八歳くらいの少女だ。母親の服の裾を掴んでいる。


 奥に老人がいた。白髪で、杖をついている。椅子に座ったまま、こちらを向いている。だが、その目は何も映していなかった。白く濁った瞳が、焦点を結ばずに宙を見ている。


「入りなされ」


 老人が言った。


 アレクは腰を屈めて中に入った。フィーアが肩から飛び立ち、天井の梁に止まった。


「わしはベルンという」


 老人は杖を膝の上に置いたまま言った。


「目が見えん。生まれつきじゃ」


 若い女が名乗った。マルガ。農婦だ。少女はリアという。マルガの娘。


「数日前のことじゃ」


 ベルンが語り始めた。杖を握る手は穏やかだが、声には重さがあった。


「荷馬車が村に立ち寄った。御者は一人。大きな箱を積んでおった。鉄の鎖で縛った、棺桶みたいな箱じゃ。一晩だけ泊めてくれと言うた」


「見たのか」とアレクは訊いて、すぐに言い直した。「……聞いたのですか」


「聞こえたんじゃよ。鎖の音。馬車の軋み。箱を引きずる音。重い荷じゃった」


 ベルンは続けた。


「夜中に馬が暴れた。蹄が地面を叩く音。嘶き。それがぴたりと止んだ。馬が黙るのは二つしかない。落ち着いたか、死んだかじゃ。あの止まり方は後のほうじゃった」


「朝になったら」


「村が変わっておった。人の声がせん。足音がせん。かまどの火を起こす音がせん。わしは外に出て歩いた。あちこちに立っておるものがある。触れると冷たい石じゃった。人の形をしておった」


 ベルンの声に感情はなかった。事実を並べているだけだ。


「わしが歩き回れるのは、目が見えんからじゃろう。あの化け物は、見える者だけを石に変えよる」


 アレクは黙って聞いていた。教会で見た光景が頭に浮かんだ。祈りの姿勢のまま石になった村人。盾を構えた兵士。弓を向けた三人。全員が、見える者だった。


 ベルンが急に口を閉じた。


 わずかに首を傾げ、耳をそばだてている。何かを聞いている。アレクには何も聞こえない。水車の軋みと、川の流れだけだ。


「……風向きが変わったな」


 ベルンはそう言った。


 アレクには分からなかった。窓の外を見ても、木の葉が同じように揺れている。だがベルンは確信を持っている。見えない目の代わりに、この老人は音と空気の流れで世界を読んでいる。


「続けてくだされ。お主、怪我をしておるな。血の匂いがする」


「仲間が三人、石化しました」


 アレクは短く状況を伝えた。おとり作戦のこと。三人が反射物を使ったこと。それでも石化したこと。


 ベルンは黙って聞いていた。聞き終えてから、一度だけ頷いた。


「鏡越しでも駄目じゃったか」


「はい」


「難儀じゃな」


 それだけだった。慰めも、驚きもない。ただ、事実を受け止めた声だった。


 アレクは壁にもたれて目を閉じた。


 考えろ。


 メデューサの石化。条件は何だ。


 ベルンは石化しない。目が見えないからだ。メデューサの顔を認識できない。これが鍵だ。


 だが仲間は反射物を使った。直接見ていない。鏡越し、刀身越し、鍋蓋越し。それでも石化した。


 鏡越しでも認識は成立する。


 直接か間接かは関係ない。メデューサの顔を視覚的に認識した時点で、条件が成立する。伝承は間違っていた。ペルセウスの方法は通じない。


 反射物は無意味だった。


 ならば、条件は何だ。


 こちらがメデューサを認識すること。これが一つ目。メデューサがこちらを目視すること。これが二つ目。二つが揃ったときに呪いが発動する。


 ベルンは一つ目が永遠に成立しない。だから石化しない。


 では、二つ目を消せばどうなる。メデューサの目を眩ませれば、こちらを目視できない。条件が揃わない。


 まだ何も決まっていない。手元にあるのは矢傷と仮説だけだ。


 ――邪眼。


 ふと、頭にこの言葉がよぎった。当たり前すぎて、今まで考えようともしなかった言葉だ。伝説に出てきた攻略法の解釈を間違えていた。


「考えごと?」


 フィーアが梁の上から声をかけた。


「ああ」


「死んだ顔はやめてよね」


 アレクは少しだけ口元を緩めた。それから、顔を引き締めた。


 仮説はある。だが試す方法がまだない。


 夜が近づいていた。窓の外の光が赤く傾いている。水車小屋の中に沈黙が落ちた。リアがマルガの膝で眠りかけている。ベルンは杖を膝に置いたまま、動かない。


 夜はどちらに有利に働くだろうか。灯りはダメだ。格好の的だ。ベルンを先頭にすれば、暗闇の中を歩けそうな気がもするが。街中だけだ。街を出たらどうなるか。

 暗闇ならメデューサの顔を見なくて済むが、弓は防げない。夜目が効く怪物も多い。メデューサはどうなのだろうか。判らない。

 フィーアを先行させて、メデューサの位置をつかみ、一気に抜ければ、可能かもしれない。フィーアとの連絡手段をどうする。音、光、どれも困難だ。それに、フィーアが石化する可能性も否定できない。


 ならば、待つのも手だ。だが、いつまで待つ。アレクたちから連絡がないと、第二次調査隊が来るまで二日だろうか。それは期待しすぎだ。ご都合主義的な展開のような気がする。それに、待てば待つほど、こちらの体力が削がれていく。食料も限られている。それに、いつまたメデューサが動き出すか判らない。


 考えがまとまらない。堂々巡りだ。


 アレクは壁にもたれたまま目を閉じた。矢傷がじくじくと痛む。フィーアの鱗粉のおかげで出血は止まっているが、体力が戻るには時間がかかる。


 だが、時間が味方とは限らない。


 今すぐ、ここを出る。





## 第四話 脱出


「メデューサの姿が見えなくなっちゃった。逃げる機会じゃないの?」

 外から戻ってきたフィーアが言った。

「おそらく、どこかの建物の中に入ったんだろうな。そして、こっちの出方を窺っている」


 水車小屋は静かだった。


 川の流れと、錆びた水車の軋みだけが聞こえる。窓から日が差し込んでいた。アレクは壁にもたれたまま目を開けた。


 右脇腹を確かめた。フィーアの鱗粉が効いている。痛みはあるが、動ける。


 マルガが口を開いた。


「出ましょう」


 静かな声だった。リアの髪を撫でながら、アレクの目を真っ直ぐ見ている。


「リアを連れてここを出たい」


「村の外に出るまで、メデューサに見つかる危険があります」


「判っています」


 一言だった。迷いも質問もない。マルガはすでに最悪を知っている。夫が石になった女に、「危険です」は新しい情報ではなかった。


 ベルンが杖で床を叩いた。


「先頭で案内ならできますじゃ。この村の道は目をつぶっていても歩ける。もっとも、わしは常にそうじゃが」


 アレクはベルンを見た。確かにアレクが先頭を歩くよりかは良いかもしれない。


「足手まといにはなりゃせんよ。どうせわしは石になりゃせん。見えんものは認識できん」


 反論の余地がなかった。ベルンの言う通りだ。この老人だけがメデューサの呪いの外にいる。


「念のためですが。鏡は持っていますか?」

「私はありますが、リアの分が」

 アレクは腰の袋を探り、小さな丸い鏡を取り出した。手のひらに収まる大きさだ。合図用に持ち歩いていたものだが、今は別の使い道がある。


 リアの前に屈んだ。


「お守りだよ」

「お兄ちゃんの分は」

「剣先で判る」

 アレクは剣を抜くと、鏡のように輝く剣の側面をリアに見せた。

「ありがとう」

 リアは両手で鏡を受け取った。しばらく手の中で回してから、窓の光に当てた。反射した光の点が壁を走る。リアの目がわずかに動いて、光の行方を追った。


「きれい」


 小さな声だった。アレクは頷いて立ち上がった。


 ベルンが杖をついて立ち上がった。扉のほうに顔を向け、しばらく動かなかった。何かを聞いている。


「水車の音が変わったな。風が少し強くなったようだ」


 アレクには、ただの水車の軋みにしか聞こえなかった。だがベルンは微かな音の違いから天候を読んでいる。七十年の歳月が磨いた耳だ。


「夜には雨が降るかもしれないな」


「判るんですか」


「長年の勘じゃよ。当たるときもあれば、当たらない時もある」


 ベルンは杖を床につき、扉に向かった。


「行こう」


――


 ベルンが先頭に立った。


 杖をつき、迷いのない歩幅で進む。曲がり角に差しかかると足を止め、首をわずかに傾けた。空気の流れを確かめている。それから杖を振り、壁の位置を測り、迷いなく角を曲がった。


 マルガとリアが続いた。リアは鏡を胸元に抱えている。マルガが娘の手を引き、歩幅を合わせていた。


 アレクが最後尾についた。長剣の柄に手をかけ、背後の気配を探る。視線は地面。周囲の音に耳を澄ませる。


 路地に石像が並んでいた。洗濯籠を抱えたまま固まった女。走りかけた姿勢の男。路地の角に、子供の石像があった。リアと同い年くらいの女の子だ。片手を伸ばし、何かを掴もうとした形で石になっていた。


 リアの足が止まった。


 マルガが手を引いた。何も言わず、ただ前を向かせた。リアは鏡を胸に押しつけたまま歩き出した。


 路地を抜け、村の中央を横切る道に出た。ベルンの杖が石畳を叩く音だけが規則的に響く。


「ここを右に出ると、出口まで一本道。あと一五〇メルほどじゃ」


 ベルンの声は落ち着いていた。


 空は晴れていた。雲がなく、夕日が低い角度から村を照らしている。せめてもの救いだった。


 一本道に入った。両側に低い石壁が続き、その先に村の出口が見える。畑の柵と、丘に続く草地。あと少しだ。


 ベルンが道の半ばで足を止めた。


「いる」


 低い声だった。杖を握る手に力がこもっている。


 アレクも感じた。空気の重さが変わった。粘りつくような圧迫感。村に入ったときと同じだ。


 退路を見た。五〇メル以上後ろだ。間に合わない。


「目を伏せろ」


 アレクが言った。マルガがリアの頭を抱え込み、自分も顔を伏せた。


 矢が来た。


 空気を裂く音。アレクが体をそらした。だが狙いはアレクではなかった。


 マルガが崩れた。左腕に矢が刺さっていた。叫びはなかった。歯を食いしばり、右腕でリアを抱えたまま倒れない。膝が震えているが、立っている。


「鏡を――」


 マルガの声がかすれた。痛みをこらえ、鏡をメデューサの方に向ける。


 光の帯が一本道をまっすぐ走った。


 リアの鏡が反射した太陽光が、メデューサの顔を照らした。


 メデューサの動きが止まった。のけぞり、頭を横に振った。弓が下がる。光が目を灼いている。


 アレクは走っていた。

 五〇メル。


 マルガが光を当て始めた瞬間から走り出していた。長剣を抜く。地面を見たまま走る。視界の端に蛇の髪が揺れている。見ない。見てはいけない。


 マルガの体が止まった。


 鏡を持ったまま、踏み出しかけた姿勢のまま、灰色に変わった。


 光が消えた。


 三〇メル。


「ママ」

 今度は、リアが、アレクにもらった鏡を掲げ、太陽の光を前方に向けた。


 リアの体が止まった。


 一〇メル。


 メデューサが頭を横に振った。


 そのとき、アレクは初めてそれを見た。


 道の先に立っていた。人の形をしていた。女だった。


 頭から無数の蛇が垂れ下がり、それぞれが別の生き物のように蠢いている。肌は青白く、体は痩せていた。手に弓を構えていた。



 メデューサが体勢を戻す。弓を構え直す。遅い――間に合わないかもしれない。


 アレクは飛び込んだ。


 地面を蹴り、長剣を横に振り抜いた。重い手応えが腕に伝わった。何かが石畳に落ちた。


――


 転がる音。重く、湿った音。


 アレクは片膝をついていた。長剣を握り直しながら、息を整える。


 顔を上げた。


 石畳に首が転がっていた。蛇の髪がのたうっている。切り離されてなお蛇は動いていた。そして――目が開いていた。


 目が合った。


 体が動かなくなった。


 指先から。膝から。胸から。灰色が広がっていく。音が遠ざかる。石畳の冷たさが消えていく。剣を握る手の感覚が失せていく。視界が固まる。


 最後に見えたのは、蛇の髪に囲まれた青白い顔だった。


   * * *


 ベルンは音を聞いていた。


 剣が何かを断つ重い音。石畳に転がる音。それから、石が固まる乾いた音。砂が詰まるような、かさかさという音。


「何が起きているんだ」


 静かになった。


 水車の軋み。川の流れ。風。それだけだ。


 ベルンは杖を両手で握り直した。


 聞こえるのは一つだけだった。石畳を何かが這う音。乾いた、規則的な音。蛇の髪が石を掻いている。


「ベルンさん。アレクが石になっちゃった。メデューサの首を切ったんだけど、首だけになってもまだ生きてるの。メデューサの首にとどめを刺して。出来るのはベルンさんだけよ」

 知らない少女の声が聞こえた。


「この変な音か」

「そうよ」


 一歩。


 音を追った。杖の先が石畳を探る。


 二歩、三歩。音が近づく。


 四歩。さらに近い。


 五歩。足元で蛇が石畳を掻いた。


 杖を振り上げた。


 振り下ろした。何度も振り下ろした。


 蛇の這う音が止まった。何も動かなくなった。


 ベルンは杖を床につき、深く息を吐いた。


 それだけだった。


――


 音。石畳に砂が零れるような、乾いた音。


 村全体がかすかに揺れた。各所で石が割れ、砂になっていく。朝の光の中で、灰色が風に散っていった。


 指先に感覚が戻る。石畳の冷たさ。膝の痛み。剣の重さ。


 アレクは目を開けた。


 片膝をつき、体から砂がこぼれ落ちる。長剣を握ったままだった。


 石畳に砕けた欠片が散らばっていた。蛇の残骸。メデューサの首だったもの。もう動いていない。


 ベルンがすぐそばに立っていた。杖を両手で握り、こちらに顔を向けている。白く濁った瞳が、何も映さずにアレクを見ていた。


「……終わったかね」


「終わりました」


 アレクは立ち上がった。体が重い。膝が笑っている。だが立てる。


 声が聞こえた。


「なんだ、今の……」


 カルロだった。遠くから、目覚めたばかりのかすれた声が響いてきた。


 別の方角からサーラの声。ダンの低い声。ニコの声。それぞれの場所で、石化が解け、声を上げている。


 リアの体から砂がこぼれた。灰色が薄れ、肌の色が戻る。手から鏡が滑り落ち、石畳に澄んだ音を立てた。リアが目を開ける。


 マルガの腕から砂が崩れた。踏み出しかけた足が地面を踏む。伸ばした腕が下がり、左腕の矢傷が赤く滲んだ。


「……お母さん」


 マルガは傷ついた腕ごとリアを抱きしめた。何も言わなかった。ただ、抱きしめていた。


 アレクは少し離れて黙って見ていた。


――


 カルロが走ってきた。息を切らし、汗をかいている。体から砂をまき散らしながら走ってきた。


「ダン、サーラ、ニコ、全員無事だ」


「そうか」


「お前もだいぶやられたな」


 アレクの脇腹の血と、膝の砂を見て言った。


「前からだ」


「強情なやつだ」


 カルロは笑った。いつもの豪快な笑い方だった。


 路地の角に荷馬車の残骸があった。壊れた車輪と、砕けた木箱。鉄の鎖が地面に散らばっている。


 ニコが手帳の切れ端を拾った。荷馬車の荷台の隙間に挟まっていた紙片だ。几帳面に、文字を読み上げた。


「『決して開けるな。頭部を完全に破壊すること』」


 アレクはニコを見た。


「破壊した」


「はい」


「それでいい」


 五人は村の出口まで歩いた。ゆっくりと。急ぐ理由はもうなかった。


 あちこちで村人たちが目を覚ましている。声が聞こえる。子供の泣き声。誰かを呼ぶ声。戸惑いと安堵が混じった、人の声。村に音が戻っていた。


 ベルンが村の端で立ち止まった。


「わしはここに残りますじゃ」


「ベルンさん」


「石になった人たちが目を覚ましたら、話を聞かせてやらねばならん。怖い思いをしたろうから」


 マルガとリアがベルンに深く頭を下げた。リアは手に鏡を握ったままだった。


「大げさじゃよ」


 ベルンは片手を振った。それから、杖をついて村のほうへ歩き出した。迷いのない歩幅で。


――


 村の外に出た。


 道が丘と草地に続いている。朝の風が吹き、草が波のように揺れた。空は高く、雲がゆっくり東へ流れていた。


「私のおかげね。感謝しなさい」


 エルフ語だった。フィーアがアレクの肩に降りてきた。透明な羽根をたたみ、襟元に腰を下ろす。


「そうだな。これからどうするんだい。」


「……一緒に行くわよ。アレクは頼りなくて見てられないわ」


「好きにしていいよ」


「最初からそのつもりよ」


 アレクは前を向いて歩き出した。丘の道はなだらかに西へ続いている。カルロが先頭、サーラが二番手。ニコが手帳に何かを書きながら歩き、ダンが最後尾を守っている。来たときと同じ隊列だった。


 風が草を揺らし、道は続いていた。


   * * *


 その日の夕方。


 宿場町の食堂は旅人で賑わっていた。木の卓を囲む男たちの声、麦酒のジョッキがぶつかる音、竈の火が爆ぜる音。


 隅の席に、楽器を背負った女が座っていた。


 旅人のあいだで奇妙な話が広まっていた。ガルデ村が石になった。盲目の老人がいた。母と娘がいた。若い冒険者が怪物の首を切った。老人が杖で首を砕いた。石が解けて村が目を覚ました。


 女は林檎酒のコップを置いた。


 腰の袋から羽根ペンを取り出し、手帳を開いた。


 面白い話だ。


 女は白い紙に、最初の一文字を書き始めた。




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