沈黙の村
# 沈黙の村
## 序章 妖精との出会い
宿場町ブレンの定期市は、月に二度、広場を人と荷車で埋め尽くす。干し肉、革袋、薬草束、鋳物のナイフ――ありとあらゆる品が天幕の下に並び、売り子の声が秋の空に響いていた。
通りを歩く若い男がひとり。黒髪を短く刈り込み、腰に長剣、背に小弓と小型の盾を負っている。冒険者の身なりだが、どこか牧歌的な雰囲気が抜けない。名をアレクという。アルムス山脈の羊飼いの家に生まれ、今は各地を旅して暮らしている。
人混みをすり抜けながら、アレクは干し果物の袋を二つ買い、革の水筒に林檎酒を詰めてもらった。次の目的地までは三日ほどの道のりだ。食料はもう少しあったほうがいい。
ふと、露店のひとつに足が止まった。
獣商の天幕だった。小鳥や小動物のかごが積まれた棚の端に、ひときわ小さなかごがぶら下がっている。虫かごほどの大きさだ。
中に、手のひらに乗るほどの少女がいた。
透明な羽根が薄く光を弾いている。幼い顔立ちだが、その瞳には年齢にそぐわない鋭さがあった。妖精だ。
かごの前に値札がぶら下がっている。金貨一枚――四万ソル。観賞用としても高価な部類だが、妖精の相場を考えれば妥当な値段だった。希少な生き物を飾り棚に置いて愛でる趣味は、富裕層のあいだで根強い。
小さな妖精は、かごの中でぶつぶつと何かをつぶやいていた。声は鈴を転がすように高く澄んでいるのに、口調はどう聞いても不機嫌そのものだ。妖精語らしい。意味はまるで判らないが、文句を言っていることだけは伝わってくる。
「妖精語は判らないな」
アレクがぽつりとつぶやいた。独り言だ。特に誰に向けたわけでもない。
かごの中の妖精がぴくりと動いた。小さな唇がきゅっと引き結ばれ、透明な羽根がかすかに震える。
次の瞬間、澄んだ声がかごの隙間から漏れた。
「――昆虫じゃないのよ」
エルフ語だった。
アレクは一瞬だけ目を細めたが、それきり何も言わなかった。露店の主人がこちらを見ている。店先で長話をする場面ではない。
「おやじさん、この妖精をもらおう」
「へえ、金貨一枚になりますが」
「ああ」
アレクは革の財布から金貨を一枚取り出し、主人に渡した。主人は歯で噛んで真贋を確かめると、満面の笑みでかごごと差し出した。
「毎度あり。餌は花の蜜と果物の汁で充分ですよ。水だけは切らさないでくだせえ」
「ありがとう」
かごを受け取ったアレクは、そのまま市の人混みに紛れていった。かごの中の妖精は、腕を組んだまま黙り込んでいる。エルフ語で話しかけたのに反応がなかったことが、どうやら面白くなかったらしい。
――
その日の宿は、広場から二筋ほど入った小さな旅籠だった。
二階の部屋は簡素だが清潔で、窓からは西日が差し込んでいる。アレクは荷物を下ろし、剣帯を外してから、机の上にかごを置いた。
かごの中で、妖精はまだぶつぶつと妖精語をつぶやいている。身振り手振りを交えて何やら力説しているが、当然ながら中身はさっぱり判らない。ただ、かごの留め金をじっと見ているあたり、どうにかして開けようとしているのかもしれない。
アレクは黙ってかごの留め金に手をかけ、かちりと外した。
妖精語がぴたりと止んだ。
小さな扉が開く。妖精は大きな目をまばたきさせ、おそるおそるかごの縁に手をかけた。何かの罠かと疑っているようだ。
アレクは椅子に腰かけ、干し果物の袋を開けて一粒つまんだ。妖精のほうは見ていない。
沈黙が続いた。
妖精はかごの縁に腰かけると、また妖精語でぼそぼそとつぶやき始めた。今度はさっきより声が小さい。独り言のつもりらしい。市場でエルフ語に反応がなかったから、この男にはエルフ語も通じないと踏んだのだろう。
「何か言っているみたいだな」
アレクが干し果物をもうひとつつまみながら言った。
「妖精語は判らないな」
妖精はちらりとアレクを見た。そして、小さく鼻を鳴らした。
「どうせエルフ語も判らないでしょ」
エルフ語だった。馬鹿にしたような、ふてくされたような響きがある。通じない相手に悪態をつく気楽さが、その声には満ちていた。
アレクは干し果物を噛み終えてから、さらりと答えた。
「判るよ」
エルフ語だった。発音に濁りがない。流暢と言っていい。
妖精の羽根が、ぶわっと逆立った。
透明な翅が硬直し、大きな瞳がさらに大きく見開かれる。小さな口がぽかんと開き、かごの縁を掴む手が震えた。
「…………」
妖精は声を失った。
文字どおりの絶句だった。ありとあらゆる文句を並べ立てていたあの口が、音ひとつ発せない。
アレクはそんな妖精を一瞥し、椅子から立ち上がった。窓辺に歩み寄り、木枠の留め具を外して窓を大きく開ける。夕暮れの風が部屋に流れ込んだ。
「行っていいよ。窓は開けておくから」
穏やかなエルフ語だった。命令でも提案でもなく、ただ事実を告げるような口調だ。
妖精は呆然とアレクを見つめていた。人間がエルフ語を話す。それも片言ではなく、まるで森の民と暮らしていたかのように自然に。その事実が小さな頭の中でうまく処理できないらしく、透明な羽根がせわしなく震えている。
アレクは窓辺を離れ、ふたたび椅子に座った。干し果物の袋から一粒取り出し、机の端にそっと置く。それから自分ももう一粒をつまみ、何事もなかったかのように咀嚼を始めた。
妖精はしばらくかごの縁に座ったまま動かなかった。
やがて、ふわりと翅を広げた。小さな体が宙に浮く。机の端に置かれた干し果物に目をやり、一瞬だけ手を伸ばしかけたが、すぐに引っ込めた。
何も言わなかった。エルフ語も、妖精語も。
妖精はまっすぐ窓に向かい、夕焼けの空に飛び出した。透明な羽根が橙色の光を受けて、一瞬だけ宝石のようにきらめく。そして、あっという間に見えなくなった。
アレクは窓の外をしばらく眺めていたが、やがて小さく息をつき、荷物の整理に取りかかった。明日の出発は早い。
机の端の干し果物は、そのまま残されていた。
――だが、もしアレクが宿の屋根の上を見上げていたなら、煙突の影にちょこんと座り込み、こちらを覗き込んでいる小さな影に気づいただろう。
透明な羽根を背中にたたみ、腕を組んで、しかめっ面で。
妖精はまだ、そこにいた。
---
## 第一話 依頼
翌朝、アレクが冒険者組合の扉をくぐったのは、通りにまだ朝靄が残っている時刻だった。
組合の一階は木造の広間で、奥の壁一面が掲示板になっている。荷運び、護衛、害獣駆除。色褪せた羊皮紙に混じって、一枚だけ真新しい紙が留められていた。インクの色が濃い。昨晩か今朝に貼られたものだ。
アレクは近づいて読んだ。
『ガルデ村との連絡が途絶えた。定期の行商人も戻らない。領主が様子を見に送った兵士三名も帰還せず。原因の調査を募る。報酬は金貨三枚。詳細は受付にて』
金貨三枚。破格だった。それだけ切迫しているということだろう。
行商人が戻らないだけなら、道中の事故かもしれない。だが兵士まで消えた。疫病なら報告が先に来る。盗賊なら痕跡が残る。何が起きているのかまるでわからない――だからこそ調査依頼なのだ。
アレクは受付に向かった。
窓口の奥で書類を整理していた中年の職員が顔を上げた。目の下に隈がある。昨夜から対応に追われていたのかもしれない。
「ガルデ村の件ですか」
「詳しく聞かせてください」
「ガルデ村は街道から東に外れた小さな集落です。住民はおよそ一〇〇人。炭焼きと畑仕事で暮らしています。月に一度か二度、行商人が物資を届けるのですが――先月の行商人が戻りません。最初は道中の事故と思いましたが」
「兵士も戻らなかった」
「はい。領主が三人送りました。五日経っても帰還なしです」
五日。短いようで長い。徒歩で半日の距離なら、とうに戻れるはずだ。
「何が起きているか、心当たりは」
「皆目。だから金貨三枚なのです」
アレクは書類に名前を書いた。
――
集合場所は組合の裏手にある小広場だった。井戸とベンチがあるだけの、何の変哲もない空き地だ。
アレクが着くと、すでに四人が待っていた。
最初に目に入ったのは大柄な男だった。三〇代前半だろう。日焼けした顔に顎鬚を蓄え、使い込んだ革鎧の上から片手剣と大盾を背負っている。腕や首筋に古い刀傷がいくつも走っていて、見るからに荒事慣れした風体だ。
「カルロ・ヴェルデだ。傭兵上がりでな、今はこの辺で依頼を拾って食ってる。ガルデ村のあたりなら地理は頭に入ってるぜ。よろしくな」
声が大きい。笑い方も豪快で、朝の広場に響いた。
その横に立っていたのは細身の女だった。年はカルロと同じか少し上か。髪を短く束ね、動きやすさだけを考えた装備を身につけている。腰の剣だけが丁寧に手入れされていて、それが彼女の優先順位を物語っていた。
「サーラよ。地元の冒険者。カルロとは前に一度組んだことがある」
短い自己紹介だった。アレクと目が合うと小さく頷いたが、それ以上の愛想はない。冷静で、無駄のない人だと思った。
三人目は若い男だった。金髪で、身なりが几帳面に整っている。背に弓と矢筒を負い、手元には革表紙の手帳を開いていた。アレクとそう年は変わらない。一七か一八といったところだ。
「ニコ・フェルトです。弓が専門です。あの、ガルデ村って古い文献に名前が出てくるんですよ。もとは林業の集落で、近くに古い森が――」
「おい、まだ出発もしてないぞ」とカルロが笑った。
ニコは少し赤くなって手帳を閉じた。伝承の話になると止まらなくなる性質らしい。
四人目は少し離れた場所に立っていた。四〇代の男だ。がっしりした体つきだが、姿勢に力みがない。腕を組んでおり、その腕には古傷がいくつも重なっていた。元兵士だという話だが、佇まいを見れば説明は不要だった。
「ダンだ」
それだけだった。視線がアレクを一瞥し、すぐに外れた。
アレクは五人の顔を見渡した。傭兵、剣士、弓使い、元兵士。悪くない構成だ。
「俺が先頭を歩く」とカルロが言った。「あの辺りの道は把握してる。街道を東に折れて、丘をふたつ越えれば昼には着く」
「道の状態は」とサーラが訊いた。
「往路は問題ない。最近雨も降ってないからな」
「帰りは」
「さあな。何が待ってるか次第だ」
カルロは笑ったが、他の誰も笑わなかった。
アレクは自分の装備を確認した。長剣を腰に、小弓と矢筒を背に、小型の盾を左腕に。腰の袋には煙幕がふたつ。水と干し肉は一日分。何があるかわからない依頼だ。余計な荷物は持たない。
「行きましょう」とアレクは言った。
――
町の門を出ると、道は緩やかな起伏の草地に変わった。朝の空気が冷たくて気持ちいい。空は高く、雲がゆっくり東へ流れていた。
カルロが先頭、サーラが二番手、ニコとアレクが中ほど、ダンが最後尾。自然とそうなった。ダンは言葉こそ少ないが、一定の歩幅と速度を崩さず、後方に注意を配っている。体に染みついた動きだ。
「ガルデ村って、行ったことあるか」とカルロが振り返った。
「ない」とアレクは答えた。
「小さい村だよ。炭焼きの煙が年中立ち上ってる。子供のころ、親父に連れられて炭を買いに行ったことがある。のどかなところだ」
「のどかなところから人が消えた、ということね」とサーラが言った。
「だから気味が悪いんだろう。疫病なら噂が先に届く。盗賊にしちゃ静かすぎる」
「獣害の可能性は」
「兵士三人が戻らないような獣がいるなら、もっと前から被害が出てるはずだ」
サーラは黙って頷いた。
「じゃあ何だと思います?」とニコが訊いた。手帳を片手に、もう片方の手で顎を押さえている。
「さあな」とカルロは前を向いたまま言った。「着いてみなきゃわからねえ。わからねえときが一番怖い」
ニコが手帳を開きながら口を挟んだ。
「あの辺りの森には、古い時代の遺跡があるって記録があるんです。エテルニア期の、たぶん祠か何かの跡で――」
「足元を見ろ」とカルロが前を向いたまま言った。
「あ、すみません」
ニコは手帳をしまった。三歩ほど歩いて、また取り出した。サーラが横目で見て、かすかに口元を緩めた。
道は丘の斜面を縫うように続いている。草の匂いと土の匂いが混じっていた。風が吹くたびに、背の高い草が波のように揺れる。
アレクは歩きながら考えていた。連絡が途絶えた村。戻らない行商人。消えた兵士。情報が少なすぎる。現地を見るまでは何も言えない。
ふと、最後尾のダンが歩幅を縮めた。
ほんの一瞬だった。足が止まったわけではない。ただ一歩が短くなり、首がわずかに傾いた。何かを聞いている。耳が拾ったものを確かめるように、呼吸すら浅くなった。
二拍。三拍。
ダンの歩幅が元に戻った。何事もなかったかのように、同じ速度で歩き続ける。
「道に異常なし」
低い声だった。短く、正確で、それ以上は何もない。だがその報告は、目だけでなく耳で周囲を確かめた上での言葉だった。風の中の鳥の声、草を踏む足音の反響、木立の向こうの気配。元兵士の体は、音で世界を測ることに慣れている。
「考え事か」
カルロが声をかけてきた。
「少し」
「まあ、着けばわかるさ。わからなかったら逃げりゃいい。金貨三枚は惜しいが、命よりは安い」
気楽な口調だったが、目は笑っていなかった。傭兵上がりの男は、危険の匂いを嗅ぎ分けている。
――
門を出る時、アレクはふと視線を感じていた。
宿場の軒先に、旅装の女が立っていた。楽器を背負っている。吟遊詩人だろう。女はこちらを見ていたが、目が合っても何も言わなかった。わずかに口元が動いた気がしたが、それだけだった。
今はそれを気にしている場合ではない。
丘の向こうに、ガルデ村がある。
五人は黙って歩き続けた。風が草を揺らし、道はなだらかに東へ続いていた。
## 第二話 沈黙の村
鳥の声が途絶えたのは、村まであと三〇〇メルほどのところだった。
「静かだな」
カルロが言った。前を歩きながら、わずかに歩幅を縮めている。
「違う」
ダンが答えた。足を止めずに周囲を見渡す。
「静かなんじゃない。いないんだ」
アレクも気づいていた。草むらの羽音がない。枝の上の鳴き声もない。石に止まる鳥すら、一羽もいない。
サーラが剣の柄に手をかけた。ニコが手帳をしまった。
誰も何も言わなかった。それで十分だった。
――
村に入ると、生活の気配だけが残っていた。
洗濯物が干したままになっている。薪が割りかけで放置されている。かまどのそばに野菜が並んでいる。昼食の支度でもしていたのか。
だが人がいない。声もない。犬も鶏も、動くものが何もない。
五人は広場に向かった。無人だった。井戸のそばに桶が置いてあり、縄がたるんでいる。桶の中の水は乾いていた。
「教会に行ってみよう」
カルロが声を落として言った。
「何かあるとすれば、そこだ」
――
教会の扉は閉まっていた。
ダンが扉に耳を当てた。しばらく待つ。物音なし。小さく頷いてから、ゆっくりと扉を押し開けた。
薄暗い内部に踏み込む。カルロが後方を確認しながら続く。全員が足音を殺して動いている。アレクは左右を素早く見た。礼拝用の長椅子、祭壇、柱の影。隠れられる場所を頭に入れる。
気配はなかった。
目が暗さに慣れてきた。
そのとき、アレクは気づいた。
礼拝席に人が座っている。だが、誰も動かない。
一人ではない。三人、五人、七人――。祈りの姿勢のまま、誰も頭を上げない。呼吸もない。
「……石だ」
ニコの声が震えていた。
近づくと、はっきりわかった。村人が祈りの姿勢のまま石に変わっている。表情まで残っていた。目を閉じている者も、顔を上げかけたまま止まっている者もいた。
祭壇の近くに、別の石像があった。
鎧を着けた男が三人、弓を構えたまま石になっている。矢をつがえた姿勢のまま固まっていた。弓は三人とも同じ方向――南東の壁の角を向いている。
その隣に、もう一体。
大きな盾を体の前に構えたまま石になった兵士がいた。盾を正面に掲げ、腰を落とし、前に踏み出そうとした姿勢だ。視線を遮りながら接近しようとしたのだろう。盾の陰から覗く顔は歯を食いしばっていた。それでも石化していた。盾ごと、丸ごと、灰色の石に変わっていた。
「領主の兵だ」
ダンが端的に言った。
「ロングショットを試みて、失敗した」
ダンの目が盾の兵士に留まった。何かを考えているようだったが、それ以上は言わなかった。
「石化の呪いだな」
カルロの声は静かだった。驚きより、認識が先に来た口ぶりだ。冒険者なら見ればわかる。これは病気でも毒でもない。
「バジリスクですか? コカトリスですか?」
ニコが訊いた。声が上ずっている。手帳を取り出しかけて、やめた。
「どっちでもいい」とカルロは言った。「石化の怪物なんて滅多にいやしない。話には聞くが実物に出くわしたって奴は見たことがねえ」
「ペルセウスの神話では、鏡に映して――」
「それは後だ」
カルロの声に、いつもの軽さはなかった。
ニコが石像の一体を丁寧に確認した。表面の苔の付き具合と、石の乾き加減を指先で確かめている。
「数日は経っています。二日か、三日か」
サーラが石像を数えた。奥まで合わせて全部で一八体。老人も、子供もいた。
「怪物が来て、兵士たちが盾になったんだ」とカルロが言った。「村人は教会に逃げ込んで――」
「違うと思います」
アレクが言った。
全員がこちらを向いた。
「石化した人間は動けない。自分でここに来たわけじゃない」
アレクは祈りの姿勢の石像を見た。座った位置も間隔も、ばらばらだ。自分で席を選んで座ったのではなく、誰かが並べた。
「誰かが運んだんだ」
沈黙が落ちた。
「……なぜ」とサーラが言った。
「腐らないからです」
石化中は時間が止まる。石化を解除できる怪物なら、石化した人間を保存できる。必要なときに解いて、食う。
「ここは食糧庫です」
誰も言葉を返さなかった。
「メデューサか」
カルロがつぶやいた。
「そう考えるのが筋だと思います。石化を解除できる怪物は限られる。兵士たちは離れた距離から弓で狙って、それでも石化した」
アレクの目が盾の兵士に向いた。視線を遮って近づこうとした男。それでも石になった。何が石化の条件なのか。まだわからないことが多すぎる。
「石化解除の薬は」
サーラが訊いた。
「持ってない」とカルロが首を振った。「そんなもん、事前に用意する奴はいねえよ。高いし、そもそも石化の怪物に出くわすなんて想定しない」
ニコが石像のひとつに手を伸ばしかけて、止めた。
「教会の町まで戻れば手に入るかもしれませんが……往復で四日はかかります」
「四日じゃ間に合わない」とダンが言った。端的だった。「今、外にいる可能性が高い」
アレクは腰の革袋に手をやった。指先が小さな本に触れる。
知恵の書。手のひらほどの古い本で、以前の旅で手に入れた。普段はどのページも白紙だが、持ち主が問いを抱え、答えに近づいたとき――そのときだけ、必要な言葉が浮かび上がる。万能ではない。答えを教えてくれるわけでもない。ただ、考える者の背中を押すだけの本だ。
革袋から取り出して開いた。
白紙だった。
二頁目、三頁目。どのページをめくっても何も浮かんでいない。文字も図も、何ひとつ。
まだ足りないのか。
アレクは本を閉じて革袋に戻した。
「撤退しよう」
サーラの声に迷いはなかった。
「今すぐ」
――
慎重に、壁沿いに角を確認しながら動いた。
カルロが先頭。ダンが殿。サーラとニコが中央、アレクが右を警戒する。村の入口まであと三〇メルほどだった。
細い路地に差しかかったとき、矢が来た。
音より先に、サーラが崩れた。
左肩に矢が刺さっていた。石壁の角から――路地の奥、南の方角から放たれた一本だった。
サーラが膝をつく音。倒れかけた体が壁にぶつかる音。
その音に、反射的に横を向いた者がいた。
ダンだ。
殿を務めていたダンが、背後の物音に首を回した。目を背けて歩いていた。正面を避け、角を確認するときも視線を落としていた。それでも、仲間が倒れる音には体が反応した。兵士の反射だ。訓練が骨に刻んだ動作だ。
目の端に何かが映った。路地の奥の影。うごめく何か。
それだけだった。
次の瞬間、ダンは石になっていた。
足を踏み出しかけた姿勢のまま。横を向いた一瞬のまま。灰色の石像がそこに立っていた。
「ダン!」
カルロが振り返り、すぐに顔をそらした。
「――目が合ったわけじゃないのに」
かすれた声だった。ダンは目を合わせていない。ただ、路地の奥のうごめく影を目の端で認識してしまった。ほんの一瞬の反射が、命取りだった。
アレクは懐から煙幕を引き抜いた。
「目を閉じろ!」
投げた。白い煙が路地を満たし、南の方角を塗りつぶした。
「走れ!」
――
四人で近くの民家に飛び込んだ。
扉を体で押さえる。窓を確認する。裏口に椅子をかませる。
室内にも石像があった。住民が二人、台所の近くで石になっている。ここで石化したのだ。逃げるより先に追いつかれた。
サーラが壁にもたれていた。矢は肩を貫通せず、刺さったままだ。ニコが手拭いと水を取り出した。几帳面な手つきで傷口を確認する。手が震えていた。
アレクは頭を整理した。ダンが石化した。サーラが負傷した。出口は近いが、メデューサにこちらの場所を把握されている。
外に気配が来た。
正面の扉の向こうに、何かがいる。物音ではない。壁越しに伝わる、重さのようなもの。
全員が息を殺した。
カルロが剣の柄を握り直した。
「縮こまっているよりマシだ」
静かな声だった。いつもの豪快な笑いはなかった。
「作戦がある。聞いてくれ」
全員の目がカルロに向いた。
「アレクが裏口から出て回り込む。メデューサの注意をそっちに引きつける。その間に、俺たちは反射を使う。鏡でも刀身でも、直接見ずに位置を確かめながら攻撃する。ペルセウスのやり方だ」
ニコが胸元から小さな手鏡を取り出した。手のひらほどの大きさの、形見の品だ。
サーラが矢を自分で引き抜いた。顔色は変わらなかったが、額にうっすら汗が浮いた。
「やれる」
全員がアレクを見た。
囮を引き受ける者は一人でいい。
アレクは頷いた。
## 第三話 おとり
裏口の扉は軋んだ。
アレクは体を横にして隙間から滑り出た。石壁の影に背をつけ、呼吸を整える。視線は地面に落とした。石畳の目地に雑草が生えている。それだけを見ていた。
路地は狭い。両腕を伸ばせば壁に届く。建物と建物のあいだに空が細く切り取られていた。足音を殺し、壁に沿って進む。角を曲がるたびに立ち止まり、音を聞いた。
風が止んでいた。鳥も虫もいない。自分の足音だけが石壁に跳ね返ってくる。
角を曲がった。
空気が変わった。
背中に粘りつくような圧迫感があった。見られている。振り向かなくてもわかる。肌が粟立ち、首の後ろが冷たくなった。
気づかれた。
走った。視線は地面。石畳を蹴り、壁の角を右に折れる。
矢が来た。
右の脇腹に焼けるような痛み。走りながら手で触れた。矢の軸が指に当たる。浅い。だが血が滲んでいる。
足は止めなかった。
路地を抜け、広場の端を横切った。地面だけを見て走る。視界の端に石像が見えた。村人だ。見ない。前だけを見る。わざと足音を立てた。石畳を蹴る音が壁に跳ね返る。
背後の気配が動いた。ついてきている。
いい。こっちを見ろ。
石壁の角を曲がり、路地を北へ走った。脇腹の血が腰を伝い、足跡に赤い点を残していく。
* * *
サーラは壁の影にいた。
アレクの足音が遠ざかっていく。それを追う、別の足音。メデューサの関心がアレクに向いた。
今しかない。
刀を抜き、刃を路地のほうに差し出した。磨き上げた刀身を鏡がわりにする。左肩の矢傷がずきりと痛んだが、手は震えなかった。
刀身に路地が映る。石畳、壁、日差しの角度。奥に影が見えた。人のかたちをしている。頭部から何かが垂れ下がり、うごめいていた。蛇だ。一本ではない。何本もの蛇が、それぞれ別の生き物のように揺れている。
反射越しだ。直接見ていない。これなら――
体が止まった。
刀を構えた姿勢のまま、サーラの全身が灰色に変わった。
* * *
ニコは手鏡を掲げていた。
母の形見だ。手のひらほどの小さな鏡。角度を変えながら、路地の先を探る。額に金髪が張りついていた。汗が目に入る。拭う余裕はない。
アレクが走り回る音が聞こえる。まだ動いている。時間を稼いでくれている。
鏡面に映ったものがある。路地の奥。壁際に蛇がうごめいている。人の頭から生えた、無数の蛇。
鏡越しだ。大丈夫。直接見ていない。
手が止まった。
鏡を掲げた姿勢のまま、ニコの体が石に変わった。金色の髪も、額の汗も、指のあいだに挟まれた手鏡も、すべて灰色の中に沈んだ。
* * *
カルロは鍋蓋を左手に構えていた。
民家の台所から持ち出した鉄の蓋だ。裏面を布で磨いた。完璧とは言えないが、像は映る。
鍋蓋に路地の奥が映った。壁際を何かが移動している。人の形。痩せた体。頭部から蛇が垂れ下がり、蠢いている。
縮こまっているよりマシだ。反射越しなら石化しない。そのはずだ。
鍋蓋に映る影が、こちらを見た。
カルロの体が灰色に変わった。大きな手が鍋蓋を握ったまま、足が石畳を踏みしめたまま。最後まで前に出ようとしていた。
――
路地が静まった。
アレクは壁に背をつけたまま、耳を澄ませた。合図はない。返事もない。
沈黙だった。
最悪の結果が頭を過ぎった。声を出すわけにはいかない。メデューサがまだ近くにいる。
背後の空気が重くなった。粘りつく視線。戻ってきている。
振り向かない。
走った。
村の外れが見えた。畑の柵、草地、丘へと続く道。背後の気配が薄れていく。追ってこない。
どうせ死ぬと思われたか。
畑を抜け、農家の小屋が見えた。扉が半開きになっている。アレクは転がり込むようにして中に入り、扉を閉めた。
床に膝をついた。右脇腹の矢を折り、先端を引き抜いた。浅い。だが血が止まらない。手拭いを押し当てて圧迫した。視界の端がちらつく。
「お人よしね」
人間語だった。
アレクは顔を上げた。
小さな光が目の前に浮いていた。手のひらに乗るほどの少女。透明な羽根が薄く光を弾いている。腕を組んで、しかめ面で、こちらを見下ろしていた。
「……人間語、話せるのか」
「内緒よ」
フィーアだった。ブレンの町で逃がした妖精が、いつの間にかついてきていた。
フィーアはアレクの脇腹に近づき、透明な羽根をひと振りした。鱗粉が傷口に降りかかる。金色の粉が血に触れると、じわりと温かくなった。出血が止まる。痛みが和らぐ。消えたわけではないが、動ける程度には治まった。
「妖精の鱗粉か」
「貴重なのよ。感謝しなさい」
アレクは短く息をついた。
「ありがとう」
フィーアは少し目を逸らした。それから、声をひそめた。
「村の中で変なもの見たわ」
「変なもの」
「老人よ。あちこち歩いてるのに、あの怪物に手を出されていない。杖をついて、ゆっくりと。まるで見えていないみたいに素通りされてた」
「どこで見た」
「水車小屋。川沿いの」
フィーアはアレクの目を真っ直ぐ見た。
「案内するわ」
――
村の北端に水車小屋があった。
古い木造の建物で、壁板が所々剥がれている。横を流れる細い川の水が水車にかかっているが、軸が錆びているのか、車輪は止まったままだった。
アレクは扉を叩いた。三回、間を置いて。
中から声がした。
「……誰じゃ」
老人の声だった。しわがれているが、芯がある。
「旅の冒険者です。怪我をしています」
沈黙。それから、かんぬきが外れる音。扉が薄く開き、若い女の顔が覗いた。二十代後半だろう。頬がこけている。寝ていないのだ。女の後ろから子供が覗いている。八歳くらいの少女だ。母親の服の裾を掴んでいる。
奥に老人がいた。白髪で、杖をついている。椅子に座ったまま、こちらを向いている。だが、その目は何も映していなかった。白く濁った瞳が、焦点を結ばずに宙を見ている。
「入りなされ」
老人が言った。
アレクは腰を屈めて中に入った。フィーアが肩から飛び立ち、天井の梁に止まった。
「わしはベルンという」
老人は杖を膝の上に置いたまま言った。
「目が見えん。生まれつきじゃ」
若い女が名乗った。マルガ。農婦だ。少女はリアという。マルガの娘。
「数日前のことじゃ」
ベルンが語り始めた。杖を握る手は穏やかだが、声には重さがあった。
「荷馬車が村に立ち寄った。御者は一人。大きな箱を積んでおった。鉄の鎖で縛った、棺桶みたいな箱じゃ。一晩だけ泊めてくれと言うた」
「見たのか」とアレクは訊いて、すぐに言い直した。「……聞いたのですか」
「聞こえたんじゃよ。鎖の音。馬車の軋み。箱を引きずる音。重い荷じゃった」
ベルンは続けた。
「夜中に馬が暴れた。蹄が地面を叩く音。嘶き。それがぴたりと止んだ。馬が黙るのは二つしかない。落ち着いたか、死んだかじゃ。あの止まり方は後のほうじゃった」
「朝になったら」
「村が変わっておった。人の声がせん。足音がせん。かまどの火を起こす音がせん。わしは外に出て歩いた。あちこちに立っておるものがある。触れると冷たい石じゃった。人の形をしておった」
ベルンの声に感情はなかった。事実を並べているだけだ。
「わしが歩き回れるのは、目が見えんからじゃろう。あの化け物は、見える者だけを石に変えよる」
アレクは黙って聞いていた。教会で見た光景が頭に浮かんだ。祈りの姿勢のまま石になった村人。盾を構えた兵士。弓を向けた三人。全員が、見える者だった。
ベルンが急に口を閉じた。
わずかに首を傾げ、耳をそばだてている。何かを聞いている。アレクには何も聞こえない。水車の軋みと、川の流れだけだ。
「……風向きが変わったな」
ベルンはそう言った。
アレクには分からなかった。窓の外を見ても、木の葉が同じように揺れている。だがベルンは確信を持っている。見えない目の代わりに、この老人は音と空気の流れで世界を読んでいる。
「続けてくだされ。お主、怪我をしておるな。血の匂いがする」
「仲間が三人、石化しました」
アレクは短く状況を伝えた。おとり作戦のこと。三人が反射物を使ったこと。それでも石化したこと。
ベルンは黙って聞いていた。聞き終えてから、一度だけ頷いた。
「鏡越しでも駄目じゃったか」
「はい」
「難儀じゃな」
それだけだった。慰めも、驚きもない。ただ、事実を受け止めた声だった。
アレクは壁にもたれて目を閉じた。
考えろ。
メデューサの石化。条件は何だ。
ベルンは石化しない。目が見えないからだ。メデューサの顔を認識できない。これが鍵だ。
だが仲間は反射物を使った。直接見ていない。鏡越し、刀身越し、鍋蓋越し。それでも石化した。
鏡越しでも認識は成立する。
直接か間接かは関係ない。メデューサの顔を視覚的に認識した時点で、条件が成立する。伝承は間違っていた。ペルセウスの方法は通じない。
反射物は無意味だった。
ならば、条件は何だ。
こちらがメデューサを認識すること。これが一つ目。メデューサがこちらを目視すること。これが二つ目。二つが揃ったときに呪いが発動する。
ベルンは一つ目が永遠に成立しない。だから石化しない。
では、二つ目を消せばどうなる。メデューサの目を眩ませれば、こちらを目視できない。条件が揃わない。
まだ何も決まっていない。手元にあるのは矢傷と仮説だけだ。
アレクは腰の革袋に手をやった。指先が小さな本に触れる。知恵の書。教会で開いたときは白紙だった。
取り出して開いた。
見開きの中央に、二文字だけが浮かんでいた。
――邪眼。
説明も解説もない。たった二文字。だがそれで十分だった。
教会では白紙だった。あのときは情報が足りなかった。ベルンの存在――目が見えず石化しないという事実が加わり、初めて答えが出た。知恵の書は、持ち主が答えに近づいたときだけ応える。
アレクは本を閉じた。
「考えごと?」
フィーアが梁の上から声をかけた。
「ああ」
「死んだ顔はやめてよね」
アレクは少しだけ口元を緩めた。それから、顔を引き締めた。
仮説はある。だが試す方法がまだない。
夜が近づいていた。窓の外の光が赤く傾いている。水車小屋の中に沈黙が落ちた。リアがマルガの膝で眠りかけている。ベルンは杖を膝に置いたまま、動かない。
今夜は動けない。
アレクは壁にもたれたまま目を閉じた。矢傷がじくじくと痛む。フィーアの鱗粉のおかげで出血は止まっているが、体力が戻るには時間がかかる。
明日だ。
明日、ここを出る。
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## 第四話 脱出
水車小屋の朝は静かだった。
川の流れと、錆びた水車の軋みだけが聞こえる。窓から薄い朝日が差し込んでいた。アレクは壁にもたれたまま目を開けた。いつ眠ったのか覚えていない。
右脇腹を確かめた。フィーアの鱗粉が効いている。痛みはあるが、動ける。
マルガが口を開いた。
「出ましょう」
静かな声だった。リアの髪を撫でながら、アレクの目を真っ直ぐ見ている。
「リアを連れてここを出たい」
「村の外に出るまで、メデューサに見つかる危険があります」
「分かりました」
一言だった。迷いも質問もない。マルガはすでに最悪を知っている。夫が石になった女に、「危険です」は新しい情報ではなかった。
ベルンが杖で床を叩いた。
「案内ならできますじゃ。この村の道は目をつぶっていても歩ける。もっとも、わしは常にそうじゃが」
アレクはベルンを見た。
「危険です」
「足手まといにはなりゃせんよ。どうせわしは石になりゃせん。見えんものは認識できん」
反論の余地がなかった。ベルンの言う通りだ。この老人だけがメデューサの呪いの外にいる。
アレクは腰の袋を探り、小さな丸い鏡を取り出した。手のひらに収まる大きさだ。合図用に持ち歩いていたものだが、今は別の使い道がある。
リアの前に屈んだ。
「お守りだよ」
リアは両手で鏡を受け取った。しばらく手の中で回してから、窓の光に当てた。反射した光の点が壁を走る。リアの目がわずかに動いて、光の行方を追った。
「きれい」
小さな声だった。アレクは頷いて立ち上がった。
ベルンが杖をついて立ち上がった。扉のほうに顔を向け、しばらく動かなかった。何かを聞いている。
「水車の音が変わったな。風が東に回りよった」
アレクには、ただの水車の軋みにしか聞こえなかった。だがベルンは微かな音の違いから天候を読んでいる。七十年の歳月が磨いた耳だ。
「晴れるかの」
「空は明るいです」
「そうかい」
ベルンは杖を床につき、扉に向かった。
「行こう」
――
ベルンが先頭に立った。
杖をつき、迷いのない歩幅で進む。曲がり角に差しかかると足を止め、首をわずかに傾けた。空気の流れを確かめている。それから杖を振り、壁の位置を測り、迷いなく角を曲がった。
マルガとリアが続いた。リアは鏡を胸元に抱えている。マルガが娘の手を引き、歩幅を合わせていた。
アレクが最後尾についた。長剣の柄に手をかけ、背後の気配を探る。視線は地面。周囲の音に耳を澄ませる。
路地に石像が並んでいた。洗濯籠を抱えたまま固まった女。走りかけた姿勢の男。路地の角に、子供の石像があった。リアと同い年くらいの女の子だ。片手を伸ばし、何かを掴もうとした形で石になっていた。
リアの足が止まった。
マルガが手を引いた。何も言わず、ただ前を向かせた。リアは鏡を胸に押しつけたまま歩き出した。
路地を抜け、村の中央を横切る道に出た。ベルンの杖が石畳を叩く音だけが規則的に響く。
「ここを右に出ると、出口まで一本道。あと一五〇メルほどじゃ」
ベルンの声は落ち着いていた。
空は晴れていた。雲がなく、朝の太陽が低い角度から村を照らしている。せめてもの救いだった。
一本道に入った。両側に低い石壁が続き、その先に村の出口が見える。畑の柵と、丘に続く草地。あと少しだ。
ベルンが道の半ばで足を止めた。
「いる」
低い声だった。杖を握る手に力がこもっている。
アレクも感じた。空気の重さが変わった。粘りつくような圧迫感。村に入ったときと同じだ。
退路を見た。五〇メル以上後ろだ。間に合わない。
「目を伏せろ」
アレクが言った。マルガがリアの頭を抱え込み、自分も顔を伏せた。
矢が来た。
空気を裂く音。アレクが体をそらした。だが狙いはアレクではなかった。
マルガが崩れた。左腕に矢が刺さっていた。叫びはなかった。歯を食いしばり、右腕でリアを抱えたまま倒れない。膝が震えているが、立っている。
「リア、鏡を――」
マルガの声がかすれた。
リアは母の腕から抜け出した。胸に抱えていた鏡を両手で掲げ、太陽の光を前方に向けた。
光の帯が一本道をまっすぐ走った。
そのとき、アレクは初めてそれを見た。
道の先に立っていた。人の形をしていた。女だった。
頭から無数の蛇が垂れ下がり、それぞれが別の生き物のように蠢いている。肌は青白く、体は痩せていた。手に弓を構えていた。
リアの鏡が反射した太陽光が、メデューサの顔を照らした。
メデューサの動きが止まった。のけぞり、頭を横に振った。弓が下がる。光が目を灼いている。
リアが光を追いかけた。メデューサが体をそらすたびに、鏡の角度を変えて光を当て続けた。手が震えていた。足も震えていた。だが鏡は動かなかった。
アレクは走っていた。
リアが光を当て始めた瞬間から走り出していた。長剣を抜く。地面を見たまま走る。視界の端に蛇の髪が揺れている。見ない。見てはいけない。
五〇メル。
三〇メル。
一〇メル。
メデューサが頭を横に振った。蛇の隙間から目が覗いた。リアを見た。
リアの体が止まった。
鏡を持ったまま、踏み出しかけた姿勢のまま、灰色に変わった。
光が消えた。
メデューサが体勢を戻す。弓を構え直す。遅い――間に合わないかもしれない。
アレクは飛び込んだ。
地面を蹴り、長剣を横に振り抜いた。重い手応えが腕に伝わった。何かが石畳に落ちた。
――
転がる音。重く、湿った音。
アレクは片膝をついていた。長剣を握り直しながら、息を整える。
顔を上げた。
石畳に首が転がっていた。蛇の髪がのたうっている。切り離されてなお蛇は動いていた。そして――目が開いていた。
目が合った。
体が動かなくなった。
指先から。膝から。胸から。灰色が広がっていく。音が遠ざかる。石畳の冷たさが消えていく。剣を握る手の感覚が失せていく。視界が固まる。
最後に見えたのは、蛇の髪に囲まれた青白い顔だった。
* * *
ベルンは音を聞いていた。
剣が何かを断つ重い音。石畳に転がる音。それから、石が固まる乾いた音。砂が詰まるような、かさかさという音。
足音。マルガだ。走ろうとしている。
「マルガ!」
叫びは届かなかった。足音が途中で止まった。石が固まる音。
マルガは走ろうとした姿勢のまま石になった。右足を踏み出しかけ、腕を前に伸ばしたまま。諦めなかった。その形が、それを示していた。
静かになった。
水車の軋み。川の流れ。風。それだけだ。
ベルンは杖を両手で握り直した。
聞こえるのは一つだけだった。石畳を何かが這う音。乾いた、規則的な音。蛇の髪が石を掻いている。
一歩。
音を追った。杖の先が石畳を探る。
二歩、三歩。音が近づく。
四歩。さらに近い。
五歩。足元で蛇が石畳を掻いた。
杖を振り上げた。
振り下ろした。
石が砕ける音。重く、短い。
蛇の這う音が止まった。何も動かなくなった。
ベルンは杖を床につき、深く息を吐いた。
それだけだった。
――
音。石畳に砂が零れるような、乾いた音。
村全体がかすかに揺れた。各所で石が割れ、砂になっていく。朝の光の中で、灰色が風に散っていった。
指先に感覚が戻る。石畳の冷たさ。膝の痛み。剣の重さ。
アレクは目を開けた。
片膝をつき、体から砂がこぼれ落ちる。長剣を握ったままだった。
石畳に砕けた欠片が散らばっていた。蛇の残骸。メデューサの首だったもの。もう動いていない。
ベルンがすぐそばに立っていた。杖を両手で握り、こちらに顔を向けている。白く濁った瞳が、何も映さずにアレクを見ていた。
「……終わったかね」
「終わりました」
アレクは立ち上がった。体が重い。膝が笑っている。だが立てる。
声が聞こえた。
「なんだ、今の……」
カルロだった。遠くから、目覚めたばかりのかすれた声が響いてきた。
別の方角からサーラの声。ダンの低い声。ニコの声。それぞれの場所で、石化が解け、声を上げている。
リアの体から砂がこぼれた。灰色が薄れ、肌の色が戻る。手から鏡が滑り落ち、石畳に澄んだ音を立てた。リアが目を開ける。
マルガの腕から砂が崩れた。踏み出しかけた足が地面を踏む。伸ばした腕が下がり、左腕の矢傷が赤く滲んだ。
「……お母さん」
マルガは傷ついた腕ごとリアを抱きしめた。何も言わなかった。ただ、抱きしめていた。
アレクは少し離れて黙って見ていた。
――
カルロが走ってきた。息を切らし、汗をかいている。体から砂をまき散らしながら走ってきた。
「ダン、サーラ、ニコ、全員無事だ」
「そうか」
「お前もだいぶやられたな」
アレクの脇腹の血と、膝の砂を見て言った。
「前からだ」
「強情なやつだ」
カルロは笑った。いつもの豪快な笑い方だった。
路地の角に荷馬車の残骸があった。壊れた車輪と、砕けた木箱。鉄の鎖が地面に散らばっている。
ニコが手帳の切れ端を拾った。荷馬車の荷台の隙間に挟まっていた紙片だ。几帳面に、文字を読み上げた。
「『決して開けるな。頭部を完全に破壊すること』」
アレクはニコを見た。
「破壊した」
「はい」
「それでいい」
五人は村の出口まで歩いた。ゆっくりと。急ぐ理由はもうなかった。
あちこちで村人たちが目を覚ましている。声が聞こえる。子供の泣き声。誰かを呼ぶ声。戸惑いと安堵が混じった、人の声。村に音が戻っていた。
ベルンが村の端で立ち止まった。
「わしはここに残りますじゃ」
「ベルンさん」
「石になった人たちが目を覚ましたら、話を聞かせてやらねばならん。怖い思いをしたろうから」
マルガとリアがベルンに深く頭を下げた。リアは手に鏡を握ったままだった。
「大げさじゃよ」
ベルンは片手を振った。それから、杖をついて村のほうへ歩き出した。迷いのない歩幅で。
――
村の外に出た。
道が丘と草地に続いている。朝の風が吹き、草が波のように揺れた。空は高く、雲がゆっくり東へ流れていた。
「……一緒に行くわよ」
エルフ語だった。フィーアがアレクの肩に降りてきた。透明な羽根をたたみ、襟元に腰を下ろす。
「好きにしていいよ」
「最初からそのつもりよ」
アレクは前を向いて歩き出した。丘の道はなだらかに西へ続いている。カルロが先頭、サーラが二番手。ニコが手帳に何かを書きながら歩き、ダンが最後尾を守っている。来たときと同じ隊列だった。
風が草を揺らし、道は続いていた。
* * *
その日の夕方。
宿場町の食堂は旅人で賑わっていた。木の卓を囲む男たちの声、麦酒のジョッキがぶつかる音、竈の火が爆ぜる音。
隅の席に、楽器を背負った女が座っていた。
旅人のあいだで奇妙な話が広まっていた。ガルデ村が石になった。盲目の老人がいた。母と娘がいた。若い冒険者が怪物の首を切った。老人が杖で首を砕いた。石が解けて村が目を覚ました。
女は林檎酒のコップを置いた。
腰の袋から羽根ペンを取り出し、手帳を開いた。
面白い話だ。
女は白い紙に、最初の一文字を書き始めた。




