黎明の誓いと、琥珀色のスープ
東の空が白み始め、迷宮市場に朝の気配が忍び寄る頃。
地下特有の湿った冷気が、夜明け前の霧となって石畳を這っていた。
レインたちは人目を避けるようにして、路地裏の影を縫いながら屋台『真実の匙』へと戻ってきた。
誰も口を聞かなかった。
沈黙は鉛のように重いが、それは敗北による絶望ではない。あまりにも巨大な真実を目の当たりにし、各々がその意味を噛み砕くために必要な、儀式のような静寂だった。
屋台のボロボロの椅子にシルヴィアがドサリと腰を下ろし、セオがカウンターに突っ伏して長い溜息をつく。レインは無言で上着を脱ぎ、竈に残っていた種火に新しい薪をくべた。
パチパチと薪が爆ぜる乾いた音だけが、張り詰めた静寂を少しずつ埋めていく。
「……信じられん」
最初に口を開いたのは、シルヴィアだった。
彼女は重い兜を外し、カウンターに置く。汗ばんだ銀髪を手櫛でかき上げるその指先は、悔しさからか微かに震えていた。
「一級鑑定士といえば、国家公務員と同等の権限を持つエリートだ。彼らの署名一つで、商品の価値が決まり、市場の流通が左右される。……本来なら、市場の健全性を守る最後の砦であるはずの彼らが、まさか毒の流通に関与していたとは」
シルヴィアの声には、騎士としての誇りを傷つけられた怒りと、信じていた体制への失望が滲んでいた。
「しかも、ただの見過ごしじゃない。積極的に『新商品』の開発に関わってる口ぶりだった」
セオが眼鏡を外し、白衣の裾で丁寧に拭きながら補足する。その表情からは、いつもの飄々とした色が消え、科学者としての冷徹な怒りが浮かんでいた。
「あの倉庫にあった量、そして『実験』という言葉……。奴らはこの市場を、巨大な人体実験場にするつもりだよ。魔薬の臨床データを取るには、身寄りのない冒険者や貧民はうってつけだからね。……中毒性、副作用、致死量。それらのデータを集め、より『効率的に』依存させる薬を作るつもりだ」
その言葉に、レインの手が一瞬止まった。
人体実験。
脳裏に浮かぶのは、リズの悲痛な叫びと、血を吐いて倒れたという仲間の姿。そして、市場で虚ろな目をして毒入りの食品を貪っていた人々の顔。
かつてレインが憧れ、目指した鑑定士の姿は、人々の命と笑顔を守るための「真実の守り手」だったはずだ。それが今や、最も悪質な加害者となり果てている。
知識と権威を悪用し、弱者を食い物にする。それはレインが最も許せない「料理への冒涜」と同じ、いや、それ以上に醜悪な行為だった。
「……腐ってやがる」
レインは吐き捨てるように言った。
怒りが腹の底でどす黒い炎となって渦巻いている。拳を握り締めすぎて、爪が掌に食い込むのを感じた。だが、その怒りをそのまま吐き出せば、冷静さを失い、奴らの思う壺になるだけだ。
戦うためには、熱い心と、冷たい頭が必要だ。
レインは深く息を吸い込み、竈の火を見つめた。
揺らめく炎が、彼の瞳に宿る理性の光を呼び覚ます。
「……腹が減っては戦ができん。まずは温かいものでも腹に入れよう。徹夜明けの身体には、燃料が必要だ」
レインが取り出したのは、昨日仕入れておいた『黄金玉葱』と、少し硬くなったフランスパン、そして『牛魔』の骨から取った濃厚なブイヨンだ。
手慣れた手つきで玉葱を極薄にスライスしていく。トントントントン、と軽快な包丁の音が、重苦しい空気を切り裂いていく。
熱したフライパンにバターを溶かし、大量の玉葱を投入する。
最初は強火で、水分が飛んだら弱火でじっくりと。
焦げる寸前、玉葱がキャラメル色に輝き、甘い香りが立ち上るまで、レインは無心で木べらを動かし続けた。
この単純作業が、乱れた心を整えてくれる。
十分に炒めた玉葱にブイヨンを注ぐと、ジュワァッという音と共に、芳醇で香ばしい香りが屋台いっぱいに広がった。それは張り詰めていた神経を優しく解きほぐす、母の愛のような香りだ。
耐熱の器にスープを注ぎ、一口大にカットして軽く炙ったパンを浮かべ、その上から『大山羊』のチーズをたっぷりと乗せる。
それを、熾火の整ったオーブンへ。
数分後。
チーズがぐつぐつと沸き立ち、香ばしい焦げ目がついた頃合いを見計らって、レインは器を取り出した。
「お待ちどう。レイン特製『オニオングラタンスープ』だ」
コトッ、と音を立てて置かれた器からは、チーズが焦げた暴力的なまでに食欲をそそる香りと、玉葱の甘い湯気が立ち上っていた。
「……いただきます」
シルヴィアがおずおずとスプーンを入れる。
スプーンの背で表面のチーズを割ると、中から琥珀色のスープが溢れ出す。トロトロに溶けたチーズと、スープを吸ってずっしりと重くなったパンが絡み合い、熱々のまま持ち上がる。
ふうふう、と息を吹きかけ、それを口に運んだ瞬間。
シルヴィアの蒼い瞳が、大きく見開かれた。
「んっ……!」
熱い。けれど、それ以上に優しい。
極限まで炒め抜かれた玉葱の凝縮された甘みと、牛骨の力強い旨味。それらがチーズの濃厚な塩気と混ざり合い、冷え切った身体の芯まで染み渡っていく。
徹夜の疲れと、真実を知ったショックで凍りついていた心が、ゆっくりと溶かされていく感覚。
「……美味しい。なんて、優しい味なんだ……」
シルヴィアの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
彼女は慌てて指先で拭ったが、その表情は憑き物が落ちたように穏やかだった。
「レイン、君は魔法使いか? ただのスープなのに、飲むだけで勇気が湧いてくる」
「料理は魔法だよ。命を頂き、命を繋ぐ魔法だ。……毒なんかとは、真逆のな」
レインもまた、自身のスープを啜りながら呟いた。
そうだ。俺たちの武器はこれだ。
奴らが毒で命を弄ぶなら、俺たちは料理で命を支える。その対比こそが、俺たちの正義だ。
「はふっ、あふっ! んまーい! 脳細胞が喜んでるよ!」
隣ではセオが猫舌と格闘しながら、猛烈な勢いでスープを平らげていた。
「この玉葱のメイラード反応……完璧な計算だ。精神安定作用のあるハーブも少し入ってるね? さすがレイン君、抜け目がない」
三人は無言でスープを啜り、パンを齧り、腹を満たした。
器が空になる頃には、窓の外はすっかり明るくなっていた。身体は温まったが、これからの作戦会議には、もっと冴えた頭が必要だ。
「さて……腹は満ちたが、脳味噌のほうはまだ寝ぼけてるな」
レインは空になった器を下げると、棚の奥から小さな麻袋と、厳重に封をされた木箱を取り出した。
「デザートといこう。これからの話には、糖分とカフェインが必須だ」
レインが取り出したのは、漆黒の豆と、ゴツゴツした茶色い塊だった。
豆の方は『覚醒豆』。魔力を含んでおり、覚醒作用が強い。
そして茶色い塊は、『黒カカオの実』を発酵・乾燥させ、すり潰して固めたカカオマスだ。
「まずは目を覚ますか」
レインは手挽きのミルに豆を入れ、ガリガリと回し始めた。
硬い豆が砕ける感触と、豊潤で香ばしい香りが漂い始める。それは深煎りの豆特有の、焦げたような、それでいて甘い、大人の香りだ。
挽きたての粉をドリッパーにセットし、少し冷ました湯を注ぐ。
ポタ、ポタ……。
蒸らしの時間を経て、黒い雫がサーバーへと落ちていく。立ち上る湯気は、市場の朝霧よりも濃く、深く、三人の鼻孔をくすぐった。
「いい香りだ……。泥のような眠気が吹き飛ぶようだ」
「だろう? こいつは『夜の守り人』って呼ばれる最高級品だ」
レインはコーヒーを抽出する傍らで、別の鍋で生クリームを温め始めた。
沸騰直前で火を止め、刻んだカカオマスと少量のバター、そして隠し味のブランデーを投入する。
ゆっくりと、空気を抱き込ませないように混ぜ合わせる。
ゴツゴツしていた塊が、熱によって艶やかな黒い液体へと変わっていく。
乳化。
水分と油分が奇跡的なバランスで融合し、滑らかなガナッシュが生まれる瞬間だ。
レインはそれを一口大に冷やし固める時間はなかったため、とろりとした状態のまま小さな陶器のカップに注ぎ、仕上げに純白の粉糖を雪のように振った。
「『ホット・生チョコレート』だ。スプーンですくって舐めてくれ。……それと、淹れたてのコーヒーだ」
レインは湯気の立つコーヒーカップと、濃厚なチョコが入った器を二人の前に差し出した。
シルヴィアは、目の前の黒い甘露に釘付けになっていた。
「こ、これは……なんという艶めかしさだ……」
彼女は震える手でスプーンを取り、チョコをすくう。
口に含んだ瞬間。
シルヴィアの肩がビクリと跳ねた。
「んぅ……ッ!」
濃厚。あまりにも濃厚なカカオの香りが口いっぱいに爆発し、次の瞬間には体温で瞬時に溶けて、喉の奥へと滑り込んでいく。
強烈な甘さとほろ苦さ、そしてブランデーの芳醇な香り。
脳の血管が一気に開き、至福の信号が全身を駆け巡る。
「あま……とろける……。これは、ダメだ。騎士としてダメになってしまう……」
シルヴィアは頬を紅潮させ、うっとりと目を細めた。その表情は、どんな宝石を見た時よりも幸せそうだ。
すかさず、ブラックコーヒーを一口。
キリッとした苦味が、口の中に残った甘さを洗い流し、鮮烈なコントラストを生み出す。
「苦い、けど美味い! この甘さと苦さの往復……永遠に続けられるぞ!」
「脳への糖分補給効率が異常に高いね。テオブロミンとカフェインの相乗効果か……。これなら三日三晩の徹夜計算も余裕だ」
セオもまた、高速でスプーンを動かしながら絶賛した。
レイン自身もコーヒーを煽り、カフェインが血液に乗って全身を巡るのを感じた。
視界がクリアになり、思考の霧が晴れていく。
「よし。……目が覚めたところで、作戦会議と行こうか」
レインは空になったカップを置き、鋭い眼光を取り戻した。
「ターゲットは三日後。『灰色倉庫』への次の搬入だ」
「セオの話では、そこで『新商品』の実験データか何かの受け渡しが行われる可能性がある」
シルヴィアが未練がましくチョコの器を舐め……コホン、と咳払いをして騎士の顔に戻り、地図をテーブルに広げる。
「敵はヴォルク商会の私兵団およそ二十名と、ギルドから派遣された護衛。かなりの戦力差があるが……」
「正面突破はしない。俺たちの目的は殲滅じゃない。『証拠の確保』だ」
レインは地図上の一点を指差した。
「一つ、毒入り素材の現物。一つ、ギルドとの癒着を示す帳簿や契約書。そして、可能なら一級鑑定士の顔と名前を白日の元に晒す」
「証拠さえあれば、私が騎士団と王宮に直接告発できる。父であるランカスター公爵の名を使ってもいい。だが、確実な物証がなければ握りつぶされる」
シルヴィアの言葉に、セオが手を挙げた。
「物理的な証拠確保なら、僕に任せてよ。新作の『映像記録水晶』がある。音声と映像を同時に記録できる優れものさ。……まあ、まだ熱暴走して爆発しない保証はないけど」
「爆発は困るが、記録は頼む。……シルヴィアは、万が一の時の戦闘と、脱出ルートの確保だ。あの迷宮のような倉庫街で、俺たちが逃げ切るにはあんたの剣が必要だ」
「承知した。私の剣に誓って、君たちには指一本触れさせない」
役割は決まった。
レインは鑑定眼で真実を見抜き、セオはそれを記録し、シルヴィアが道を切り開く。
これ以上ない、完璧な布陣だ。
「……ねえ、レイン」
不意に、シルヴィアが真剣な眼差しでレインを見つめた。
その瞳は、コーヒーの湯気越しに揺れている。
「怖くはないか? 相手は君がかつて所属していた組織だ。それを敵に回すということは、君の過去そのものと戦うことでもある。……もし失敗すれば、今度こそ君はこの国にいられなくなるかもしれない」
レインはカップの底に残った黒い澱を見つめた。
怖いか。
かつて、権力に押しつぶされ、声を上げることもできずに追放されたあの日。あの時の無力感と恐怖は、今も心の奥底にこびりついている。
「……怖くないと言えば嘘になる」
レインは素直に認めた。
だが、彼は顔を上げ、竈の残り火を見つめ、静かに、けれど力強く答えた。
「だが、俺はもう『無能』と呼ばれて逃げ出したあの頃の俺じゃない。……この屋台で、本物の料理を作って、客が美味いと言って笑ってくれる。リズが、あんたが、俺の料理で笑顔になってくれる。……それを守るためなら、俺はどんな巨大な敵とも戦える」
その言葉に、シルヴィアは眩しいものを見るように微笑んだ。それは、甘いチョコレートを食べた時よりも、もっと深く、柔らかな笑みだった。
セオもまた、感心したように口笛を吹く。
「決まりだね。……じゃあ、僕はラボに戻って準備を進めるよ。三日後、最高のショーを見せてやろう」
「私も一度屋敷に戻り、根回しをしておく。……レイン、無理はするなよ。あと、その……作戦が終わったら、またあのチョコを作ってくれ」
二人が立ち上がり、店を出て行く。
朝の光が市場に満ち、外からは少しずつ活気のある物音が聞こえ始めていた。
レインは一人、残った食器を洗いながら、窓の外を見下ろした。
三日後。
それが全ての決着の日だ。
王都の食を、そして未来を守るため、追放された料理人の最後の戦いが始まろうとしていた。
「……待っていろよ、リズ。そして、毒を食わされた全ての人たち」
レインは洗い終えた皿を棚に戻すと、師匠の形見の包丁を研ぎ始めた。
シャリ、シャリ、と澄んだ音が店内に響く。
その音は、まるで戦場へと赴く戦士が剣を磨く音のように、静かで、鋭い決意に満ちていた。
琥珀色のスープと、黒き甘露がくれた力が、彼の背中を押していた。




