紅蓮の証拠と、凍てつく煙
「……上等だ。まとめて料理してやるよ」
レインの啖呵が、張り詰めた空気を切り裂いた。
だが、その言葉とは裏腹に、状況は絶望的だった。
前方には魔導杖を構えたギルド監査官、バロウズ。
後方には正体不明の銀仮面の男と、無機質な殺意を放つ武装私兵団。
逃げ場のない完全包囲網の中で、レインは懐に入れた「裏帳簿」の感触を確かめるように胸元を押さえた。
「料理だと? ふん、生意気な口をきくようになったものだ、ドブネズミが」
バロウズが鼻で笑い、杖の先端に赤黒い魔力を収束させる。
かつてレインを無能と罵り、路頭に迷わせた男。その表情にあるのは、レイン個人への憎悪というよりも、自分の完璧なキャリアに泥を塗ろうとする「異物」を排除しようとする、事務的な冷酷さだった。
「貴様のその帳簿は、我がギルドの……いや、この国の食糧事情を支えるための必要悪だ。それを暴けば、市場は混乱し、多くの者が路頭に迷うぞ? 貴様のやっていることは、正義ごっこに過ぎん」
「必要悪だと?」
レインの琥珀色の瞳が、怒りで揺らめいた。
毒を盛り、人を実験台にし、それを「支えるため」と嘯く。その傲慢さが、何よりも許しがたかった。
「毒を食わせて維持する市場なら、一度壊れた方がマシだ。……俺は、俺の料理を食ってくれる客に、胸を張れない仕事はしない」
「ならば死ね。貴様の作った料理と共に、灰になれ」
バロウズが杖を振り上げようとした、その時。
「おやおや。会話が弾んでいるところ悪いのですが……時間が惜しいのですよ」
背後から、銀仮面の男の甘ったるい声が割り込んだ。
男は優雅な手つきで、懐から一つの革袋を取り出した。
レインの目が、その袋に見覚えがあることに気づく。
「……あれは!」
『死に火の粉』。
かつてレインの屋台を襲撃した実行犯が持っていた、燃焼を阻害する粉だ。
だが、男が取り出したのはそれだけではなかった。もう一方の手には、真っ赤に燃える小さな魔石が握られている。
「証拠隠滅には、やはり古典的な方法が一番だ。……不運な事故による火災。倉庫内の可燃性素材に引火し、全てが灰燼に帰す。悲しいことですねぇ」
男はクスクスと笑いながら、革袋の口を開け、中身を床にぶちまけた。
灰色の粉が舞う。
だが、その粉はレインが知っている「消火用」のものではなかった。粉が空気に触れた瞬間、パチパチと静電気のような火花を散らし始めたのだ。
「セオ、あれは!?」
「マズいよレイン君! あれは『死に火』の逆……『促進剤』を混ぜた『紅蓮粉』だ! 着火したら一瞬でこの倉庫ごと吹き飛ぶぞ!」
セオの悲鳴に近い分析が響く。
銀仮面の男は、躊躇いなく魔石を粉の山へと放り投げようとした。
自分たちもろとも吹き飛ぶ気か? いや、奴らには脱出の算段があるのか。どちらにせよ、このままでは証拠どころか命がない。
「させるかッ!」
動いたのは、シルヴィアだった。
疾風。
銀髪を流星のようにたなびかせ、彼女は床を蹴った。
魔石が放たれるよりも速く、彼女の白銀の剣が男の手首を狙って閃く。
「おっと」
銀仮面の男は、人間離れした反応速度で上半身を反らし、剣撃を回避した。
だが、その隙に魔石は手から滑り落ち、粉の山から外れた場所――木箱の隙間へと転がった。
「チッ、外したか」
「いいえ、十分です! シルヴィア、そのまま入り口を押さえてくれ! 奴らを逃がすな!」
レインが叫ぶ。
ここで奴らを逃せば、証拠隠滅のために外から火を放たれる可能性がある。
何より、この帳簿を持って脱出するためには、唯一の出口を確保しなければならない。
「承知した! ……誰一人、ここからは通さん!」
シルヴィアは身を翻し、重厚な鉄扉の前に仁王立ちになった。
逆手に構えた剣が、冷たい月光を浴びて輝く。
その姿は、まさに戦場に咲く一輪の白百合。美しく、そして触れれば斬れる、高潔なる騎士の姿そのものだった。
私兵団が数人がかりで襲いかかるが、彼女の剣域に入った瞬間、見えない壁に弾かれるように吹き飛ばされる。
「邪魔だ。……私の背後には、守るべき仲間がいる。貴様らのような外道に、その道は譲らん!」
一方、倉庫の中央では、別の戦いが始まっていた。
床にぶちまけられた『紅蓮粉』。
魔石の直撃は避けたものの、近くにあったランプの熱に反応し、不穏な煙を上げ始めている。いつ引火してもおかしくない。
「セオ! 火を止めろ! 何とかできるか!?」
「無茶言わないでよ! ……でも、やるしかないか!」
セオは鞄から手当たり次第にフラスコを取り出した。
「酸素遮断、吸熱反応、皮膜形成……ええい、全部混ぜちゃえ!」
彼は即席で調合した緑色のドロドロした液体を、粉の山に向かって勢いよく投げつけた。
ボシュゥゥゥ……!
液体が粉を覆い尽くし、ゼリー状の膜となって固まる。
立ち上りかけていた火花が、窒息したように消えた。
「ふぅ……なんとか抑え込んだよ。『難燃性スライム・コーティング』だ。でも、長くは持たない。強い衝撃を与えれば爆発する!」
危機は一時的に去った。
だが、銀仮面の男は、その様子を見て楽しげに肩を震わせた。
「ほう……面白い。私の粉を封じるとはね。だが、視界まで封じられるかな?」
男はローブの袖から、黒い球体を複数取り出した。
それを、レインたちの足元へと転がす。
「――闇に溺れなさい」
ポン、ポン、ポンッ!
軽い破裂音と共に、倉庫内が漆黒の闇に塗り潰された。
ただの煙ではない。光を吸収し、方向感覚を狂わせる魔法の煙幕だ。
視界がゼロになる。
自分の手のひらすら見えない完全な暗闇の中で、レインは「死」の気配が迫るのを感じた。
(来る……!)
レインは『異端の鑑定眼』を全開にした。
視覚が奪われても、彼の眼は「情報」を見る。
闇の中で蠢く、赤い殺意の波動。
右だ。
キンッ!
レインはとっさにナイフを振り上げ、迫りくる魔導杖の一撃を受け止めた。
火花が散り、一瞬だけバロウズの憎悪に歪んだ顔が浮かび上がる。
「なぜわかった!? この煙の中で!」
「あんたの殺気は……腐った肉みたいに臭うんだよ!」
レインはナイフを押し返し、バロウズの腹に蹴りを入れた。
だが、浅い。
バロウズは呻き声を上げながらも後退し、再び闇に溶け込む。
「帳簿だ……その帳簿さえ消せば……!」
バロウズの執念は、レインの命よりも、懐の帳簿に向けられていた。
混乱に乗じて奪い取る気だ。
さらに、背後からは銀仮面の男の気配も近づいてくる。
こちらは殺意が見えない。だからこそ怖い。無機質な、純粋な「処理」としての暴力。
「レイン、無事か!?」
扉の方からシルヴィアの声がする。
彼女もまた、闇の中で私兵団の相手をしているはずだ。金属音と悲鳴が絶え間なく響いている。
「ああ、なんとかな! だが、この煙が厄介だ!」
「僕の方もマズいよ! スライムの膜が、煙の成分と反応して劣化し始めてる! あと数分で爆発するかも!」
セオの悲鳴が重なる。
視界ゼロ、敵の強襲、そして時限爆弾のような火薬の山。
状況は最悪だ。
その時。
レインの『鑑定眼』が、闇の中に奇妙な「流れ」を捉えた。
銀仮面の男が投げた煙幕。その煙の粒子が、ある一点に向かって吸い寄せられている。
換気口か? いや、違う。
倉庫の天井付近にある、採光用の窓だ。あそこだけガラスが割れていて、外気が入り込んでいる。
(……風だ)
レインは叫んだ。
「シルヴィア! 扉を開けろ! 外の風を入れるんだ!」
「なっ!? しかし、それでは敵が逃げるぞ!」
「構わない! このままだと全滅だ! 風を通して煙を晴らすんだ!」
一瞬の躊躇。
だが、シルヴィアはレインを信じた。
「……承知した! 伏せろッ!」
シルヴィアが渾身の力で鉄扉を蹴り開けた。
ゴウッ! と音を立てて、夜明け前の冷たく強い風が倉庫内になだれ込んでくる。
気流が生まれ、充満していた黒煙が一気に渦を巻いて外へと吐き出されていく。
視界が晴れた。
そこにいたのは、レインの目の前で魔導杖を振りかぶっていたバロウズと、その背後で短剣を構えていた銀仮面の男。
「チッ、余計な真似を……!」
バロウズが舌打ちをし、杖を振り下ろす。
だが、視界が戻ればレインの独壇場だ。
彼は最小限の動きでそれを躱し、逆にバロウズの手首を掴んで捻り上げた。
「ぐあああっ!?」
「終わりだ、監査官殿。……あんたの鑑定ミスだ。俺をただの『無能』だと思って侮ったのが運の尽きだ」
レインはバロウズを地面にねじ伏せ、その喉元にナイフを突きつけた。
勝負あり。
だが、銀仮面の男は、それを見ても動じることなく、肩をすくめただけだった。
「やれやれ。……部下が無能だと苦労しますね」
男は指を鳴らした。
その瞬間、セオが抑え込んでいた『紅蓮粉』の山が、限界を迎えて赤く発光した。
「レイン君、逃げて! 爆発する!」
セオの絶叫。
レインはバロウズを蹴り飛ばし、シルヴィアとセオの元へ走った。
銀仮面の男は、崩れ落ちる木箱の陰に姿を消しながら、不気味な笑い声を残した。
「今日のところは譲りましょう。……ですが、その帳簿が貴方たちの命取りになることをお忘れなく」
直後。
轟音と共に、倉庫の中央が紅蓮の炎に包まれた。
爆風がレインたちの背中を叩く。
「走れぇぇぇッ!」
三人は炎の舌に舐められながら、命からがら倉庫の外へと飛び出した。
背後で、巨大な石造りの建物が炎に飲み込まれ、崩落していく。
夜明けの空を、どす黒い煙と赤い炎が焦がしていった。
レインは芝生の上に転がりながら、懐の帳簿を確かめた。
無事だ。
熱で少し端が焦げているが、中身は読める。
三人は荒い息をつきながら、燃え盛る倉庫を見上げた。
証拠は手に入れた。
だが、敵の親玉を取り逃がし、宣戦布告をしてしまった。
これでもう、後戻りはできない。
レインは煤だらけの顔を拭い、隣で同じく煤まみれになっている美しい騎士と、眼鏡の割れた錬金術師を見て、ニヤリと笑った。
「……さて。派手にやっちまったな」
戦いの狼煙は上がった。
次は、この証拠を持って、王都の中枢へと攻め込む番だ。




