#6 グロッタ伯爵家ー2(レイチェル視点)
___ヴィオラ・リドニクスは、聖女ですよ。
一瞬、張り詰める空気。息を吞む私。笑みは崩れ、目を見張ったお兄様。その口が開きかけて___。
「ぼ…
「公爵令嬢が聖女ってどういうことですかお嬢様⁉」
「ジュリアン……聞こえていたとしてもそこは我慢してくださいよ……」
お兄様の言葉を聞く前に扉がばたーんっ! と勢いよく開きジュリアンが私に詰め寄る。ジュリアンはきっと私がお兄様に対して怒らないか心配で扉に張り付いていたのだろう。
扉越しにずっと話を聞いていることも予想がついていたけれど、邪魔にならなければよいからそのままにしていた。ジュリアンをお兄様の隣に置いておくと勝手にフォローをしてしまうので、お兄様の本音を聞いてから中に入れようと考えていたのに。せめてお兄様の返答を聞くまでは大人しくしていてほしかったものだ。
「仕方ないでしょう! それを聞いて黙ってられる者はこの屋敷にはいませんよ⁉ 本当に聖女であるならっ」
「ジュリアン、落ち着け。……レイチェル、本当かい? ヴィオラ嬢が聖女であるというのは」
お兄様は、乱入してきたジュリアンを落ち着かせると尋ねる。ヴィオラ様が聖女であるということに半信半疑そうだ。嘘をついているようにも見えないその態度に少しだけ安堵してしまう。
「……間違いありません」
聖女。それはかつて、邪神の眷属たる魔族と女神の眷属である人間が同じ世界で暮らしていたころ、魔族の王たる魔王を倒すために女神が加護を与えた愛し子が始まりだ。聖女は人間を苦しめていた瘴気を浄化し勇者と共に魔王を倒すと、魔族を世界の外に追いやり世界を平穏に導いた。それ以降、数百年おきに彼女と同じ強大な浄化能力を持つ女性が生まれるのだ。聖女として生まれた者は皆、女神と同じ金と赤を容姿に持ち、国に大きな恩恵をもたらすと言われている。
「お兄様こそ、お兄様と長時間一緒に過ごしていられたのに平気なだけで特別な方だということはお気づきではなかったですか?」
「……そろそろヴィオラ嬢は離れた頃か。確かに彼女は耐性があるのかもとは思ったよ。だけどね」
お兄様が首元に手をやり、ネクタイを緩める。その瞬間、黒い霧状のものがお兄様の体から堰を切ったように溢れ出してくる。普通の人間が見れば卒倒してしまうに違いないようなおぞましいほどのそれはお兄様の魔力と混ざり合い、従うようにまとわりついている。
お兄様の私と同じ澄んだ湖のような蒼い瞳は、暗く濁り深海のような冷たい色合いに変化した。一度覗き込んだら戻ってこれない錯覚に陥るような深淵。お兄様はその昏い瞳をすぐに伏してしまう。
「彼女が聖女なら、僕がこれだけ溜め込んでいるこの大量の瘴気に気づかないはずがない。警戒されて距離を取られるのが普通だろう?」
お兄様が下を向き、少し投げやりな口調で言うことに、ジュリアンも続けて疑問を呈す。ぐっとこぶしを握って悔しそうにここにはいないかつての存在を睨みつける。
「俺もそこは気になりますね。あのご令嬢が本当に聖女であるなら、本能的に俺や若様への嫌悪を抱くはずです。……以前の聖女もそうであったように」
「いつの話をしているのですか、ジュリアン。あの頃と今では状況が違いますよ。お兄様はもう魔王ではありませんから聖女が忌避する理由がありません」
お兄様とジュリアンは、いや、この屋敷にいる者たちのほとんどは魔族の生まれ変わりだ。中でも、お兄様の前世の姿はかつて聖女に倒された魔王その人である。邪神の眷属は本来女神の眷属に生まれ変わることなんて不可能だけど、とある契約の結果人間として生まれ変わることを許された。
それでも女神は魔族の行いを許せずに、お兄様に魔王の持っていた能力と呪いを残した。そのうちの一つが瘴気を身に宿す力である。
瘴気というのは本来、邪神が生み出す魔族の力の源の一つだった。
女神が降臨する前にこの世界を支配していたのは邪神と魔族たちだった。魔族たちは弱肉強食、強いものが弱いものを虐げる価値観の中で他者の発する負の感情は瘴気となり魔族に力を与えた。
女神が人間を創り出した後、魔族は自身より弱い存在である人間を浚い痛めつけることで瘴気を発生させるようになった。女神は自身の子である天使たちに命じて人間を救い出したが、人間たちはちょっとしたことでも瘴気を生み出すようになってしまった。
瘴気は魔族にとっては力の源だが、それを無理やり引き出される人間にとっては苦痛の原因でもあり、生命を犯す危険でもある。体制がない人間に対して、負の感情が具現化された瘴気は更なる瘴気を呼び、そのうち不幸を呼び寄せるからだ。浄化しない限り瘴気が消えることは無いが、浄化能力を持つ人間はごくわずかである。
女神は、お兄様に人々の瘴気を引き寄せさせ他の人間を瘴気から守ろうとしているのだ。
かつて魔王に仕えた魔族の生まれ変わりたちはお兄様とは違い、魔族の頃の力は少ない。しかし、ただの人よりも瘴気に耐えうる肉体と瘴気を引き寄せる体質を与えられた。かつて魔族だった者たちの多くは平民としてこの時代に生まれ変わっているため、お兄様や私が探し出して保護をしているのだ。
「……態度は確かにそうかもしれない。けれど、それなら彼女の姿はどうなんだい? 彼女の瞳は確かにピンクゴールドで赤に近いけれど、髪はブラウンだろう?」
「別に聖女の容姿は絶対ではありませんが……ヴィオラ様に関しては髪を染めているだけでしょう」
「染める? わざわざ? 聖女の色を持っていれば婚約破棄なんてできやしないだろうになぜ隠しているんだ?」
「……お兄様がここに彼女を連れて来た理由を考えてください。恐らく身内に何らかの事情があるのではないですか?」
「確かに現公爵夫人の娘を妃にしたいなら、ヴィオラ嬢が聖女の色を持っていてはならないか」
私はお兄様の推論に軽くうなずく。公爵家内部の勢力図は分からないけれど、聖女どころか悪役令嬢とまで呼ばれるようになった理由に、例の義妹が関わっていないはずがない。政略の駒としては残しつつ、義妹よりも価値を上げることは無いようにコントロールされているのだろう。
「お兄様がヴィオラ様を連れて来たときは、聖女の事を利用しようとしているのかとも疑ったのですが、杞憂に終わったようで良かったです。彼女の力は恐らく誰かに阻害されている状態にありますから、気づかなかったとしても仕方がありません。私とミスティ以外は気付いていないでしょう」
「だから彼女をヴィオラ嬢に付けたのか」
「はい。ミスティなら余計なことは言いません。本人も気付いていないのならば、落ち着くまで黙っていた方が良いと思います」
「……分かった」
お兄様が神妙にうなずいたのを見て私は立ち上がり、部屋の外へ向かう。扉を開けてからお兄様に向かって笑顔で告げる。
「それでは、私もとりあえずすべきことをしたら休みます。お兄様も早めに休んでくださいね。ああ、そうだ最後に一つだけ」
___ヴィオラ嬢が気になるからって夜這いはしないでくださいね?
閉じた扉の向こう側でお兄様の顔が真っ赤になっていることを思い描きながら私は自室へ向かったのだった。




