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変身の朝(あした) その7

 「わたくしはヘレナ。トロイアの女王、ヘレナですわ」


花咲き乱れる、冥界の楽園エリュシュオンー。

そこで目覚めたシュナン少年は、ラピータ宮殿の門前で、石像となって死んだはずの自分が、いつのまにかこんな場所に送り込まれており、しかも一人の美しい少女が傍らに座っている事に気づき、花園の上に半身を起こすと、その顔に困惑の表情を浮かべます。

そして、花々が咲き乱れる草むらの上に、あぐらをかいて座り込んだ彼は、傍らで足を崩して座っている少女に向かって、ふと頭に浮かんだ疑問を問いかけます。


「トロイアのヘレナか・・・。どこかで聞いた気がするな。昔、師匠から聞いたような・・・。でも何故だろう、思い出せない」


そんな、いぶかしげな顔をする彼に対して、傍らに座る少女は、少し肩をすくめると、静かな口調で声を発します。


「あなたが、以前に聞いた事を、うまく思い出せないのは、多分さっきわたくしが、あの小川の水を、あなたの口元に、少し含ませたからですわ」


彼女はそう言うと、二人が座っている草地からは少し離れた場所を流れている、先ほど自分が、そこから葉っぱで水をすくって、少年の口元に含ませた、小川の方を指さします。


「あの小川は、この冥界の中央を流れるレーテ川と、源流でつながってますの。あの川の水を飲み続けると、生きていた時の事は、段々と忘れていくんですの。わたくしも生前の事は、ほとんど忘れてしまいましたわ。すごく大きな戦いがあって、それに巻き込まれて大変だった事は、何となく覚えていますけど」


ヘレナの言葉を受けて、その指差した先にある、せせらぐ小川の方を見やっていたシュナン少年は、やがて、草地であぐらをかいている身体の向きを、少し変えると、自分を隣からじっと見つめる、長い黒髪の美しい女性の前に、改めて座りなおします。

そして隣に座る彼女と共に、周囲に広がる雄大な楽園の景色をぐるりと眺めると、思わずその口から、感嘆の声を上げました。


「なんて、美しい場所なんだろう。この世のものとは、思えないー。まぁ、確かに、この世のものでは無いんだがー。いやっ、むしろ今は、この世ではなく、逆にあの世と、言うべきだろうかー。うーん、ややこしいな」


シュナン少年の、戸惑うような様子がおかしかったのか、トロイアのヘレナは、彼の隣でクスクスと笑いをもらします。


「あなたって、面白い人ですわね、シュナン。誰かと話して笑ったのって、本当に久しぶりですわ」


そして彼女は、シュナン少年の隣で、草地に足を崩して座りながら、しみじみとした口調で言いました。


「ここは、本当に美しい場所ですけれど、またとても寂しい場所でもありますわ。他の人と会うことが、すごく少ないんですの。わたくしも、ここに来てから、ずいぶん経ちますけれどもー。他の人間に会ったのは、あなたを含めて。ほんの数人ぐらいですわ」


楽園の景色を眺めながら、しみじみとそう言う、ヘレナの言葉を聞いたシュナン少年は、自分も彼女の隣で草の上に座りながら、周囲に広がるエリュシュオンの情景を、もう一度見つめ直します。

確かに、何度、見直しても、信じられないほど美しい場所でした。

しかし、ヘレナの先ほどの言葉を聞いたシュナン少年には、彼女の指摘通り、なんだか一抹の寂しさを漂わせる場所にも、感じられるのでした。

この楽園では、お腹が空く事は無く、従って、子供の頃の自分のように、ひもじさで、惨めに苦しむ事はありません。

また、気候や環境も安定しており、寒さでこごえる事も、不慮の災害に見舞われる事もありません。

ましてや、人口が極端に少ないこの場所では、人間同士の争いが起こる事だって、もちろんありません。

ただ、何かが決定的に足りないー。

どこまでも続く永遠の楽園の景色を、隣に座る美女ヘレナと共に眺めつつ、シュナン少年はそんな風に、心の中で思っていました。

そうしてしばらくの間、ヘレナと並んで草地の上に座り、周囲に広がる遠大な景色に見入っていたシュナン少年ですが、やがて彼は、その見つめていた風景の一部に、異常な事態が起こっている事に気づきます。

なんと、彼の見つめていた、異世界エリュシュオンの風景の一部に、ガラスがひび割れたみたいに亀裂が走ったかと思うと、空間上に黒々とした穴が、ポッカリと空いたのです。

更に、彼が良く目を凝らすと、宙空に突如として出現した、その黒々とした穴の中は、トンネル状になっており、長い長い通路が、どこまでも奥に、延びているように見えたのです。

一瞬、シュナン少年は、自分の目の錯覚かと思いましたが、もう一度見直しても、やはり空間がひび割れて黒い穴が空き、その奥が、トンネルのようになっているのが見て取れます。

驚いたシュナン少年は、その身を起こして、座り込んでいた草地の上にスクッと立ち上がると、空間にポカリと空いた穴を指差しながら、隣にいるヘレナに向かって尋ねます。


「あれは何だい、ヘレナ?まるで空間自体に、亀裂が走って、穴が空いてるみたいに見える」


草地の上に立ち上がった、少年の隣に座り込んでいる美女ヘレナも、大きく目を見開いて、驚きの声を上げます。


「わ、分かりませんわっ!あんなの、初めて見ます!異空間への、ゲートみたいですけどー。まさか、現世への通路?きっと、冥皇ハーデス様の御業ですわっ!!」


隣にいるヘレナの切迫した声を聞いた、草地の上に立つシュナン少年は、自分たちの前に広がる風景の中に、忽然として出現した、その黒い穴をじっと凝視していました。

しかしやがて彼は、その風景の中に突如として空いた、黒々とした穴の奥から、微かに何かの音が、聞こえてくる事に気付きます。

常人離れした聴力を持つシュナン少年は、その風景の中に空いたトンネル状の穴の奥から、響いて来る声を聞き取ろうと、耳を澄まします。

するとー。


「ーナン・・・シュナン・・・」


なんと彼の耳に、レーテの水を飲んだにも関わらず、しっかりと脳裏に刻まれている、良く聞き覚えのある女性の声が、微かに響いて来たのです。

それは間違いなく、彼の恋人である、ラーナ・メデューサの声でした。


「あ、あの声は・・・メ・・・メデューサ!!」


シュナン少年は、風景の中に突如として出現した、黒々とした穴の奥の方から、メデューサの声が聞こえてくる事に気付くと、その端正な顔に、驚愕の表情を浮かべます。

そして彼は、その穴の近くまで行くために、自分が今立っている草地から歩き出すと、そちらの方に向かって、急いで移動し始めます。

一方、隣に座るトロイアのヘレナは、冥界の楽園であるエリュシュオンに、現世への通路が突如として現れるという、今までに無い異常事態に心底から驚き、その顔を、強張らせていました。

しかし自分の傍らで、草地の上に立っていたシュナン少年が、そこを離れて、側を流れる川向こうに広がる青空の中にポカリと浮かぶ、黒い穴に向かって歩き出したのに気付くと、あわてて背後から声をかけて、彼を引き止めようとします。


「お待ちなさい、シュナン。行っては、駄目ですわ」


去りゆく彼の背後で、草地に座り込みながら、懸命に手を伸ばす、トロイアのヘレナ。


「現世に、戻ってはいけないわ、シュナン。きっとまた、辛い目に遭うに、決まってますわ。それより、わたしとここで、いつまでも、楽しく平穏に過ごしましょう」


すると、ヘレナの声が届いたのか、シュナン少年は、目の前に広がる風景のただ中に、ポカリと空いた、その現世へとつながる、トンネル状の黒い穴へと歩む足を、ピタリと止めました。

そして、背後で草むらの上に座り込みながら、自分の背中に向かって手を伸ばす、ヘレナに対し、前を向いた姿勢のまま、静かな声で告げました。


「ありがとう、ヘレナ。でも、それでも僕は、やっぱり行くよ」


それからシュナン少年は、肩越しに一度だけ、後ろを振り返ると、背後の草地にうずくまるヘレナに向かい、ニッコリと笑いかけます。


「だって、大好きな人が、僕を、待っているからー」


シュナン少年の背後で、草地の上にうずくまるトロイアのヘレナは、輝くような笑顔と共に発せられた、その言葉を聞くと、彼をこの地に引き止めるために挙げていた片手を、静かに地面に下ろしました。

そして彼女が背後から見守る中、シュナン少年はまたくるりと前を向き、もう二度と後ろを振り向く事も無く、再び、その歩みを進めます。

彼は、先ごろ自分が目覚めた、草場の付近を緩やかに流れる小川の浅瀬を、水しぶきを立てながら、急いで渡ります。

それから、その先に広がる花園の風景の中にポカリと浮かんだ、黒い穴の近くにまでたどり着くと、奥がトンネル状になった穴の中に、ためらう事無く足を踏み入れます。

そんな彼の様子を、永遠の園に住む少女トロイアのヘレナは、川を挟んで少し距離をとった草場の上に、その身をうずめながら、遠目からずっと見守っていました。

やがて、トロイアのヘレナに見送られながら、永遠の楽園に突然現れ、今またそれに背を向けて、現世へと戻って行く、シュナン少年の後ろ姿は、空間上に出現したゲートの奥へと、静かに消えて行きます。

そして彼の姿が、黒いトンネル状の穴の奥に消え、更に、その空間に空いたゲート自体も、役目を終えて消失すると、ヘレナはすっかり元どおりに戻った、楽園の景色を眺めながら、花咲く草地の上に静かに身をうずめ、少し悲しそうに言いました。


「やれやれ、また、寂しくなりますわね」


そう呟いたヘレナは、楽園の花園に横たえた身体をくるりと仰向けにすると、再び眠りにつくためか、その双眸をゆっくりと閉じました。

天には花びらが舞い散り、地には花々が咲き乱れる、永遠の楽園エリュシュオンの一角でただ一人、花園のベッドに身を委ね、その上でゆったりと微睡みながらー。


[続く]


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