#9 恋人のワルツ
しばらくして戻ってきた二人の表情は、セシルの予想通りだった。
赤く染まったジェラールの顔、そして恥ずかしそうな微笑みを浮かべるアリシア。
ああ、やっぱり。
物語に出てくる『バルコニーの語らい』は本当だったのだ。
そのまま手を取り合って、二人はゆっくりとサフィールのもとへ歩み寄っていく。
婚約の許可を求める、そのための挨拶だった。
セシルは少し離れた席から、その様子をぼんやりと見つめていた。
ふと視線を感じて振り向くと、立会人として傍に立つバスチアンと目が合う。
あの赤い瞳が、ほんのわずかに陰りを帯びて、セシルを気遣うように揺れていた。
大丈夫よ。私は、この二人の幸せを邪魔したりはしないわ。
小さく微笑みを返してから、セシルは静かに視線を逸らした
見慣れた婚約の許可の儀式を、これ以上見ていたいとは思わなかった。
楽しそうに踊る人々。
恋人たちや、夫婦。新たな出会いを求める者たち。
その輪の中に自分が加わったことは、これまで一度もなかった。
今夜こそは違うかもしれないと、ほんの少しだけ……いいえ、本当は、とても強く期待していた。
だからこそ、こうして独りで座っている自分が、情けなく思えてしまう。
あとはもう、時間の過ぎるのを待って、適当なところでひっそりと退出するだけだ。
セシルはそっと運ばれてきたワインを飲み干し、チョコレートをひとつ口に含む。
……少しだけ、心がほぐれた。
セシルはチョコレートが好きなのだ。
もうひとつ、と手を伸ばしたそのとき、不意に声がかかった。
「王女殿下。踊っていただけますか?」
はっと顔を上げると、目の前に立っていたのは近衛騎士のクリストファー・ロセアン卿。
彼は片膝をつき、まるで物語の一場面のように、優雅に手を差し出していた。
「あら……ロセアン卿。今夜は警備ではなくて?」
驚きを滲ませて尋ねると、彼は晴れやかな微笑みで応じた。
「王女殿下を誰よりも近くから警護いたします。」
その言葉に、セシルはつい微笑みを返していた。
自分がいつまでも沈んだ顔でいては、場の空気を濁してしまう。
ロセアン卿の気遣いに感謝しながら、彼の手を取って立ち上がる。
ふたりが歩む先は自然と開き、ゆっくりと舞踏の場へと進んでいく。
互いに一礼を交わし、ロセアン卿が優しくセシルの手を引いた……その、まさに瞬間だった。
「クリストファー、控室でトラブルが起きているようだ。」
静かに響いた深い声に、場の空気がふっと変わる。
割って入ってきたのは……バスチアン・フレアベリーだった。
その表情には、いつもの穏やかさとは異なる、真剣な色が浮かんでいた。
「すぐに確認に行った方がいいんじゃないか?」
ロセアン卿は目を見開き、セシルの手を握ったまま動きを止める。
踊る寸前だったのだ、逡巡があって当然だった。
だが、バスチアンの手がそっと伸び、やわらかくロセアン卿の手を外す。
そのまま、セシルの手を自分の手の中に受け取っていた。
「王女殿下。私と踊っていただけますか?」
その声音は穏やかで、確かな温もりを帯びていた。
セシルが見上げた赤い瞳には、どこかすべてを包み込むような優しさがあった。
「え……ええ。もちろんよ。」
思わず頬が熱を帯びてゆく。
小さくうなずくと、バスチアンが静かに微笑んだ。
ロセアン卿はセシルから離れた自分の手を見つめ、それからセシルをもう一度見た。
その仕草には、若干の未練が滲んでいた。
しかし、彼はそれをすぐに消し去り、軽く礼をしてその場を去った。
その背を見送りながらも、セシルの身体は、自然とバスチアンに引き寄せられていた。
バスチアンの手がセシルの腰に滑り落ち、支える。
彼はセシルを優雅なワルツのリズムに乗せ、滑らかに踊り始めた。
「……ロセアン卿の助けは不要だと、申し上げたはずです。」
踊りながらバスチアンが低く囁いたその声は、耳元でささやかな旋律のように響いた。
その声がまるで肌に触れるような感覚に、セシルは微かに身じろぎする。
「もう来てくれないかと思って……。」
小さな吐息のような呟きに、バスチアンはわずかに笑みを浮かべて応えた。
「私が、王女殿下とのお約束をたがえたことがありましたか?」
その一言に、胸がきゅうと締めつけられる。
彼は何気なくそう言ったのかもしれない。
けれど、その言葉の裏にある確かさが、セシルには痛いほど伝わってきた。
「……いいえ。」
小さく呟いたセシルの声は、震えるように宙に溶けていった。
そう。彼はいつだって、セシルとの約束を守ってくれる。
どんなときも、どんな状況でも。
その手を信じていれば、間違いないと、セシルはずっと知っていた。
一曲目が終わると、ふたりは優雅に礼を交わす。
バスチアンは静かな微笑みを浮かべ、再びセシルの手を取ると、次の曲へと誘った。
……彼は本当に、約束を守ってくれるつもりなのだ。
そのことが、セシルの胸に温かく広がる。
セシルは胸が高鳴るのを感じながら彼を見上げ、もう一度バスチアンに手を預ける。
曲が始まる。
バスチアンの片脚が、セシルのドレスの陰にそっと滑り込む。
その微かな動きは、周囲には気づかれないほど慎み深いものだったが、セシルの中には明確な衝撃が走った。
「恋人としてのワルツを……ご所望ですね?」
低く柔らかな声が、耳元で甘く響く。
セシルは小さく息を呑み、こくりとうなずいた。
次のステップで、ふたりの体温が、わずかに触れ合う。
そのリードに抗えず、セシルの身体は自然と彼の腕の中に収まっていく。
彼の導きはあまりにも自然で、心地よくて――
セシルはまるで音楽そのものに溶け込むように、すべてを預けるしかなかった。
……ワルツが、こんなにも密着する踊りだったなんて。
バスチアンの肩に添えた自分の手が、手袋の内側でかすかに震える。
ステップを踏むたびに、彼の身体がドレス越しにセシルに触れる。
息が詰まりそうになるほどの距離感。
セシルは彼に導かれて、くるくるとホールを回る。
胸の鼓動は、曲のリズムよりも速く、跳ねるように打ち続けた。
彼と触れる場所から、体中へと熱が広がっていく。
口にしたのは、たった一杯のワイン。
それなのに、まるで全身がバスチアンに酔わされているみたいだった。
次の曲、そしてその次の曲へと……。
踊り続ける間じゅう、バスチアンの瞳は、ずっとセシルだけを映していた。
周囲の視線も、囁かれる噂も、もう気にならない。
この瞬間、この空間にあるのは、彼と自分だけ。
ただ、それだけだった。
そして、バスチアンがふいに、低く囁く。
「王女殿下……後で、夜の庭園を散歩しませんか。」
優しく誘う眼差しに、セシルの胸は甘やかな期待で満たされていった。
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