#8 約束の王宮舞踏会
煌びやかな宮殿の大広間に、華やかな音楽が満ちていく。
水晶のシャンデリアが放つ光が、ドレスの刺繍や宝石に反射して揺らめき、舞踏会の始まりを待つ貴族たちの笑い声とともに空間を彩っていた。
幼い頃から幾度も目にしてきたはずの光景。
けれど今夜は、なぜか違って見えた。
セシルの胸の奥で、高鳴る鼓動が止まらない。
会場の端に立ち、従兄であるサフィール国王の登場を静かに待つ。
彼が開会の挨拶を述べ終えると、いよいよ最初の円舞曲が始まるのだ。
王族の一員として、最初のワルツで踊ることは当然のように求められる。
これまではその役目として、宰相や近衛騎士たちが儀礼的に手を差し伸べてくれた。
その優しさには心から感謝していた。
けれど、同時に……誰にも求められていないという冷たい孤独が、胸の底にじわりと染み込んでいた。
でも、今夜は違う。
セシルの指先がふるりと震える。
今夜は、彼がいる。
バスチアンが、ワルツを自分と踊ると、約束してくれたのだ。
それだけで、胸の奥がふわりと甘くほどけていく。
期待と緊張がせめぎ合い、じっとしていることすらもどかしい。
実際に二曲目、三曲目まで踊れるかはわからない。
けれど、最初の一曲を、彼が自分を迎えに来てくれる。
それだけで、今までの舞踏会と比べたら、何倍も……いいえ、何百倍も幸せだ。
彼が踊る姿は見たことがある。
妹のアリシアをエスコートしていたときのこと。
その動きは洗練され、流れるような美しさだった。
彼にリードされるアリシアの笑顔が、その瞬間の心地よさを物語っていた。
今夜、その手が自分を導く。
そう思うだけで、胸が甘く疼いた。
けれど、その期待は不意に揺らいだ。
サフィールが王妃を伴わずに現れた瞬間、胸の奥にざわめきが広がる。
「……王妃様は?」
セシルは、思わず問いかけていた。
サフィールは、あまりにも自然に、むしろ平然と答える。
「少し疲れがたまっているようでね。休ませることにしたよ。」
違う。そんなはずはない。
昼間、一緒にお茶を楽しんだ時の王妃は、いつもと変わらなかった。
衣装を嬉しそうに見せてくださり、舞踏会の準備に胸を躍らせていた。
その数時間後に突然、舞踏会を欠席するなどあり得ない。
セシルの視線が疑念をはらんだまま彼を見つめると、サフィールはわずかに視線を逸らした。
「少し無理をさせてしまったかな。」
そう呟きながらも、なぜか誇らしげに口元を歪める。
まるで、自分の行いを悪びれるどころか、どこか子供じみた得意げな響きが混じっていた。
やっぱり。
サフィールのわがままに周囲が振り回されるのは、いつものことだ。
けれど、今、問題は別のところにある。
国王としての最初のワルツの相手がいなくなった……それが何よりの問題だった。
この場において、彼が他の相手を選ばないわけにはいかない。
そして、その役を託されるのは……おそらくセシルなのだろう。
セシルは言葉を失い、視線をさまよわせた。
国王の誘いを断ることなど、できるはずがない。
広間の向こう側、視線の先に、彼がいた。
バスチアンが、静かにこちらを見ていた。
状況を正確に理解しているのだろう。
赤い瞳がほんの一瞬、まっすぐにセシルを捉えた。
そしてすぐに、彼は穏やかな微笑を浮かべ、小さく頷いた。
それは「心配しなくていい。」と優しく告げてくれているようだった。
セシルは唇を噛み、胸の奥がじんと痛んだ。
せっかく……せっかく、今夜は彼と踊れると、あんなにも楽しみにしていたのに。
彼が約束を守ろうとしてくれていたのに、守れなくなるのは、セシルの方だったなんて。
その特別なひとときを……こんな形で失わなければならないなんて。
サフィールは開会の挨拶を終えると、当然のようにセシルへと手を差し伸べてきた。
セシルは美しい微笑を作り、従兄に手を引かれて広間の中心へ向かう。
最初のワルツを踊るのは、王族として当然の務め。
いつものセシルなら、むしろ踊る相手を心配しなくていいだけ、気楽だと感じたかもしれない。
けれど、今夜はそれがどれほど悔しく、残念なことか。
サフィールには……決して理解できないだろう。
軽やかな音楽が流れはじめ、サフィールは優雅にリードしながら、気軽な口調で話しかけてきた。
「姫は今夜は少し機嫌が悪いかな。ジェラールと踊りたかったのかい?」
ジェラール?
セシルは一瞬、言葉を失った。
誰よりも聡明だと言われる従兄だが、こういう時の彼は本当に馬鹿なんじゃないか。
そう思わざるを得ない。
どうして、そんな発想にたどり着くのだろう。
ジェラールのことなど、今はどうでもいいのだ。
いいえ。
今この瞬間、ジェラールのことなど、これっぽっちも考えたくない。
セシルが今日踊りたいのは、バスチアンなのだ。
彼と分かち合うはずだった特別なひとときを、どうしても取り戻したい。
次の曲は?
それかその次の曲で……
いいえ、この舞踏会が終わるまでのどこかで、彼と踊れるだろうか?
でも、セシルが『公式に』踊ることを期待されているのは、この一曲目だけ。
それが終われば、貴族たちによる自由な踊りが始まる。
二曲目以降の方が、むしろバスチアンがセシルを誘う理由は薄くなる。
しかも、約束を破ったのはセシルの方だ。
バスチアンだって、他の令嬢に手を差し伸べるかもしれない。
そんな想像をするたびに、胸が締め付けられるように悲しくなる。
サフィールが何か話しかけていたが、もはやセシルの耳には届いていなかった。
焦燥と期待、そして不安が渦巻くなか、ただ時間が過ぎるのを待つしかなかった。
やがて曲が終わり、形式的な挨拶を交わして、セシルたちは踊りの輪から離れた。
セシルはそっと広間を振り返る。
そのとき、目に飛び込んできたのは……
ジェラールとアリシアが、二曲目を踊っている姿だった。
ジェラールがアリシアを見つめるその眼差しは、驚くほど柔らかく、溢れんばかりの愛情が宿っていた。
次の瞬間、彼はアリシアを軽々と持ち上げ、くるくると大きく旋回する。
アリシアの笑顔は幸せそのもの。
ドレスのスカートがふわりと広がり、まるで一輪の花が咲いたかのようだった。
そんなことをする人だったのね、ジェラールって。
これまで冷静で、実直な印象ばかりだった彼が、こんなふうに楽しそうに笑い、愛らしい女性を抱き上げている姿は、新鮮で。
少しは胸が痛むかと思っていたのに、そんなことはなかった。
セシルの心に湧いたのは、ショックでも悲しみでもなく……ただ、羨ましさだった。
彼らの笑顔が、あまりにも美しく、眩しかった。
そして……心の奥で何かが静かにほどけた。
結局のところ、セシルはジェラールを『愛する相手』として見ていたわけではなかったのだ。
少なくとも、今の彼とアリシアを見ていると、自然と祝福したくなる気持ちが溢れてくる。
やがて、ジェラールとアリシアは、連れ立ってバルコニーの奥へと姿を消していった。
その光景を目で追いながら、セシルはそっと目を細めた。
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