#62 思い出させてあげます
……ちょっと待って!
侯爵位を得たらセシルに申し込むと願っていたのではないの?
なぜそこに、違う令嬢の話が出てくるの?
セシルの喉が、からからに乾く。
「ねえバスチアン…………その方のこと、愛しているわけじゃないんでしょ?」
バスチアンは、まるで当たり前のことのように、気負いもなく言った。
「ええまあ、そうですね。そういう間柄ではありませんので。
しかし、このような条件では、お互いに友情を持っているだけでも十分です。
彼女なら、私の窮状を話せばきっと、助けてくれると思います。」
「窮状? 助ける……? だって……あなた、心を捧げた人が他にいるって……っ!」
「我々の立場での婚姻とはそういうものですから。」
「でも、そんなの、ルチア嬢にも失礼じゃない!」
「それは仕方ありませんが……。
結婚後は彼女を妻として慈しみ、心地よく過ごしてもらえるように努める所存です。」
「もういいわ! それ以上言わないで!」
セシルは震えながら、すっと立ち上がった。
怒りに震える指先が、テーブルの上のティーポットに伸びる。
「……王女殿下? いかがなさいましたか?」
それから木箱を開けると、ふわりとハーブティーの不思議な香りが立ち上った。
その香りを吸い込んだ瞬間……バスチアンとの数々の思い出が、まるで万華鏡のように脳裏に広がる。
初めて寄り添って踊った恋人たちのワルツ。
彼の眼差しに溺れた初めてのキス。
そして……彼と熱を分かち合ったあの時間。
すべてが鮮やかに蘇り、心臓を締めつける。
セシルが、『眠りの国』まで彼の魂を取り返しに行ったのは、彼をよその令嬢にあげるためなどではないのだ。
「バスチアン・フレアベリー。
いえ、もう……バスチアン・エールヴァンだったかしら?」
「……王女殿下?」
「いくら記憶がないからといって………ひどすぎるのではなくて?」
静かな声だった。
だがその言葉には、底なしの怒りが滲んでいた。
セシルは、無言のままティーポットに茶葉を入れ、湯を静かに注ぐ。
茶葉がゆっくりと開き、深まる宵闇の色に染まっていく。
セシルは、王妃から受け取った小瓶の蓋を開けた。
そして迷うことなく、ポットにドボドボとすべてを注ぎ込んだ。
一滴残らず。
それを、この上なく上品な所作で、二つのカップに注ぎ分ける。
そして、バスチアンの前にそのひとつを差し出した。
「さあ、お茶をどうぞ。」
バスチアンの視線が、不安げにカップへと落ちる。
そして、転がる空の聖水の瓶をちらりと見た。
この意味を、理解しているのね?
でも、もう遅いわ。
「……早くお飲みなさい!」
セシルの声には、王族らしい、逆らい難い強さがあった。
あなたの心が忘れたふりをしているすべての記憶を、いますぐ、わたくしが思い出させてあげるわ!
それでも躊躇うバスチアンに、セシルは追い打ちをかける。
「もしそれを飲まないなら、もう二度とわたくしの前に現れないでね。」
その言葉に、バスチアンが驚いてセシルを見つめ返す。
「絶対に、よ。今後、一生、あなたがわたくしの視界に入ることを許さないわ。」
……だって、他の令嬢と結婚してしまうバスチアンを見るなんて、そんなの辛すぎるじゃない。
口を引き結んだセシルを前に、バスチアンは観念したように、ゆっくりとカップを持ち上げた。
そして、一気にあおった。
セシルは、彼の喉がトクトクと動くのをじっと見つめる。
最後の一滴まで、逃がさない。
しっかりと飲み干したのを確認すると……
セシルは、自分のカップを手に取り、優雅に、躊躇いなく飲み干した。
温いはずの紅茶が、喉を焼くように流れていく。
だが、それ以上に熱いものが、内側からじわじわと身体を侵していく。
身体を焼き尽くしそうな怒りと焦燥。
その熱が、違う炎となって全身に広がる。
セシルは、その熱を楽しみながら、ゆっくりと、焦らすように……バスチアンの膝に身体を乗せた。
「わたくし、欲しいものは、自分で手に入れる主義なの。」
セシルは、そっとバスチアンの頬に指を滑らせた。
「そして一度手に入れたものは、簡単に手放したりなんかしないわ。」
その瞬間、彼の肩がわずかに強張る。
今までなら……。
何も言わずに、腕を引かれた。
抗う間もなく、唇を奪われた。
熱く、激しく、どうしようもないほどに。
けれど今の彼は、ただ深紅の瞳を見開き、まるで幻を見ているようにセシルを見つめている。
まるで、自分が触れてはいけないものに触れられたかのように。
逃げないで……。
今は、わたくしが導いてあげる。
「……ティアン。」
囁くように恋人としての名前で彼を呼ぶと、バスチアンの喉がひくりと動く。
セシルは、彼の首の後ろにそっと腕を回した。
この距離なら、もう離れられない。
バスチアンの指が微かに震えた。
それでも、触れた指先は微かに留まる。
セシルは、ゆっくりと瞼を伏せ、迷いなく唇を重ねた。
唇が触れ合った瞬間、心臓が跳ねた。
星が弾けるような、かすかな鈴の音が耳の奥で響いた気がした。
あの夜、エクリプスの夜空に散った星の残光のように、鮮やかに。
忘れられない熱が、唇から全身へと広がっていく。
バスチアンの呼吸が詰まり、両腕がためらいながらもセシルの背に回される。
セシルは、そっと唇をなぞる。
優しく、何度も、甘く。
思い出させるように、誘うように、舌先でゆっくりと触れる。
バスチアンの拳がぎゅっと握られ……やがてその唇はゆっくりと開かれていく。
いま、彼の中で、何かが目覚めようとしている。
セシルは深く息を吸い、さらに奥へと彼を迎え入れた。
もっと深く、もっと熱く。
バスチアンの喉から、かすれた息が漏れる。
次の瞬間、彼の手が強くセシルを抱き寄せた。
理性の最後の砦が、崩れる音が聞こえる……。
こんなふうに、今までに何度もキスをした。
何度も、何度も、互いを貪るように求め合った。
セシルは首の後ろで絡めていた腕をゆっくりと下ろし、その手を彼の身体に滑らせる。
布越しに伝わる彼の体温は、まるで炎のように熱い。
セシルは、吐息の合間で囁いた。
「ねえ……こうしたこと、本当に思い出せない?」
バスチアンの眼差しが揺れる。
困惑と欲望、理性と本能……。
触れた膝に、彼の体温が伝わる。
セシルは優しく、ゆるやかに確かめるように、触れる。
「っ……!」
バスチアンが息を呑む。
その表情には苦悩と快楽、そして……微かな覚醒が混じり合っていた。
セシルは、彼の唇を歯先で軽く噛み、耳元で囁く。
「……抗わなくてもいいのよ。」
そしてそっとそっと、優しく撫で続ける。
バスチアンの身体が跳ねる。
閉じた瞳の奥で、何かが弾けそうになっている。
たった数滴でよい聖水を、何倍もの量を一気に摂取したのだ。
身体が熱くてたまらないはず。
このまま熱をなだめなければ、気が狂ってしまう。
いや、聖水の効果など、もう関係ないのかもしれない。
これは、彼の本能が求める熱。
逃げることなど、もうできない。
バスチアンの呼吸が乱れ、ついに観念したように、両腕でぐっとセシルを押し離した。
けれど、その瞳は……まるで絡め取るように、セシルを見つめ続けている。
セシルが再び顔を近づけようとすると、バスチアンの睫毛が微かに震えた。
彼はひとつ、深く息を吸って……立ち上がった。
そしてセシルの身体を反転させ、攫うように後ろから抱きしめた。
「どうか……お許しください。」
彼は耳元で囁くと同時に、セシルの身体を優しく両手で包み込んだ。
ふたりの周りに、月乙女の吐息の花びらがはらりと舞い落ち、甘い香りが漂う。
見慣れた、保護の光が、広がりかける。
しかし、その瞬間、セシルの瞳が鋭く光り、彼の手を振り払った。
「必要ないわ!」
ピタリ、と時間が止まる。
黄金の光が、はらりと消えた。
ただ、静寂だけが残る。
バスチアンの指先が震える。
彼の瞳に浮かんだのは、絶望のような……抗えない焦燥だった。
「けれど……王女殿下も、このままではお辛いでしょう?」
彼の指先は震えながら、再び彼女の許可を求めるようにドレスの上に向かう。
流されてしまいたい。
彼の思い通りにしてあげたい。
けれど、その気持ちを押しとどめて、セシルは必死で光を避ける。
「いいの……あなたに責任を取ってもらうから。」
セシルの言葉が、静かに空気を凍らせる。
緩んだバスチアンの腕の中で、セシルは振り返った。
熱い吐息が重なる。
逃げ場を探すように、彼の視線が宙を彷徨う。
セシルは静かに、もう一度言った。
「だから保護はなくていいの。」
「どうか……これ以上困らせないでください。」
バスチアンの眼差しが震える。
「違うわ。」
セシルの喉の奥でかすれた喘ぎが漏れた。
一瞬の沈黙。
「ねえ、まだわからないの?」
セシルは微笑み、彼の唇にそっと指先を滑らせた。
「あなたが言うべき言葉は……それじゃないわ。」
ガイドラインを熟読しつつ……☆




