#61 王妃の温室で求婚してくれますか?
バスチアンが、侯爵になった!
それはつまり……セシルが降嫁するにふさわしい地位を手に入れたということ。
セシルは、高鳴る鼓動を片手で押さえながら、静かに廊下を歩いていた。
そのすぐ後ろを、バスチアンがついてくる。
彼のこれまでの功績から、もともと叙爵は十分にあり得る話だった。
しかし伯爵ではなく、いきなりの侯爵位。
それも、今余っている侯爵位を適当に与えられたわけではない。
サフィール自ら、新しい名を授けたのだ。
さらには領地まで。
つまり、これは、一代限りの爵位ではない、ということだ。
サフィールは「とりあえず」と言っていたが……それはきっとただの言葉の綾だろう。
一度授けた爵位を取り上げるなんてことは、よほどのことがなければありえない。
仮にそうだとしても、少なくとも今、この瞬間、バスチアンは侯爵なのだ。
これは、彼と結ばれるための、大きな一歩。
まだ、彼は、セシルとの『恋の教授』の日々を思い出していない。
けれど……あの最後の手紙を読む限り、それよりもずっと前から彼はセシルのことを想っていたはず。
ならば……。
きっと……この機会に結婚を申し込んでくるかもしれない。
……そうよね?
もしそうしてくれるなら、彼がこの数ヶ月のことを思い出せなくても構わない。
最初から全部やり直せばいいだけなのだから。
王妃の部屋を訪れ、温室の鍵と茶葉を受け取る。
王妃はいくつかの木箱から一つを選び、セシルに手渡した。
「頭がすっきりするお茶よ。
お湯とお菓子は運ばせておくわ。」
そう言ってから、王妃はもう一つの小箱を開けた。
そこから取り出したのは、見覚えのある薔薇色の硝子の小瓶。
それは、ペレル王宮司祭が祝福した『心を解き放つ聖水』。
一度試したことがある。
飲み物に数滴たらして、相手と一緒に飲めばいいだけなのだが…。
……すごい効き目だった。
聖水と称されているが……その効果は、媚薬そのものなのだから。
王妃は、セシルの耳元でそっと囁く。
「……使い方は、ご存知ね?」
セシルは、赤くなりながら、こくりと頷いた。
今日これを使わずに済むことを祈りながらも、念のため受け取る。
しかし……用意が良すぎる。
そして、そもそも王妃がなぜこれを持っているのか?
ちらりと見上げると、王妃がすっと視線を逸らした。
その頬が、ほんのりと赤く染まっている。
ええと……まさか……?
王妃は咳払いをひとつすると、いつもの穏やかな声で言った。
「もうテーブルの準備はできているわ。
だから……この鍵が戻るまで、温室には誰も近づかないようにしておくわね。」
*******
夕暮れの光が、ガラスを通して温室の中へ斜めに差し込む。
色とりどりの植物を透かし、光が万華鏡のように乱反射する。
そして、その輝きの奥には、見えざる魔力が密やかに息づいていた。
サフィールが即位した後、それまで宮殿内のあちこちに植えられていた毒草や薬草は、一か所に集められ、一括管理されることになった。
その多くは王立植物園へと移されたが、貴重な薬草の一部は、宮殿の奥にあった魔法の温室を整備して、その中に集められた。
その最終的な管理者が王妃なので、『王妃の温室』と呼ばれている。
奥まった場所には、上品なゴブラン織りのソファとティーテーブル。
王妃が言っていた通り、すでにお茶の準備は整えられていた。
温室内は、二人だけだった。
今は、月乙女の吐息が満開の季節。
夕陽を跳ね返すように、夜の訪れとともに、ひとつひとつ花を開き始める。
甘く、そして時に鋭く刺すような香りが幾重にも重なり、まるでこの空間自体が生きているかのようだった。
むせかえるほどの甘い香り。
ティータイムには遅すぎる時間。
そして、ティータイムにはふさわしくないほどの甘い空気。
この不思議な香りに囲まれていると、自分が自分でないような感覚がしはじめ、記憶が錯綜する。
もしかしたら、バスチアンが失った記憶も少しは蘇るかもしれない。
バスチアンが少し困惑した表情で、月乙女の吐息の花を見ている。
「何を考えているの?」
セシルがそっと尋ねる。
「ここに来たことがあるの?」
「はい。……実は王妃陛下から、私の妹の………その………見合いの席を……。」
バスチアンが気まずそうに、言い淀んだ。
「いいのよ。妹って……アリシア嬢よね?
そういえば、ジェラールとのお見合い、王妃様の温室だったのね。
それは……いろいろと……逃れられないわね。」
「ええ…………挨拶を交わすや否や……一瞬のうちに、ふたりは婚約しておりました。」
「でしょうね。」
セシルの言葉に、バスチアンが、困ったように眉を寄せた。
「その……申し訳ありません。」
「あら、もう謝らなくていいわ。」
セシルはにっこり微笑むと、背伸びをして月乙女の吐息の花を一輪摘み取った。
そして、バスチアンの顔の前にふわりと香りをなびかせる。
「わたくし、シャルトリューズ公爵と結婚するつもりはないもの。」
バスチアンの視線が花を揺らすセシルの指先を追いかける。
「……安心いたしました。王女殿下には、もっと良きご縁がたくさんおありかと存じます。」
聞き覚えのあるフレーズ。
セシルは懐かしくなってくすりと笑った。
「たくさんのご縁、なんていらないわ。
わたくし、たった一人の愛する人と縁を繋ぎたいだけよ。」
そう言ってじっとバスチアンの視線を捕える。
彼はその赤く輝く瞳の奥に、何か感情を揺らめかせながらセシルを見つめ返した。
しばらくの間、まるで勝負をしているかのように、どちらも視線を外そうとしなかった。
やがて視線を合わせたまま、彼が小さくつぶやいた。
「実は……あまりにも多くのことが起こってしまって……混乱しています。」
「……そうよね。」
「身に余ることですし……三カ月ですべてを準備するとなると……。」
「……ええ、急がなくてはいけないわね。」
「ええ……まあ……そうですね……。」
そしてやっとバスチアンがセシルから視線を外し、小さく吐息をついた。
……じれったい。
そういえば、バスチアンは見た目に反して慎重なタイプなのだ。
せっかくジェラールと妹の結婚の話題が出たというのに。
彼は何か考え込んでしまって、ちっともセシルに申し込んでくる気配がない。
セシルは、待つのをやめて、もう一歩踏み込むことにした。
「それじゃ……陛下が計らってくださるご縁……もちろん受けるわよね?」
もはや、王命でもなんでもいい。
結婚してしまえば、一緒に過ごす時間もぐっと増える。
そうすれば、前のような関係に戻れるかどうかはセシル次第なのだ。
大丈夫。きっとうまくいく。
「あっ…ああ……ふさわしき御令嬢を紹介いただくという……?
…………いえ。いえいえ……それはなりません。
陛下の御配慮はもったいないことですが、それゆえに、
その令嬢がこのご縁を嫌だとしても、断ることができなくなります。」
「ええっ!? そ、そんなことあるはずないわ!」
「えっ?」
「その人はきっと喜んで、あなたについて行くに決まってるわ!」
するとバスチアンが小さく、嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます。王女殿下にお認め頂けて大変光栄です。」
そしてじっとセシルを見つめた。
切なげな光が、その瞳に一瞬だけ揺らめく。
「……あたりまえじゃない。あなたはとても素敵よ。」
セシルは、こくん、と息を呑む。
そして彼の意思を引き込むように、話を続ける。
「だから、きっとよいお話だと思うのよ。
だって、ほかに……心に思う人がいるわけじゃないでしょ?」
説得するように言葉を重ねると、バスチアンが、もう一度、絞り出すように反論した。
「いえ! 私は……!」
それから、一度息を整えて、再び、感情が揺らめく眼差しでセシルを見つめて言った。
「………私の心は、ある方にすべて捧げております。」
あっ、ああ、そうよね。
セシルの頬に血が上り、鼓動が急に速まっていく。
もちろん、その『ある方』って……わたくしのことよね?
しかるべき爵位を得たら、伴侶に……。
あの『最後の手紙』には、そう書かれていた。
それなら……。
「じゃあ、その方に申し込めばよろしいわね?」
セシルは期待に胸を膨らませながら、バスチアンの次の言葉を待つ。
彼が自分から申し込んでくれようとしているのなら……そんなに素晴らしいことはない。
ソレイユどころか、世界中、いいえ……。
この世界の外でも、彼が行くならどこへでもついていくつもりだった。
だが……。
バスチアンは、セシルの熱のこもった視線を振り切るように、目を逸らした。
「ですが………まずは………知人の令嬢から当たってみようかと思います。」
「…………え?」
「事業の方で付き合いがある子爵家に、外国での生活が可能な令嬢がおりまして……。」
…………どういうこと……?
事業?
子爵家!?
それってまさか………
以前バスチアンの本命かもと噂されていた、あの令嬢では!?
確かクロエが調べてきたその名前は……。
「………まさか………それって………ルチア・ヴァレンシア子爵令嬢のことではないわよね?」
バスチアンは視線を上げ、小さく微笑んだ。
「ああ、ご存じでしたか! ええ。彼女なら、きっとその役を務めてくれるかと思います。」
バスチアン……なかなか思い出せないようです………あとちょっと!




