#60 王命と、王命と、王命と……
その言葉に、バスチアンはようやく胸の奥が少し軽くなるのを感じた。
……終わった。
これで今までの自分とは決別するのだ。
そう思ったのも束の間。
サフィールは、すぐさま次の言葉を放った。
「だが、そなたは依然としてリュミエールの貴族だ。私の命に従う必要がある。」
バスチアンは軽く眉をひそめる。
「……いかなることでも。」
そう答えると、サフィールは満足げに頷き、手元の巻紙をぽんっと投げてよこした。
「話が早い。では、新たな任務を与える。」
バスチアンは反射的にそれを受け取り、内容を確認する。
「……これは?」
「今度、南のソレイユ王国との国交をより深めることにした。
ついては、三年間の期間を限定して、互いの王都に大使館を設置することになった。」
「はぁ……。」
ソレイユ王国。
リュミエールと同じく小国で、つい最近まで戦争をしていた国。
しかし、敗戦国とはいえ、その技術力と資源には発展の余地が十分にある。
その国との相互大使館設置。
確かに妙策ではあるが、周囲の大国との緊張を考えると、かなり大胆な政策だ。
慎重な人選が必要になるだろうが……。
サフィールはさらりと続けた。
「ということで、そこに大使として赴任せよ。」
「……あ………え……?」
バスチアンの思考が一瞬、停止する。
書類箱に視線が彷徨う。
そこには手交した封書が確かにあった。
「その……先ほど辞表を受け付けていただいたのでは?」
「ああ、宮廷外務官を辞することは了承した。」
「でしたら……。」
「だから気兼ねなく、ソレイユに大使として赴任するがよい。何度も言わせるな。」
……いや、それは……。
確かに宮廷外務官、ではないかもしれないが……。
外務官としては辞めるどころか、むしろ昇格では?
バスチアンが混乱している横で、セシルが安堵とも絶望ともつかない声音で呟いた。
「……三年……も?」
サフィールはそんなセシルをちらりと見て、小さくため息をつく。
「だが、一国を代表する大使が、無爵というわけにいかないな。そう思うだろう?」
同意を求められて、バスチアンは反射的に頷いた。
確かに、これは自分の身には余る任務だ。
「ついては今までの功績を鑑み、侯爵位を叙する。」
隣でセシル王女がごくりと息を呑んだ。
「……は?」
あまりにも唐突な叙爵の辞令に、バスチアンは思考が追いつかない。
しかしサフィールは躊躇することなく、ベルを鳴らし、書記官を入室させる。
壁際に掛けられた剣を無造作に手に取り、鞘から抜いた。
「バスチアン・フレアベリー、そこになおれ。」
無意識のうちに片膝をつく。
サフィールは形式的な手順など一切気にすることなく、淡々と剣をバスチアンの両肩に触れさせると、すぐに鞘に収め、壁に戻した。
あまりにも簡単な叙爵の儀だった。
「今後は……まあとりあえず、エールヴァン侯爵と名乗るがよい。」
新しい爵位を告げられ、バスチアンは呆然としたまま固まる。
風を運ぶ翼。
外務官という職にふさわしい、素晴らしい家名だ。
……が、「とりあえず」とは……?
いや、それよりも。
さっき辞表が受理されたはずなのに?
気がつけば、なぜか侯爵になっていた……?
サフィールはさらに続ける。
「領地として、現在王家管理中の旧フェルモント侯爵領の一部を封ずる。
ただし、国外赴任中は当該領地は引き続き王家で管理するものとする。」
王命による領地の下賜。
拒否する余地などなかった。
現実感がまるでない。
傍で書記官がさらさらと記録をとっている。
やはり現実なのだろうが……。
だが……旧フェルモント侯爵領?
その言葉から、記憶の奥で何かが叫んだ。
行ったことがある……気がする。
なにか……とても、大切なことがそこで………。
しかし、思い出そうとしても……脳裏に浮かぶのは、あの艶やかな夢の幻影ばかり。
ありえないはずの光景が次々と瞬き、思考を惑わす。
「バスチアン?」
呼ばれて、はっと気づく。
セシル王女が、何かを探るような視線で見ていた。
なぜか、彼女の指がバスチアンの袖をぎゅっと握っている。
慌てて国王に礼を取る。
「それはたいへんもったいないお言葉ですが……しかし……。」
大使任命に叙爵に領地……。
これではまるで、罰どころか褒賞ではないか。
困惑するバスチアンに対し、サフィールが片手で制する。
そして、続く言葉がさらに衝撃的だった。
「ソレイユは、社交が多い国だ。
単身で行くことは許さぬ。
赴任までに、ふさわしき令嬢と婚姻を結ぶように。」
「…………。」
王命による婚姻命令。
臣下を思うままに動かす際の、サフィールの得意技だった。
バスチアンは、一瞬だけ友人のジェラールと妹アリシアのことを脳裏に浮かべる。
あの二人の婚約も、元をたどれば陛下の王命が発端だった。
そして今度は、自分がその対象なのか。
手元の書状に目を落とす。
ソレイユへの大使館設置まで、あと三か月しかない。
もはや脳が許容範囲を超えている。
大使任命に叙爵に領地に……さらに、三か月以内に結婚。
だが、王命である以上、逆らうことはできない。
バスチアンは一度静かに息を吐くと、粛々と頭を下げた。
「仰せのままに。」
改めて現実性を検討する。
婚姻しなければならない……迅速に。
バスチアンは頭の中で、現在婚約者のいない貴族令嬢たちの名を列挙し始めた。
その中から、異国の社交界に問題なく溶け込めそうな人物は……。
いや、しかし。
急に外国に帯同するのだ。
令嬢本人の意思も考慮しなければならない。
とにかく早急に探さなくては……。
考えを巡らせていると、サフィールが思わせぶりに声をかける。
「もし適当な令嬢がいなかったら、こちらで紹介してやってもいい。」
バスチアンは反射的に顔を上げる。
……まずい。
このままでは、王命で相手まで決められてしまう。
サフィールは余裕の笑みを浮かべ、続けた。
「ソレイユ語が堪能で、頭もいいし、なかなかの美人だ。
大使夫人としての社交もそつなくこなすだろう。
欠点は少し気が強いところと……。」
そこで一度言葉を切ると、ふっと笑う。
「……最近、不埒な恋人にもてあそばれたらしくて……純潔とは言えないかもしれないな。」
次の瞬間、セシル王女が息を呑んだ。
触れられている袖から、彼女の動揺が伝わってくる。
当然だ。
このようなあからさまな話をされれば、純真な王女殿下が恥じらうのも無理はない。
だが……。
聞いた限りでは、その令嬢は大使夫人として理想的な人材だ。
もうその恋人との関係が解決しているのなら……。
しかし、ここで頷いてしまったら、後から断ることはできない。
バスチアンが躊躇していると、サフィールは小さく頷いた。
「……単にそういう選択肢もある、ということだ。」
言いたいことだけ言い終えると、サフィールは執務机に向かい、仕事を再開する。
バスチアンは辞去するために、もう一度礼を取った。
退室する直前、サフィールが顔を上げる。
「エールヴァン侯爵。……せっかくだから王妃の温室に行ってみたらどうか。」
『エールヴァン侯爵』
それが、自分の新しい名なのだと、気づく。
「……温室、ですか?」
「そこで茶でも飲めば、少しは頭もはっきりするだろう。
リュミエールの代表として赴任するまでに、そのボケた頭を何とかしておかなくてはならないからな。」
なぜか苛立っているような口調だった。
そして、ちらりとセシル王女を見る。
「セシル、一緒に行ってやれ。王妃から、温室の鍵と、茶葉を受け取っていくように。」
そう言って、ふっと口元だけで微笑んだ。
「必要なら聖水もだ。」
「……っ!!」
再び、王女の顔が真っ赤に染まった。
ありがとうございます☆




