#58 商人の妻、もいいかもね?
バスチアン視点、続きます。
セシルの潤んだ瞳を見つめながら、昨日の夢の映像を思い出してしまった自分を必死に戒める。
……そんなはずはない。
バスチアンはわずかに頭を振った。
だが、確かに自分は何かを忘れている。
「申し訳ありません。記憶がまだ曖昧で……。王女殿下に私が、『ご自身で……』………と?」
静かに息を吐きながら、バスチアンは謝罪する。
「本来ならば、私が引き受けるべきことでございましたでしょうに……。」
「いいえ……」
セシルはかぶりを振った。
「あなたはちゃんと手を貸してくれたわ。自分のことを省みず、わたくしのためにね。」
そう言いながら、ふと彼女の視線が、バスチアンの身体をなぞるように動く。
「それに、わたくし……とても……満足したわ。」
気のせいか……。
視線が、淑女が長く注視すべきではない場所で、一瞬、止まる。
「王女殿下……?」
「ああ……ごめんなさい。」
再び、セシルは恥ずかしそうに頬を赤らめる。
「ちょっと思い出してしまって……。あなたは覚えていないのにね。」
「……そうですか」
バスチアンは眉をひそめた。
「もしかすると、ほかにも思い出せていないことがあるのかもしれません。」
「ええ、そうね。」
セシルは微かに寂しそうに、それでいてどこか楽しげに微笑んだ。
「あなたは大切なことを……ほとんどすべて忘れてるような気がするわ。」
バスチアンは言葉を失う。
そして彼女は、まるで秘密の鍵をそっと握りしめるように、いたずらっぽく言った。
「でも、大丈夫。あなたが生きているだけで十分よ。」
セシルはそう言って、にっこりと微笑む。
その穏やかな表情に、バスチアンの喉がひりついた。
胸の奥にこみ上げる、名付けようのない感情から逃れるように、口を開く。
「実は……王女殿下に、申し上げなくてはならないことがございます!」
「……え、ええ。何?」
「私、バスチアン・フレアベリー、この度の失態の責をとり……宮廷外務官を辞任しようと考えております。」
言い切ると同時に、バスチアンはセシルの瞳を一瞬だけ見つめた。
しかし、そのまっすぐな眼差しを受け止めきれず、すぐに視線を逸らす。
「ねぇ。なぜ、わたくしを見ないの?」
彼女の声が、妙に柔らかく、甘く響く。
次の瞬間、セシルが一歩近づき、彼の胸にそっと手を添えた。
全身がびくりと震える。
彼女の指先が、微かに動く。
まるで、その下にあるものを知っているかのような……そんな仕草で。
いや、それは気のせいだ。
王女殿下が、そんなことをするはずはない。
きっと自分は、変な夢を見過ぎていて、現実との区別がつかなくなっているだけだ。
「ね、わたくしを、見て?」
ふたりの視線が、絡み合う。
バスチアンは奥歯を噛みしめた。
やがて、セシルが彼の胸からそっと手を離す。
だが、その指先がごく自然に……いや、あまりに自然に、彼の身体の中心をかすめた。
もちろん、偶然だろう。
しかし、バスチアンの身体は、その偶然に顕著な反応を示してしまう。
「それで……どうするの?」
「え?」
気づかれたのか?
見てわかるほどではないはずだ。
だが、彼は自分の身体を見下ろす勇気がなかった。
しかし、セシルが次に発した言葉は、そんな彼の動揺とはまるで関係のないものだった。
「それで、宮廷外務官をやめて、どうするの? 魔術師団にでも入るつもり?」
バスチアンはほっと息をつき、首を振る。
意識しすぎていた自分を恥じながら、真摯に答えた。
「いえ……実は、ささやかな商会を持っております。
食べていくには十分でございますので……。」
貴族の次男として生まれた以上、爵位も家督も継ぐことはできない。
生きる道は自ら切り拓くしかなかった。
だからこそ、バスチアンは今まで慎重に、堅実に備えてきた。
一瞬の夢にすがることなく、着実に。
幸い、事業は順調だった。
それなのに……なぜだろう。
それに、虚しさを感じた。
不意に、セシルがぽつりと零す。
「……商人の妻というのも、いいかもしれないわね。」
「……王女殿下?」
「いいえ、こっちの話よ。」
彼女はふっと微笑んだ。
ほんの一瞬、何かを考えるように視線を落とした後……
まるで何事もなかったかのように、バスチアンの腕に手を添える。
「そう。では……陛下に、ご挨拶をしなくてはね。」
明るく微笑んで、バスチアンに言う。
「いいわ。一緒に行きましょう!」
「王女殿下がご一緒に、ですか?」
「何かいけないことでも? わたくし、そういえば、まだ陛下にエクリプスの報告をしていないのよ。」
「は……いえ、しかし……先刻謁見の申請をしたばかりで……いつになることか……。」
「執務室に直接行きましょう。その方が早いわ。」
確かに、セシル王女殿下と一緒なら、それも叶うだろうが……。
バスチアンは少し複雑な想いだった。
辞職すると言ったのは、自分だ。
それなのに……。
彼女は、あまりにあっさりと受け入れた。
それが当然だとばかりに、微笑みさえ浮かべて。
ああ、自分は、どんな反応を想像していたのか。
引き留めてくれると期待してはいなかったか。
職を辞することにためらいはなかった。
何の未練もないはずだった。
それでも。
セシル王女が、自分がいなくなることを、最後にすこしは惜しんでくれると思っていたのだ。
なんとあさましい。
胸の奥に、妙に鋭い棘が刺さる。
そして、ほんの少し……いや、本当に……寂しい。
自分でも驚くほど、どうしようもなく。
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