#57 許されない夢を見てしまいます
バスチアン視点です。
目を開くと、見慣れた天井が、視界に広がった。
長い夢を見ていた。
それはとても幸せな夢だった。
夢の中に……セシル王女が現れたのだ。
彼は、リュミエールではない、どこか知らない世界で、知らない人間となって、愛する人……セシル王女と暮らしていた。
彼女と手を繋いで街を散歩し、レストランでは恋人のように食事をし、裸足で海辺を駆ける彼女の姿を眺めていた。
まるで、ごく普通の恋人たちのように。
それから……別の夢では……。
王族に対して想像することすら許されないような行為に、自分は及んでいた。
見知らぬ邸宅の中、彼女が自分の上にいて、誘うのだ。
夜の手順など何も知らないはずの王女が、己の意志で。
抗えるはずがなかった。
彼は彼女を抱きしめ、そのすべてを奪い、熱に呑まれ、そして征服し……征服された。
どの夢も、現実的ではなく、それなのに、夢とは思えないほどに鮮やかだった。
目覚めたくなかった。
けれど、目覚めてしまった。
再び彼は目を瞑る。
自分がセシル王女を崇拝の対象として見ていたことは自覚している。
艶めいた夢の中で彼女を見たことがないわけではない。
いや、正直に言えば……学園時代から、何度もあった。
だが……これほどまでに生々しいものは………。
思考を振り払うように、彼は僅かに眉を寄せた。
エクリプス王国への訪問の帰り、王女が魔物に襲われたことを覚えている。
そして、自分が王女と一行を守り、負傷したことも。
それは、臣下として、職務として当然のことだった。
随行騎士たちも、それぞれに職務を果たしたと聞いている。
だが……重傷を負った者はいなかった。
このような怪我をしたのは、自分だけなのだ。
今回は王女が無事だったからよかったものの……。
バスチアン・フレアベリーは唇を噛み締めた。
セシル王女を守る力が、自分にはないのではないか。
その現実を、突きつけられる。
そんなとき、父のサミュエル・フレアベリー侯爵が、朝食の席で告げた。
「バスチアン、セシル王女殿下が心配しておられる。
お見舞いされたいと仰っているのだ。
もう、お止めするのも限界だよ。」
バスチアンは驚いた。
一官吏の負傷に、王女がそこまでする必要はない。
特別な計らいを受けるなど、身に余ることだ。
「バスチアン……これは極秘のことだがな。
お前がこうして再び目覚めたのは、王女殿下が力を尽くされたおかげだ。
そうでなければ、お前は二度と目覚めることができなかっただろう。」
職務中に負傷した自分のために、王女殿下が尽力してくださったのか。
きっと特別な薬草など、手配してくださったのだろう。
「……もったいなく、ありがたいことです。」
「ああ、全くその通りだ。」
父はそう言い、ふっと視線を落とした。
だが、次の瞬間、静かに咎めるような目を向けてくる。
「王女殿下は、髪型を変えられた。」
「…………。」
それが何か?
疑問に思い、父を見る。
すると彼は、何かに苛立つような声で言った。
「多分、セシル殿下はおっしゃらないだろうから、私が代わりに教えておこう。
王女殿下が美しい髪を失ったのは、お前の命を救うための代償だ。」
「……どういうことですか?」
貧しい平民が薬草を買うために髪を売る話は聞いたことがある。
だが、王族にその必要はないはずだ。
王女殿下の金色の髪には、何か特別な意味があったのか……。
それとも、王族がもつ特別な力……もしくは禁忌に触れるような方法を……?
「詳しくは……直接お伺いするとよい。
ただし、これ以上、セシル殿下を傷つけることがないように」
サミュエルはそれ以上、語ろうとしなかった。
まさか父は、自分が王女を傷つけると考えているのか。
王女を守ることはあっても、傷つけることなど……。
……いや。
この胸の奥で燻る、行き場のない感情を考えると、そうとも言い切れないのかもしれない。
バスチアンの脳裏に夢の映像がよぎる。
甘美すぎるほどの、あの夢を……。
今まで通りに王女殿下の顔を見られる気がしない。
彼は静かに目を閉じ、深く息を吸い込む。
「登城しようと思います。」
*******
王宮に着くと、すぐに知人たちがバスチアンを取り囲んだ。
彼の帰還を知った同僚や他の貴族たちが、口々にその功績を称える。
エクリプスからの帰還時、王女殿下をはじめとする一行が無事だったのは、バスチアンの機転のおかげだ、と。
だが、それは違う。
王女殿下を最後まで守り抜いたのは護衛騎士のエミールだ。
一行の無事は、他の騎士たちの活躍によるものだ。
自分は……魔獣に襲われ、なすすべもなく倒れていた。
それを救ったのは、王都から駆けつけてくれた第一騎士団長のジェラール。
彼がいなければ、自分はここにはいなかった。
ほとんど、何もしていない。
それどころか、迷惑しかかけていない。
なのに、肩を叩かれ、称賛されるたび、いたたまれない思いが募る。
何とかその場を切り抜け、バスチアンは陛下への謁見を申請した。
すぐに返答があるとは限らないが、今日中にはお目通りが叶うだろう。
今朝したためたばかりの書簡が、胸のポケットの中で重みを持つ。
この手紙を陛下に渡したら……それで、すべてが終わる。
そう思いながら、自分の執務室へと向かった。
王城の廊下を進む途中、ふと図書館の前で足を止めた。
奇妙な感覚が背筋を這う。
既視感?
いや、違う。
もっと鮮明で、もっと確かな感覚。
まるで、自分はここで何かを見て、触れたことがあるかのような……。
気づけば、バスチアンは図書館の扉を押し開けていた。
奥へと進み、特別閲覧室の前で立ち止まる。
指先が、微かに震えた。
夢の中の光景が、現実の記憶のように胸の奥で脈打つ。
ここで……自分は王女殿下に…………?
いや、そんなはずはない。
まさかそんなことが、あっていいはずがない。
そのとき。
木の床を軽やかに走る足音が響いた。
続いて、扉が開かれる。
「ティアン!」
名前を呼ばれた瞬間、何かが弾けた。
光の中に、セシル王女の姿があった。
彼女が自分に向かって、微笑んでいる。
バスチアンは、一瞬、息を呑んだ。
見慣れた王女殿下の、美しい金髪。
けれど、それはバッサリと切られ、肩の上で柔らかなウェーブを描いていた。
心臓が、不規則に高鳴る。
そして、はっと気づき、バスチアンは深く礼をとった。
「……会いたかったわ。」
セシル王女の声は柔らかく、けれどわずかに震えていた。
「ねえ、顔を見せて?」
バスチアンは動揺を押し隠しながら、ゆっくりと頭を上げる。
そして丁寧に礼を述べた。
「王女殿下。この度は過分のお見舞いをいただき、ありがとうございます。」
その瞬間……。
王女の微笑みがふっと消えた。
彼女の両手が、まるで彼を抱きしめようとするかのように伸びていて……。
けれど、それが行き場を失い、宙を彷徨う。
心臓が、妙に痛んだ。
……これは、どういうことだ?
自分が何を間違えたのかも分からぬまま、バスチアンは、ただ彼女を見つめるしかなかった。
そして、彼女はそっと、まっすぐに彼の瞳を覗き込む。
「……バスチアン、あなた本当に、覚えていないの……?」
静かに、けれど確かに問いかける。
覚えていない?
自分は、何か大事なことを忘れているのだろうか。
「何を……でございましょうか。」
すると王女は、小さく微笑んで、そして悪戯っぽく彼に言った。
「そうね。
例えばあなたがここで、わたくしに『ご自身で………』って……。
ああ…いえ……その………つまり………。」
そして彼女は、真っ赤に顔を赤らめて口ごもった。
あと少し、お付き合いくださると嬉しいです♪