#56 リストの最後は忘却の魔法
扉を越えたペガサスは、まっすぐにリュミエールの王宮に舞い戻った。
そしして、サフィールの寝室の窓辺で羽ばたいたまま、空中に止まった。
サフィールはすでに窓を開けて待っていた。
空中に浮かぶ客車へ迷いなく飛び移り、そこに横たわるセシルの姿を見た瞬間、彼の青い瞳がかすかに揺れる。
ぐったりとしたセシルの素肌を、サフィールはすぐに温かな毛布で包み込む。
そして、そっと抱き上げると、耳元で優しく囁いた。
「お帰り、セシル。よく頑張ったな。」
その声が耳に届いたとき、セシルの長い睫毛がかすかに震えた。
ゆっくりと薄く瞳を開き、まだ焦点の合わない目でサフィールを見上げる。
そして、ずっと握りしめていた手を、かすかに震わせながらそっと開いた。
そこには、透き通る青空のような宝石が、きらきらと輝いていた。
「……バスチアンを………連れて帰ったわ……。」
掠れるような声でそう呟いた瞬間、彼女の意識はふっと闇に溶けていきそうになる。
「あと少しだ。もう少し、頑張れ。」
サフィールに運ばれながら励まされ、意識を保とうと、セシルは必死で記憶を辿る。
サフィールに言われた通り、自分以外の魂を抱えながら異界の扉を越えるのは、想像を絶する困難だった。
肉体を持たぬ魂は、本来、風のように散るもの。
サフィールも「彼の『すべて』を留めて連れて帰るのは難しいだろう」と言っていた。
それでも、セシルは決して諦めなかった。
バスチアンを、できるだけ完全な形で連れて帰ろうと、そう決めていたから。
そして、バスチアンの魂も、驚くほどの執着をもってセシルに絡みついた。
客車に乗り込んだ瞬間から、彼はセシルを抱きしめようとし、愛そうとした。
しかし、魂の彼はセシルの肌を通過してしまう。
腕を回せないと知りながら、肌を重ねることができないと気づいた後も、彼はセシルを抱きしめる。
そして……彼の魂はセシルの内側へ入り込み、内側から彼女を愛したのだ。
その瞬間、セシルの全身を灼熱が駆け抜ける。
火の中をくぐり抜けるような、肌が焼かれるような痛み。
そして、同時に、焼き尽くされるほどの快楽。
愛が痛みを伴いながら、それでも確かに彼女の中に刻まれていく。
……耐えられない。
意識が白く弾け飛ぶ……。
あんな体験は、きっともう二度とできないだろう。
いや、もう二度としたくない。
そして…………ついに、バスチアンの身体にピアスを戻した瞬間……セシルは従兄サフィールの腕の中で、意識を手放したのだった。
*******
目を覚ました瞬間、セシルは違和感を覚えた。
頭が、なんとなく軽い。
寝起きのぼんやりとした意識のまま手を伸ばすと、指先にふわりと絡みついたのは、腰まであったはずの金色の髪……その一部だった。
だが、かつての滑らかな感触ではない。
ところどころが焼き切れ、熱のせいで縮れた髪が、まるで焦げた絹糸のように指に触れる。
「……え?」
かすかな声が漏れると、侍女のクロエがぎゅっと唇を結ぶ。
そして決してセシルに鏡を見せようとしなかった。
しかし、運ばれてきた朝食の銀盆に映った自分の姿を見て、セシルは息をのむ。
これはひどい。
くしゃくしゃの髪は、ところどころがばっさりと短くなり、不規則なウェーブができている。
まるで戦場をくぐり抜けたような有様だった。
このままじゃダメだ。
バスチアンが目を覚ますのは、もしかすると今日かもしれない。
そのときに、こんなみすぼらしい姿で会うわけにはいかない。
「クロエ! 今すぐ、美容師を呼んでちょうだい!」
***
さすがは王宮のトップスタイリスト。
焼け落ちた部分を巧みにカットし、縮れた髪を活かして繊細なウェーブを作り出し、軽やかなレイヤーを入れる。
すると……
思っていたより、ずっといい。
いや、むしろ…… すごく可愛い!
セシルは、ふと『眠りの国』でセバスチャンが共演していた女優を思い出した。
あの華やかな映画の中で、彼女もこんな風に肩につかないくらいのウェーブヘアを揺らしていた。
「気に入ったわ! またお願いするわね。」
満足げに微笑むセシルのもとへ、ちょうど見舞いに訪れたサフィールが足を止めた。
一瞬、彼の青い瞳が驚きに揺れ、それからふっと優しい笑みがこぼれる。
「……よく似合ってる。」
エルセリア王妃も、静かに微笑みながら頷いた。
「ええ、とても素敵よ。」
その瞳には、どこか懐かしさが滲んでいる。
「今度ゆっくり、話を聞かせてね。」
王妃は、まるで『眠りの国』を懐かしむような表情だった。
そして、セシルがその世界の話をできる存在になったことを、静かに受け入れているようにも見えた。
*******
一方、バスチアンは、セシルが彼の耳にピアスを戻した後、少しずつ、確実に回復の兆しを見せていた。
魔術師団長のサミュエル・フレアベリー侯爵が毎日訪れ、その状態を報告してくれる。
冷え切っていた身体に温もりが戻り、止まりそうだった鼓動も、今では穏やかに刻まれているという。
だから、もうすぐ目覚めるだろう……と。
セシルは、胸を撫で下ろしながら、わくわくとその日を待った。
バスチアンが元の身体に戻ったら、今度こそ、ごく普通の恋人同士として、触れ合うことができる。
そう信じていた。
そしてついに、「彼が目覚めた」という報せが届いた日。
セシルは弾かれたように立ち上がり、すぐにでも彼のもとへ行かせてほしいとサミュエルに懇願した。
だが、彼は困ったように眉を下げ、静かに首を振る。
「……まだ意識が混濁しているようです。」
どんなに頼んでも、どんなに願っても、彼はセシルをバスチアンのもとへ連れて行こうとはしなかった。
バスチアンはあれほどの怪我を負ったのだ。
無理をさせるわけにはいかない。
わがままを言ってはいけない。
そう自分に言い聞かせて、セシルは耐えた。
それからさらに、一週間。
サミュエルは毎日セシルのもとへ報告に来る。
そして、毎日同じ言葉で、セシルの見舞いを辞退する。
バスチアンが目覚めたと聞いたのに、会えない。
そんな日々が続くうちに、胸の中に黒い靄が広がっていく。
……長い。
もう、待ちきれない。
意識が混濁しているからなんだというの。
バスチアンが、少しくらいおかしなことを言ったとしても、気にしないわ。
セシルは意を決し、サミュエルに「今日こそ会わせて」と強く訴えた。
すると、彼はいつになく神妙な顔つきで、ためらいがちに口を開いた。
「セシル王女殿下……。大変申し上げにくいことなのですが……。」
不安に、心臓が一瞬縮み上がる。
「息子は……バスチアンは……記憶を一部失っているようです。」
「え……?」
思わず、声がかすれた。
「身体の方はほぼ回復しており、登城も可能な状態です。
ですが……。」
サミュエルは、苦しげに言葉を継ぐ。
「息子は、生と死の狭間で、王女殿下のことだけを想いすぎていたようですね。
魂が肉体へ戻る際、強すぎる感情が負荷となり、その記憶が代償として失われた……と思われます。」
脳が理解を拒む。
何を、言っているの?
「つまり……彼は、王女殿下と……その……個人的な関係があったことを……覚えていません。」
世界が、ゆっくりと傾いていく。
バスチアンが……セシルとの恋の日々を、覚えていない?
嘘。
そんなはず……。
けれど、サミュエルの顔は冗談を言うようなものではなかった。
セシルは、唇を震わせながら、自分の指先を握りしめる。
脳裏に、『恋のリスト』の最後の一行が浮かんだ。
『18.忘却の魔法にかかった恋人を取り戻す』
そんなはずはない。
彼が、わざとそんなことをしたとは思えない。
だけど、どうしても、この一行が頭から離れない。
まるで、運命に導かれるように。
まるで、決められていた結末のように。
そして……ふと、彼の言葉がよみがえる。
『できるだけ王女殿下のご希望に添えるよう努力いたします。』
そう言って、じっとセシルの瞳を見つめていた。
『大丈夫です。お任せください。』
自信に満ちた、あの微笑み。
これは、セシルが願ってしまったせいなの……?
冗談じゃないわ!
誰が、こんな結末を望んだというのよ……!
……いいえ。
セシルはもう一度、リストの言葉を思い返す。
『忘却の魔法にかかった恋人を取り戻す』
そう、これも今までと同じ。
バスチアンひとりで実践するなんて、許さない。
『取り戻す』までが恋の目標なのよ。
絶対に彼を取り戻してみせるわ!




