#55 俺を、本気にさせてみて?
恥じらいのない、その堂々とした言葉に、セバスチャンは一瞬言葉を失った。
……まあ、それはそうだ。
セバスチャンだって、毎朝あの夢を見せられるのは、そろそろ限界が来ている。
しかもその本人が目の前にいて、しかも現実ではキスひとつできないのだから……。
「それなら、とりあえずピアスのことは置いといて……もう一度、奴を揺さぶってみるか。」
「え?」
セシルが瞬きをする。
「俺からは君に触れることはできない。
だから……君がすればいい。
そのうち奴がでてくるかもしれないし、そうじゃなきゃ……俺と君が一歩進んで恋人同士になるだけだ。」
言いながら、心の中で覚悟を決める。
たとえ感電したとしても……それは、それでいい。
セシルは迷うように沈黙したが、やがて観念したように小さく息を吐き、頷いた。
「いいわ。そうしましょ。」
そう言うと、彼女はわざと芝居がかった口調で声を張り上げる。
「ね、セバスチャン・クロフォード……わたくしを抱いて。」
思わず吹き出しそうになるのを堪える。
その嘘くさいセリフ回しに、セバスチャンは確信する。
この女は絶対に女優には向いていない。
こんなに美人なのに惜しいな。
けれど、同時に胸の奥に奇妙な疼きを覚えた。
「それは君次第だな。」
低く囁く。
「……俺を、本気にさせてみて?」
スクリーン越しに世界中の女性を魅了した眼差しで、今度は目の前の彼女を落としにかかる。
彼女は戸惑いながらも、ゆっくりと両手を伸ばし、セバスチャンの首筋にそっと回した。
その瞬間……雷のような衝撃が脊髄を駆け上がる。
バスチアンの魂が拒絶しているのか、それとも……?
彼女に気づかれないよう、ぐっと耐える。
セシルが唇を近づける。
演技ではない、甘い吐息が漏れる。
たまらない……。
だが、唇が触れる直前で……彼女はふと、何かを求めるように、彼の瞳をのぞき込んだ。
そして、そっと手を離し、一歩後ずさる。
セバスチャンは追いかけようとして……踏みとどまった。
その途端、さっきまでの痛みが少しだけ、遠のいた。
「ねえ……ティアン。わたくしを、見て?」
セシルは、ひざ丈のドレスの裾をそっと持ち上げた。
やり方を変えることにしたらしい。
ただ、綺麗な脚が見えただけ。
それだけのはずなのに、視線を逸らせない。
脳の奥がざわつく。
彼女は振り返り、少しもたつきながらも、自分でドレスを脱ぎ去った。
シルクのキャミソールの内側で、柔らかな胸が揺れる。
彼女は指先をそっと唇にあてた。
「ね、わたくしに触れてみたくない? ……ティアン。」
「……ああ。」
どこまでが演技で、どこからが本心なのか。
彼女の指先が頬をかすめた瞬間、鼓動が跳ね上がる。
血の巡りが熱を帯びる。
セシルの裸の肩が昼の光にさらされ、滑らかに輝く。
その光景に、なぜか懐かしさすら覚えた。
『セバスチャン』としての感情なのか。
『バスチアン』としての記憶なのか。
わからない。
ただひとつ確かなのは、今、彼女を抱きしめたいということだった。
それも、ただ触れるだけでは足りない。
夢で見たように、何度も、何度でも……。
唇を重ね、身体を重ねて、可愛い声を、現実のこの腕の中であげさせたい。
熱が、身体の中心からじわりと滲み出す。
セシルがふふっと微笑んだ。
艶やかで、挑発するような微笑み。
「わたくしも……『あなた』がそこにいるって知っているのに、なにもしてくれないなんて……
身体が疼いてたまらないのよ。」
彼女の手が、ショーツの紐にかかり、ぱらりと解いた。
肩をすくめるようにしてキャミソールを滑り落とす。
美しい。
天使のような……女神のような……裸体。
毎夜夢で見る、そのままの姿が、昼の光にさらされてそこにある。
彼女の姿が、鮮やかに目に焼き付く。
すべての思考が、身体の内側から溢れ出る熱に塗りつぶされる。
彼女を捕えようとして、手を伸ばした刹那……
思考が白くかき消された。
全身をかつてないほどの痺れが駆け抜け、意識が弾け飛ぶほどの衝撃が襲った。
左耳が燃えるように熱く傷み、パンッ!と何かが弾ける音。
直後、ピアスが外れ、弾丸のように吹き飛んだ。
セシルが反射的にそれをすくい取る。
金色の閃光が現れ、空気が震える。
「ティアン!」
セシルの叫びと同時に、空気が張り詰めた。
まるで空間そのものが裂けるように、黄金色の光が滲み、輪郭が浮かび上がる。
次の瞬間……『彼』がそこにいた。
ハリウッドでもそうそう見ない美貌の青年が、彼女を守るように立っていた。
濃い金髪と薔薇色の瞳。
甘く洗練された顔立ちと、すっきりと整った体躯に、貴族風の衣装をまとっている。
嫌味なほどに、完璧な男だった。
こいつが……俺の身体に勝手に寄生していた男か!
セシルは、透ける彼の身体に優しく寄り添う。
そして、心底うれしそうに微笑んだ。
「……キス、しなくても離れられたのね。」
《王女殿下。このような者に肌を見せてはなりません。》
このような者、だと?
六週間も人の身体に勝手に居座っていたくせに、何を偉そうに……。
お前が出てくるのがあと数分遅ければ……もう少し楽しめたんだがな。
けれど、セシルが本当にうれしそうにしているから、まあこれでいいか、と小さく笑う。
セシルがこちらを振り返る。
「セバスチャン、いろいろありがとう。」
言ってセシルがバスチアンから離れて歩み寄り、例の短剣を取り出し、そっと手渡した。
「これ、お礼にあげるわ。あなたの未来が、幸せでありますように。」
そして、ふっと思いついたように、セバスチャンの首に再び手をまわした。
次の瞬間、セシルの唇がそっと触れる。
ふわり、と甘く、優しく。
もう電流は走らなかった。
ただ窓際で半透明なバスチアンが、全身で怒りを表現しているのが視界に映る。
セバスチャンはそれを無視し、彼女の唇の甘さを存分に味わう。
彼女の柔らかな唇が、驚くほど鮮明に意識に刻み込まれる。
シトラスのような、甘く爽やかな香りがふわっと鼻をかすめた。
触れた箇所から、まるで光を帯びたようにじんわりと熱が広がる。
離れる唇を追いかけ、何度もついばみ、惜しむように余韻を楽しみながら、ようやく離した。
……まあ、そう怒るな。一度くらい、いいだろう?
この六週間、毎晩お前の夢を見せられたんだ。
彼女の温もりが離れてもなお、熱は唇に残り、胸の奥にじわりと広がっていくようだった。
セシルの濡れた唇が、声を出さずに微かに動く。
「またいつか……会えるといいわね。」
そして彼女は微笑んだまま後ずさり、それから少しだけ後ろめたそうにバスチアンを見上げた。
「あなたがいけないのよ? もうわたくしを放っておかないで。」
バスチアンは仕方がないといった様子で、しぶしぶ怒りを収めた。
そしてセバスチャンを振り返る。
《世話になった。ささやかだが、礼をさせてくれ》
何をするつもりかと頷くと、彼は小さく何か呪文を呟いた。
次の瞬間、ふわりと黄金の光が部屋に満ち、柔らかな輝きがセバスチャンを包み込む。
光そのものが祝福のように彼の身体にゆっくりと溶け込み……そして、消えた。
セバスチャンの胸の奥で、何かが、静かに温かく、変わっていく感覚がした。
《幸運を》
透明なバスチアンが当然のようにセシルの手を取る。
窓が音もなく開き、外の風が流れ込む。
真昼の光が一瞬、紫に染まる。その彼方から、翼を持つ馬が小さな客車を引いて舞い降りてきた。
彼らは迷うことなく、その馬車に乗り込む。
そして……
空高く、飛び立った。
天を駆ける馬の翼が風を切り、その音が響いた。
やがて、天の果てへと溶け込むように、馬車は光の彼方へ消えていった。
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セバスチャンは、部屋に一人残される。
セシルも、バスチアンも、もういない。
わずかな喪失感。
けれど、なぜか胸の奥で、これから何かが始まる予感がした。
そして、思い出す。
目の前でキスを見せつけられ、怒り狂っていたバスチアンの顔。
慌てて身に着けた下着姿のまま、彼に導かれ、馬車へと消えていったセシルの姿。
「まあ……あのまますむわけないよな。」
開け放った窓から、太陽がまぶしく射し込む。
目を細めながら、セバスチャンはベッドの上にごろんと寝転がった。
まるで夢だったような出来事。
けれど、確かにここにいた彼女と、彼。
馬車の中で絡み合う二人を想像しながら、彼は小さく笑う。
今日もカリフォルニアの空は、青い。