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#54 光の国から来た王女

 

 彼女の説明によると……。

 セシルは光の国(リュミエール)という、魔法が存在する世界の王女で、恋人の魂を探しにここへ来たのだという。

 そして、セバスチャンの耳についたピアスこそが、その恋人がこの身体にいる証拠。


 つまり、俺の中にはバスチアン・フレアベリーという男の魂が宿っている……らしい。


 馬鹿馬鹿しい。

 まるで、古くさいSF映画のような話だ。


 知らないうちに宇宙人に寄生されるホラー作品が頭をよぎる。

 もしこの話を誰かにすれば、病院送りになるか、あるいは怪しい宗教に取り込まれたと誤解されるだろう。


 だが、セシルは本気だった。

 嘘をついているようには見えない。

 それが一番、厄介だった。


 *******


 行くところがないというので、仕方なく部屋に置いてやることにする。

 それが分別のある判断ではないことくらい、わかっていた。


 同居しているとはいえ、まだベッドに連れ込んだりはしていない。

 いや、正確には……連れ込めない。


 日に日にセシルに惹かれていく自分に気づいていたが、慎重に距離を保っていた。

 あの奇妙な電流のせいだ。

 おそらく、この身体の中にいるというバスチアン・フレアベリーの仕業に違いない。

 不本意だが、関わる以上は慎重にいくしかない。


 セシルが現れてから、バスチアンの意識を感じることが増えた。

 それはまるで、水底に沈んでいた意識が、ゆっくりと浮かび上がってくるような感覚だった。


 たとえば、彼はコーヒーの味を気に入ったらしい。

 セシルに出会ったときに飲んでいたからだろうか。

 豆を手で挽いていると、ふっと意識が揺らぐ。

 コーヒーの香りに心が弾むのがわかる。

 この身体の中で、バスチアンが期待するように待っている。


 仕事中でも、気を抜くと、彼の意識が前に出てくることがあった。

 たとえば、ふとした拍子に古語なまりの外国語で呟き、共演者に「次は歴史ものか?」と聞かれたこともある。

 苦笑して「ファンタジーかな」と返しておいた。


 そして……彼は、セシルのことを、常に気にしていた。


 彼女が心地よく過ごせるように、いつも気にかけている。

 出かける準備をしていると、そわそわと落ち着かなくなる。

 だからセバスチャンもできるだけ彼女に付き添うことにしていた。


 とはいえ、常にそうできるわけではない。

 仕事や打ち合わせがあるときは、彼女をひとりで行かせることもあった。

 だが、そのたびに、バスチアンの意識がざわめき出す。


 気づけば、セバスチャンの手はスマホに伸びていた。

 仕方ない。エージェントに護衛の手配を頼むしかない。


 ……これは本当に俺の意思なのか?


 こうして、徐々に『彼』と融合するように、日常は進んでいく。

 一つの身体を二人で分かち合って。

 二人でセシルを、王女のように扱う。 

 いや、本当に王女なのだろうが。


 だが、ひとつだけ確実に言えるのは……この女は、恐ろしいほど適応力が高い。

 そして、毎日を存分に楽しんでいる様子だった。


 セシルは、この世界にすんなりと溶け込んだ。

 渡したクレジットカードも、スマホの操作も、ほんの一日で使いこなした。

 楽しげに街を歩き、華やかな店を巡り、無邪気に笑う。

 かと思えば、一日中図書館に入り浸り、あるいは海辺を気ままに散歩する。


 セバスチャンとの外出も心から楽しんでいるように見えた。

 腕に手を添え、微笑みながら並んで歩く。


 セバスチャンにとっても、セシルといると、つい街の景色さえも違って見える気がした。

 写真を撮られる可能性があるとわかっていても、街中を寄り添って歩いてしまうし、人気のレストランにも予約を入れてしまう。

 たわいのない会話を交わしながら、彼女の楽しげな笑顔に釣られ、思わず口元がほころぶ。


 まるで、恋人同士のデートをしているような錯覚を招く。


 彼女の嬉しそうな声を聞くたびに、次はどこへ連れて行こうかと考えてしまう。

 あの店のショーケースの前で立ち止まっていたから、次はそこに連れて行こう。

 昨日、本屋で興味を示していたあの本を、さりげなく用意しておこう。

 そんなふうに、自然と考えてしまう自分がいた。


 だから彼は、何度か笑顔のセシルを抱きしめようとした。

 彼女が悲しんでいるときは、唇で涙を拭おうとした。


 だが、いつだって、唇が重なる前に、手が素肌を彷徨う前に、あの鋭い電流が走る。

 それは、ただの警告ではない。

 まるで、「触れるな」と言わんばかりに、指先の神経を締め付ける。

 心臓を直接握られたような感覚に、思わず息を飲む。


 どうやら、バスチアンは、セバスチャンの手に、セシルの肌を触れさせたくないらしい。


 ……結局、キスも、それ以上のことも、まったく叶わない。


 一方で、セシルもまた、セバスチャンとは違う意味で、彼が触れ合おうとしないことを悲しんでいるようだった。


 彼女は、言う。


「あなたとキスをすれば、眠っているバスチアンの魂が揺り起こされるの。

 過去の記憶が蘇り、自分の身体に戻りたいと願うようになって……そうすれば、この身体から離れるわ。」


 ……すでに十分、揺り起こされている気がするのだが。


 ここに来るまでに、彼らの間に何があったのか、詳しくは知らない。

 けれど、セシルの王女然とした振る舞いを見ていると、二人は身分違いの恋だったのかもしれない、とちらりと考えた。

 彼女の何気ない仕草や、ふとした沈黙の奥に、それが滲んでいる気がする。


 ……だとしても。


 バスチアンという男は、やはり臆病者に違いなかった。


 セシルは、彼を探し出すためにどれだけの苦労を味わったのか、多くを語らない。

 けれど、確実に、それらのすべてを乗り越えて、別の世界にまで追いかけてきたのだ。


 ……本当に、健気な女だと思う。


 だからこそ、バスチアンが見て見ぬふりを決め込んでいるのが、理解しがたかった。


 それなのに、夜は……今まで以上に、艶めいた夢が続くのだ。


 バスチアンは、夢の中で、セシルに遠慮なく触れている。

 指先が頬を撫で、柔らかく絡め取るように髪を梳く。

 唇が首筋を滑り、彼女が震えるたびに、満足げに囁く。


 セバスチャンには見せたくないくせに、彼はその夢を見ずにはいられないらしい。


 そして、毎朝目覚めるたびに、彼は……そしてセバスチャンは、爽やかに、何食わぬ顔で挨拶をする。

 まるで朝から、役者の仕事をしているような気分だった。


 *******


 ある日ついに、セシルが言った。


「セバスチャン。私にその耳をくれない?」


 ……大胆な言い回しになった。

 『ピアスを外せ』が、『耳をくれ』に変わっている。

 さすが王女だ。


「嫌だ。」


 即答すると、セシルは唇を尖らせた。


「でも、もうそろそろ帰りたいわ。

 光の国(リュミエール)の彼の身体がどうなってるか、心配なのよ。」


「彼はここが気に入っているみたいだが…。」


 バスチアンの魂が自分の身体の中でしっとりとなじんでいるのを感じる。

 彼はすでにこの世界の生活に溶け込み、適応していた。

 それはセバスチャン自身も同じで、この奇妙な同居生活は、次第に心地よいものになりつつあった。


 それに、このピアスが耳についている限り……セシルは自分のそばにいる。

 そんな感情が、まったくないわけではなかった。


「それじゃだめなのよ!」


 セシルは語気を強めた。


「わたくし、いつまでも彼と愛し合えないわ!」



読んで下さりありがとうございます☆あと少しです……?

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